彼の花瓶を満たすもの
私が氷帝学園の中等部に転入したのは三年生の九月、中学生活も残り半年という中途半端な時期だった。
転入早々、運動会や文化祭といった大イベントに巻き込まれたおかげか、学校には自分でもびっくりするくらいすぐに馴染めた。クラスの子から「みどり、四月から同クラだもんね」なんて冗談言われるくらい。上手くやってけるかなってナーバスになってた夏頃が、ずいぶん昔のことみたいに思える。
世の学生はそろそろ受験シーズンだけど、氷帝は特に試験もないせいか、みんなのんびりしている。とは言え、私は数年ぶりの日本で、学習範囲が追いついていない科目も多いから、悠長に構えてもいられない。学年末考査で赤点、なんて結果だけは絶対に避けたいところだ。
「はぁ~、ひさびさの跡部様。目が潤うわ~」
一緒に日本史の復習をしていた由香が、頬杖をついてしみじみと言った。こうなるともう勉強どころではないのは短い付き合いの中で学習していたので、私もペンを置いて由香の視線の先を追った。
“跡部様”の席には休み時間になると、たいがい誰かが集まる。クラスメイトだったり、新しい生徒会の役員だったり、テニス部の子だったり。今はC組のジローくんが教室に飛び込んでくるなり、跡部君に抱き着いて何か訴えている。(周りの女子から悲鳴が上がった)
「目薬より効くと思わん? マジで癒し。絶対見るだけでヒーリング効果がある。A組の歩くオアシスと呼ぼう!」
私はちょっと笑いながらあいづちを打った。独創的な表現力を持つ由香にはいつも感心する。彼女は“跡部様”の熱心なファンなのだ。
氷帝に入った生徒が一番最初に覚えるものの一つは、間違いなく彼だ。跡部景吾。一年生のときからテニス部の部長と生徒会長をやっていた氷帝の王様。テレビや雑誌の中のアイドルが霞んで見えるくらいキラキラした男の子。私がすっかりクラスに慣れる頃、入れ替わるようにテニスの日本代表合宿に呼ばれ、そのまま世界大会まで出ちゃった彼は、もうすぐ二学期も終わる十二月の中旬になってようやく学校に戻ってきた。ひと月ぶりに見る跡部君は、たった一ヶ月の間に三センチも背が伸びて(ファンクラブ調べなので正確だ)、なんだかまた少し格好良くなった気がした。
二学期最後の体育は長距離走だった。隣のB組との合同授業だったんだけど、跡部君はここでも目立ってた。陸上部の子もいる中、一位でゴールした彼に黄色い声が上がって、私は、走ってる姿までかっこいいなんて、ちょっとズルイなって思った。
「あーん、長距離が男女合同で良かった~! 貴重な体育中の跡部様が見れたし。もう、ずっと長距離がいいー!」
お昼休み、食堂のテーブルを一つ占領して、いつものメンバーでご飯を食べている間も、由香はこんな感じだった。
「えー、ずっとは嫌だな。持久走きついし」
本日のAランチ(ガレット・コンプレット・ポム・ド・テール・シャンピニオン、だっけ?)を切り分けながら言えば、隣に座っていた美紀まで「分かってないなぁ、みどりは」なんて言う。
「要は心の持ちようなわけ。私も走るのヤだけどさ、跡部様が一緒なら頑張れる……気がする!」
「なるほど、病は気からって言うしね」
「病じゃないし! いや、これが恋の病……?」
芝居がかった声を出しながら、両手の指を組み合わせる美紀。
「みどり、なんか冷たくなーい?」
由香が口を尖らせて言う。
「そんなことないよ」
でも、温度差はあるかなって思う。クラスの子に限らず、この学校のみんなが跡部君に向けてる無条件で絶対的な何かが、私にはちょっと分からない。無責任な期待にも純粋な希望にも見えるそれは、彼がこの三年間で築いてきた実績だったり信頼だったりの賜物なのかも知れないけれど。まるで彼がお話の中のヒーローや液晶の向こうのスーパースターであるかのように話してるのを聞くと、どうしても違和感を感じてしまう。(そりゃ確かに、文化祭のバンド演奏に飛び入り参加させられてピアノを弾いた時なんて、失神する子が出るくらい凄かったけど)
「でもさ、同じクラスが贅沢言ってちゃダメだね。選択とか以外は、ほぼ一緒に授業受けてるわけだし」
「由香、一年の時からず~っと同じクラスになりたいって言ってたもんね。ほんと良かったねぇ~!」
「美紀ぃー! 徳を積んだ甲斐があったよー!」
抱き合う二人を見ながら、私は最後の一切れを飲み込んで、
「そんなに好きならさ、告白したりしないの?」
由香と美紀は抱き合ったままぎょっとした顔で私のことを見つめて、それからやれやれって感じのため息を吐いた。
「分かってないなぁ、みどり君」
「あ、それまた言う?」
「あの跡部様だよ? ムリムリ」
「跡部様の隣に立つなら、それこそ完璧じゃないと」
「そうそう。跡部様と釣り合うくらい美人で、何でも出来て、お金持ちで――」
「それは跡部君が選ぶことなんだから、好きかどうか伝えることとは関係なくない?」
私は話の主旨がずれてる気がして言っただけだったんだけど、ずけずけ言い過ぎたかも。二人とも困った顔してる。
「跡部様は、何て言うか、そういうんじゃなくて……。近くで見ていられたら、それでいいの」
美紀が小さな声で言った。
多分、分かんないって顔に出てたんだと思う。由香は「ん~」って唸ってから、言葉を探すようにゆっくり話し出した。
「例えば、テーブルにお花が活けてあるじゃん?」
由香がちょうど目の前にあったフラワーアレンジメントを指差す。クリスマスを意識した、赤いダリアとバラの実に金色の小さなオーナメントが散りばめられた華やかなものだ。
「こうやって綺麗なものが目の前にあるとさ、見てるだけで癒されたり、気持ちが落ち着いたり、よし頑張ろうってやる気が出たりしない?」
「うん。自分の心の中まで綺麗になるような感じがする」
私はダリアのアレンジメントを見て、それから由香のほうを見た。
「私にとっての跡部様は、このお花と同じで、見てるだけで十分元気を貰えるんだよね。うっかり枯らしたりしないように、ちょっと遠くて、でも出来るだけ近いところから見ていたい……。そんな人、なのかな」
最後は自分に訊いているみたいな言い方だった。美紀が真剣な顔をして頷く。それを見て、私、恋愛的な意味にしろそうじゃないにしろ、二人とも本当に跡部君のことが好きなんだなって思った。
だけど、彼があまりにも完璧に見えるせいで、そうじゃない自分とは釣り合わないと決めつけて、彼と自分の間に透明な壁を作ってる。想像の中の完璧な女の子にちょっとだけ嫉妬して、同じくらい安堵しながら。私から見たら、由香も美紀も充分素敵な女の子なのに。
「そっか。うん。分かった気がする」
この話はここでおしまいってニュアンスを込めて私が言うと、二人ともホッとしたように笑った。
「あ、ねえねえ! 終業式の後、ヒマ? 打ち上げしない?」
「打ち上げって何の?」
「二学期の? なんでもいいじゃん! この前ヤバいスイーツ見つけてさぁ~、あ、見た目がね。ま、カロリーもヤバそうなんだけど――」
「みどりのガリ勉! こんなに時間掛かるなんて思わなかった!」
「私も思わなかったよ。タケセン、話長すぎ」
終業式の後、物理の先生に一つ二つ分からない問題を聞きに行ったのが間違いだったのか、「今どき、こんなに熱心な生徒は珍しい!」と痛く感動した竹本先生に物理準備室に軟禁されて、質問とはほとんど無関係な講釈まで拝聴することになってしまった。まあ、宇宙の広がるスピードだとかブラックホールの向こう側について、なんて面白くて、私もつい質問を挟んで話を長引かちゃったところはあるんだけど。(美紀なんて、途中で意識がブラックホールの向こうに行っちゃってたし)
「お腹すいた。聞こえる……、メガ盛りハニトーが私たちを呼ぶ声が……」
「だから、ごめんってば。あっ!」
思わず大きな声が出た。立ち止まってカバンを開けて、ため息。
「古典の辞典、教室に忘れた」
「課題出てないし良いじゃん、置いとけば」
「いやいやいや、古典が一番ヤバイんだって」
もう校舎よりも校門のほうが近い距離まで来ていたから、ついてきてもらうのも忍びない。私は校舎に向かって走りながら叫んだ。
「最速で戻ってくるから待ってて!」
「も~~。三分間だけ待ってやる!」
「みじかっ!」
がらんとした校舎の中は、お昼すぎなのにいつもより暗く見えた。人影どころか気配すら感じない。それならと、短めに切ったスカートが捲りあがるのも気にせず階段を一段飛ばしに駆け上がっていたら、調子に乗りすぎたみたいで、三階に着く頃には足が重くて上がらなくなった。息を整えながらのろのろ廊下を歩いていると、どうも廊下の先から話し声がする。私は慌てて山姥みたいになってた髪の毛を整えた。
はじめは教室に何人か残ってるのかと思ったんだけど、一人分しか声が聞こえないから電話だって分かった。そのうえ、声はA組の教室からで、声の主はあの跡部君だった。電話中に入っていくのもどうかな、と思って教室の少し前で立ち止まる。跡部君の声ってよく通るから、あんまり意味ないかも知れないけど。
「正月は帰ってくるんだろ? 何日に着く予定だ?」
やっぱり意味なかった。
立ち聞きみたいで気まずくなって廊下を戻ろうとした時、「あーん!?」と大きな声がしてびっくりして足が止まってしまった。
「年末は航空券が高いだぁ? 知らねえよ。後でバウチャー送る」
わあ、お金持ちのセリフだ、って感心してる場合じゃなかった。
「そうそう、恩を着せてんだよ。黙って着せられとけ。それで、ぶくぶくに着膨れして帰ってこい」
そう言った跡部君の声は、今まで聞いたことがないくらい優しくて、ちょっとドキッとした。優しい、というか甘い、のほうが近いかも。
「ん。じゃあな。待ってる」
最後に完璧な(としか言いようがない)リップ音がして声が止んだ。
一瞬呆けたようになったけど、ほとんど本能的に今すぐここを離れなきゃって走り出した。正確には走り出そうとして、躓いて前につんのめった。咄嗟に両手をつく。顔面から床にダイブしなくて良かったって安心したところで、背後で教室のドアが開く音。
「……牧村、廊下でクラウチングスタートの練習はやめたほうがいいんじゃねえの」
「……そうだね、私もそう思い直してたところ」
私は手に着いた埃を叩きながら立ち上がった。振り返って跡部君と向かいあう。話すのは初めてじゃないけど、二人っきりでは初めてかも。
「忘れ物か?」
「そう、辞書忘れちゃって。跡部君は?」
「今からテニス部のヤツらと夕方まで補講」
「わお、大変だね」
跡部君は何かを待つように口を閉じた。怒ってないみたいだけど、笑ってもいない。プレッシャーに耐えられなくなった私は、とうとう両手を上げた。
「ごめん。聞いちゃった」
跡部君は少し笑って「知ってた」と言った。
その表情が本当に何でもないって感じで、そのまま歩いて行ってしまいそうな気すらしたから、私は思わず「口止めしないの?」と聞いていた。跡部君が眉を上げてシニカルに笑う。
「口止め料でも請求するか?」
「しないよ!」
私は慌てて否定したけど、ただの冗談だったみたい。
「言うなって言っても、言うヤツは言うだろ。まあ、たとえ言い降らされようが、俺は困らねえが」
跡部君は肩を竦めて言った。私が由香や美紀たちと仲がいいのを知ってて言ってるとしたら、跡部君はすこし意地悪で、残酷なくらい優しい。
「それに、俺は牧村は言わねえと思う」
「買いかぶりかもよ。根拠は?」
「敢えて一つ上げるなら、そのつもりなら最後まで聞いてないフリをするだろうから」
「たしかに」
私はうーんと唸った。
「じゃ、そろそろ行くな」
「あ、ごめんね。引きとめて」
跡部君が横を通り過ぎるとき、薔薇の花みたいな香りがした。それで私、どうしても言いたくなって言っちゃったの。
「跡部君、良かったね! 好きな人が帰ってくることになって!」
跡部君はちょっと驚いた顔で振り返って、それから「うん」ってきれいに笑った。それがあんまり幸せな笑顔だったから、私はなぜだか少し泣きそうになってしまった。
「牧村、よいお年を」
「ありがと。跡部君も、よいお年を」
手を振って別れた後も、しばらくその場に立ってたら、コートのポケットで携帯が震えた。画面と見ると由香からで、ひもじそうな顔をして倒れこむクマのスタンプ。
「ヤッバ!」
教室に飛び込んでロッカーの中にあった辞典をカバンに放りこむ。二人のところに着くまでにそれらしい言い訳を思いつきますように、と祈りながら廊下を爆走した。