白紙のメッセージカード
「手塚くん。あの、ちょっといいかな」
放課後の部活動が終わり、部室へ引き揚げようとしていたところ、フェンスの外で待っていた女子生徒に呼びとめられた。おそらく同じ学年だろう。相手の顔に見覚えがある気もしたが、名前は分からなかった。紙袋の持ち手を握りしめる細い指先。
「これ、良かったら――」
「すまないが、それは受け取れない」
朝から何度も繰り返した言葉を、手塚はできる限り誠意をこめて復唱した。少女の目が途端に潤む。
「うん……、分かった。部活終わりにごめんね」
笑顔を作ろうとした頬は引き攣るように動いただけだった。走り去っていく後ろ姿にかける言葉もなく、手塚は重い溜息を漏らした。
「もったいなーい! チョコだけでも貰ってあげればいいのに!」
背後から菊丸の非難めいた声がした。
「今年は五人か。去年も一昨年も全員断っていたという前情報があるにも関わらず、こうして渡しにくるとは、なかなかガッツがあるな」
乾はそう言いながらノートに何やら書き込んでいる。
手塚は視線だけで二人を黙らせると、ラケットバッグを背負いなおして部室へ向かった。
テニスコートの周囲には、他にも何人もの女子が待機している。他校の制服も見えた。チョコを貰った部員たちの、はしゃぐ声が聞こえる。
何がそんなに嬉しいのか、手塚には分からなかった。自分には応えられない好意が込められたものを、どうして気安く受け取ることができるだろうか。同じ気持ちを返せないなら、最初から受け取らないほうがいい。
だが今年は、チョコレートという、明白に気持ちを伝える手段がある彼女たちを羨ましくも思う。正々堂々、真正面からそれを渡そうとする勇気には敬意すら感じている。
ただ一言、「好きだ」と伝えるのが、こんなにも難しいとは。
おそらく今頃は、何百、何千というチョコレートを受け取っているだろう男のことを思う。その中に一つ、差出人不明のチョコがあったとして、不審物として処理されるだけだろうに。
この気持ちを受け取ってほしい。できれば同じ気持ちを返してほしい。それが叶わないのなら、どうかこのまま一生気づかないでほしい。
面と向かって伝える度胸もないくせに、何かせずにはいられなかった。バレンタインにかこつけて、これくらいなら許されるのではないかと、そう思ってしまった。
自らの軽率な行動を思い返して、手塚は額を押さえて項垂れた。その周りでは、心配そうな顔をした後輩たちが遠巻きに様子をうかがっていた。
「おかえりなさい。国光、あなた宛にお花が届いてるわよ」
台所で夕食の支度をしていた母が言う。手塚は驚いて、ダイニングテーブルに置かれた花束をまじまじと見下ろした。
「きれいな薔薇ね」
母は手を止めて、手塚の傍までやってきた。
瑞々しい深紅の薔薇が三本。ラッピングは花そのものの美しさを引き立てるようなシンプルなもので、色使いや素材から素人目にも品の良さが感じられた。手塚は花の後ろに差し込まれたメッセージカードを手に取り、思わず首を傾げた。何も書かれていない、白紙のカードだったのだ。
「どこかに送り主の名前はありませんでしたか?」
「それが、お花屋さんが匿名で持ってきたの。誰が贈ってくれたのかしらねぇ」
バレンタインに花を貰ったのは、これが初めてだった。いったい誰が、と思うと同時に、なぜか彼の顔がパッと頭に浮かんで、手塚は眉を顰めた。ただの願望だ。この花の送り主が跡部だったら、なんて。
夕食後、手塚は勉強机の上に置かれた花瓶を睨みながら考えこんでいた。
見知らぬ誰かが送ってきたものかも知れない。もし見当はずれだったとしたら、どう言い訳するつもりだ。このまま何もしなければ、何も変わらずにいられる。何もしなければ。
手塚は大きく息を吸い込むと、意を決して携帯を掴んだ。間違っていた時のことをくよくよ悩むより、今は己の直感と目の前のわずかな可能性に賭けたい。
数コールの呼び出し音の後、電話が繋がった。
「Happy Valentine」
流暢な英語で跡部は応えた。
「少し話せるか?」
「ああ。どうした?」
緊張で口の中が乾く。
「俺は、バレンタインのプレゼントは受け取らないようにしている」
「そうらしいな」
「それでも自宅に送られた分は断りようがないから、受け取らざるを得なかった。今、目の前にその花がある」
「ほーう、実況中継ありがとよ」
跡部が軽い調子で言う。手塚は咳払いをした。
「ただ、メッセージカードが白紙で、誰から送られたものか分からないんだ」
「匿名のプレゼントは気味が悪いって話か? 食い物じゃないんだし、花ならそこまで害はねえだろ」
「いや、そうじゃない。誰からか書かれていないせいで、自分に都合よく考えてしまうから、お前に確認したいと思って電話をした」
「確認って、何をだ?」
跡部は訝しげな声で聞き返した。手塚は片手の拳を強く握りしめながら言った。
「この薔薇が、跡部、お前からだったら嬉しい」
スピーカーからガシャンと大きな音がして、手塚は咄嗟に携帯を耳から離した。その後、なにかを動かしているような騒々しい物音が続く間、手塚は声を発することもなく、じっと応答を待っていた。
「悪い……、携帯がベッドの下に入り込んじまって。えーっと、その、なんだ」
「違ったら忘れてくれ」
「ちが……わない」
返ってきたのは、聞き逃しようのないほどはっきりした肯定だった。手塚は思わず手で口を覆った。単純な喜びや驚きでは括れない感情の波が一度に押し寄せてきて、胸が苦しい。
「マジかよ……、なんで分かるんだよ……」
呆れているような、笑っているような、不思議な声色で跡部が言う。
夢みたいだ。手塚はこれが現実か確かめるように、そっと目の前の薔薇の花びらに触れた。しっとりとした感触が指に残る。
「実は、俺も同じようなことをしたんだ。名前を書かずに、お前宛にチョコを送った」
「あーん?」
「自分は受け取らないくせに、卑怯だとも思ったんだが……」
「待て待て待て。チョコって、どこのチョコだ? サイズは? パッケージの色は? 何日くらいに送った?」
矢継ぎ早の質問に、手塚は目を瞬かせた。
「どこだったか……。百貨店の地下で買ったのは覚えているが、店名までは」
「どうにかして思い出せ! ぜってえ見つけるから!」
跡部があんまり必死になって言うので、つい笑ってしまった。それに気づいたのか、釣られたように跡部も笑っている。ひとしきり笑った後、わずかな沈黙を挟んで跡部が口を開いた。
「チョコのことは、ひとまず置いとくとして。手塚、会いたい」
ストレートな短い言葉。鼓膜を震わせた、その声の熱さ。
「ああ、俺も会いたい」
手塚は素直に同じ思いを口にした。
「今から行く。首洗って待ってろ」
「分かった。暖かい恰好をして来い」
カーテンを開けて、窓の外を見る。どんな顔をして会えばいいかは分からないが、話すことなら決まっている。顔を合わせたら、跡部よりも先に言ってやるのだ。メッセージカードに書かれなかった、三本の薔薇の花言葉を。