片道五日の旅
たかが一週間だ。
豪奢な天蓋付きのベッドの中、ふかふかとした羽毛布団に頭まで潜って丸くなり、跡部は自分に言い聞かせるように繰り返す。
もともと手塚は筆まめな方ではない。
日本に居た頃から、基本的にやりとりは電話だった。どうしても都合のつかない時にはメールも使ったが、それでも画面をスクロールする必要があるような長文など、数えるほどしか受け取ったことがない。少々返事が来ないくらいで、何をそう慌てることがあろうか 。
ドイツに発つ手塚を見送ったのは、ちょうど桜が咲く頃だった。
小さくない時差を思って、連絡手段をメールに替えて一ヶ月。とはいえ、最初のうちは数時間と置かず返信があったのだ。それが徐々に間隔が開き、もともと長くない文面はさらに短くなり。
跡部は布団から頭だけ出すと、枕元に置かれた携帯に手を伸ばした。一番最近届いた手塚からのメールを開く。
『了解』
二文字だ。俺様の華々しい高校生活を綴ったメールに対する返事が、たったの二文字!
一斉送信で回した通達事項じゃねえんだぞ!?
溜息を飲み込んで、枕に顔を埋める。
されど、一週間だ。
どんなに多忙だろうと全く音沙汰がないというのは、おかしくないか。
いくらマイペースな手塚であろうと。いくら物ぐさな手塚であろうと。いくら――。
そんなことを考えていたら、一晩まんじりとも出来なかった。
まさか。
跡部は瞳をカッと見開いた。
手塚の身に何か良からぬことが起こっているのではないだろうか。
上背があると言っても、あのひょろひょろとした見た目だ。現地の選手たちと比べれば、大人の中に放り込まれた子供も同然だろう。あの細腕に何処から沸いて出てくるのかという力が秘められているのは知っているが、数に囲まれてしまえば一溜まりもないはず――。考えれば考えるほど、悪い方へ悪い方へと思考が引っ張られていく。
なにを悠長に寝転んでいられたのか。手塚の貞操が危ねえ!
真っ青な顔をした跡部が上掛けを蹴り飛ばすように起き上がるのと、部屋に軽やかなノックの音が響いたのとは、ほぼ同時であった。
「ちょうど良かった、ミカエル。すぐにジェットの準備を。ドイツに向かう」
勢いよく扉を開いて早々、そう告げた跡部の姿を見て、ミカエルは一瞬言葉を失った。
常であればつやつやとしたピンク色をしているはずの肌は色を失い、目元には青い隈がくっきりと浮かんでいる。寝乱れたガウンと寝癖のついた髪の毛もそのままという姿で部屋を出て行こうとする跡部を、入り口を塞いで制止しながら、ミカエルは殊更ゆっくりと言葉を紡いだ。
「坊ちゃま、いったん落ち着きましょう。お手紙をお持ちしました」
「急ぐ、と言っている。機内で読む」
「いいえ。今すぐご覧ください」
断固とした調子で言い返されたことに、跡部は首を傾げると、青い瞳に不満を込めてミカエルを見つめ返した。常になく鋭い眼光に臆する者もいるだろうが、こちらは跡部景吾専属執事暦十五年である。愚図る彼のあやし方など、赤ん坊の頃から心得ている。原因と対策が分かっているなら尚更たやすいことだ。
ミカエルは何げなく胸元から葉書を取り出すと、跡部の目の高さに掲げてみせた。
瞬間、跡部は憑き物が落ちたような顔をした。
「それをお読みになった後でも同じことをおっしゃるなら、すぐにフライトの用意をさせましょう」
呆然とする跡部の手を取って葉書を握らせると、そっと扉を閉じて踵を返す。
もちろんドイツ行きの便を手配する為ではない。
「今日の朝食はブランチに変更ですね」
既に動き出しているはずの厨房へ、本日の主のスケジュール変更を伝えるべく、ミカエルは足早に廊下を進んだ。
よろよろと室内へ戻った跡部は、ぽすんと音を立ててベッドに腰を下ろした。
ドイツからの国際郵便。よく見知った角張った文字で書かれた宛名を穴が開くほど見つめた後、一つ大きく息を吸うと、跡部は意を決して葉書を裏返した。
それは美しい絵葉書だった。
アルプス山脈に連なるドイツの最高峰、ツークシュピッツェの白い頂。前景にはエメラルドグリーンのアイプ湖と、それを囲む青々とした常緑樹の森が広がっている。見ているだけで、その清涼な空気まで感じられるようだ。
山の上部の青空には数行のメッセージが、これまた彼らしい端的な言葉で書かれている。
テニス漬けの毎日を送っていること。オフの日を利用してこの山に登ったこと。現地の人とドイツ語を使って簡単な会話ができるようになってきたこと。
短いながらも、充実した暮らしぶりを感じさせる内容だった。
そうか。元気でやっているんだな、手塚。
俺様も、これで一安心――――
「するわけねぇだろうが!!」
跡部は携帯を引っ掴んだ。
叩きつけるようにボタンを押し、後は通話ボタンを押すのみというところまできて、一瞬動きが止まる。もう飽きるほど計算したおかげで暗算よりも早いマイナス七の引き算の結果、あちらは深夜だ。
「知るかっ!」
こうなったら出るまでコールし続けてやる!
意気込んでボタンを押した跡部の耳に、しかし呼び出し音を数える暇もなく電話の繋がる音が届いた。
『おはよう、跡部』
「おう、おはよう……、じゃねーだろ!」
あまりにいつも通りな手塚の様子に思わず挨拶を返した跡部だったが、すぐに気を取り直して叫ぶ。
『そちらは朝ではなかったか?』
「そりゃあもう、爽やかな日曜の朝だぜ! 一睡もしてねえけどな!」
平然とした手塚の声を聞いて、つい棘のある言葉が口をつく。
「てめえ、よくも暢気に電話に出られたなぁ!? 俺が、この一週間どんな思いでテメエからの返事を待ってたと思ってやがんだ、ああん!?」
『…………』
「電話だって我慢してたってのによ! なに悠長に手紙なんか送ってやがる!」
『…………』
「一人で山登りまで楽しみやがって……。すげえ綺麗なとこじゃねえか……。って、おい! 手塚ァ! 聞いてんのか!?」
長いこと一方的に話していることにようやく気付き、幾分焦ったように呼びかける。
その時、滅多に聞こえない音を聞いた気がして、跡部は慌てて口を閉じた。もっとよく聞こえはしないかと、耳を携帯に押し当てる。
『すまなかった。随分と心配をかけたようだな』
小さな笑い声を、今度はしっかりと左耳が拾った。
『メールだと、どうしても要らないことまで書いてしまいそうで。送る前に何度も書いたり消したりしていたら、とうとう送れなくなってしまった』
まだ笑いを引きずったような声で言うのを聞いて、ついに跡部はベッドに倒れこんだ。
「なんだそりゃ……」
『葉書だと一度書いてしまえば取り消しようがないからな。一晩悩んで投函した。無事に届いたようで何よりだ』
「一晩考えてあれかよ……」
一気に気が抜けたせいだろうか、途端に瞼が重くなったように感じる。意識を繋ぎとめるように、跡部は言葉を紡いだ。
「要らないことってなんだよ?」
『そうだな……。例えば、山頂に着いて周りを見渡した時に、お前にも見せてやりたいと思ったことだとか……』
跡部は落ちかけていた瞼を見開いた。
「てめえな、それは要らないこととは言わねえだろ! つーか、もっと言え!」
思わず自分に素直になりながら声を荒げる。手塚の溜息交じりの声が耳元でする。
『そんなことを言ったら、お前の場合、すぐに行くと言い出しかねないだろう?』
「…………」
『おい、跡部?』
「んなわけねえだろ? 俺様にも分別ってもんがあるからな。そんな鉄砲玉みたいな真似しねえよ」
理由はどうあれ、ついさっきまで実際に飛び出そうとしていたなど、口が裂けても言えない。
『今の間はなんだ』
「電波の調子が悪いのかもな。それから?」
『あとは……、聞いてはいたが、食事の量が半端じゃない』
「ハハッ! お前はそれくらい食った方がいいんだよ」
『しかし、カルテスエッセンというのは厄介な習慣だな。これには馴染めそうにない』
「いっそ自分で作ればいいじゃねえか。いつでも温かい飯が食えるぜ?」
『実はもう実践してる。こっちの食材で作る日本食も、なかなか独創的で面白いぞ』
「そりゃまずいな。テニスのプロになる前に、料理のプロになっちまうかも知れねえ」
ひとしきり軽口を叩き合うと、跡部は声を潜めて言った。
「なあ。一緒に出来ねえことを話すのは、要らないことじゃねえよ」
差し込んできた朝日に絵葉書を翳してみる。
新しい場所で新しいことを経験するたびに、それを共有できない現実を噛み締める。正直、それを寂しいと思うこともある。ただ、俺はこの長期戦を楽しむことにしたのだ。
「次に会う時、全部やっちまえばいいだろ。今はそれまでの長い準備期間だと思えばいい。そうすりゃ、楽しみが増えるだけじゃねえか」
『……そうだな』
「俺がそっちに行ったら、相当忙しくなるぜ。まずは山登りだろ? それから、どんな所で暮らしてるのか、一通り家の近所を見て回って。自慢の手料理も振舞ってもらわなきゃならねえし」
『跡部、お前は何をしてくれるんだ』
一つ一つ指折り数える跡部に、手塚が口を挟む。
「そりゃ、テニスに決まってんだろ」
『少し不公平じゃないか?』
「堅ぇことは言いっこなしだぜ、手塚」
長く続いた会話も、徐々に途切れ途切れになってきた。
『やはり電話の方が俺たちには向いているようだな』
「ああ……。でも、たまにはこうやって手紙も書けよ、手塚ぁ」
半分眠りかけているような声で跡部は言った。
『何故だ?』
「電話は確かに声が聞けるし、文字より話が早えけど、それっきりじゃねえか……。手紙なら何度も読み返せるだろ?」
電話の向こうで一瞬息を呑む音がする。が、それには気付かぬまま、跡部は半分独り言のように続けた。
「しかし、俺なら葉書一枚なんかじゃ足りねえがな……」
『なら、跡部。お前も書いて送ってこい』
「ハッ。分厚い封筒、送りつけてやるよ」
『ああ、待ってる』
静かな手塚の声の後ろに、がたんごとん。遠く、列車の走る音が聞こえる。
住まいは沿線の近くなのだろうか。夜の街を駆ける夜行列車を瞼の裏に描いてみる。緑の木々の間を縫うように走る赤い車体は、明るい陽光の下で見れば、さぞ美しいことだろう。
心だけは九千キロの彼方へ飛ばして、跡部は柔らかな眠りに落ちていった。
「跡部……?」
静かになった携帯を耳元に当てたまま、手塚はようやくベッドに横になった。
どうやら跡部には要らぬ心配をかけたようだが、お陰でいつもより素直な言葉を交わせた気がする。携帯から小さな寝息が聞こえてくる。
通話の切れる音で、目を覚ますといけないから。
そう自分に言い訳して、手塚はしばらくの間、電話の向こう側へと耳を澄ませた。