R指定には及ばない

  

 手塚がそれに気付いたのは偶然だった。
 午後の練習もようやく終わり、くたくたになった中学生の一行が重い足を引きずるようにコートから引き揚げていく中、前を歩く跡部の頭に何やら赤い点のようなものがくっついている。
「跡部、頭に何かついている」
「あん?」
 跡部は振り向きざま、思ったより近くにあった手塚の顔に驚いてビクリと足を止めた。おかげで手塚はその正体をまじまじと見ることが出来た。
「てんとう虫だ」
「てんとうむし……?」
 オウム返しをする跡部に、手塚はこっくりと頷いた。
 つやつやとした丸い体に黒い点々模様をつけたてんとう虫は、そこが気に入ったとでもいうのか跡部の頭のてっぺん辺りにピタリと張り付いたまま動こうとしない。目の前の端正な顔立ちと、その可愛らしい生き物との組み合わせは随分とちぐはぐで、なんだか微笑ましくもあった。
「久しぶりに見た。これだけ山に囲まれていると、虫も多いのだろう」
「そう、だろうな」
 跡部は歯切れ悪く相槌を打った。今気付いたのだが、何やら顔色が悪い。
「俺様の匂いに釣られて、虫どもも寄ってきちまうのかもな……」
「香水のことを言っているのなら、てんとう虫の主食はアブラムシだが」
「じゃあ、今の俺様はアブラムシってことだ!」
「……跡部、どうした?」
 いよいよ様子がおかしい跡部を前にして、手塚は気遣わしげな声で言った。どこか具合でも悪いのかと思ったのだ。
「何でもねえよ、ほっといてくれ」
 跡部は吐き捨てるようにそう言うと、言葉の勢いとは裏腹にぎこちなく歩き出した。ちゃんと前を見ているのかいないのか、宿舎とも更衣室とも検討違いの方向に向かっている。
「おい、どこへ行く」
「うるせえな! ついて来んなっつってんだろ!」
 反抗期か?と、手塚が眉根を寄せたときだ。
「あとべ~?」
 背後から芥川の間延びした声が聞こえて、跡部の顔が強張る。
 のんびりとした足取りで近づいてきた芥川は、手塚を追い越して跡部の隣に並んだ。大きな瞳をくりくりと動かして、跡部の表情と頭に乗った小さな生き物とを順に見る。
「跡部、ちょっと屈んで」
 跡部はチラリと手塚の方を見たが、やがて諦めたように目を閉じると、言われた通り膝を曲げた。芥川が跡部の頭に手を伸ばす。そして、このやりとりの間も飛び立たなかったのんびり屋のてんとう虫を、小さな体を潰してしまわないよう慎重に摘まみ上げた。芥川の手が離れても、跡部はギュッと目を瞑ったままでいる。
 芥川はてんとう虫を近くの植え込みの上に避難させると、小走りで戻ってきた。
「はい! もう目ぇ開けていいよ」
 その合図で、ようやく跡部がゆるゆると目を開ける。
「…………サンキュ」
 正面に立つ芥川に向けて、跡部は力なく微笑みかけた。

  

「お? なんや手塚、知らんかったん? 跡部の虫嫌い」
 いつの間に隣に立っていたのか、忍足は手塚の顔を見て面白そうに眉を上げた。それまで跡部と芥川のやりとりを黙って見ていた手塚は、眉間の皺をさらに深くした。
「…………いつもこうなのか?」
「いや、いつもは樺地がやってんけどな? うちの部員、今はこのメンバーしかおらへんから。俺も初めて見たときは、目ぇ疑ったわ。あの跡部が、虫見つけた途端、真っ青な顔で『かばじ……!』って袖引っ張るんやで!」
「ほう……?」
 手塚の声は冷え切っていたが、忍足は構わず話し続ける。
「ま、あいつも人の子っちゅうことやな。人間、一つくらい弱点があったほうが可愛げがあるってもんやろ」
「おい忍足! なにベラベラ喋ってやがる」
 跡部は足早に二人のもとにやってくると、柳眉を逆立てた。先ほどまでのしおらしさはどこへやら、すっかりいつもの跡部である。
「こんなとこで合宿するんやから、遅かれ早かれバレるやろ。いっそ話して楽になりいや」
「別に……、今までだって隠してねえよ」
「俺は初耳だったが?」
 そう言って、いつもの仏頂面を三割増しにしたような顔をしている男を見て、跡部は面倒なことになったと心の中で舌打ちした。これは手塚が拗ねているときの顔だ。
「そうそう、夏も大変やってんで。うちの学校ようけ木が植わわっとるせいか、セミも多うてな。こいつ、落ちとるセミにいちいち飛び上がって驚くんやもん。もう可笑しゅうて可笑しゅうて」
「あんなの誰だって驚くだろうが」
 思い出すのも嫌なのか、跡部は顔を歪めて言った。それを聞いて思い出したのか、芥川が首を傾げる。
「あれ? でも、今年はいつもより少なかったよねぇ、蝉ファイナル」
「そら、練習前に一年生が片付けてたおかげやろな」
「あ、そうなんだ?」
「アアン? んなこと一年にやらせてんじゃねえよ」
「いやいや、みんな自主的にやっとったらしいで。えかったなぁ、部長思いの後輩に恵まれて」
 忍足が笑う。跡部は胸を打たれたとでもいうように、瞳を煌めかせた。
「あいつら……、一人ずつ抱きしめてやりてえ気分だ」
「あー、そこは思うだけにしとこ、な?」
 これ以上道を誤まる部員を増やしてはならないと、忍足はやんわりと牽制したのだが、跡部は聞いていないのか、顎に指を当てて「あとで何か贈らせるか」などと呟いている。
「……夕飯に遅れるぞ」
 それまで沈黙を守っていた手塚はそれだけ言うと、更衣室のほうへ足早に歩き出した。先ほどとは、まるで逆だ。跡部は芥川と忍足の二人に先に行くよう目線だけで促すと、手塚の腕を掴んで無理やり立ち止まらせた。
「なんだ?」
「誤解のないように言っておくが、秘密にしてたわけじゃねえからな。さっき言ったように、部員なら皆知ってる話だ」
「そうか、それなら部外者の俺が知らないのも当然だ」
 手塚の言葉はにべもない。
「……拗ねんなよ」
「別に」
 そう言いながら、手塚はついと目線を逸らした。思いっきり拗ねてんじゃねえか。
「出来ることなら、お前には見せたくなかったんだよ」
 手塚の腕を掴む手に力が篭る。それを見下ろした手塚は、跡部の悔しげな表情に気付いて目を瞬かせた。
「好きなヤツには、こんなダセえとこ見せたくねえと思うだろ」
 分かれよ。
 怒ったように言われてしまえば、それ以上臍を曲げ続けることは出来なかった。自分でも単純だと思うものの、こんな一言で、いとも簡単に機嫌は急浮上してしまう。
「俺だって、治せるもんなら治してえよ」
 それは独り言とも取れるような小さな声だった。ポツリと零れた跡部の弱音を聞いたとき、手塚の脳裏に閃くものがあった。
「跡部、今日の消灯後、宿泊棟の南玄関前に来い」
「消灯後? そんな時間に何すんだよ」
 怪訝な顔をする跡部に、手塚は何やら意味深に微笑んだ。
「二人だけでやりたいことがある」
 珍しい手塚の表情に気を取られていた跡部は、聞き返すことも忘れて、ただ黙って頷いていた。

  

 翌日は朝から快晴だった。
 食堂の大きな窓からは麗らかな秋の日差しが差し込み、室内を燦燦と照らしている。しかし、そんな爽やかな一日の始まりに似つかわしくない光景が、窓辺の一角に広がっていた。
 いつもなら背筋をピンと伸ばし、優雅に朝のティータイムを楽しんでいるはずの跡部が、どういうわけか今日に限ってだらしなくテーブルに両肘をついて真っ黒いコーヒーを啜っている。近づきがたいオーラを感じてか、跡部の座るテーブルの周りには妙な空間が出来ている。
 忍足と芥川は顔を見合わせると、跡部の向かいに腰を下ろした。
「跡部、おはよー」
「おはようさん」
 緩慢な動作で顔を上げた跡部は、気だるげに「おはよう」と返した。目の下にはっきりと浮かぶ青いクマが、寝不足だと分かりやすく主張している。
「珍しいね、跡部が寝不足なんて。ベッドが固くて眠れなかったとか?」
「手塚がなかなか寝させてくれなかったんだよ」
 そう言いながら、跡部は欠伸を噛み殺した。三人の間に沈黙が落ちる。隣に座る芥川の目が据わっているのを目撃してしまった忍足は、先ほどの跡部の発言が己の聞き間違いなどではなかったことを確信した。
「さ、さよか。二人とも練習もほどほどにな。夜はしっかり寝なアカンで?」
「テニスの話じゃねえよ」
 忍足がそうであってくれという願いを込めつつ言った言葉は、あっけなくカウンターで返されてしまった。顔に浮かべていた笑みが引き攣る。
「あの野郎、俺様は嫌だって言ったのによ……」
 苦虫を噛み潰したような顔をして項垂れた跡部の首元の、服に隠れるか隠れないか微妙なところに赤い虫刺されのような痕を発見して、忍足は思わず天を仰いだ。これはもう完全にソッチの話だと認めざるを得ない。
「む、無理強いは、アカンよなぁ」
 もはやどう相槌を打てばいいのか分からないが、跡部が話題を変えない以上、こちらも親身になって話を聞くべきだろう、と忍足は腹を括った。もしも辛い思いをしているというなら、友人としてどうにかしてやりたいと思うし、単なる惚気話なら笑って聞いてやればいい。朝のこんな時間から、そして中学生には刺激が強すぎる話だとしても、だ。
「だろ? ああ見えて強引なんだよ、アイツ。昨日だって、いきなり外に連れ出しやがって」
 突然の野外プレイ!?
「こっちが『そんな大きいの無理だ』って泣きそうになってんのに、あいつ問答無用で触らせるんだぜ。俺様は初めてだったのに……」
 手塚のアレ大きいんや、とか、初めてで野外とかハードすぎやろ、とか色々思うことはあったが、如何せん口からは発せそうにない内容ばかりだったので、忍足はただただ生温かい微笑を浮かべて頷いていた。
 覚悟は決めたものの、実際に聞くとなると話は別だ。学校の休憩時間にクラスメイト達がしている夢見がちな猥談が、メルヘンな童話に思えてくる実体験の生々しさ。しかもよく見知った二人の、となれば、その場面を必要以上にリアルに想像してしまう。出来ることなら耳と顔を同時に覆ってしまいたい。
 芥川は黙ったまま、テーブルの下でガタガタと貧乏揺すりをしている。右手に握りしめたフォークがあまりにも不穏だ。
 その時、忍足は食堂の入り口に問題の男の姿を見つけて、すぐさま立ち上がった。手招きすれば、手塚は朝食の載ったプレートを持って何の疑問もなく歩いてくる。こちらも少し眠たそうではあるものの、それまで聞いていた内容のせいか妙に晴れ晴れとした顔をしているようにも見えて、米神がひくつく。
「どうも。昨夜はお楽しみやったそうで」
 嫌味をたっぷり乗せて言ったのだが、手塚には通じなかったのか動じる素振りも無かった。それどころか、当然のように跡部の隣に腰掛けながら、「話したのか?」などと訊ねている。この男には羞恥心というものがないのか?
「ああ、話してやったぜ。てめえの暴虐無人っぷりをな」
「鬼畜眼鏡」
「まさか、お前があんなことするとは思わなかったぜ」
「眼鏡割れろ」
 跡部の言葉の間に、芥川が呪詛のように言葉を挟む。目がマジだ。
「だが、良かっただろう?」
 手塚はそう言って首を傾げた。
「……なぁにが『ヨかッただろ?』だ。マジ許さねえ」
 目の前の眼鏡を叩き割るという強い決意を込めて、ゆらりと芥川が立ち上がろうとする。その肩を押さえつつも、忍足は手塚に鋭い視線を投げた。
「跡部がそれでええ言うんなら、俺らにとやかく言う資格ないんやろうけどなあ。コイツのことあんまり邪険に扱うようなら、俺らも黙ってへんで」
 手塚は目を瞬かせると、手に持っていた箸をお盆の上に戻した。
「お前たちこそ、少し過保護が過ぎるんじゃないか? たかが虫捕りくらいで」
「たかがとは何や、たかが………………虫捕り?」
 直前まで臨戦態勢といった目つきをしていた忍足たちは、毒気を抜かれたように跡部のほうを見た。
「お前ら、何の話だと思ってたんだよ?」
 追い打ちをかけるように跡部が首を傾げる。いや、虫の話やなんて一言も聞いてへんし。

  

 消灯後、非常灯の緑の明かりだけがぼんやり光る玄関口で跡部が待っていると、数分遅れて手塚がやってきた。
「待たせたな」
「遅かったじゃねえのよ、てづ……」
 言葉は最後まで続かなかった。手塚の異様な出で立ちを見れば、それも当然だった。
「てめえ、何のつもりだ……」
「見て分からないか?」
 手塚は自分の持ち物を見下ろして言った。肩からは虫捕りかごを斜め掛けにし、手には虫捕り網と懐中電灯。どう見ても昆虫採集に出かける夏休みの少年ルックである。老け顔かつ身長が百八十センチ近い手塚では、どちらかと言えば研究者か探検家のほうが近かったのだが、デリケートな問題なので言及は避ける。
「さすがにそれは分かるっつうの。俺様が言いてえのは、何でこんな時間から虫なんて捕まえに行かなきゃならねえのかってことだ。嫌いだっつってんだろ」
「お前が大騒ぎする姿を他の者に見られていいなら、日中にすればいいが。そして、虫捕りに行く理由はお前が今言った通りだ」
 跡部は解せないという顔を隠しもしなかった。
「どういう意味だよ」
「跡部。お前、昆虫採集の経験は?」
「んなもんあるわけねえだろ」
 手塚の目が鋭く光る。
「それだ。嫌いだと言って避けてばかりいては、いつまで経っても苦手なままだぞ」
 跡部は雷に打たれたようにハッと顔を上げ、それから慌てて首を横に振った。
「い、いや、理屈は分かるぜ? でも、なにも今日でなくてもいいじゃねえか」
「思い立ったが吉日と言うだろう」
「今日の天秤座は運気下降ぎみだって、朝、千石が……」
「安心しろ、もうすぐ日付も変わる」
 言いながら、虫捕り網の柄を跡部に握らせる。未だに言い訳を探している跡部の、虫捕り網を持っていない方の手を握ると、手塚はうっすらと微笑んだ。跡部の心臓がいろんな理由で早鐘を打ち始める。
「心配するな。きっと終わる頃にはお前も虫が好きになる」
「何を根拠に言ってんだ……。おい、引っ張んな! 離しやがれ! こっの、バーカバーカ! 手塚のバァーカ!!」

  

「念のため、陽があるうちにクヌギの木に目印をつけておいて正解だった。十一月なのでどうかと思ったが、クワガタが見つかるとは運が良かった」
「運がいいだぁ? 悪いの間違いだろ。こいつ、全部俺に取らせようとするんだぜ。あの黒くてツヤツヤしたデカい虫も」
「自分も似たようなのを飼っているだろう」
「その辺の虫とキング・オブ・サタンを一緒にするんじゃねえよ」
「お前の基準は時々分からない」
「あとは、小さいのもウジャウジャいたな」
「アオマツムシやエンマコオロギだな。秋らしい虫だったろう」
「部屋に帰った後もあいつらの鳴き声が耳から離れなくて、おちおち眠れなかったぜ……」
「そうだろう。何匹かお前のポケットに入れておいた」
「は!?」
「冗談だ」
「てめえなぁ……!」
 放っておけば際限なく続きそうな痴話喧嘩のようなものを、忍足と芥川は安堵半分、呆れ半分で聞いていた。
「それは……、昨夜はお楽しみでしたね」
 忍足は思わず敬語で言った。言った後で、さっきも同じことを言ったのに気が付いた。ニュアンスは全く別物であったが。
「ああ、久々に童心に返ったようだった」
「なにが童心だ。こっちは無理やり大人の階段を上らされた気分だぜ」
「あとべ~! 良かった~! 俺、跡部が遠いとこに行っちゃったのかと思ったC~!」
 芥川はテーブルの上に体を投げ出すと、向かいに座る跡部の手をぎゅっと握った。
「心配性だな、ジローは。そんなに離れた所には行ってないぜ?」
「迷子になっては事だからな」
 芥川が言ったのは確実にそういう意味ではないのだが、既に忍足にはツッコミを入れる気力は残っていなかった。ボケはボケでも、天然ボケ。それもこうも強力なのが二人とあっては、いくら氷帝のツッコミ担当と言えども太刀打ち出来ない。実力不足や、と忍足は臍を噛んだ。
「それで? 結局、跡部は苦手克服出来たん?」
「一晩で治りゃあ苦労しねえよ。ただ、勝ち筋は見つけたと思うぜ。俺様に足りなかったものが分かったからな」
 跡部はそう言うと、残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
「足りないものって?」
 芥川が不思議そうに訊ねると、跡部はクマの浮かぶ目をニヤリと細めた。
「経験だ」
「あーね……」
「そだね……」
 荒療治を乗り越えて一段階ステップアップしたらしい跡部を見て、文字通り怖いものなしの王様が完成するであろうことを二人は悟った。それも遠くない未来に。
「可愛かったのにな~、虫怖がってる跡部」
「ほんま残念やわあ。こんなことなら写真の一枚でも撮っとけばえかったな」
 溜息をつきながら、冷めきった朝食に手を伸ばす。
「で? お前たちは何の話だと思っていたんだ?」
 静かに合掌をしてから箸を持ち上げた手塚が、世間話のような口調で訊ねた途端、忍足と芥川は口の中に入れたものを詰まらせかけて盛大に咽せ返った。

  

  

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