二センチ分の話

  

「手塚くんの彼女って、ブロンドだったりする?」
 不躾な質問にも、彼の表情は一ミリも動かなかった。鏡越しに目が合う。彼の研ぎたての鋏みたいに鋭い眼差しからは何の感情も読み取れなかったけれど、僕は都合よく疑問だと解釈することにして話を続けた。
「預かったコートに、髪の毛がついてたから」
「ああ」
 納得したような短い声を発して、彼は再び口を閉じた。
 最近この美容室の顧客になった青年は、スモールトークがあまり得意でないらしい。かと言って、話嫌いかと言えばそんなわけでもなく、ぽつぽつと自分の話もしてくれる。
 異国に住む者同士、日本人というだけで心の距離が縮まるというのもあったかも知れない。おかげで彼が初めてこの店にやってきたときには、僕がなぜドイツの、しかもこんな街はずれに自分の店を構えることになったのか、というちょっとした小説にでも書けそうな経緯も話していたし、彼がこの国を拠点に活動するプロのテニスプレイヤーであることや、ここ数年の間にこの辺りの理髪店でやられてきた数々の失敗談も聞いていた。
 その失敗が頭にあるせいか、それとも元々の習慣なのか、渡した雑誌は一度も開かれることなく、今日も彼は自分の髪がだんだん短くなっていくのを鏡越しにじっと見つめている。
「伸ばすと言って聞かないんです。一度結べるくらいまで長くしてみたいらしくて」
 僕は、おや、と思って聞き返した。
「その言い方だと、君はあんまり長い髪が好きじゃないみたいだね」
 彼はカットの邪魔にならないくらい、わずかに首をかしげて、「そうですか?」と言った。それがまた、とても質問しているようには見えない表情だったので、僕は可笑しくなった。
「僕にはそう聞こえたよ」
「好き嫌いで考えたことがなかったので」
「似合ってない?」
「似合わないことはないです。ただ」
 彼は手の甲についていた髪の毛を払いつつ、
「お前だって、いつ禿げるか分からないんだから、今のうちに遊んでおけば、なんて言うから」
 少し腹が立ちます。少しも嫌そうでも怒ってもない顔で、さらりとそんなことを言うものだから、僕はいよいよ声を上げて笑ってしまった。それから、自分のちょっとした勘違いにも気づく。
「それは一理あるね。冒険は若いうちにこそしておくべきだ。どう? 手塚くんも伸ばしてみたら?」
「遠慮します」
 きっぱりとした口調で即答した後、彼は少し表情を和らげて言った。
「あいつ、ここでカットした後は、いつも大げさなくらい褒めてくれるんです。だから、いつも通りでお願いします」
 そんなことを言われたら、美容師としては張り切らざるを得ない。仕上げのワックスを揉みこむ手つきが妙に慎重になってしまったのは、ご愛嬌ということで。
「いかがでしょう?」
 後ろ頭が見える位置に鏡を持ってきて問えば、彼は「はい」と頷いて、それからいつものように、ほんの微かな笑みをこぼした。

「あ、さっきの話ね」
 僕がケープを外しながら言うと、彼はきょとんとした顔でこちらを見た。
「今は部分的にキューティクルが開いちゃってるかな、くらいだけど。お風呂上りに髪を乾かさない生活をあと何年も続ければ、そのときは分からないね。頭皮のダメージは気づかないうちに蓄積するから」
 僕はわざと声を潜めて言った。彼は慌てて顔を俯かせると、鏡の向こうの自分の頭を険しい目つきで点検しはじめた。
「疲れてるだろうし面倒臭いのも分かるけど、せめて根元くらいは乾かすように」
「……努力します」
「よろしい」
 重々しく頷くと、僕らは顔を見合わせて笑った。もちろん、彼の笑顔はずいぶん控えめなものだったけれど。
 会計を済ませて、入り口のドアを開ける。冷たい空気が一気に流れ込んできて、思わず首をすくめた。
「また来ます」
 コートのボタンを留めながら彼が言う。
「うん。次も二カ月後かな」
「はい、それくらいに」
「お待ちしてます」
 来た時よりもこざっぱりした後ろ姿を見送ってから、僕はいそいそと床の掃き掃除に取り掛かった。

  

  

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