愛について

  

 勝っても負けても表情が変わらないとよく言われるが、当然勝てば嬉しいし、負ければ悔しい。
 二大会続けての準決勝敗退だった。コーチとは試合後すぐにミーティングをした。足りなかったもの、悪かったところは修正して次に活かす。切り替えなければ。それは重々分かっているのに、ホテルの部屋へ戻った今もなお、返しきれなかったボールを頭の中で追いかけている。携帯が鳴ったのはそんなときだった。
「おい、手塚。明日ヒマなら俺様に付き合え」
 電話に出るなり跡部はそう言い放った。もちろん偶然などではなく、今日の試合結果を知ったうえで連絡してきたのだろう。
「あいにく、明日の朝にはドイツに戻るつもりだ」
 手塚は携帯を肩に挟むと、やりかけのまま放置されていた荷造りを再開した。
「そんなに急いで帰ることねえだろ。ロイヤルオペラのチケット余らせてんだよ。何も泳いでとは言ってねえんだから、ドーバー海峡くらい渡ってこい」
 今回のツアー開催地であるベルギーのアントワープからロンドンまでは高速鉄道で三時間、飛行機なら一時間ほどの距離だ。近いと言えば近いが、遠いと言えば遠い。
「演目は?」
「フィガロの結婚」
「あまりそそられないな」
「そうかい。あーあ、お前が来るなら、昼は川でうなぎ釣りでもしようと思ったのに。入れ食いだって穴場を教えてもらったんだが、来れないなら仕方ねえな」
 跡部は芝居がかった調子で言った。ここしばらくは釣りにも行ってなかったな、と言われて思い出した。
「イギリスでは、うなぎは釣れてもリリースする決まりだろう。俺はうなぎは釣るより食べる派だ」
「詳しいじゃねえの。まあ、お前ならそう言うだろうと思ってな。うちの料理人が、お前のために仕入れた分を泥抜き中だ。明日には出せるってよ」
 手塚は思わず手を止めた。日本食のレストランなら世界中にあるが、ローカライズされていない、ちゃんとした和食を出す店は希少だ。そんな店であっても、うなぎを置いているところなど滅多にない。跡部家のお抱え料理人と来れば、腕は確かだろう。日頃から和食に飢えている手塚には、あまりにも魅力的な誘い文句だった。
「跡部……、卑怯だぞ」
「バーカ、正攻法だ」
 己の勝利を確信したように跡部が言う。手塚が黙っていると、メッセージの通知音が鳴った。
「今、ブリュッセル発ヒースロー行きのバウチャーを送った。乗り遅れるなよ」
「チケットくらい自分で取るものを」
「退路は早めに断っておかねえとな。道具なんかはこっちで用意する。じゃあ明日、空港で待ってるぜ」
「……了解」
 通話を切って、届いたバウチャーを確認する。現在地からブリュッセル空港までの移動手段を調べながら、手塚は小さくため息をついた。このところ何度か誘いを断っていたせいだろう。跡部も強引な手を使ってきたものだ。
 数カ月前の自分なら、純粋に明日を楽しみに思えたはずだった。今は跡部と顔を合わせるのが少し怖い。

  

 六月中旬、サマーホリデーに入ったばかりのヒースロー空港は旅行客で混みあっていた。キャリーケースを引いて到着ロビーに出ると、待ち構えるように跡部が立っていた。
「ようやくお出ましか。久しぶりじゃねーの、手塚」
「相変わらず元気そうでなによりだ」
 軽口を交わしながら駐車場へ向かう。立ち止まった跡部の前には、いつものリムジンではなく、大型のSUVが停まっていた。運転席には誰も乗っていない。跡部はバックドアを開けると、手塚に荷物を積み込むよう促した。
「お前が運転するのか?」
「他に誰がいるんだよ。ほら、さっさと載せて出発するぞ」
 薄曇りの空の下、車はモーターウェイを軽快に走る。青々とした新緑が窓の外を流れていく。
 中三の秋、ドイツへ渡った。翌年からは青春学園高等部の通信制課程に籍を置きながら、世界のトッププレーヤーであるユルゲンのヒッティングパートナーとして大会に同行し、プロの世界を肌で学んだ。高校在学中にアマチュアからプロへ転向し、今は二十歳。がむしゃらにテニスに打ち込む日々が続いている。
 中学時代に競い合ったメンバーの多くは、高校卒業を機に競技としてのテニスからは遠ざかっていった。青学の仲間たちとは帰国したときに会うこともあるが、それも年々難しくなっている。それぞれの将来へ向かって、道は枝分かれしていく。たまにメッセージのやりとりをしたり、風の便りに聞いたりするだけで繋がっていると思えたし、それだけで十分だった。ただ一人、隣でハンドルを握っている男だけが例外だった。
 元々、日本と海外を頻繁に行き来していた跡部にとって、ドイツは遠い国ではなかった。氷帝の高等部に進んでからも「近くまで来たついでだ」と言いながら、手土産片手にふらりと手塚の元を訪ねてくる神出鬼没ぶりだった。高校を卒業後、跡部がイギリスに越してきてからは、時間があえば二人で遊びに出かけた。去年の秋、大学が始まってからも交流は途切れなかった。良い友人を持ったと思っていた。たわいない会話の中で、跡部に恋人が出来たと聞くまでは。

  

 目的地には三十分ほどで到着した。跡部に教わりながら、川釣りに必要なライセンスを携帯からオンライン登録し、フィッシングウェアに着替える。受付で料金を支払い、釣り具一式を持って川辺へ向かった。
 運河に流れ込む支流の一つだった。水の流れは穏やかで、ともすると小さな池か沼のようにも見える。川沿いには木々が生い茂り、水面に濃い影を落としている。
「エサ釣りか?」
「ああ。レバーが良いって聞いて持ってきた」
「うなぎは夜行性だろう。こんな昼間から釣れるのか?」
「このところ雨が続いてたから、そこそこ釣れると思うぜ。って、グダグダ言ってたわりには、釣る気満々じゃねえの」
「やるからにはベストを尽くしたいだけだ」
「はっ、真面目なんだか何なんだか」
 うなぎは日中、岩陰などの暗がりに隠れて眠っていることが多い。流れの滞留していそうな濁った水中に向けて、えさをつけた釣り針をキャストする。えさが川底に着いたら、食いつくまでじっと待つ。生き餌だと思わせる必要はないから、ルアー釣りのようにロッドを動かすこともない。しばらく経っても引きがなければ、一旦リールを巻き取って、また別の場所にキャストする。その繰り返し。
 初夏の澄んだ風が川面を渡り、さざ波を起こす。水辺の空気は少しひんやりしている。
「最近どうだ、大学のほうは」
 手塚は水面を見つめたまま言った。跡部の視線が頬に刺さる。
「その聞き方、まるで父親みてえだな」
 横目で見ると、予想通り跡部は意地の悪そうな笑みを浮かべていた。
「楽しいぜ。あっという間の一年だった」
 跡部はリールを手繰り寄せると、再び川底に向けて遠投した。
 それから跡部は、寮での暮らしぶりや大学での出来事について、手塚に話して聞かせた。
 寮内で自国の料理を持ち寄ってパーティーをすることになった際、何故かおにぎりを熱烈にリクエストされ、一人で二升分のおにぎりを握る羽目になった話(アニメや漫画でよく見る食べ物らしい)。大学でもキングというニックネームを付けられたせいで、どこぞの王族と勘違いしたとある発展途上国出身の同級生から、経済協力を求められた話(今後ビジネスとして進められないか協議中とのこと)。
「もちろん、真面目に講義も受けてるぜ。すげえ面白い。毎回新しい発見があって、わくわくする」
 水面を映した青い瞳がきらめいている。きっと跡部の視界には、可能性という世界が無限に広がって見えているのだろう。
 氷帝の高等部に進学した跡部は、そこでも当然のように一年からテニス部の部長を務めた。夏の大会では三年連続で全国の舞台に出場し、秋にはU-17日本代表選抜メンバーの一員として強化合宿や海外遠征に参加した。高二の年に行なわれたU-17W杯、プロとしてドイツチームに参加した手塚は、日本チームを率いる跡部と二年ぶりの再戦を果たした。公式での二人の対戦は、それが最後になった。
 高校卒業とともに、跡部はすっぱりとラケットを置いた。一時はプロ転向の噂もあっただけに引退を惜しむ声は大きかったようだが、卒業後に初めて会った際、「やりたいことは全てやった」と語った跡部の表情は、見ているこちらの胸がすくほど晴れやかなものだった。
「お前のほうは最近どうなんだよ。来月のウィンブルドン、もちろん出るんだろうな」
「問題がなければ、その予定だ」
「何日か見に行くぜ」
 跡部はふと笑みを浮かべると、手塚のほうを向いて言った。
「近いうち、お前の白いウェアに俺様の会社のロゴをでっかく載せてやる。楽しみにしてな」
「その際は華美でないものにしてくれ」
「てめえなぁ」
 笑いながら怒るという器用な真似をした直後、跡部は釣り糸の先へ視線を戻した。ロッドが大きくしなっている。引きは相当強い。タイミングを計りながら、跡部はじわじわとリールを巻き上げていく。格闘の末、水面から八十センチはありそうな大物が姿を現した。
「まずは俺様がリードだな!」
 暴れるうなぎに泥水をひっかけられながら跡部が言った。
 川岸に上げたうなぎから素早く釣り針を外す。水中に戻してやると、災難に遭ったとでもいうように瞬く間に姿を消した。
 それから二時間あまりの間に、二人してなかなかの数のうなぎを釣った。釣り上げたうなぎの大きさを見て、手塚が「一・五人前だな」とか「二人前はある」と表現するたび、跡部はおかしそうに笑った。

  

 再び跡部の運転する車に乗り込み、今日泊めてもらう予定の別荘へと移動した。
 ロンドン郊外に立つ邸宅は、数百年という単位の歴史を感じさせる重厚な建物だった。まるで映画のセットのような内装や調度品を眺めていると、来る時代を間違えてしまったような感覚に陥る。跡部はそんなこと気にもせず、フィッシングウェアのまま堂々と廊下を歩いていく。
「ここが客室だ。少し早いが、着替えたら夕食にしようぜ。シャワーも浴びてえから、三十分後くらいでいいか?」
「ああ。そんなに畏まった服は持ってきていないが大丈夫か?」
「ジャージじゃなけりゃ、何でも構わねえよ」
 跡部と別れて部屋に入ると、手塚は入り口の脇に荷物を下ろした。着替えを取り出してから、自分もシャワーを浴びておこうと浴室へ向かった。熱めのお湯を頭から被る。高級ホテルに置いてあるようなアメニティからは、甘酸っぱい柑橘類の匂いがした。
 渋々ながら髪を乾かして一階に降りると、食堂の入り口で跡部が待っていた。手塚に合わせたのか、跡部にしてはラフな格好だった。
 席につくと、すぐに夕食が運ばれてきた。料亭で出てくるような手の込んだ料理が、次々と目の前に並べられていく。純イギリス建築の中で食べる純和食というのも、なかなか味がある。メインはお櫃にたっぷり入ったひつまぶしで、手塚は久しぶりに口にする好物の味を噛み締めつつ、米粒一つ残さずきれいに完食した。
 ロンドン中心部への移動はさすがに運転手に任せて、二人で後部座席に座った。
「帰りは深夜になるが、平気か?」
 劇場に向かう途中、今更のように跡部は言った。外は真昼のような明るさだが、もうすぐ七時になる。
「それは、起きていられるか、という意味か?」
「疲れてるんじゃねえかと思ってよ。最悪、隣で寝てても起こさねえぞ」
「これくらいで疲れるような鍛え方はしていないつもりだ。それに、うなぎもご馳走になったしな」
「疲労回復って? そんなに早く効くかよ」
 跡部は呆れたように笑って言った。
 開演前の混雑したロビーにはカジュアルな服装の客が多かったが、最もチケット代の高いであろう、平土間の前方席まで来ると、ジャケットを着た男性やドレスアップした女性の姿も目立った。地元民と観光客。日々の娯楽と特別な日のデート。あらゆる客層を受け入れるオペラハウスは、絢爛豪華な佇まいながら実に間口が広い。
 オペラはイタリア語での上演だった。手塚は舞台上方に表示される英語字幕を視界に入れながら観劇していたが、イタリア語の分かる跡部には不要なのだろう。リラックスした表情で舞台を眺めている。
 フィガロの結婚は、伯爵家の召使いフィガロと同じく女中のスザンナとの結婚式の一日を描いた喜劇だ。スザンナに言い寄る伯爵。夫の不実を嘆く伯爵夫人。恋に恋する小姓。フィガロとの結婚を目論む女中頭と、その計画に加担する医者。様々な思惑が絡み合い、物語は目まぐるしく展開していく。
 モーツァルトの音楽に乗せて登場人物が歌いあげる、喜び、戸惑い、怒り、憎しみ。それらはすべて愛に起因する感情だった。そうして舞台の上から幾度となく、歌に乗せて問いかけるのだ。愛とは何かと。
 愛とは、人の心を嵐のように掻きまわす、得体の知れないもの。時に己の身を燃え上がらせ、時に凍りつかせる、恐ろしく強力な何か。つい最近まで、自分には必要ないと思っていたもの。
 ワッと客席が沸く。隣から跡部の笑い声が聞こえる。愛ゆえに巻き起こす愚行は、どれもみっともなく滑稽だ。それでも愚かだとは思わなかった。
 混沌としていた舞台は、最後には伯爵が改心して大団円を迎える。観客からの拍手はいつまでも続いて、カーテンコールはなかなか終わらなかった。

  

 公演中に雨が降ったらしい。劇場の外の石畳はうっすらと濡れていた。
「どうだった?」
 返事は分かっているとでもいうような自信ありげな声で跡部が言う。
「いい舞台だった。あらすじは知っていたが、想像していたよりずっと面白かった」
「そのわりには小難しい顔してたけどな」
 いまだ冷めやらぬ舞台の熱気をまとった観客たちが出入口から吐き出され、三々五々に夜の街に散っていく。
「パブにでも寄っていくか?」
「いや、この時間だ。やめておこう」
「なら、車呼んで帰るとするか」
 電話をかけようと、跡部は携帯を取り出した。このまま帰ってしまうのは惜しい気がした。
「少し歩かないか?」
 思わずそう口に出していた。跡部は目を瞬かせた後、「いいぜ」と言って携帯を仕舞った。
 同じ舞台を見ていても、注目する部分は少しずつ違うようだった。笑ったところ、腹が立ったところ、不思議に思ったところ。答え合わせをするように感想を言い合う。跡部にとっては子供のころから何度も観た演目だったそうだが、いい舞台は何度観ても面白いのだと言う。
 目的地もなく歩いているうちに、テムズ川沿いの道に出た。対岸にロンドンアイ、道の先にはビッグベンも見える。建物を照らす照明が水面に反射して、やわらかい光を放っている。
「今日はありがとう。いい気分転換になった」
「なんだよ改まって」
 跡部は茶化そうとしたようだが、存外真剣な手塚の表情を見て足を止めた。
「俺様の息抜きに付き合わせただけだがな。気に入ったのなら、今後もお供させてやるぜ」
 どこまでも偉そうに跡部は言った。気を遣わせないようにという遠まわしな厚意。
「いや、今日みたいな良いチケットは、彼女と見に行ったほうがいいだろう」
 その単語を口にすると、ちくりと胸が痛んだ。数カ月前に跡部から話を聞いて以来、話題に出すのは初めてだった。跡部はきょとんとしている。
「彼女?」
「前に電話で言ってただろ。同じ学部の」
「なんだ、覚えてたのか」
「記憶力は悪いほうじゃない」
 手塚が不機嫌そうに答えると、跡部はようやく合点がいったという顔をした。
「もしかして、さっきからそれを気にしてたのか? その彼女なら、もう別れた。ってか、別れたって表現もおかしいな。何度かデートしただけで付き合ってたわけじゃねえから」 
 どう説明すればいいのかと、跡部は頭を捻っている。
 告白してから付き合い始める日本と、ひとまずデートしてから付き合うかどうか決める欧米との文化の違いは、手塚も知識として知っていたが、今の今まですっかり頭から抜け落ちていた。ただの早合点だった。その事実に言い知れないほどの安堵を感じている。
「とにかく、これからも友達でいようって話になったんだよ。『ケイゴは私をお姫様扱いしてくれるけど、私だけの王子様にはなってくれそうにないから』だってよ」 
「どういう意味だ?」
「さあな。ま、そんなわけで、しばらく女はいいかな」
 苦笑いしながら跡部は言った。
 しばらくとは、どのくらいの期間だろう。跡部なら望むと望まざるとに関わらず、またすぐ新しい女は寄ってくるだろう。そもそも相手は女とも限らない。そう思ったら黙っていられなかった。
「男ならどうだ」
「あん?」
「相手が俺ならどうだ」
 時間が止まったようだった。跡部は瞬きも忘れて手塚を凝視している。
 そのとき、すぐ近くで大きな鐘の音がした。ビッグベンが十二時を告げているのだ。跡部は我に返ったように時計塔を見上げると、鐘の音に負けないくらいの大声で笑いはじめた。手塚は咄嗟に跡部の口を手で覆った。
「深夜だぞ」
 くぐもった笑い声混じりの吐息が手のひらにぶつかる。跡部は手塚を睨みつけながら、口元から手を引き剥がした。
「これまで聞いたジョークの中で一番面白かったぜ。下手な慰めなら要らねえよ。そこまで気落ちしてねえからな」
 跡部は携帯の画面に視線を落とすと、くるりと踵を返した。 
「連絡がないから、近くで待機してるってよ。さあ、そろそろ家に帰るぜ、シンデレラ」
 来た道を引き返そうとするのを、腕を掴んで引きとめる。跡部が怪訝そうに振り返る。
「跡部。俺は、そういう冗談は言わない」
 自分にもまだ把握しきれていないこの気持ちを、どうすれば伝えられるのだろう。触れた皮膚から伝わる熱のように、感情もそのまま伝わればいいのに。
 跡部の瞳が揺れている。動揺、戸惑い。
「……一晩考えさせてくれ」
 跡部はそう言ったきり黙りこんだ。
 静まり返った帰りの車内は、ウインカーの音がやたら大きく聞こえた。窓ガラスに反射する自分の顔を眺めながら、今日の夜は長くなりそうだと思った。

 あれは、ようやく日射しに春の気配を感じるようになった頃。次はいつ会おうかと電話で話しているときだった。
「わりぃな。その日はデートの先約がある」
 跡部の口から何気なく発せられた言葉。それを聞いた瞬間、胸がスッと冷たくなった。唐突に自分の大切にしていたものを取り上げられたような気がして、跡部にも相手の女にも無性に腹が立った。我ながらあまりに身勝手だと思った。跡部は友人であって所有物ではない。誰と会おうと何をしようと、彼の自由だ。何度そう自分に言い聞かせても、焦燥感は消えなかった。
 その後も跡部は変わらず連絡を寄こした。恋人が出来たとしても友情は変わらない。言外に込められたメッセージに、嬉しさよりも虚しさが募った。一生気づかないままでいれば、こうしてやり切れない思いに苦しむこともなかった。でも、もう気づいてしまった。俺は跡部の友人以上になりたい。

  

  

 翌朝は夏らしい快晴の空が広がっていた。すれ違う使用人に挨拶を返しながら廊下を進みダイニングへ向かうと、跡部は紅茶を飲みながら新聞を読んでいた。先に食事を済ませたのかと思えば、手塚が起きてくるのを待っていたらしい。
 挨拶を交わしたきりの沈黙の中、これまた旅館で出てくるような立派な朝食を食べていると、跡部が箸を置くのが見えた。
「今日は何時頃こっちを発つんだ?」
「まだ決めていないが、夕方の便を取ろうかと考えている」
「そうか。それ食い終わったら、ウェアに着替えて玄関まで来い」
 手塚が意図を問うように首を傾げると、跡部は眉を顰めた。
「てめえが言いだしたんだろうが。デート、するんだろ?」
 屋敷から歩いて数分のところに、天然芝のグラスコートがあった。目の覚めるようなグリーンの芝生はよく手入れされていて、まるで庭園の一部のようだ。歩くたびに足元から緑の匂いがする。
「何セットマッチにする?」
「試合じゃなくて、軽くラリーしようぜ」
 デートと言うには、跡部はさっきからずっと険しい顔をしている。
 滑りやすい芝のコートに足を取られることもなく、跡部はボールを打ち返してくる。慣れているのだろう。返ってくる打球は一打一打が重い。
「いつからだ?」
 跡部が言う。お互い打ちやすい場所に返しているので、左右に走り込むこともない。表面上は穏やかなラリー。
「何が?」
「いつから好きだったんだよ」
 さすがにもう冗談とは思っていないが、納得もしていないらしい。だから、この表情か。
「分からない。気づいたのは、彼女の話を聞いたときだ」
「ハッ。そりゃ、ダチが取られるのが嫌なだけじゃねえのか?」
「最初はそう思った。というか、そう思おうとした」
 ボールが返ってくると、ほとんど反射のように体が動く。
「でも違った」
「根拠は」
「友達にキスしたいとは思わないだろう」
 珍しく打ち損じたようなボールが上がった。手塚は腕を伸ばして追いつくと、これまでと同じようにコートの中央に向けて打ち返した。
「何カ月も考えたうえで、こうして話してるんだ。俺はもう、後悔はしたくない」
 ラケットを握る手に力が篭る。いつの間にか、始めた頃よりラリーのペースは速くなっていた。跡部の唇が動くのが見えたが、声が小さくて聞きとれなかった。
「何だって? よく聞こえない」
「気づくのが遅えんだよ! 人がようやく見切りつけて、次に進もうとした時に!」  
 剛速球のダウン・ザ・ラインが手塚の脇を通り過ぎた。思わずボールを見送ってしまった。
 跡部は舌打ちした後、ポケットから新しいボールを取り出したが、手塚に構える様子がないのを見て真上に放り投げた。
「お前も同じ気持ちだったということか?」
 手塚はネット際まで来て足を止めた。跡部はまた舌打ちしそうな顔をした。
「俺のほうが、ずっと前から好きだったんだからな」
「……知らなかった。言ってくれれば良かったのに」
「脈ゼロの相手に気取らせるような真似するかよ」
 これ以上は堂々巡りだと気づいて口を噤んだ。跡部は射るような目つきで手塚を見つめている。
「今更やっぱり冗談だとか抜かすなら、一発殴るだけじゃ済まねえぞ」
 手塚はネット越しに腕を伸ばして跡部の頭を引き寄せると、唇に触れるだけのキスをした。
「これで信じてもらえるか?」
 至近距離から青い瞳を見つめ返す。跡部は目を丸くしていたが、すぐに挑発するように目を細めた。
「証拠には足りねえな」
 手塚はラケットをネットに立てかけると、跡部の顔を両手で挟んで、額に頬にキスの雨を降らせた。
「もういい! やめろ! 分かったって!」
 跡部はくすぐったそうに笑っている。ふわふわした温かい何かが胸の底から湧き上がってくる。おそらく、これが愛おしいということなんだろう。
 テニスさえあれば良かった。恋だの愛だのといった浮ついたものに、時間や思考を割いている暇はないと思っていた。試合中に感情をコントロールするのと同じように、無駄なもの、不要なものとして片付けて蓋をして。そうやって無意識のうちに抑え込んだ思いが、いつしかパンパンに膨らんでいたのにも、蓋が開くまで気づかなかった。絶対に失いたくない存在。これが愛というなら、俺にだって必要だ。
「誰かの跡部になる前に気づけてよかった」
「あーん? まだお前のものになるとも言ってねえけど?」
 そう言って跡部は首を傾げた。さっきよりもしっかりと唇を合わせてから手塚は言った。
「なってくれないのか?」
 跡部は唇を綻ばせると、堪えきれないというように大声で笑い出した。近くの梢から小鳥が数羽、驚いたように飛び立っていった。
「なってやるよ、お前だけの王子様に」
 跡部は手塚の顎に指を当てて、気障ったらしくキスしてみせた。
「よそ見すんなよ?」
「その心配はない。言っておくが、俺はお前とキス以上のこともしたいと思ってるからな」
 数秒おいて、跡部の首から上が真っ赤に染まった。
「てめえは、朝っぱらから何言ってんだ」
「夜ならいいのか?」
「このっ……、とっととドイツに帰れ!」
 羽でもついたように体も心も軽い。今ならいくらでも戦える気がする。
「帰る前に1セットやろう、跡部」
 パタパタとウェアの胸元を掴んで空気を送っていた手を止めて、跡部は破顔した。
「仕方ねえな。1セットだけだぞ」
 手塚の胸を拳で叩いて、エンドラインまで戻っていく。
「本気でやれよ」
「当たり前だ」
 青空に高くテニスボールが上がる。カンッと乾いた打球音が鼓膜を震わせる。世界で一番好きな音だ。跡部が放ったサーブを、手塚は全力を込めて打ち返した。

  

  

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