チョコレートキス

  

 学校を出てしばらく歩いたところで、黒い高級車がほとんど音もなく手塚の横に止まった。今日は跡部の家で夕食に呼ばれていたので、その迎えだった。パワーウィンドウを下げて顔を見せたのは、跡部の家への送迎でたびたびお世話になっている顔見知りの運転手だ。
「今日はこのまま氷帝の方に車を回します。少し用事があるもので」
 車に乗り込む際にそう説明されたが、用事とやらが何なのか、その時は深く考えもしなかった。
 6、7人は並んで座れそうなシートの真ん中あたりに腰を下ろし、通学カバンと紙袋を隣に置く。去年以上に沢山もらってしまったな、と手塚は紙袋を見下ろした。袋の中では、色とりどりの包装紙が車のかすかな揺れに合わせて小さな音を立てている。
 今年は下手な言い訳などせず、「付き合っている人がいる」と言って断わろうと思っていたのだが、数日前にその話をしたところ、当の跡部から却下を食らってしまった。
 跡部の言い分によれば、バレンタインというのは告白というよりも、チョコを渡すこと、受け取ることに意義があるらしい。
「てめえのことを思って選ぶなり作るなりしたチョコを突き返される相手のこと、考えたことあんのか? この日のチョコは単なる菓子じゃねえ。気持ちだ。それをちゃんと受け取れって言ってんだよ」
 手塚の数十倍はチョコを受け取っているだろう男からそう言われて渋々承知したが、そんな大事な気持ちだからこそ受け取れないのではないだろうか。少なくとも自分は、見も知らない何十、何百という好意を受け止める跡部の姿を見て、面白いとは思わない。出来ることなら見たくないとさえ思う。
 自分の矮小さに嫌気が差してきて、手塚は大きなため息を吐いた。

  

 校門付近に設けられた送迎車用の待ち合いスペースを通り過ぎ、車は直接学園の敷地内に入る。テニスコートの脇に車を止めると、運転手は車から降りて車体の後部へ回り込んだ。トランクを開けて何かを取り出している。
「これは……」
「チョコですよ。坊ちゃんからテニス部の皆さんへの」
 横からトランクの中を覗んできた手塚に、運転手が苦笑交じりに答える。トランクの中には大きな紙袋がいくつも積み込まれていた。その一袋一袋に綺麗にラッピングされた長方形の箱が、これまたぎっしりと詰まっている。予想もしていなかった光景に、手塚は目を見張った。跡部が大量のチョコを受け取るだろうことは想定していたが、まさかその逆もあるとは。
「すごい量でしょう? 坊ちゃんが一年生の頃からの恒例行事なんですよ。さてと、コートの方へ運んでしまうので、手塚様は車の中でお待ちください」
 これだけの量を一人で運ぶとなると、何往復かする必要があるだろう。
「いえ……、手伝います」
 手塚はどこか釈然としない気持ちを抱えつつも、学ランの袖を捲った。

  

「お? やっぱ手塚じゃん。この後デートか?」
 コートの入り口で運んできた紙袋を部員に渡し、車に戻ってきたところ、後ろから追いかけてきた向日が少し驚いたように声をかけた。
「そんなところだ」
「ははっ、それで巻き込まれてちゃ世話ないぜ」
 宍戸は笑いつつ、慣れた様子で紙袋を手に取った。二人とも運び出しの加勢に来てくれたらしい。それぞれ両手に紙袋を下げてコートに向かう。
「恒例行事だと聞いたが」
 手塚がそれとなく切り出すと、向日は「ああ、これ?」と手に下げた紙袋を軽く持ち上げた。
「一年のバレンタインの時期にさ、みんなで寄ってたかって跡部に『どうせ山ほどチョコ貰うんだろ? いいよな~、いくらか寄こせよ~』って言ってたら、よっぽど俺らがチョコに飢えてると思ったんだろうな。『人から貰ったものは渡せないから』って、跡部のヤツ、バレンタインの日に自分が準備したチョコ持ってきたんだよ。男テニ全員分の! それからなんやかんやで三年続いてるってわけ」
「いわゆる義理チョコってやつだな」
 と宍戸が要約する。
「え? 友チョコだろ?」
「あ? どう違うんだ、それ」
 そんな話をしながらテニスコート内に入れば、既にチョコの配布が始まっていた。コートの一角に簡易机が数台置かれ、その前に長い列が出来ている。一列に並んで跡部からチョコを受け取る姿は食料の配給か、はたまたアイドルの握手会か。跡部はこちらに背を向けているので、手塚たちには気付いていないようだった。

  

「俺、ついに三年連続で跡部からのチョコしか貰えなかった……」
 すぐ近くでチョコを手に持ち項垂れる部員たちの会話が聞こえてくる。
「俺も同じだっつうの! しかも、母ちゃんには、クラスの女子から貰ったチョコだってウソついてる……」
「おいおい、ポジティブにいこうぜ! 誰から貰おうとチョコはチョコだろ!」
「ちょっとちょっと何言ってんすか! むしろ、跡部さんからのチョコ、ってのに意味があるんでしょ~!? 去年、『跡部部長からチョコ貰ったー!』って自慢してたら、姉貴からもクラスメイトからもすげえ羨ましがられましたもん!」
「たしかに。普通は跡部から貰えねえもんなぁ」
「じゃあ、逆にラッキー?」
「何にせよ、めちゃくちゃ美味いよな、跡部んとこのチョコ……」
「さすが専属パティシエ……」
「今年はどんなチョコかな……」
 ほんの少し前まで悲愴な空気に包まれていた一団は、今では夢見る乙女のような顔をして箱の中身に思いを馳せている。中学生男子の複雑な心の機微を一瞬で絡めとるほど、跡部家のチョコレートは魅力的なものらしい。
「そうだ! せっかくだから手塚も一つ貰ってけよ」
 向日はチョコの袋を机の端に置くと、紙袋の中から無造作に一箱掴んで取り出した。
「いや、俺は……」
「なんだかんだ言いつつ手伝ってもらっちまったしな。どうせ多めに用意してあんだから、一個くらい取ったって構わねえよ」
 手塚が遠慮していると思ったのか、宍戸が言葉を重ねる。なんの悪気もなく言われてしまうと、意固地になって断るのも気が引けて、手塚は「それなら」と差し出された包みを受け取ってしまった。
 この場にラブロマンスの鬼がいれば、「あっかーん! 誰が人の彼氏に勝手にチョコ渡しとんねん!」と慌てて止めに入っただろうが、生憎と忍足は跡部の後ろで樺地と一緒にチョコ受け渡しの補佐に従事している真っ最中であった。
 手塚は手元のチョコを所在なく見つめていたが、ひとまずそれをポケットに仕舞い込んだ。

 およそ二百個のチョコを配り終えた跡部が車に乗り込む頃には、一旦空になったトランクは、今度は跡部が受け取ったチョコの山でいっぱいになっていた。詰め込み作業をしていた運転手から聞いた話だと、これは放課後に受け取った分で、昼休みまでに受け取った分は既にトラックで搬出済みらしい。手塚はそれが何トントラックだったかについては、あえて触れないことにした。
 トランクに入りきらなかったチョコが座席の上にまで積まれているせいで、車の中には甘い香りが充満している。青から徐々にピンクへと変わる空の下、車は跡部の家に向かって走りだす。
「ところで」
「あのよ」
 珍しく話し出すタイミングが被った。顔を見合わせていたら、跡部は少し笑って「なんだよ」と言った。
「さっき向日たちからチョコを貰った。お前が用意したものだから、一言断っておこうと思って」
 手塚はそう言って、学ランの内ポケットからチョコの箱を取り出した。跡部が分かりやすく不機嫌そうな顔になる。
「あいつら、勝手なことしやがって」
「駄目だったか?」
「ダメだ」
 跡部はすっぱりと答えた。意外な返答に手塚が目を瞬かせていると、跡部は小さく舌打ちした後、自分のカバンに手を伸ばした。
「お前には別に用意してあんだよ」
 跡部は妙に苦々しげにそう言うと、カバンの中から手塚が持っているのとはまた別の包装紙でラッピングされた箱を取り出し、手塚の胸元に突きつけた。
「……ありがとう」
 手塚は驚きつつも何とか礼を言って包みを受け取った。
 これまでも、それから今日だってチョコを受け取る場面は幾度もあったが、こうして跡部から直々に受け取ってみると全く違う感情が生まれるものだ。手塚にとっての跡部がそうであるように、跡部にとっての自分が特別であるという証を直接形としてもらったような、そんな気さえする。
 跡部は「どういたしまして」と、ぶっきらぼうに答えた。
「…………一応断っておくが、いろいろ調べて作ってはみたが、初めてだし、その、そんなに美味くはないかも知れねえ。ほとんど冷やして固めただけみたいなもんだし……」
 跡部は伏し目がちに言い訳めいた言葉を重ねた。跡部がこんなに自信なさそうに話すのを見るのは初めてかもしれない、と手塚は感慨深く思った。それより、
「自分で作ったのか?」
「だから、さっきからそう言ってんだろうが!」
「そうか」
「……なに笑ってんだよ」
 咄嗟に口元を手で隠したが、跡部の目は誤魔化せなかったらしい。馬鹿にしてんのか、と喧嘩腰に睨まれて、手塚は誤解がないように言い添えた。
「いや、嬉しい。開けてみても?」
 跡部は苦虫を噛み潰したような顔をして頷くと、手塚がラッピングを解いていくのを横から盗み見るようにして見守った。
 手のひらより少し大きいくらいの箱の中には、艶々としたチョコレートが6つほど行儀よく並んでいた。飾り気のないごくシンプルなソリッドチョコだ。作った人間の性格を表すように形の揃った中から一つを手に取ると、手塚はパクリと一口で口の中に入れた。
 横顔に穴が開きそうな視線が注がれている。手塚は目を閉じて舌の上で溶けるチョコを味わった。跡部のことだから、当然素材も良いものを使っているのだろうが、例えそうでなくとも特別な味がする。砕いた心を溶かして固めたような、そんな味だ。
「おいしい」
 手塚が小さく呟くと、跡部はようやく肩に入っていた力を抜いてシートの背もたれに寄り掛かった。
「不味いわけねえだろ、あーん? 俺様の手にかかれば、ざっとこんなもんだ」
 急に自信を取り戻したらしい跡部は、尊大に言い放った。あまりの変わり身の早さに笑ってしまう。
「お返しはホワイトデーに」
「言ったな? 今から一ヶ月後が楽しみだぜ」
 跡部が機嫌よさそうに目を閉じる。その一瞬の隙をつくようにして、差し当ってお礼代わりに、チョコ味のキスを跡部に贈った。

  

  

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