ファーストダンス
ホールに満ちるさざめきは、波のように広がっては高い天井へと吸い込まれていく。外はもうとっぷりと暗くなっていたが、眩いほどに明るい室内は時間の感覚を麻痺させた。煌めくシャンデリアの下、色鮮やかなドレスの裾が熱帯魚の尾ひれのようにゆらゆらと揺れている。まるで明るい海の底にいるみたいだ。
手塚がウィンブルドンで優勝したのは三日前のことだ。らしいと言えばそれまでだが、あの黄金に輝く優勝カップを受け取った時ですら、あいつは表情一つ変えなかった。それどころか、様々な意味で重たいはずのそのカップを、まるで手荷物か何かのようにひょいと小脇に抱えるものだから、呆れを通り越して笑ってしまった。あいつにとっては、この勝利も単なる通過点の一つに過ぎないのだろう。引き結ばれた口元から、ガキの頃からの口癖が聞こえた気がした。
かくいう今日の主役はホールの中央にいるらしい。ちょっとした人だかりが出来ている。急ぐこともない。ボーイから受け取ったロゼ・シャンパーニュを飲みながら、しばらくこの浮ついた空気を楽しむことにした。
意図しようとしまいと、その場にいるだけで目立ってしまうヤツというのはいるものだ。自分の知る中では、その最たる男が到着したらしい。男女を問わず吸い寄せられるような人々の視線を辿っていけば、大概あいつに辿り着く。
淡いシルバーグレーのタキシード。額が出るよう髪の毛を上げた姿は、最近になって時折見せるようになった。「若く見られるのも困りもんだよな」と、こちらの反応を窺うようにニヤニヤしながら言っていたのを思い出す。
視線に気づいたわけでもないだろうに、ふと人垣越しに目が合った。跡部はそれまで話相手に向けていたよそ行きの笑顔を崩して、軽く片手を上げてみせた。こちらが頷いたのは見えただろうか。跡部の姿は、あっという間に人の背に隠れて見えなくなった。
檀上に立った手塚は流暢なドイツ語でスピーチをしている。今日はそこまで堅い集まりではないはずだが、ヤツの話はどこまでいっても真面目一辺倒だった。これで軽いジョークでも挟めれば満点なのにな。
黒い燕尾服を着こなし堂々と話す姿には、日本にいた頃、細腕と揶揄された面影はもはや跡形もない。なんとなく張り合っていた背丈は、結局、手塚に軍配が上がる形で決着した。別に悔しくもなんともなかったが、あいつが妙に嬉しそうにするものだから、なんだか腹が立ってきて、その日は丸一日こき使ってやった。見た目ばかり大人になって、中身は案外子供のままなのだ。言ったところで、それはお互い様だとでも言い返してくるだろうが。
大きな拍手を受けてスピーチが終わると、賑やかな生演奏が始まった。
周りにいた女性たちが、慌ただしくドレスの裾を払ったり髪飾りの位置を直したりしている。ファーストダンスの相手を狙っているのだ。モテるわりに浮いた話の一つも聞かないので、これがチャンスと思われているのかも知れない。手塚はというと、何かを探すように会場を見回している。てっきり困ったような渋い顔をしているものと踏んでいたので、拍子抜けしてしまった。
なんだ、いたのかよ。こんな場面でファーストダンスを踊る相手が。その手の話になると、いつもはぐらかしてたくせに。薄情じゃねえの。
そんな心の声が届いたのか、ばっちり目が合ってしまった。胸の中がざわりと波打つ。手塚が一瞬だけ見せたホッとしたような表情の意味を、まさかと思うより前に確信していた。
手塚はステージから降りると、まっすぐ目標物に向かって歩き始めた。会場が俄かに色めき立つ。人の波を割るようにして近づいてくるのを、まるでモーゼじゃねえのと笑い飛ばしてやりたいのに、体は指先一つまともに動いてくれなかった。心臓だけが馬鹿みたいに暴れている。視線を逸らすタイミングなど、とっくに逃していた。
ついに真正面に立った男を、跡部は呆然と見つめた。分厚い水の膜を隔てたように喧噪はどこか遠く、不明瞭だった。さっきから首元のタイが苦しくて仕方ない。
「踊ってもらえるだろうか」
その膜を突き破って手塚の声がする。こんな時ばかり僅かに微笑んで。
どう返せばいいか分からず、唇の隙間からは震えるような吐息だけが漏れた。なにせ、ダンスに誘った経験なら数え切れないほどあれど、誘われた経験なんてあるはずもない。ただ、気づいたときには、条件反射のように差し出された手に右手を重ねていた。
「何考えてんだ、てめえはよ!」
ガンガンガンと叩きつけるようなノックの音とともに現れた跡部は、手塚がドアを開けるなり、そう怒鳴りつけた。綺麗に整えられていた髪を乱暴に掻き乱しながら、手塚の横をすり抜けて部屋に押し入る。室内を鋭く一瞥し、目についたイージーチェアに墜落するように座り込むと、跡部は両手で顔を覆ったまま動かなくなった。手塚は少し悩んだ末、刺激しないよう一定の距離を保って立ったまま、跡部が話し出すのを静かに待った。
しばらくして、跡部の口から深呼吸にも似た重いため息が零れ落ちた。
「……誰と何喋ったか、一つも思い出せねえ……」
「飲み過ぎじゃないか?」
失言に気づいた手塚が何か言う前に、跡部はすらりとした指の間から凍てつくような青い瞳だけを覗かせた。
会場の窓ガラスを粉々に割らんばかりの黄色い悲鳴を浴びながら一曲踊る間、跡部は一言も口を利かなかった。アイコンタクトすら拒むようにツンと逸らした横顔からは何の感情も読み取れず、手塚を少し不安にさせた。それでも、あの頃と変わらず美しいワルツは健在で、見る者をあっと言う間に虜にしてしまった。
鳴り止まない拍手の中、よろめくように体を離した跡部に「また後で」とホテルとルームナンバーを告げたときは、ちゃんと聞こえているか疑わしかったが、こうして乗り込んできたということは、耳には入っていたらしい。もっとも、後になって調べてきたのかも知れないが。
「……何か頼むか」
沈黙に堪えかねて、手塚はルームサービスのメニューを手に取った。
「エゴン・ミュラー。シャルツホーフベルガーのアイスヴァイン」
跡部は僅かに顔を上げると、メニューリストではなく手塚の目を見つめて言った。淡々とした言い方だった。
「……正気か?」
「トロッケンベーレンアウスレーゼでもいい」
「分かった、アイスヴァインだな」
跡部の気がまずい方向に変わらないうちに、手塚は急いで内線の受話器を取った。
バトラーからのサーブの申し出を丁重に断り、チップを手渡すと、手塚はドア越しにボトルやワイングラスを載せたトレーだけを受け取って踵を返した。黙ったままの跡部の前にグラスを置き、ワインを注ぐ。立ち上る香りは場違いなほど甘たるかった。
自分のグラスにも注ごうとしたとき、その動きを制止するように跡部が手を伸ばした。
「おめでとう」
手塚の手から攫うようにして受け取ったボトルを傾けながら、ふいに跡部が言う。何のことか分からず固まっていると、跡部はようやく笑みを見せた。
「なに変な顔してんだよ。直接言ってなかっただろ。……お前ならやると思ってたぜ」
跡部はボトルを置くと、代わりにグラスを手に取って、目の高さに掲げた。一つ頷いて、手塚も同じようにグラスを持つ。
「Zum Wohl」
「……Zum Wohl」
瞳を合わせたままドイツ流の乾杯をして、淡い琥珀色のワインを喉に流し込む。しばらく沈黙があった。跡部は目を伏せると、ゆっくりとグラスを回しながら口を開いた。
「……冗談にしちゃタチが悪いが、今回はこれに免じて許してやる」
「冗談?」
「ゲストも喜んでたようだし、余興としては盛り上がったんじゃねえの? 何の断りもなく巻き込まれたのは気に食わねえが、祝いの席のことだ。俺様の度量の広さに感謝するんだな、手塚」
「本気で言っているのか?」
声が低くなるのは止められなかった。跡部は動じる素振りもなく顔を上げた。
「てめえがどういうつもりかは、この際どうでも良い。水に流してやる、っつってんだよ」
「そんなこと、俺は頼んでいない」
「じゃあ、どうしろってんだよ!」
声を荒げる跡部に対して、手塚はゆっくりと立ち上がった。跡部の目が警戒するようにその動きを追う。
「俺がどういうつもりか、聞く気はないのか?」
手塚は努めて穏やかな口調で言った。逃げないように、囲いこむように、ソファの肘掛けに両手をつく。グラスを持つ跡部の指が微かに揺れて、ワインの表面に琥珀色のさざ波を立てた。
「ハッ、興味ねえな」
頑なな跡部の態度に、手塚は小さくため息をついた。
あの日から十年経っていた。まさに今これから、良い友人を一人失うかも知れないと思うと身が竦んだが、それでも手に入れたいものがあった。覚悟を決めるように息を吸い込む。
「誤魔化すのは今日で終わりにする。跡部、お前が好きだ」
跡部が目を見開く。その頬が酔いが回ったわけでもないのに薔薇色に染まっていくのを、手塚はどこか勝ち誇ったような気持ちで見下ろしていた。
「あの場面、お前ならそれこそ冗談にして断ることも出来ただろう。でも、そうはしなかった。俺は、自惚れてもいいのか?」
薄く水を張った青い瞳が、水面のように光を反射して煌めいている。そこから何かが跳ね出てくるのを信じて待つように、手塚は息を殺した。
「……ずいぶん上達したじゃねえの」
脈絡もなく、ぽつりと跡部が言った。
「リードに迷いが無くなった。俺様としたことが、すっかり踊らされちまった」
跡部は苦々しくそう言うと、降参だとでもいうように両手を上げた。手塚は跡部の手からワイングラスを取り上げると、自分の分と一緒にサイドテーブルの上に置いた。
「跡部。出来るなら、この先もずっと、ファーストダンスの相手はお前がいい」
畳みかけるように言葉を重ねながら、ゆっくりと顔を近づける。
「難しいことは言わない。一言で良い。YesかJaで答えてくれ」
どっちも同じじゃねえか。
ツッコむのも癪なので、跡部は何も言わずに瞳を閉じて、数秒後に訪れるだろう甘い口づけを待った。