FONDANT

  

 バレンタイン直前の日曜日、いくつかある跡部の家のキッチンの一つは、さながらチョコレート工場となっていた。甘い香りの充満する室内では、何人ものパティシエがきびきびと動き、大量のボンボンショコラを仕上げていく。整然と並ぶチョコは、その一粒一粒がまるで芸術作品のように繊細な造りをしている。
「ショコラティエに注文してもいいんだが、手作りのほうが喜ばれるからな。家で作るようにしてる」
 そのキッチンの一角で、跡部はエプロンの紐を首に通しながら言った。
「いつも一緒に作ってるのか?」
「あーん? んな訳ねーだろ。今日は特別だ」
 手塚はそれは手作りと言うのだろうかとは思ったものの、口には出さなかった。
 用意した材料を前に、跡部は気合いを入れるかのようにシャツの袖をまくった。並んだ器の中にはバター、丸くて平べったいチョコの粒、グラニュー糖に小麦粉、それから卵。
「何を作るんだ?」
「当ててみな」
 跡部はそう言って笑うと、湯を張った鍋の上にバターの入ったボウルを置いて溶かし始めた。大半のバターが溶けたところで、チョコの粒をざらっと入れる。ヘラで混ぜていくうちに、二つの材料は艶のあるチョコレート色の液体へと変わっていった。跡部が思いのほか真剣な顔をしているのを見て、手塚は黙って作業を見守ることにした。
 別のボウルに卵を割りいれ、泡だて器で溶いてグラニュー糖を加える。シャカシャカと卵と砂糖の混ざる音。ふと視線を感じて顔を上げると、パティシエたちが作業の合間にチラチラこちらの様子を窺っている。今日のレシピは彼らに習ったのだろうとは、すぐに察しがついた。まるで子供の発表会を見守る親のような眼差しだ。
「なにか手伝おうか?」
「いいから座ってろ」
 溶けたチョコの入ったボウルに卵液を少しずつ注ぎ、最後に薄力粉を振るいながら加えると、もったりした生地らしきものが出来上がった。
「ガトーショコラ?」
「はずれ」
 跡部は内側にクッキングシートを敷いた銀色の小さな筒(セルクルと言うらしい)に先ほどの生地を流しこむと、オーブンの中に入れた。焼き時間は随分短い。
「フォンダンショコラ。せっかく家に来るなら、出来立てを食べさせてやろうと思って」
 オーブンを覗きこんでいた跡部は、手塚のほうを振り返って表情を弛めた。どうやら出来は上々らしい。
「盛り付けたらすぐ持ってくから、先に部屋で待ってな」
「ここで食べてもいいか?」
 手塚の提案に跡部は目を瞬かせた。
「別に構わねえけど」
 訝しげに首を傾げながら跡部が言う。オーブンからはチョコレートの焼けるいい匂いがする。この空間にいると服にまでチョコの匂いが染みつきそうだが、今日くらいはそれもいいかと思った。
 焼きあがったばかりのショコラを型から慎重に取り出して皿に載せ、仕上げに粉糖を振りかければフォンダンショコラの完成だ。
「いただきます」
「召し上がれ」
 フォークを入れると、中からとろりとチョコレートが溶けだした。一口すくって口に入れるなり、手塚はギュッと目を瞑った。
「熱っ」
「ははっ、ばーか!」
 口を覆って涙目になっている手塚を見て、跡部は大声を上げて笑った。が、笑いながらもすぐにコップに水を入れて手塚に手渡した。水を飲んで少し落ち着いたところで手塚は言った。
「でも美味い」
「そうかい。そりゃ良かった」
 跡部はホッとしたようにそう言ってから、何かに気づいたみたいに勢いよく後ろを振り返った。それまで手を止め耳をそばだてていたパティシエたちは、何食わぬ顔で作業を再開している。
「やっぱ部屋で食べようぜ。俺も食う」
 跡部はそう言って、自分の分を皿によそった。それでも天板の上には、あと何個もショコラが残っている。
「ああ。しかし沢山作ったな」
「余ったら持って帰れよな」
「そうさせてもらう」
 特別に熱いチョコレートのおかげで、腹の底がじんわりと温かい。キッチンを出る際、ニコニコと会釈するパティシエたちに、跡部はどんな表情を返していたのだろうと想像してみる。前を歩く跡部の髪からは、いつもの香水ではなくチョコの甘い香りがした。

  

  

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