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 ロサンゼルスを発ったのが、現地時間で深夜零時を回る頃。そこから十二時間のロングフライトを終え、羽田に着いたのが今日の早朝。
 わざわざ一日二便ほどしか飛ばない羽田便を選んだのは、ひとえにそちらの方が家まで近いからだ。半日も窮屈なシートに押し込まれた挙句、一時間以上かけて電車を乗り継いで帰るなんて冗談じゃない。同じフライト時間なら断然、成田より羽田。極力無駄なエネルギーは使わない主義なのだ。ほら、時代は省エネって言うし。
 自宅の最寄り駅に降り立つと、越前はラケットバッグを背負い直した。服くらいしか荷物の入っていないスカスカのキャリーケースを引いて歩きだす。久しぶりの日本の我が家だ。広い湯船にのんびり浸かったら、そのまま冷房の効いた部屋に寝そべって、日がな一日ゴロゴロしていたい。母さんが抹茶アイスなんて買っておいてくれたら言うことないな……。
 そんなささやかな望みを打ち砕かれたのが、つい一時間ほど前。実家から締め出しを食らい、あてもなく街中をさまようこと少々。そこで何の因果か、ここに居るはずのない人達に次から次に出くわし。そして、今――。

「なかなか良い部屋じゃねえの」
 リビングの中央に立ってぐるりと部屋を見回すと、跡部は満足気に言った。
「和室からすぐバルコニーに出られるのか、なるほど」
 さっきから目についた扉を手当たり次第に開けているのは真田だ。
「……それは災難だったな」
「うちの両親、いつもそんな感じなんで」
 ここまでの経緯を掻い摘んで手塚に説明すると、越前も手近にあったドアを開けてみた。おっ、バスルームだ。結構広い。
「いかがでしょう?」
 この蒸し暑い中、きっちりとスーツを着込んだ日本のサラリーマンの鏡みたいな営業マンが、にこにこと声をかける。この際、少し目が泳いでいるのは見なかったことにしたい。おそらく、この四人組がどういう関係か量りかねているのだろう。
 これは絶対、年齢不詳が若干名いるせいだと思う。四人中三人は同い年のはずだが、到底そうは見えない。もっとも、どういう関係か尋ねられたとしても、一言じゃ説明できそうにないんだけど。
「手塚! ここで良いよな?」
 くるりとこちらを振り向いた跡部が、決定事項を確認するような口ぶりで言う。
「うむ、かまわんぞ!」
「てめぇには聞いてねえだろ、真田ぁ!」
 大人げなく騒ぎ始めた二人を見て、少し不安になってきた。
「……大丈夫っスかね。この四人で一緒に住むとか」
「まあ、なるようになるだろう」
 手塚はすべてを達観したかのように言った。このどっしりとした態度、さすが数年前からプロとして世界を回っているだけのことはある。――いや、この人は中学の頃からこうだったか。顔も態度も。
「よし! そうと決まれば、お前ら、早速取りかかるぞ」
 いつの間に仲直りしたのか、笑いながら真田と話していた跡部はそのままの表情で言った。
「取りかかるって、何に?」
「決まってんだろ。引越しだ!」

 カラカラと氷を鳴らしながら、手持ち無沙汰にアイスコーヒーをかき混ぜる。隣では、跡部が営業担当と和やかに談笑している。
 ふらりと下見に行ったマンションだったが、跡部はその物件で即決すると、真田には今の賃貸の解約手続きと引越し準備を、手塚には自宅に帰って荷造りをしてくるよう言い渡し、その場は一時解散となった。越前をお供に不動産屋に戻った跡部は、恐ろしいほどの手際の良さで契約手続きを進めている真っ最中だ。
 住民票に印鑑証明、跡部の祖父を保証人とする書類一式。極めつけは敷金、礼金、それからとりあえず二か月分の家賃を一括で、と差し出したブラックカードである。
 いくらなんでも即日入居とは行くまいと考えていた越前は、急いで大家に電話を掛けはじめた営業マンを見て、ひとまず今日の宿の心配はしなくてすみそうだと思い直した 。

「ええ、東京でフィールドワークを行おうと思いまして。久しぶりに日本へ」
「イギリスの大学も夏休みでしょう? まったく、勉強熱心でいらっしゃる」
「それが学生の本分ですから」
 そう言って、跡部は品よく笑った。嘘か本当か分からないが、よくもこうスラスラと言葉が出てくるものだ。しかし、あの暴君のごとき跡部が、こんな風に敬語を操る姿を見る日が来ようとは。新鮮すぎて、まるで別人のようだ。妙な居心地の悪さを感じて、ズズっと音を立ててストローを啜った。

 ほどなくして書類の確認が済み、入居に関する一通りの説明を聞き終えると、さっそくマンションの鍵を受け取り外に出た。昼過ぎに一度集合することになっている件のマンションまでは、ここから徒歩圏内だ。すっかり高く上った太陽からの下を、なんとなく黙って歩く。強い日差しが剥き出しの肌をチリチリと焼いて、少し痛い。
「ったく、蒸し暑いな」
 言葉につられて、隣を歩く跡部を見る。白い首筋を汗が一筋伝い落ちていった。ほんの僅かにフゼア系の清涼感ある香りがする。
「……すげえ準備よかったじゃん」
「あん? ……ああ、いい物件があれば、すぐ契約するつもりだったしな。事前に書類を揃えておいて正解だったぜ」
「ふーん」
 日差しを避けるように、被っていたキャップのツバを少し下げる。
「ねぇ。俺、お邪魔虫だった?」
 視線は感じるものの、跡部の歩調は緩まない。蝉の鳴き声と、キャリーケースを引く音が、妙に耳につく。
「もしかしてさ。アンタ、部長と」
「越前」
 話を遮るように呼びかけて、跡部が急に立ち止まった。
「ちょっと涼んでいかねえか?」

 跡部が指差したのは、ショッピングピンクを基調とした可愛らしい内装のアイスクリーム屋だった。一般的な日本人からすれば、男二人で涼みに入るには少し勇気が要る店構えだったが、幸か不幸か二人ともその辺りの感覚は持ち合わせていなかった。
「すげえ種類だな……」
「え、もしかして初めて来たの?」
「悪いかよ」
 そう答えながらも、跡部の目線はショーケースの中に並んだカラフルなアイスに釘付けだった。長ったらしいアイスの名前を真剣な顔をして見比べている姿は、まるきり小さな子供みたいで、少し笑える。
 結局オーダーを任された越前は、自分用に抹茶のトリプルを、跡部にはわざとファンシーな見た目のアイスばかりを三つ選んだ。山盛りのアイスが乗ったコーンを持ってカウンター席の端に陣取る。荷物を出来る限り壁に寄せて置くと、溶けないうちにと二人で黙々とアイスを口に運んだ。
 体が冷たいものを欲していたとはいえ、この甘たるさは逆効果だったかも知れない。食べ終わったら余計に喉が渇くだろうな、と越前は漠然と思った。
 跡部はと言えば、特にあの弾けるキャンディーが入ったアイスがお気に召したらしい。ひとくち口に運んでは、時おり長い睫毛を忙しなく瞬かせているのを見ると、だいたい今、弾けたんだろうな、というタイミングが分かって面白い。あ、ほらまた。パチ。パチパチ。

「別に邪魔だなんて思ってねえよ」
 三分の二ほど食べ終えた頃だった。手元のアイスから視線を上げて、唐突に跡部が言った。うっかり真正面から目が合って、越前の動きが止まる。
「一人じゃ暇を持て余すと思ってな」
 様子を窺うように視線を外さぬままコーンを齧る越前に、跡部は悪戯めいた笑みを向けた。
「いっそ、家から猫でも連れてこようかと考えてたところだ。ちょうどいい」
「俺、ペット扱い?」
 思わず肩の力を抜くと、越前はげんなりした顔を作ってみせた。
「心配すんな。ちゃんと面倒みてやるよ」
「……ヨロシクオネガイシマス」
 一応の礼儀としてぺこりと頭を下げる。跡部は声を上げて笑った。
「で? 言いたいことはそれだけじゃねえんだろ。どうした? さっきから、妙に大人しいじゃねえか」
「それは……、だって、」
「ん?」
 話を促すように跡部はわずかに首をかしげた。その目があんまり柔らかいので、越前はますますどう答えたものか困惑した。
「アンタが、なんか、別人みたいだったから……」
 言い淀んで口を閉じる。それ以上は、この心の中のもやもやしたものをどう表せばいいのか、自分でもよく分からなかった。
「イテッ」
 反射的に声が出た。
「三年ぶりだぞ。変わってねえ方が可笑しいだろ」
 痛む額をさすりながら顔を上げると、デコピンを食らわせた当人は涼しい顔で言葉を続けた。
「ただ、お前が思ってるほどには、本質的なところは変わらねえんじゃねーの? 俺もお前も、もちろんアイツ等もな。それに、人間、他人の変化には敏感だが、自分のこととなると案外気付かねえもんだぜ」
 言いながら、やにわに越前の帽子を取り上げて自分の頭に被せると、跡部は立ち上がった。
「お前だって、この三年で変わったのは見てくれだけじゃねえだろ?」
 この人には、相手の胸の中が透けて見えてでもいるんだろうか。
 さっきからなんとなく感じていた居心地の悪さの正体は、子供の自分が一人だけ置いていかれたような不安や焦りだったのだと、今ならはっきり言える。
 でも、そんな形さえおぼろげだった感情は、名前を与えた瞬間にお払い箱にしてやった。だってそんな思い、抱えてるだけ無駄だから。誰にとっても同じだけ時は流れるし、俺と先輩たちの間にある年の差は、これからいつまでだって縮まることはない。テニスでなら、そんな差、すぐに飛び越えてやるんだけどさ。

「ま、少なくとも背に関しちゃ、俺様に比べれば『まだまだ』だけどな」
「……にゃろう」
 帽子のツバを指で摘まんでわざとらしくポーズを取った跡部を、越前は悔しそうに見上げた。いまだ十センチはありそうな距離が、今はただもどかしかった。
「いい加減返してくれない?」
 手を伸ばすと、跡部はひらりと身をかわした。そのまま越前のキャリーケースを引いて、すたすたと歩き出す。
「ちょうどいいサイズだな。借りるぜ」
「ちょっと! 俺、まだ食べてるんだけど!」
 慌ててラケットバッグを背負って後を追う。店を出てすぐのところで追いつくと、跡部は思い出したように立ち止まった。
「忘れるとこだった。ほらよ」
 振り向きざまに投げられたものをとっさに掴む。掌を開くと、さっき不動産屋で渡された四つの鍵のうちの一つが、陽の光を反射してチカっと光った。
「……ども」
 越前は、それを無造作にズボンのポケットに突っ込んだ。アイスに噛り付きながら、黙って目的地を目指す。ポケットの中で、チャリチャリと金属の擦れる音がする。沈黙はもう気詰まりではない。

「跡部さん」
 なんとなく跡部の少し後ろを歩いていた越前は、ふいに足を止めて言った。
「喉渇いちゃった。炭酸飲みたい」
 自販機を指差して言うと、跡部は機嫌よさそうに笑った。甘えられるのが好きなんて、俺にはちょっと分かんない。
「図々しい猫を拾っちまったもんだぜ」
 口先だけはしっかり文句を言う跡部に、ひと声、猫の鳴き真似をしてやった。

 マンションの入り口に着くと、エントランスの日陰に納まるようにして手塚と真田が立っていた。
「随分早かったじゃねえか」
「だいたいの荷物は纏めてあったからな。そちらの首尾は?」
「もちろん」
 手塚からの問いにニヤリと笑うと、跡部は二人にもそれぞれ鍵を放った。
「真田さん、それ何?」
 真田の背中の風呂敷と、地面に置かれた遠征に使うようなボストンバッグを見て、越前が尋ねる。
「ん? 引越し荷物だが?」
「おい、まさかそれで全部とは言わねえだろうな」
「そうだが?」
 ひとまず部屋に入って、真田の荷物を検める。ラケットなどのテニス用品、教科書や参考文献をはじめとした勉強道具に、タオルと洋服が少し。それから、これは調理道具と呼んでいいものか、ヤカンと急須と湯呑が一つ。
「……随分少ないな、真田」
「家具は全て備え付けだったからな」
「これだけで生きてけるのかよ……。てめえ、実は野武士か?」
「結構当てにしてたんスけど、日本唯一の一人暮らし」
 手塚は、はあと溜息を吐くと、フローリングから立ち上がった。
「お前たち、出かけるぞ」
「あん? 出かけるってどこへだよ?」
 あれ、なんだろう。すごいデジャブ。
「決まっているだろう。買い出しだ」

 それから昼食もそこそこに大型インテリアショップへ赴き、テーブル、ソファ、本棚など大きな家具類を選ぶと、次は電気屋、雑貨屋というように、まさに飛ぶように買い物をして回った。
 一日でこんなに高額な買い物をしたのは初めてだ。越前は、次第に金銭感覚が麻痺していくのを感じていた。しかし、お坊ちゃま育ちの跡部は違ったらしく、再々「こんなに安くて大丈夫か?」と小声で手塚に確認しては、適当に宥められていた。
 お互いの趣味嗜好の違いにより、途中何度か大きな論争を繰り広げつつも、どうにかあらかたの買い物を終えると、跡部の家のトラックで荷物を搬入していく。
 リビングの家具の配置で再度揉めたり、組み立て式の家具で手塚の意外な特技が発揮されたり、跡部のキングサイズのベッドが玄関を通らず右往左往したり……。
 そうこうするうち、あっと言う間に日は暮れていった。

「越前、もう一杯もらえるか?」
「ウィッス」
 手塚の差し出したマグカップに、越前は手元の急須から緑茶を注いだ。
 目の前では真田と跡部が、ぼんやりと椅子に凭れている。それもそのはず、ここまで休憩なしの怒涛の引越し作業で、どうにか住環境を整えたのである。半日で終わったのが奇跡だ。
 まさかロスを出発する時には、自分が二十四時間後には、このメンバーと一つ屋根の下で暮らす事態になっているなんて思ってもみなかった。人生って何があるか分かったもんじゃないな、と悟りにも似た気持ちになる。長い一日だった。もう、とにかく眠い。眠いのだが。
 ぐう、と言葉よりも早く、お腹が訴えを起こした。
「そういや腹減ったな……」
 冷やかすでもなく、今やっと自分も思い出したというように跡部が呟く。
「どこか食べに出るか?」
「もう俺、一歩も動きたくないっス」
 真田の言葉に、テーブルに額を乗せて越前は答えた。
「じゃ、デリバリーにするか」
「ピザとかカレーとか、そういう重いのパス」
 跡部の提案にも首を振る。我ながら駄々っ子のようなことを言っている自覚はあるが、疲労と眠気のせいで、それどころではない。
「何を言っているんだ、お前たち」
 マグカップを置いて、手塚は不思議そうに口を開いた。
「こんな日には、引越し蕎麦だろう」
 しばらく三人とも無言になる。蕎麦。蕎麦か。
「うむ」
「そうだな」
「意義なーし」
 今日初めての全会一致が得られた瞬間であった。
「この近くで出前やってる蕎麦屋は……、と」
 さっそく携帯を取り出して調べ始めた跡部の横で、真田は自分の湯吞に茶を継ぎ足した。
「おっ!」
「どうしたよ、真田」
「見てみろ」
 差し出された湯呑を揃って覗き込む。湯呑の真ん中に、きれいに一本、茶柱が立っていた。思わず顔を見合わせて笑う。なんだかんだ言いつつ、幸先は良さそうだ。

  

  

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