味噌汁闘争

  

 閉じた瞼を貫くまぶしさに、越前は泣く泣く目を開けた。
 昨晩、茹だるような蒸し暑さの中、少しでも風を取り込もうと全開にした窓からは、すっかり顔を出した太陽が容赦ない光線を浴びせかけている。
 じゃんけんで勝ち取った東向きの一室は、日当たりも窓からの景色も申し分ない。ただ、この時期に選ぶものでは無かったかも知れない。そよとも揺れないカーテンを恨めしげに眺める。
 重力に抗ってどうにか起き上がると、ふらふらと廊下の突き当たりへと向かった。いまだ力の入らない手で、リビングに繋がるドアノブを引く。途端、視界に飛び込んできた室内の眩さに、越前は目を細めた。

「おせえぞ、寝坊助」
 カウンターに凭れていた跡部が、振り向いて笑う。
 言い返すのも億劫で、今や定位置になりつつある窓際の席にどっかり腰を下ろした。
「おはよう、越前」
「オハヨーゴザイマス……」
 朝食を済ませ新聞を読んでいた手塚が紙面から顔を上げて言うのに、なんとか挨拶を返す。
「顔くらい洗ってこいよ。真田なんて、とっくに飯食って出かけたぞ?」
 いつの間にかキッチンに入っていた跡部が、小言を言いながら戻ってきた。
 お盆に載せて運んできた朝食が、トントンと小さな音を立てて越前の前に並べられていく。
 鯵の西京焼き、牛蒡と人参のサラダ、オクラと鰹節の乗った冷奴に、大根おろしを添えた出汁巻き卵、白いご飯。
「………」
 どう考えても、料理の腕が日に日にレベルアップしている。それも、尋常でないスピードで。目の前に並ぶ料理をまじまじ眺めていた越前は、顔を上げ、今日初めてまともに跡部の姿を見た。
 黒のTシャツに、細身のブラックデニム。飾り気のない洋服だが、着ている本人が充分すぎるほどキラキラしているので、これくらいシンプルでちょうど良いのだろう。問題は、その上に身につけている白いアレだ。
 張りのある上質な綿素材のフリル。腰の後ろできゅっと結んだリボン。構築的なデザインと着ている跡部のあまりに堂々とした態度が相俟って、そのままランウェイに現れても可笑しくない気さえする。ディオールの今年の春夏物だ、とか言われたら、うっかり信じてしまいそうだ。……いやいや、やっぱり可笑しいでしょ。
 なにせ、ここはパリコレの会場でもなければ、跡部が身につけている白いのはハイブランドの新作でもなんでもなく、正真正銘のエプロンドレスなのである。そう、よくメイドさんが身に着けているアレだ。
「ああ、味噌汁は温めなおしてるから。先に食ってろ」
 純白のエプロンドレスが、朝の白い光を反射して眩しく輝く。
 視線の意味を勘違いした跡部がそう言ってキッチンに戻っていくのを見送りながら、越前はこの奇妙な状況に至る一週間前の出来事を思い返していた。

  

「おい。文句があるなら、口に出して言え」
 引越しの翌朝。これまた前日に開催されたじゃんけん大会で決まった当番制により、朝食係一番手となった跡部は、むっとした顔を隠しもせずに言った。
 テーブルの上には、炊きたてのご飯、ベーコンエッグ。それから、大根と豆腐の味噌汁。
 和食派の三人を気遣った献立なのだろう。和と洋のごった煮感は、むしろ「ザ・日本食」という感じがする。
 今現在も寮暮らしで自炊はしたことがない、という発言には正直どんなものが出てくるかハラハラさせられたが、二十歳そこそこの男が作る料理としては上出来だろう。百点満点とは言わずとも、かなり良い線を行っているはずだ。ただ、
「文句ってほどじゃないけど、このお味噌汁……、ちょっとしょっぱくない?」
「うむ。どことなく、香りも薄いような……」
 お椀を手に首を傾げる越前と真田に、跡部が怪訝な表情を浮かべる。
「跡部」
 黙って味噌汁を啜っていた手塚が、静かにお椀を置いた。
「これは、どうやって作ったんだ?」
「どうやってって……。大根は水から煮たし、味噌も分量通り入れたぜ?」
「なるほど。それで? 粉末でも顆粒でも構わないが、出汁は取って入れたのか? 味噌を入れた後に沸騰させたりしていないか?」
 手塚の指摘通りだったらしく、跡部が悔しげに唇を引き結んだ。しかし、いくら他人にも自分にも厳しい手塚と言えど、朝っぱらからここまで遠慮なく駄目出しするものだろうか。意外と食には煩いのか。
「味噌汁の作り方など、小学校の家庭科でも習う基本中の基本だと思うが」
 いっそ挑発とも取れる手塚の発言に慌てたのは真田だ。
「ま、まあ、手塚。そこまで言わずとも良いではないか!」
「そうっスよ! それに、跡部さんも帰国子女じゃん。俺だって、味噌汁の作り方とか習ってないっスから。知らなくても仕方ないっスよ、ね!」
 ギリギリと歯軋りが聞こえてきそうな跡部の顔を見て、越前までも普段ならするはずのないフォローに回る。このままでは、ちゃぶ台返しならぬダイニングテーブル返しでも起きかねない雰囲気だった。そんな修羅場、誰だって朝から見たくない。
「……そうだな」
 手塚は頷いて、再び箸を取った。
「誰でも得手不得手があって当然だ。今度から食事は俺が作ろう」

 ダン!!

 跡部が掌をテーブルに叩きつけた瞬間、真田と越前はごはんと味噌汁の器を両手に持って避難させた。
「ハッ! 上等じゃねえの……」
 ゆらりと跡部が立ち上がる。それから凶悪な笑みを浮かべ、まっすぐ手塚を指差すと、こう宣言した。
「手塚ァ! テメエに、絶対! 俺様の作った味噌汁が毎日飲みたいって言わせてやる!!」

「えっと、跡部さん? それって……」
「む? 妙に聞き覚えのあるフレーズだな?」
 言いよどむ越前の斜向かいで、真田は不思議そうに首を捻った。
「……そうか。それは楽しみだ」
 手塚が小さな声で呟く。恐る恐る隣を見た越前は、そこで目を剥くはめになった。学生時代にはついに見ることがなかった手塚の微笑。それも、ちょっと悪そうなやつ。
 この人、絶対わざとじゃん……!
 ぎこちなく顔を正面に戻す。絶賛高笑い中の跡部が、手塚の表情の変化に気付くことはなかった。

  

「越前。お前、暇だろう」
「断定すんな」
「よし、付き合え」
 真田と手塚がそれぞれ練習へ向かった直後、目をギラつかせた跡部に捕まってしまった。どこかに電話を掛けながら歩いていく跡部の後ろを、しぶしぶついて歩く。認めるのは癪だが、暇なのは事実だ。
 近所でも大型の書店に着くと、跡部は脇目も振らず、とある一角に向かった。予想通り、料理本のコーナーである。
 「ゼロから始める和食の基本」だとか「料理のさしすせそ」だとか、それらしいタイトルの本がずらりと並ぶ中、目ぼしいものを手に取り、パラッと中身を確認しては気になったものを横に取り分けていく。どんどん高くなる本の山を眺めつつ、越前は溜息を吐いた。
「おい、越前」
「何?」
「どっちがいい?」
 ずいっと目の前に出されたのは、「彼の胃袋をガッチリ掴む!お肉料理のレシピ50」と「目からウロコの調理術―お魚編―」の二冊である。本と跡部の顔を見比べた後、越前は黙って魚の方を指差した。
 その後も何度か同じようなやりとりを経て、気付けば十数冊の本が積み上がっていた。その中に「アスリートのための食事」という類のタイトルが少なからず含まれていたことは、言うまでもないだろう。

「ねえ! 俺、荷物持ちで呼ばれたんじゃなかったの?」
 会計を済ませ、紐がちぎれそうなほど本を詰め込んだ紙袋を二つ提げて歩き出した跡部に、越前は慌てて声をかけた。
「あん? 違ぇよ。お前の好みが知りたかっただけだ」
 実際、数日暮らしてみて分かったのだが、跡部という男は基本的に何でも自分一人でやってしまうタイプらしい。 中学の時のイメージが強すぎて、すっかり逆だと思い込んでいた。
 小間使いみたいに使われるのは勘弁願いたいが、まったく頼りにされないというのも、それはそれで面白くない。
「ん!」
 ずいと手を差し出す。跡部は一瞬きょとんとした後、すぐに破顔して、紙袋のうちの一つを越前に手渡した。

「今度はどこへ向かってんの?」
「実家だ。皿とか調理道具とか足りてねえだろ? 買ってもいいが、どうせ大量に余ってるからな、家のを借りていくことにした」
 これは大荷物になるな、と思いつつ緩い坂道を登っていく。長い塀が途切れると、ひときわ大きなアイアンゲートが目の前に現れた。まさか、と思う間もなく跡部がインターホンを押す。短い応答があって、ゆっくりと門が開いた。越前はスタスタと中に入っていく跡部の後を慌てて追いかけた。
 広い庭を抜け、ようやく屋敷の前に辿り着く頃、勢いよく玄関の扉が開いた。
「景吾さん!」
「皆さん、坊ちゃんが帰って来られましたよ!」
「出発前にお会いできて良かったですわ!」
 口々に言いながら飛び出してきたのは、短パンにTシャツといったラフな格好をした使用人と思しき一群だった。扉の内側には、大きなトランクケースやボストンバッグが並んでいる。
「出掛ける間際に、すまなかったな」
「とんでもございません! それにしても、ああ、もっと早く仰って頂ければ……! 私が手ずからお料理をお教えすることも出来ましたのに!」
 古株らしい年配の女性が心底残念そうに嘆くのを聞いて、跡部は思わず苦笑した。
「またの機会に頼むよ」
「坊ちゃま、お荷物はこちらに」
 人垣の後ろから現れた白いひげの男性には、越前も見覚えがあった。いつもは燕尾服を着ている跡部の執事だ。彼も今日はリネンのシャツにチノパンという軽装、頭にはストローハットまで被っている。
「ありがとう、ミカエル」
「何かございましたら、すぐにお呼びください。南仏より飛んで参ります」
「ハハッ、そうならないよう気をつける。みな、良い旅を」
 ちょっと落ち着かない気持ちで一連のやりとりを見守っていた越前は、跡部に促されて用意されていた荷物を手に取った。その時だ。屋敷の奥からなにやらバタバタと忙しない足音が近づいてきて、跡部と越前は顔を見合わせた。
「景吾様!」
 メイド服姿の若い女性が二人、跡部に駆け寄る。そのうちの一人が、肩で大きく息をしながら、胸に抱えていた包みを差し出した。
「今朝のお話、伺いました」
 その言葉に、跡部がピクリと反応する。
「どうかこれも持って行って下さい! 私どもの戦闘服ですわ!」
「サイズも景吾様にピッタリな筈です! ご武運を!」
 差し出された包みを受け取り、中身を取り出す。出てきたのは、彼女達が身につけているのと同じ、かつ、それより一回りサイズの大きい純白のエプロンドレスだった。それをしかと胸に抱き、跡部は力強く頷いた。
「確かに受け取ったぜ。この勝負、俺が必ず勝つ!」

  

 そうして全てのツッコミを置き去りにした宣誓から一週間、跡部は料理本を片っ端から読んでは実践していた。どことなく危なっかしかった手つきも、今では堂に入ったものだ。味付けに関しては、もともと舌の肥えた跡部のこと、味見を覚えてからは失敗することもなくなった。日中は一人で毒見役になる覚悟を決めていた越前だったが、最近ではむしろ役得だと思っている。
 跡部がキッチンに入る際に必ず身につけるアレも、今となっては違和感を感じるほうが難しいのだから、全くもって慣れというのは怖ろしい。

 余談になるが、跡部が氷帝メンバーと飲みに出掛けた日に一度だけ、「服が汚れるから使っていいぜ」と、例の戦闘服が真田に託されたことがあった。
 その時、越前は生まれて初めて、視覚の暴力というものを体験したのだった。
 あまりの破壊力に震える指先でどうにか撮影に成功し跡部に送りつけた写真は、飲み会にいた氷帝メンバーの腹筋を大いに痛めつけただけでなく、一瞬で他校にまで拡散されたらしい。今、立海大テニス部では、『エプロン妖精真田を待ち受けにして、一週間本人にバレなければ幸運が訪れる』として空前のブームになっているそうだ。あまりに命知らずな賭けである。

「おい、いつまでボケッとしてんだ?」
 随分長いこと動きが止まっていたらしい。顔を上げると、跡部が味噌汁を注いだお椀を持ってキッチンから出てくるところだった。
「具合でも悪いのか?」
 少し心配そうに顔を覗き込みながら、目の前にお椀を置く。かぼちゃ、玉ねぎ、しめじなんかが入った具だくさん味噌汁だ。
「何でもないよ。ありがと、かあ――」
 そこまで言って、慌てて口を閉じた。今、何と言いかけた?
 まさか、この年にもなって「母さん」だなんて。こんなヘマ、エレメンタリースクールでもしたことなかったのに!
「――とべさん」
 苦しい誤魔化し方だったろうか。ちらりと跡部の顔を窺うが、とくに表情に変化は見られなかった。跡部は「そうか?」とだけ言って、後ろ手にリボンを解き始めた。
 首からエプロンを抜いて、乱れた髪を整えるように軽く頭を振る。それから使っていない椅子の背凭れにエプロンを掛け、越前の隣にある椅子を引いた。
 ホッと安堵の溜息をついた時だ。
「たんと食べて大きくなりな、my sweet baby」
 おでこに降ってきた柔らかい感触に気付いた時には、もう遅かった。弾かれるように顔を上げれば、 跡部が会心の笑みを浮かべている。越前はおでこを押さえて耳まで真っ赤になった。
「アンタ、ほんとタチ悪……! 気付いたなら言えよ!」
 文句を言っても、ツボにはまったらしい跡部はケラケラ笑うばかりだった。
 援護を求めてテーブルの向かい側を見る。真面目くさった顔をして、手塚は新聞を置いた。
「冷めないうちに食べなさい、リョーマ」
「~~~っ! いただきますっ!」
 お椀を掴んで、味噌汁を流し込む。悔しいけれど、こんな時でも美味しいものはやっぱり美味しかった。
 味噌汁椀ごしに、微笑みながら視線を交わしている二人の姿が見える。結局、あの勝負はどうなったんだろうと一瞬思ったものの、すぐに食事に集中することにした。
 たぶん勝敗なんて、最初からあってないようなものなんだろうし。部長が例のセリフを言ったかどうかなんて、聞くだけ野暮ってもんでしょ?

  

  

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