氷の怪物

  

「昨日の全国大会決勝、みな三年間の全てをぶつけ、よく戦ってくれた。我々はこの夏をもって引退となるが、今後も下級生への引継ぎが残っている。では、新学期からも油断せ」
「カンパーーーーイ!!!!」
 なみなみと麦茶の入ったジョッキグラスが、勢いよく合わされる。ガチャガチャと騒々しい音に紛れて、手塚の手の中で、グラスがミシリと嫌な音を立てた。
「お前たち……、聞く気がないなら、端から乾杯の挨拶など言わせるな」
「ははっ、ごめん! あんまり真面目腐って言うもんだから、つい」
 全く悪びれた様子のない不二の顔を見て、手塚は諦めたように息を吐くと、そのまま腰を下ろした。
「もー、昨日さんざん聞いたじゃーん! お堅い話なんて抜き抜きー!」
 菊丸がプリプリと頬を膨らませる。大石も横から取り成すように口を挟んだ。
「まあまあ、手塚! 英二の言うとおり、今日は三年だけの慰労会なんだ。気楽にやろう」
 夕食にしては少し早い時間の鍋物屋は、時節柄もあってか閑散としている。団体客用の二階に設けられた座敷の一つにあぐらを掻き、がらんとした店内を見渡していた河村は、ふと思い出したよう笑みを浮かべた。
「こうして六人だけで食事をするのも、なんだか久しぶりだね」
 その言葉を待っていたかのように、乾の眼鏡が光る。
「行くにしても、たいてい一・二年が一緒だったからな。この面子での外食は、実に144日ぶりだ。……普段出てこないような話が飛び出すのを期待しているよ」
「乾~! ご飯の時くらい、データのことは忘れろぉー!」
 ニヤリと笑う乾を見て、すかさず菊丸が叫ぶ。昨日の今日でさすがに疲れが出たかと思いきや、開始早々この騒ぎである。
「他のお客さんも来られるんだ。あまりハメを外しすぎるなよ」
 ほど近い席に置かれた予約席のプレートに目を向けて、手塚が苦言を呈す。「はーい」だとか「ほーい」だとかいう統一感のない返事が、疎らに返ってきた。それを聞き届けてから、手塚はきびきびと鍋の準備に取り掛かった。

 温まった鍋から、ふんわりと鰹節と昆布の合わせ出汁の良い香りが立ち上る。この夏の思い出話に花を咲かせていた面々は、釣られるように揃って箸を構えた。
「しゃぶしゃぶってチョイスがさ、ちょっと爺くさいよね」
 手塚らしいや。最後にさらっと暴言を加えながら、不二が肉を湯にくぐらす。
「肉が沢山食べられて、オレは嬉しいけどな。焼肉は……、しばらく遠慮しときたいし」
 河村が、肉と一緒に目も泳がせながら答える。
「こらこら、お前たち。肉ばかりじゃなく、野菜も食べなきゃダメだぞ」
 そんな二人に、大石が母親のような小言を言っている。その様子を見ながら、菊丸と乾はぼそぼそとした声で話し出した。
「大石、ひとまずお奉行にならないみたいで良かったにゃ」
「ああ。しゃぶしゃぶでは、あのモードへは切り替わらないらしい。これは、今後も検証すべきデータだな」
「あのさ、やっぱり『焼き』ってのが肝心だと思うんだよね。『お好み焼き』とか、『焼き鳥』とか!」
「なるほど、それは一理あるぞ。では、次は『すき焼き』あたりで実験、というのはどうだ?」
「やったー! 俺、すき焼き大好き~!」
 最終的に食べたい物を言い合うだけになっている二人を尻目に、手塚は出汁が跳ねないよう慎重に白菜を鍋に加えた。静かなる鍋奉行の存在には、まだ誰も気付いていないらしい。

 しばらく平和に鍋をつついていた一同の耳に、突如としてワッと悲鳴のような歓声が飛び込んできた。近づいてくる足音を聞くに、どうも予約席の一行がやって来たようだ。それにしても、この騒ぎは何事だろうか。顔を見合わせているうちに、だんだんと話し声が明瞭になってくる。
「まあ、皆さんテニス部の集まりで! どおりで格好いいわけだわ~!」
 階段を上る足音に紛れて聞こえてきたそんな店員の言葉に、妙な予感を覚えて思わず一階から繫がる出入り口を注視する。身構える青学メンバー。果たして、店員の後に続いて現れたのは、予想通りの集団であった。
「やっぱり氷帝か!」
「ゲッ、青学!?」

「すごい偶然~! お知り合いだったんですね! 今、お席近づけます~!」
「お鍋の火も点けておきますので! では、どうぞごゆっくり~!」
 店員の女性達が「イケメン! イケメンズ!」とはしゃぐ様子をを隠しきれずに去っていくと、残された両校は無言のまま対峙した。しんと静まり返った空間に、グツグツと鍋の煮える音だけが間抜けに響く。
 氷帝は三年生の正レギュラー五人。
 そのうち、何とも言えない表情を浮かべた向日が、頬を掻きながら口を開いた。
「あー……。店、変えるか?」
「変えるも何も、こっちも予約して来てるんだぜ? 鍋だって用意してもらっちまったしよ」
 言いながら帽子を取った宍戸は、ガシガシと短髪を掻き混ぜた。
「どないする? 跡部」
 忍足がちらりと視線を向ける。他の氷帝メンバーも判断を一任したらしい。四対の視線を感じつつ、居並ぶ青学の顔ぶれを見渡していた跡部はおもむろに口を開いた。
「なるほど、考えることは同じなわけね」
 どんな皮肉が飛び出すか、臨戦態勢を取る青学に対して小さく鼻を鳴らして続ける。
「俺たちは、誰が隣だろうと構わないぜ。そっちの都合が悪いってんなら席を変えさせるが」
 居上高に腕組みしたまま言い放たれたわりには、随分控え目な内容だった。
 これがまだ大会期間中であったなら、また対応も違っていただろう。しかし、中学最後の戦いも終わったばかり。加えて今日は血気盛んな後輩の姿も無い。どうにも張り合う気力が湧いてこないのは、お互い様のようだ。もっとも、鍋物屋という緊張感もへったくれもない舞台が一番の要因かも知れないが。
「俺たちも、特に気にしない。そちらが構わないなら、もう座ったらどうだ?」
 隣のテーブルに置かれた鍋の塩梅を一瞥して、手塚が答える。
「今日のところは一時休戦、ってとこだな」
 そう言って、跡部は唇の端を上げた。

「ねえ、そっちは何食べてんの?」
 先程の言葉通り隣の青学の様子を全く気にせず、氷帝ご一行がマイペースに食事を進めている。そちらを横目で盗み見ながら、そわそわと落ち着かない様子だった菊丸が、ついに我慢しきれず声をかけた。
「ん? これ~? 鱧しゃぶだよ」
 鍋をつついていた手を止めて、芥川が答える。
「ほへぇ、ハモ。それって旨いの?」
「何だよ、菊丸。お前食ったことねえのか?」
「ならさ、こっち来て食ってけば?」
 宍戸と向日の言葉に「いいの!?」と嬉々として立ち上がろうとした菊丸に、大石が慌てて服の裾を引く。
「英二! みっともないぞ!」
「固えこと言うなよ、大石」
 ククと跡部が小さな笑い声を上げた。
「今日くらい、羽目外したっていいじゃねえか。このメンバーが揃うなんて、もう早々無いだろ」
 その言葉に一瞬驚いたように目を開くと、ほんの少し寂しげに笑った大石は、「そうだな」と呟いた。
「んじゃ、交換な! 俺にも肉食わせろ~!」
 ぴょんと勢いよく立ち上がった向日が、肉食獣の真似のように顔の横で手をわきわきと動かしながら青学のテーブルに突進する。
「あ! 俺も肉食べたいっ!」
 同じく立ち上がった芥川を見て、大石が「じゃあ、代わりに俺が」と腰を浮かす。その時、横からスっと静止の掌が伸びた。驚いた大石が見上げると、そこには真剣な表情で隣のテーブルを見つめる手塚の顔があった。
「……俺が行こう」
「え? あ、うん。頼むよ」
 まるで戦地に赴く兵士のような重々しい響きに、それ以上何か言うのは憚られてしまった。この無駄な迫力は何だろうなと思いながら、大石は苦笑いで二人を送り出した。

「いや~、この真夏に鍋かいな思うたけど、冷房の効いた部屋で食べるしゃぶしゃぶっちゅーのも乙なもんやなぁ。ほれ跡部、ニンジン出来てんで」
 白菜をつっつきながらしみじみとした声を出していた忍足が、跡部の取り皿へニンジンを落とした。
「ん。……って、おい! 自分で取れるっつーの」
「とろいんだよ、跡部は。どうせ鍋なんて、料亭で仲居さんが付きっ切りで世話してくれるようなのしか、食ったことねえんだろ。ったく喋ってねーで、とっとと取れって」
 宍戸が、図星という顔をした跡部から強引に取り皿を奪い取る。馬鹿にしたような口調に反して、レンゲで豆腐を掬い入れる動作は至極丁寧だ。溜まっていく具を見下ろして、跡部はムッと口を曲げた。
「跡部」
「アーン!?」
 これから反論しようというタイミングでの呼びかけに、跡部は喧嘩腰に振り返った。と、その口に手塚が有無を言わさず鱧を突っ込む。まさかの伏兵の存在に、跡部だけでなく座卓を囲む一同が目を見開いた。
「跡部。鍋は、一人前ずつ出てくるコース料理と訳が違う。『食うか食われるか』の世界だ」
 突然始まった熱い鍋語りに、テーブルは水を打ったように静まり返る。
「中でもしゃぶしゃぶは、具材が煮えるまでが格別に早い。云わばスピード勝負だ。茹で上がりの瞬間を見逃すな」
 あたかもスマッシュ対策でも指導するかのような喋り方に、忍足は込み上げるツッコミで喉を掻き毟りそうになるのを寸での所で堪えた。まだ食事は始まったばかり。こんな所で声を張っていたら、途中で力尽きてしまうに違いない。今はただ、この予期せぬ会合が平和に終わることだけを祈ろう。
「鱧は鍋に入れてから、きっかり60秒。身が完全に白くなり、花が咲くようにふっくらと開いた時が最も歯ごたえが良い」
 真剣にコーチングする手塚の雰囲気に飲まれたのか、跡部が凛々しい表情で頷く。ただし口はモグモグと動いている為、全く格好がついていない。口に何か入っている間は喋らないというマナーの徹底ぶりなどを見るに、育ちが良いのだろうと改めて思う。が、今回ばかりは何か言い返して欲しいところである。
 聞き取れないほど低いうめき声を上げた忍足は、隣に座っていた菊丸を肘で小突くと小声で捲くし立てた。
「おい! なんや、あの流れるような『あーん』は!? おたくの部長、ちいとばかし過保護が過ぎるんちゃうか!?」
「し、知らないよ! あんな甲斐甲斐しい手塚、俺だって初めて見たもん!」

「なあ、良かったのか? お前までこっちに来ちまって」
 漸く口の中の物を飲み込んだ跡部が、手塚に問う。
「ああ、問題ない。俺も鱧は好きだ」
 少なくなってきた具材を鍋に足しながら、手塚はしれっと答えた。
「そういう意味じゃねーよ。……ま、いいけどよ」

「跡部、いつになくご機嫌だねぇ」
 隣のテーブルからあたふたする忍足達と、いきいきと鍋をつつき始めた跡部を眺めていた芥川が、のんびりと向日に話しかける。
「鱧が旨かったんじゃね? あ、お姉さん! 肉追加で!」

 いつの間にか青学・氷帝入り乱れての合同慰労会となった会場は、途中から二つの座卓をくっつけて一つの長テーブルにし、完璧に宴会場の様相となっている。最初こそ余所余所しい雰囲気があったものの、曲がりなりにも三年間、同じフィールドで戦ってきた者同士。そして今や、同じ釜、厳密には同じ鍋の飯を食った仲である。両者の間には、学校の垣根を越えた絆が築かれつつあった。
 思えばこうして他校生同士、それも同学年のみでゆっくりと話をする機会は、これまで無いに等しかった。一度話し出せば、三年生ならではの部運営の苦労話に始まり、自校の下級生自慢など、話題は尽きることがない。そして、テニスから次第に話は脇道に逸れ、流行りのものや趣味の話、そして青少年らしく――。

「タカさーん! その『なおちゃん』とは、それからどうなったんだよー!」
「もう! 幼稚園の時の話だって言っただろ! 小学校に上がってからは、会ってもいないってば!」
 真っ赤な顔をした河村が大声で言う。
「意外にマセてるなぁ、河村~」
 体育座りで蹲った河村を、向日がニヤニヤと笑いつつ横から小突いた。

 何がきっかけだったか、初恋の暴露大会に突入した座敷は、異様な盛り上がりを見せていた。一人ひとり名指しで次の標的を指名していく、という容赦のない方式を採用したのは、用途不明なデータ収集にも余念のない乾である。
「タカさん! 凹んでないで、次!」
 笑顔の不二が励ましなのか催促なのか分からない言葉をかけると、やっとのことで河村は顔を上げた。「うーん」と頭を捻りながら、次なる犠牲者を求めて目線を彷徨わせる。ふと、隅の方で我関せずの態を貫く手塚の姿に目が留まった。
「じゃ、てづ――」
 灰汁取りお玉を掴んだ手塚の鋭い眼光が刺さる。
「かの隣の跡部」
 無言の重圧に負けて、急遽ターゲットを変える。予期せぬ指名に、それまで面白そうに話を聞いていた跡部は、ぱちりと目を瞬いた。
「跡部のそういう話、意外に聞こえてこないよね。初恋と言ったら、イギリスにいた頃になるのかな?」
 楽しげな不二の言葉を受けて、跡部は口元に手を置き、考える素振りを見せる。何かスケールの違う話が聞けそうだ、と期待に目を輝かせて待つ面々に向かって、特に表情を変えることもなくさらっと答えた。
「初恋か……。記憶にねえな」

「ずるいぞー! そんな政治家みたいな回答―!」
「黙秘権の行使は認めませーん!」
「観念して吐けー!」
 当然そんな返答を求めていなかったメンバーから、一斉にブーイングが起こる。
「なんだお前ら……、こんなとこで結託すんのかよ」
 あまりの気迫に少々押されながら、跡部は言った。
「ん~、やっぱりモテる男は違うねぇ」
「自分は初恋キラーの癖になあ」
 やれやれといった風に肩を竦める不二に続いて忍足が呟いた言葉に、大石が笑う。
「初恋キラーって、そんなに凄いのかい?」
「凄いなんてもんやないわ。跡部の場合、老若男女問わずやから」
「おい、人を節操なしみたいに言うんじゃねえよ」
 不穏な発言を聞きつけた跡部が、話に割って入る。
「やっぱ目立つのは女子だけどよ。男のファンも多いしな。特に学内!」
「『先輩! 跡部部長が横通ると、なんかふわぁって! めっちゃフローラルな匂いがして! オレ、恋しちゃいそうなんですけど、どうしたら良いんすか!』って涙目で相談しに来たりな。とりあえず、目を覚ませって一発殴っといたけど。ほんと、罪な男だよな~!」
 調子に乗った宍戸や向日も参戦して、次第に跡部についての暴露大会になっていく。
「……知らねえぞ、そんな話」
「だって、跡部には言ってないもーん」
 呆然と呟く跡部に対して、追加の肉を口に入れながら芥川がなんでもないように答える。
「ま、俺らは慣れてしもうたせいか今更何とも思わへんけど。確かに一年の頃の跡部なんて、間違いが起こりそうなくらい可愛らしかったもんな~。ちっこくて細いし。肌なんか真っ白で。こう、でっかい目がキラキラ~……って、おい、お前ら何やねん! その態度は!」
 わざとらしく腕をさすったり口元を隠して隣同士でひそひそ話をする氷帝プラス青学の面々に、忍足が声を荒げた。
「え、侑士、キモイんだけど」
「間違いって何だよ」
「見てよコレ、鳥肌」

「あーもう! これやから東京モンは! 冗談通じへんなー!」
 口元を引き攣らせながら忍足が言うのに、それまで俯いて肩を震わせていた跡部がやっと助け舟を出した。
「冗談だって分かってるっつーの!」
「でも、確かにあの頃の跡部は可愛かったよね」
 不二が、ここぞとばかりに話を蒸し返す。それを聞いた一同がうんうんと頷くのを見て、跡部は驚いたように周りを見回した。隣では手塚までが黙って首を縦に振っている。
 その時、宍戸が「あ」と思い出したように声を上げた。
「一年の頃って言えばさ、変な噂が流行ったよな」
「それは、ひょっとして『氷帝の怪物』の話かな?」
 乾は即座に反応すると、さっとノートを開いた。
「お前ら、その話、まさか怪物様の前でする気かよ」
 呆れたように言いながらも、既に諦めた様子で跡部は箸を置いた。
「まあまあ、たまには思い出話もいいじゃん!」
 菊丸がニイっと歯を見せて笑う。そして目を閉じると、まるで昔話でもするかのように話し始めた。
「そう! あれはまだ、俺たちがぴっちぴちの一年生だった頃――」

 氷帝学園テニス部が、怪物に乗っ取られたらしい。

 そんな噂が都内のテニス少年たちの間でまことしやかに囁かれ始めたのは、桜の木もすっかり青葉に覆われた5月のこと。センセーショナルな字面に反して確証に欠けたそれは、広まる道中で様々な尾ひれ背びれをつけながら、生徒から生徒、学校から学校へと回遊を続けていた。

 ようやく学校にも慣れ、仮入部から本入部へと移行した青春学園テニス部の一年生も例外ではなく。練習前のコート脇では、まだあどけない顔をした集団が、あちらこちらで噂話に花を咲かせている。
「氷帝学園って、あのエスカレーター式のお坊ちゃま学校でしょ? そんな奴がいたら、とっくに皆知ってるんじゃない?」
 顎の下に挟んだブラシを揺らしながら、大きな目をくりくり動かして菊丸が言う。
「外部から入ってきたのなら分からないよ。何にしろ、穏やかな話じゃないね……」
 まるで笑っているかのように目を細めたまま不二が呟く隣で、河村が眉を八の字にして言った。
「でも、別の学校の話で良かったよ。オレたちには関係ないもの」
「河村君! 関係無くなんかないぞ!」
 間髪入れず、イガグリ頭の大石が熱く声を上げた。
「氷帝といえば、関東大会常連の強豪校! 今度の都大会に出場する百校以上の中でも、特に注意すべき学校だよ!」
「う、うん?」
 すっかりその勢いに怯んだ河村の横から、分厚い眼鏡を押し上げながら乾が割って入る。
「大石君の言うとおり、これは大きな問題だ。氷帝学園のテニス部といえば、部員総数200人を越える大所帯。割合で言えば、同校全男子生徒のうち五人に一人が所属している計算になる。それをたった一人の、それも一年生が部長として牛耳っているというのだから、今年の氷帝は例年とはかなり毛色が異なるはず……」
「おお!? さっすが乾! 情報屋は詳しいな~!」
 すらすらと小難しい言葉を使って説明するのに、菊丸が感心したように言った。乾が満更でもない顔をする。
「フッ。データマン、と呼んでくれないか」
「それはダサいにゃ」
「なに!?」

「手塚君はこの話、どう思う?」
 少し離れた所で一人黙々とクレーコートにブラシをかけていた手塚に、大石が声をかけた。一旦手を動かすのを止めた手塚は、考えるように少し目線を左にやった。
「……あくまで噂話だろう? そもそも何故、怪物なんて呼ばれているんだ?」
「そりゃあもう、怪物みたいにデカイんだって! 2メートルはあるらしいよん!」
 突如として真横から聞こえた声に、手塚はぎょっとして振り返った。いつの間にやら他の面子も寄ってきていて、すっかり話の輪に加えられてしまっている。
「え、ほんと? 俺が聞いたのは、目を合わせたら最後、氷漬けにされちゃうって話だったけど」
 河村が言うのに、手塚が訝しげに眉を寄せた。
「それじゃ、ほとんどメデューサじゃないか。どうも話がバラバラのようだな」
 どうやら情報が錯綜しているらしい。小さな円陣を作るようにしてしゃがみ込むと、各々が耳にした情報を交換し合う。

「派手な見た目でヤンキー口調の奴って聞いたから、僕はてっきりただの不良だと思ってたんだけど。違うの?」
「ヤンキー口調? 俺は、何か呪文みたいな言葉を使うって……」
「とにかく一年とは思えない強さで、氷帝のレギュラー達を一瞬で倒して部長になった、とか」
「倒したって……その、勿論テニスで、だよね……?」

「……やはり伝聞ばかりでは、憶測の域を出ないな」
 黙って話を聞いていた手塚の発言に、乾が頷く。
「それが、この噂の噂たる所以だ。肝心の怪物の正体について、まるで手がかりが掴めないんだ。そう、まるで情報に規制でもかかっているようにね……」
 そこでわざとらしく言葉を切ると、乾はニヤリと性質の悪い笑みを浮かべた。まるで怪談でも語るかのような口ぶりに、皆が息を呑んで黙りこむ。大石が続きを急かすように尋ねた。
「規制って?」
「先輩たちの話では、今年の氷帝は例年に無く他校との練習試合を行なっているらしい。相当数の部員がいる学校だから、これは練習相手の不足を補うようなものではないな。力試し、といった所だろう。毎回、相手のチームを学園内に招待する形を取っているらしいんだが、」
「誰も生きて帰ってきた者はいなかった――」
「……勝手に変なオチをつけるのは止めないか、不二君」
 怯えて背中に張り付いてきた河村の体を引き剥がしながら、手塚が言う。
「もちろん、無事帰ってきているよ。ただし、聞き出そうとした者が氷帝の話題を出すと、みんな顔を青くしてね……。貝のように口を噤んでしまうそうだ」
 どんな怖ろしいものを見たというのか。これまでの話を総合して、脳内に思い思いの想像図を描いて青ざめる。誰かがゴクリと喉を鳴らす音が聞こえた。

「とにかく、これ以上噂話をしていても埒があかない!」
 手塚は意を決して立ち上がった。そろそろ先輩たちもやってくる頃だ。早くコート整備を終わらせなければ不味い。
「そうだよ、みんな!」
 続けて大石が、その場にすっくと立つ。
「大石君……」
 入部当初のいざこざで、手塚が勢い任せにテニス部を去ろうとした時、引き止めてくれたのが大石だった。それ以降も何かと気にかけてくれる彼のお陰で、今ではすっかりこの灰汁の強いメンバーの一員である。こうして口下手な手塚の意図を汲んでくれるところも、とても有難く感じている。
 手塚の視線を受けとめて、その大石が大きく頷いた。
「この隠された怪物の正体を、ボクたちで暴いてやろうじゃないか!」
 まあ、時には意思の疎通が叶わないこともあるのだが。しかし、この一言で好奇心の塊たちに火が点いてしまったようだ。いの一番、ぴょこんと飛び上がった菊丸が威勢の良い声を出した。
「おーし! やってやろうじゃん!」
「うん、なんだか面白くなってきたね」
 不二も乗り気で微笑む。
「これは良いデータが取れそうだ」
 乾が手に持ったノートを小さく振った。
「みんな、無茶だけはしないようにね」
 話の流れ上、行かないとは言えなくなった河村が困ったように言い添える。
「よし! そうと決まれば、明日のオフを利用して氷帝に突撃だ!!」
「おーー!!」
 大石の掛け声に、みな口々に拳を突き上げる。片手で眼鏡のブリッジを押さえるようにしてため息を隠しながら、手塚も不承不承右にならった。
「いやはや、今年の一年生は、元気があって大変結構ですね」
 背後から聞こえた声に、六人とも拳を上げた姿勢で固まる。ぎこちない動きで振り返れば、予想通り。我らが青学テニス部の大和部長が、にこにこと笑みを浮かべて立っている。
「でも、その元気は先ず、練習で発揮して下さいね」
 確実に話を聞いていたはずだが、どうやら止めるつもりはないらしい。
 大和は焦る一年の顔を面白そうに順に眺めると、いつものようにのんびりと、しかしよく通る声で告げた。
「グラウンド20周です。駆け足、はじめ!」

 明けて翌日、木曜日の放課後。青学偵察部隊は、氷帝の正門近くで早くも行き詰っていた。
「さすが氷帝。セキュリティも万全だな」
 学園の外周をぐるりと一周して戻ってきた乾が、努めて冷静に言う。
 正門には守衛が常駐し、その他の門には頑丈な鍵がかけられていた。敷地を囲む外壁は見上げるほどの高さ。塀の上には、そこかしこに監視カメラも確認できる。
「入るどころか、覗けそうな所もないじゃん!」
 先程、壁をよじ登ろうとした所を河村達に慌てて引き摺り下ろされた菊丸は「もう帰ろうよー! お腹空いたよー!」と、すっかり不貞腐れている。大石は「うーん」と唸った後、こう言った。
「そうだな。ここは、捜査の基本に立ち返ってみよう!」

「う~ん、あま~い!」
「で、なんで鯛焼きなんだ。大石君」
 口いっぱいに鯛焼きを頬張り、幸せそうに顔をふやかしている菊丸の横で、手塚は手元の鯛と見つめ合いつつ尋ねた。
「捜査の基本は、張り込み。張り込みと言えば、あんぱんってね! ……まあ、同じ餡子だし、良いじゃないか」
 手塚の呆れ顔を見て、大石は途中から勢いを失速させつつ弁明した。客観的に見れば、ただの寄り道の買い食いである。
「このまま部活終わりまで待ち伏せするしか無さそうだね」
 不二がそう言って、鯛焼きに噛り付く。
「ただ待ってるだけなんて、つまんないっしょ!」
 糖分を補給して充電満タン状態の菊丸が、丸めた包み紙をぽいっと投げる。鯛焼き屋の前に置かれたゴミ箱に軽い音を立てて収まったのを見ると、にやっと笑いながら振り向いた。
「捜査の基本、その2! 聞き込みだ! 行くぞー、タカさん!」
「えええ!?」
 菊丸は、既に食べ終わってのんびり寛いでいた河村の腕を引いて立たせると、手塚達が止める間もなく駆け出した。

「男テニ、今日もヤバかったね!」
「もぉ~、目が合った瞬間、心臓止まるかと思っちゃった!」
「分かります、先輩! 私だって失神しかけましたから!」

 勢いよく駆けて行った二人を追いかけていた手塚達が、ようやく正門近くまで辿りつく頃、タイミング良くそこから出てきた女子の一団の会話に、四人は思わず足を止め身を隠した。残りの鯛焼きを慌てて口に押し込み、耳をそばだてる。前を行く菊丸達も彼女らに目をつけたらしく、標的を捕捉したハンターのように意気揚々と近づいていく。
「大丈夫か、あの二人……」
 二人の動きを電柱の影に隠れて見守りながら、手塚は不安を募らせた。大石が励ますように言う。
「いや、あの自信満々の表情を見ろ。きっと何か作戦が――」

「お姉さんたち! 俺たち、テニス部の新部長にすっごく興味があるんだけど!」
「な、なにか知っていることがあれば、教えていただけないかな~と……」

「無かったか……」
「直球にも程があるだろうっ!」
 がくりと首を落とした大石の横で、思わず大声を出した手塚の口を不二がバチンと音がする強さで塞いだ。
「い、いひゃいじゃないか、不二君」
「シッ! 見て!」
 恨みがましい目を向ける手塚に、不二が鋭く返す。ひりひり痛む口元を押さえながら、手塚はしぶしぶ菊丸達のほうに視線を戻した。

「ごめんなさい。その質問にはお答え出来かねます」
 先ほどまでの話しかけやすそうな雰囲気から一転、急に表情を険しくした女子達は、「ごきげんよう」と言い残して足早に二人の前を通り過ぎた。あまりにも急激な変化に、菊丸も河村もぽかんとした顔をしている。
「まずい! こっちに来るぞ!」
 乾の合図で物影のさらに奥に隠れる。息をひそめてじっとしていると、件の女子達のひそひそ声がかろうじて聞こえてきた。

「危ない危ない! 学外では気を付けなきゃ!」
「うっかり抹消されるとこでしたよー!」

「き、き、聞いたー!? みんな、さっきの聞いたー!?」
 走り寄ってきた菊丸が、興奮して飛び跳ねる。
「まさか、女子校でもないのに、『ごきげんよう』なんて言葉を使ってるなんて……」
「……不二君、そこじゃない」
「やっぱり噂は本当だったんだよ!」
「抹消か……。まさか、一般の生徒にまで、緘口令でも敷かれているのか」

 雲行きが怪しくなってきた。噂の怪物は、テニス部どころか、学園全体をその支配下に置いているのではないか。見上げた高い塀が、あたかも城壁のように立ちはだかる。夕日を背負った巨大な校舎は黒い影を落とし、妙な威圧感を醸し出していた。背中に掻いた汗を、ひゅるりと拭きぬける風が冷やしていく。
「なあ、お前らそんなとこで何してんの?」
「ギャアアアアアアアア!!」
 ぽん、と肩に置かれた手に、河村が悲鳴を上げる。手塚が驚いて振り返ると、そこにはふわふわした金髪の少年がぼんやりとした顔で立っていた。
 すっかり話に夢中になって周りに気を払うのを忘れていたが、正門前で話し込む詰襟の集団は、随分人目を引いていたらしい。いつの間にか部活の終わる時間帯となっていたようで、帰宅する生徒達がいぶかしむような視線を向けながら通り過ぎていく。
「お前らテニス部だろ? 偵察?」
 怒るでもなく、かと言って笑うでもなく、金髪の少年が質問を重ねる。
「な、なんでボク達がテニス部だと分かったんだい?」
 ここは穏便に済ませたいと、大石がぎこちない笑顔で言葉を返す。「んあ?」と欠伸を噛み殺していた少年は、目を擦りながら答えた。
「じゃ、その背中のラケットバッグは? ゴボウでも入ってんの?」
「………………」
 青学の面々はお互いの姿を確認して、乾いた笑い声を上げた。木曜で午後の部活は休みでも、朝練はいつも通り行われたわけで。そして、青学の狭い部室に一年生がラケットを置いておけるスペースなどあるはずもなく。当たり前のようにバッグを背負って駆け出した数時間前を思い返し、もはや苦笑しか出てこない。これでは「テニス部の偵察に来ました!」と宣伝して回っているのと同じである。
「どこの学校か知らないけど、あんま変な動きしない方がいいよ」
 意味深な忠告に、一同解せない顔をする。

 その時、少年の背後から鋭い声が上がった。
「おい、ジロー! なぁにスパイと暢気におしゃべりしてんだー!」
 派手な赤毛をした少年が、目を吊り上げて足音荒く近づいてくる。
「ふらっと出て行ったと思ったら、まーたラケット置きっぱなしじゃねえか! 終いにゃ背中に括りつけるぞ!?」
 その後ろから長い髪を頭の後ろで一つに結んだ少年が、二つのラケットバッグを両肩に背負って歩いてくる。
「あ、ほんとだ。ありがとー、宍戸。ついでに家までお願い」
「誰が運ぶかよっ!」
 ジローと呼ばれた少年に、宍戸がバッグの片方を投げつけながら答える。
「で、そっちはどこのスパイさんやろか?」
 最後にゆっくりとした足取りで追いついた関西弁の少年が、青学の一団を見渡して尋ねた。大きな丸眼鏡と肩に届きそうな髪からして、なんとも食えない印象だ。

「嗅ぎ回るような真似をしてすまない。青春学園テニス部一年、手塚だ」
(て、てづかーー!?)
 口をぱくぱくと動かして唖然とする大石達を無視して、手塚は一歩前に出ると自ら名乗り出た。
「はは! 律儀なスパイもおるもんやな!」
 丸眼鏡の少年は目を丸くした後、思わずといったふうに笑った。
「氷帝テニス部一年の忍足。こっちは、その愉快な仲間たちや」
「侑士! 適当な紹介してんじゃねえぞ!」
「その誠意に負けて一つ教えたるわ。あんた等も、うちの部長のこと探りに来たんやろ?」
 赤毛の少年のおでこを掌で押していなしながら、忍足は含みのある笑みを浮かべた。手塚が黙って頷く。
「うちの部長、ちょっと訳有りでな。今んところ、大っぴらに人前に出んようにしとるんや。あ、今頃もう裏門から車で帰っとる筈やで。長いこと待ってもろうたのに、堪忍な」
 そう言って忍足はうっそりと微笑んだ。
「そうか……」
 手塚の声にも落胆が滲む。その後ろでがっかりしたように肩を落とす青学の一団を見て、赤毛の少年が声をかけた。
「でも、もう嗅ぎ回る必要もないと思うぜ!」
 訝しげな顔をする面々に眉を寄せる。
「おいおい、忘れたわけじゃないだろ? 今週末は都大会じゃん!」
「青学も、もちろん出場するんやろ? この大会から部長も参戦予定やから、上手いこと時間が合えば見れると思うわ。まあ、試合が回ってくるかどうかは、オーダー次第やけど」
「楽しみはそれまで取っておきなってこと! じゃーな!」
 一方的に会話を切ると、少年たちは押し合い圧し合いしながら去っていった。
 これ以上の調査は続行しても無駄だろう。さらに深まった謎と今週末には明らかになるという僅かな希望を持って、こちらも帰ろうと背中を向けた時、風に乗って宍戸達の会話が聞こえてきた。

「さっさと訂正なり何なりしときゃ、変な噂も立たなかったんじゃねえか? 絶対面白がって放置してるだろ、アイツ! ったく、人騒がせな奴だぜ!」
「ん~? でも、その方が安全なんじゃない? アトベにとっても」

 耳に届いた単語に、手塚は反射的に振り返った。視界の隅に、忍足達が角を曲がっていくのが映る。そのまま考えこむように表情を険しくした手塚を覗き込んで、大石は心配そうに声をかけた。
「手塚君? どうかした?」
「いや……、何でもない」

 爽やかな初夏の陽射しが、木々の緑に揺れている。試合会場のあちらこちらから、ボールを打つ小気味よい音と賑やかな声援が聞こえてくる。
「ふう、なんとか間に合ったみたいですね……」
 部長の大和は、額の汗を拭いながら息を吐いた。
 都大会四回戦を終え無事ベスト8入りを果たした青学の一団は、この日最後の試合を見るために一つのコートに集まっていた。件の氷帝戦である。青学と同様に準決勝への切符を手にした学校だけでなく、噂の真偽を確かめてやろうという野次馬達も集まり、コートはある種異様な熱気と緊張感に包まれていた。
「ねえ、みんな気付いてる?」
 不二が辺りを見渡しながら言う。ジャージや制服姿の中学生や応援に来た保護者に紛れて、黒いスーツを隙無く着込んだ男達が等間隔に立っている。明らかに場違いな雰囲気を漂わせるその姿に、周りの観客も何事かと目を向けている。
「仕事抜けて来たお父さんたち……じゃないよね。なんかドラマに出てくるSPみたいだにゃ!」
「はは、まさか。学生のテニス大会に、一体どこの国の王子様が来るって言うんだい?」
 妙な空気を一蹴しようと、大石は殊更明るい声で言った。

「来たぞ! 氷帝だ!」
 誰かの声で、皆一斉にそちらを見やる。目に飛び込んできたのは、一面のアイスブルーだった。優に二百人を超えるという、揃いのユニフォームに身を包んだ一団は、そこにいるだけで見る者に圧倒的な威圧感を与える。歩みを進める一団の中から怪物らしき人物の姿を捉えようと皆が目を皿のようにしていたが、人数が人数なだけに到底探しきれるものではなかった。

「それでは、選手の皆さんはコートに整列して下さい!」
 審判の呼びかけに、両チームから7名ずつが歩み出る。観衆が固唾を呑んで見守る中、フェンスの内側に入ってきたその姿にどよめきが広がった。
「……マジで王子様じゃん」
 菊丸がぽつりと呟く。
 きらきらと陽光に透ける小金色の髪。大きな青い瞳は、光の当たり方によってはユニフォームの色によく似た淡い水色にも見える。チームの先頭に立ち悠然と歩く少年の、その日本人離れした容姿と噂とのギャップに、あんぐりと口を開けている者、仰天して騒ぎ出す者などで会場は一時騒然となった。
「跡部……」
 その喧騒の中、手塚の口からぽろりと漏れた声が聞こえるはずもないのに。ぐるりとコートを囲う観衆を見渡していた跡部の視線が、ぱちんと手塚の元で止まった。驚いて目を瞬かせる手塚と目を合わせたまま、跡部が唇の端を上げてみせる。それを笑みだと手塚が認識する頃には、跡部は眼前の対戦相手へと視線を戻していた。

「あー! あいつら!」
 菊丸が指差す先に並んでいたのは、紛れもなく一昨日氷帝で出会った忍足達であった。
「レギュラーだったのか……」
「いや、氷帝のオーダーの法則でいくと、おそらく大半は準レギュラーだろう」
 大石の言葉に、乾が出場選手の名前の書かれた対戦ボードを見ながら返す。ダブルス2・ダブルス1の欄に並んだ四つの名前の横には「一年」と表記されている。そして、同じくシングルス3にも。

 唐突に、コートに引き攣ったような笑い声が響いた。
「どんな化け物が来るかとヒヤヒヤしたが、とんだカワイ子ちゃんが出てきたもんだぜ。なあ!」
「ダブルスもチビばっかじゃん! ボク達、ここは小学生の大会じゃないぜ?」
 氷帝の対戦相手のチームは、目の前に並ぶ一年生を見下ろして言った。にたにたと嫌な笑みを浮かべながら小突きあっているのが不快で、知らず手塚は唇を結んだ。
 口ぶりからして、例の噂は対戦相手にも届いていたのだろう。正体の見えない敵に極限まで張りつめていた緊張の糸が、実際の相手を見てプツリと切れたらしい。表情には、既に勝利を確信したかのような余裕まで浮かんでいる。
「なあ、元部長さんよ。今年の氷帝は深刻な人材不足みたいだな。こんだけ無駄に部員がいるってのに、もったいない話だ」
 フェンスの外に控える軍勢をちらりと見て、部長と思われる男はわざとらしい溜息をついた。
「……俺は大会に出して恥ずかしくないメンバーだと思っている」
 特徴的な赤いメッシュの入った髪の三年生が答える隣で、跡部はただ黙って相手チームを見ている。
「はー、毎度毎度同じような台詞ばっか。そろそろ聞き飽きてんけど」
 髪を掻き上げながら心底つまらなそうに呟く忍足の横で、向日がギリギリという噛み締めた歯の隙間から「ムカつく~」と呻いている。
「おい、安い挑発に乗るんじゃねえよ」
 チームメイトに向けて、跡部が一喝する。その跡部の顎に向けて正面から腕が伸びた。男は上から覗き込むようにして、無理やり跡部と視線を合わせながら言った。
「お嬢ちゃんも、お友達と一緒にさっさと帰った方がいいんじゃないか? その綺麗な顔にうっかりボール当てちまうかも知れないぜ?」
「てめえ、ふざけんじゃねえぞ!」
 宍戸が声を荒げる。対戦相手のあまりの言動に、コートに並ぶ選手だけでなく周りの観衆からも抗議の声が上がった。ブーイングの嵐の中で、跡部だけが微動だにせず、凪いだブルーの瞳で相手を見ている。
「君達、止めなさい! これ以上の挑発行為には、ペナルティを課します!」
 審判の鋭い警告が飛ぶ。
「おい、もうその辺にしてやれよ。怖がって声も出ないみたいじゃん」
「お、おう」
 その瞳から発せられる圧迫感のようなものに固まっていた男は、ようやく腕を下ろして目線を外した。

「くっそ、腹立つ! 跡部、てめえも何で言い返さねえんだよ!」
「ここで口喧嘩しても意味ねえだろ。試合に集中しろよ」
 足を踏み鳴らす宍戸の方を見ることなく、ベンチに腰掛けた跡部はガットのテンションを指で確かめ始めた。普段は夢と現実の間に住んでいるような芥川も、この時ばかりは眉をしかめて不機嫌さを露にしている。
「あんだけ言われて黙ってろっつーのか!?」
「そうだ」
「ああ?!」
 もはや宍戸が何に対して苛立っているのか分からなくなりかけた時、指を弾く乾いた音がコートに響いた。
「お前ら、一度しか言わねえからよく聞け」
 立ち上がった跡部は、ゆっくりとチームメイトを見渡して言った。
「今日の試合、俺様のシングルス3でラストだ。……てめえ等の力は、てめえ等で証明してみせろ」
 チーム内に蔓延していた憤怒や苛立ちが、音を立てて引いていく。
「おー、怖。これは気張らんとなぁ」
 苦笑交じりに忍足が言う。
「跡部に花持たせるのは気に食わねえが、この際仕方ねえ」
「あいつらに、目にもの見せてやろうぜ!」
 宍戸と向日もすっかりいつもの調子を取り戻したようだ。目を爛々とさせた芥川が、思いついたようににんまりと笑う。
「跡部! 俺、まじまじ頑張っちゃうから! そしたら今日こそは、噂のお宅訪問させてよね!」
「あーん? そうだな、お前らが1ゲームも落とさなかったら考えてもいいぜ」
「くー、厳C-!」
 跡部は満足げに唇の端を吊り上げると、コートを囲う部員たちの方を振り返った。
「おい、お前らもいつまで大人しくしてるつもりだ? 俺たちのコール、聞かせてやれ!」

 地鳴りのようなコールの中、ダブルス2の宍戸・向日が6-2、ダブルス1の芥川・忍足も6-0と目覚ましい活躍を見せ、あっという間に氷帝が準決勝進出に王手をかけた。もはや一年相手と見くびってはいられないと漸く気付いた相手校が、背水の陣で挑んだシングルス3。
 30センチは差があろうかという相手を見上げ軽く握手をすると、跡部は足早にベースラインまで下がった。
「もう後がねえ! そんなチビに負けんな!」
「うるせえな! んなこと分かってんだよ!」
 男は焦燥の滲む声で言い返した。

「ザ・ベスト・オブ・ワンセットマッチ、氷帝サービスプレイ!」
 審判の試合開始のコールが聞こえた次の瞬間、甲高い打球音とほぼ同時に相手コートにボールが刺さった。瞬きの間に起こったノータッチエースに、会場が揺れる。
「ぼさっとしてないで構えろよ。次、行くぜ?」
 青い瞳がぎらりと光る。

「なるほど、噂の怪物は本物だったわけだ。あんな球を打つ一年が、君以外にもいるなんてね」
 不二がうっすらと目を開いて手塚の方を見る。それには何も返さないまま、手塚はただボールの行方を見守った。
 美しいテニスだった。全身のバネを使ったしなやかなスイング。踊るように軽やかなステップ。トリッキーな股抜きから不意を衝くドロップショットまで、相手を翻弄するそのスキルの高さ。そして、最後に見た時よりも格段に威力を増したスマッシュは、弛まぬ鍛錬の証だろう。しかし、プレイからはそういった泥臭さを一切感じさせない。まるで見せる為にあるかのようなテニスだと思った。
 今や、コートを囲む全ての目線はその一身に注がれている。知らぬ間にフェンスを掴んでいた指先がピリピリと痺れた。
 サービスエースとリターンエースの連続にますます大きくなる歓声の中、呆気なく試合終了のコールがかかった。時計を見れば、開始からまだ二十分も経っていない。まさに圧倒的なストレート勝ちだった。

「見た目で相手の力量を判断してるようじゃ世話ねえな。勝ちを確信した時点で、試合は終わってんだよ」
 両校整列して挨拶を終えてもなお呆然と突っ立ったままの対戦相手に向けて、跡部が口を開いた。
「てめえらもテニスプレーヤーなら、口先じゃなくテニスで勝負しな。それなら、いつでも相手になってやるぜ?」
 目の眩むような鮮やかな笑みを残して、跡部はコートを後にした。
「なあ、侑士。またやっちまったんじゃねえか、跡部のやつ……」
「堪忍してえな……」
 跡部の後に続きながら、恐る恐る後ろを振り返る。おそらくは憤怒ではない感情で顔を真っ赤にしている集団を見て、忍足は頭を抱えた。

「都大会も前半戦が終わったわけだが、後半戦が今日と同じメンバーだと思うんじゃねえぞ。試合に出てえ奴は、てめえが天辺取るつもりで挑んできやがれ! 事前の通達どおり、申請のあった者はバスで学園まで送る。その他の者はこの場で解散だ。以上!」
「お疲れ様でした!!」

 三々五々に散らばっていくアイスブルーの集団とは反対に、その中心へ向かっていく人影がある。立派な体格に反して幼稚舎のものと思われる制服を着た少年は、跡部のすぐ横まで来ると、肩からラケットバッグをひょいと抜き取って自分の背に負った。少年の方を驚いたように仰ぎ見て、跡部が何事か声を上げている。そのまま少年に促されるようにして会場を去ろうかという段になって、手塚ははっとして走り出した。
「手塚君!? どこ行くんだ!?」
「すまない、大石君! 先輩達には適当に言い訳しといてくれ!」
「ええ!? そんなぁ!」

「おい樺地! そんなに急ぐことねえだろ?」
「……もう、お迎えの車が来てます、ので」
 背中を押されるように歩く跡部と少年が見える。その会話が届く距離まで追いついて、手塚は大声で「跡部!」と呼んだ。
 弾かれたように跡部が振り返る。一瞬、今よりも幼い頃の顔が重なって見えたような気がした。
「樺地、先にラケット置いてきてくれ」
「…………」
「ったく、心配性だな。前に話しただろ? 手塚国光、俺の命の恩人だ。なあ……、頼むよ」
 頬を撫でながら、跡部は小さな子供に言い聞かせるような声で言った。
「…………ウス」
 樺地と呼ばれた少年は、しぶしぶといった態が見て取れるだけの間を置いてから頷いた。手塚に向けてぺこりと一つお辞儀をして、ゆっくりと歩き去る。
 呼び止めたはいいが、何から話していいものかと手塚は言葉に詰まった。ただ、跡部の真正面まで来て、初めて気付いたことがあった。
「背が伸びたな、跡部」
 跡部は面食らったように、ぱちぱちと目を瞬かせた。自分でもその挨拶はないなと反省した瞬間、跡部が大声で笑い出した。
「はははっ! ったく、お前、ほんと変わらねえな」
 そう言って笑いを堪えながら顔を上げた跡部の目には、先ほどの試合で見せていた鋭さは少しも残っていなかった。
「俺だって背が伸びたぞ」
「背の話じゃねえっつーの!」
 あの頃、旋毛が見下ろせるくらいだった跡部の背は、今では手塚とほとんど変わらないほどになっていた。
「ここ最近、すげえ勢いで伸びてるからな。今にお前を追い抜くだろうよ」
 よほど嬉しいのか、上機嫌な跡部の言葉を聞きながら、自分を見下ろす跡部の姿を想像してみる。たちまち手塚は顔を顰めた。
「それはイヤだ」
「ああん!?」
 長い時間を飛び越えた軽口の応酬に、まるで昨日の続きのような錯覚を覚える。
「約束通り、戻ってきたぜ」 
「ああ。だが、命の恩人とは言い過ぎじゃないか?」
「嘘は言ってねえだろ?」
 信頼の篭った眼差しを向けられて、手塚はぐっと言葉を呑み込んだ。
「つーか、久しぶりに会ったわりには反応薄いんじゃねえか? ちったあ驚いてみせろよ」
「十分驚いている。正直、噂を聞いてまさかとは思っていたんだが」
「ああ、あの氷帝の怪物とかいう話か? 随分面白いことになってたみたいだな」
 愉快そうに笑う跡部を見て、宍戸達の言っていたことは正しかったと確信する。
「前のいざこざ、警察沙汰にならないよう揉み消したつもりだったんだが、さすがに親には隠し切れなくてよ。それ以降、どうにも過保護に拍車が掛かっちまって。日本に戻るのにも散々苦労したぜ」
 跡部の話では、一時は外出禁止令まで出されていたらしい。氷帝のセキュリティーの高さや今日見かけた黒服の男達も、両親からの制限や制約の一つなのだと言う。安全が確保されるまでしばらくは目立つ行動も控えるように、とのことだったらしいが、その忠告がどこまで耳に届いていたかは不明である。
「警護の人達だが……、あんな如何にもな服装で良いのか? 言っては何だが、すごく目立っていたぞ?」
 言いづらそうに進言した手塚に、跡部はニカっと笑ってみせた。
「そんなもん、わざとに決まってんだろ! こういうのは、始めが肝心だからな。あれだけ警備がついてると思ったら、なかなか手は出せねえだろ。コソコソしてるのは性に合わねえ。今日で面も割れたし、これからは大手を振って歩けるってもんだぜ!」
「…………」
 この型破りな豪胆さ、ご両親の心配ももっともだ。高笑いを聞きながら、手塚がまだ見ぬ彼の両親に同情していると、跡部はピタリと笑うのを止めた。「それより」と、声のトーンを改めて言う。
「手塚、見たぜ。なんでエントリーしてねえんだ? お前の実力なら、他のメンバーに遅れを取るはずがねえ。せっかく会場で驚かせてやろうと……、あわよくばお前と試合出来るかと思ってたのによ」
 真剣な表情で言い募る。何か事情があるのではないかと心配そうな跡部に、手塚は安心させるように説明してやった。
「青学には、一年生は秋まで公式戦に参加できない決まりがあるだけだ。もっとも公式戦のオーダーを決める練習試合にも、だが」
 それを聞いた瞬間、跡部は目の色を変えた。予想と間逆の反応に、手塚は首を傾げる。
「そんなもんの為に、てめえは、短い三年間のうちの一試合を潰したってのか?」
 跡部は込み上げてくる感情を抑えつけるように、低い声で言った。隠しきれない激情の欠片が、瞳の中でギラギラと燃えるように輝いている。
「理由のねえ決まりや慣習なんか、クソくらえだ。てめえが足を取られてる間に、俺はそんなくだらねえもんブチ壊してでも先に進んでやる。待ってなんかやらねえ」
 そう言って歯を食いしばる姿を見て、自分の前に立っているのが跡部景吾だと再認識する。自分の記憶の中にあった小さな彼ではなく、たったひと月の間に強豪校の部長にまで上り詰めた男だと。それぞれが学校という看板を背負った今、繫がったように思えた道は再び分かたれたのだ。

「あーっ、いたいた! 手塚君ー!」
「みんなー! 手塚見つけたよー!」
 大石と菊丸の声が背後から聞こえる。他の一年生もぞろぞろと駆けて来たが、手塚と向き合っている相手が誰か気付いて、走る速度を弛めた。
「手塚君、喧嘩は良くないよ」
 跡部の形相を見て、河村が心配そうな声を出す。
「なに?! やろうってーの!?」
「菊丸君、やめなって!」
 薄目で手塚の横に並ぶ一年生を見渡した跡部が「そいつ等は?」とだけ尋ねる。
「俺の、仲間たちだ」
 跡部は小さく鼻を鳴らして笑った。馬鹿にされたのかと大石たちがざわつくのが分かったが、そうではないと手塚は知っている。
「跡部。先に行って構わない」
 訝しげな顔をする青学の面々を余所に、手塚がきっぱりと告げる。
「俺は……、俺たちは自分たちのペースで進む。じきに追いつき、追い抜いてみせる。待っていろとは言わない」
 跡部はゆっくりと表情を和らげた。「言うようになったじゃねえか」と、満足気に口角を上げた時だ。
「あ! 跡部、こんなとこにおった!」
「まったく迷子になってんじゃねえよ!」
 青学のメンバーが駆けて来た反対側から、忍足たちが現れた。すぐに緊迫した雰囲気を感じ取って跡部の後ろに並ぶ。
「青学の手塚と珍妙な仲間たちやないか。怖い顔してどないしたん?」
「あ? お前ら知り合いだったのか?」
 振り向いた跡部のきょとんとした顔を見て大事無いと判断した忍足は、「まあ、ちょっとな」と言葉を濁した。
「おい、樺地が車んとこでしょんぼりしてたぜ。早く行ってやれよ!」
「あとべー、俺ストレートで勝ったよ! 約束通り家連れてってー!」
「そうそう! 俺も学校までリムジンで来てるウルトラ金持ちがいるっつったら、親父が『嘘吐け。ホントなら証拠写真の一枚でも撮って来い!』ってウルセーんだって! つーわけで、乗せろ!」
 宍戸、芥川、向日の大声に五月蠅そうに片耳を塞ぎつつ、跡部は苦笑いを浮かべた。
「よし、お前らまとめて招待してやる! 行くぞ!」
 跡部を先頭にして氷帝の一団が遠ざかる。が、すぐに足を止めた跡部がくるりと振り返った。
「おい、お前ら! 宜しく頼むぞ!」
 ポカンとする青学一同に邪気のない笑顔でそれだけ言うと、再び前を向いて歩き出した。
「全然打ち足りねえな。お前ら、家に着いたらテニスするぞ!」
「は? まさか、金持ちの家にはもれなくテニスコートがついてくるって、あの都市伝説はマジだったのか?」
「三面はあるが。お前らの家には無いのか?」
「普通はねえんだよ!」

 唐突に爆弾を落とされたような気分の中、菊丸がやっとの思いで口を開く。
「何をよろしくされちゃったの、俺たち……」
 顎に手を当てて考え込んでいた不二が、「うーん、なんとなく分かったかも」と手塚の方を窺いながら言う。視線を感じて、それまで気恥ずかしげに口元を手で覆っていた手塚は、誤魔化すように咳払いをした。
「ね、手塚君」
「さあな」
「君達、どういう関係?」
 不二が手塚にだけ聞こえる声で、核心を突く質問をする。
「それは……、秘密だ」
そう言ってうっすら笑う手塚に、面食らったように不二が目を開く。しかし、すぐにいつもの笑みに表情を戻して「そう」と呟くと、事も無げに言った。
「あ、ちなみに君が走って行った理由だけど、適当に言っておいたよ。『手塚君は急にお腹が痛くなったみたいで、全速力でトイレに行きました』って」
「不二っ!? お前って奴は……!」
「ナイス言い訳~!」

「あの後、先輩たちの前で見せた手塚の鬼気迫る演技! すごかったにゃ~!」
「すっかり信じてたよな。まさか、手塚がそんな嘘をつくとは誰も思わなかっただろうし」
 菊丸の言葉で、思い出したように大石が苦笑した。「意外に演技派だな、手塚!」と宍戸が悪乗りする。
「……不二。あのお陰で俺は当分の間、先輩方に胃腸を心配されることになったんだが?」
「やだなあ、不可抗力じゃないか」
 思い返して眉間に皺を寄せている手塚に、からからと笑って不二が言う。
「でも、結局あの噂って何だったんだろうね?」
 ひとしきり笑った後、ふと河村が首を傾げた。
「嘘ばっかりってわけでもねーな。確かに派手で、口が悪い!」
「お前がそれを言うか?」
 人のことを指を差してニイと笑う向日に、跡部は憮然と言い返した。
「背丈に関しては樺地のことと混同したんだろうぜ。あいつ、あの頃からデカかったし。授業終わったら即行で中等部まで飛んできて、跡部の傍から離れなかったもんな」
 口に銜えたつまようじを上下に揺らしながら、宍戸が言う。
「あとは、入学したばっかの頃の跡部、ちょっとした時に英語が出てたじゃん? ほんの数週間だけだったけど。それが呪文っぽく聞こえたのかもねぇ」
 芥川が顎に指を置いて答えながら、同意を求めて忍足の方を見る。
「確かに、あれは時々分からんで困ったわ。まあ、入学初日にレギュラー相手に総当り戦挑んで全員に勝ってもうて、部長の座奪い取ったとか。嘘みたいなほんまの話もあるしなぁ」
「対戦相手が口を割らなかったのも、要因の一つだろうね。まさか舐めてかかった一年相手にコテンパンに負けたなんて、話す気になれなかったんだろうけど」
 不二はそう言って、この件に関して自分から話すつもりはないのか、すっかり聞き手に回っている跡部の方をちらりと見た。この件に関しては他にも理由がある気もするが、そこは言わぬが花だろう。
「しっかしよ、そもそもなんであそこまで噂が広まったんだろうな? あんなもん、学内の奴が本当のこと言ったらお終いだし。写真でもあれば一発だろ? ま、敢えて訂正しなかった俺たちが言うのも何だけどよ」
 宍戸の言葉に、納得しかけていた青学から「え」と声が上がる。
「そっちが口止めしてたんじゃないのかい?」
 大石が不思議そうに言う。
「俺たち、氷帝の子が言うのを聞いたんだよ。『抹消されるから話せない』って」
 それを聞いて、宍戸達は顔を見合わせた。
「口止め? んなことしたか?」
「いんや、知らねえけど」
「なになに? 跡部ん家の裏工作―?」
「うちがそんな物騒なことするわけねえだろ」
 跡部は腕を伸ばして、「冗談だって!」と笑う芥川の頭を掴んで揺すった。
「だいたい、抹消って何からだよ?」
「え、俺は学園からだと思ってたんだけど……」
 向けられた青い瞳に、大石はしどろもどろになって言う。

「それについては、俺が説明しよう」
 乾は訳知り顔をして、眼鏡のつるを押し上げた。
「何で乾が知ってんだよー?」
 菊丸の言葉に、乾がニヤリと笑う。
「実は、当時の俺も同じところに引っかかってね。個人的に調査をしたんだ」
 そこで一呼吸置くと、乾は胸ポケットから小さなバッジを取り出してみせた。
「『会則第四条。会員は跡部景吾の安全かつ健全な学園生活を支援する為、写真・動画・音声・位置情報その他個人を特定するに足るあらゆる情報について、みだりに流布してはならない』」
 読み上げるようにすらすらと諳んじる姿に一同唖然としながら、乾の手元に目を向ける。遠目にAの形をしたバッジは、ベース部分は氷帝のユニフォームにも使われているアイスブルー、Aの内側の三角形はホワイトに塗り分けられている。一見単なるアルファベットのようだが、よくよく目を凝らすとデフォルメされた猫の耳にも見える。
「おいおい、マジかよ」
「俺、初めて現物見たぜ……」
 それを見た宍戸と向日が、まさかと言うように口元に手を当て、震え声で呟く。何事かと固唾を呑む乾以外の青学メンバーの前で、芥川が「あー!」と大声を出しながら立ち上がった。
「それって、メス猫バッジ!?」
 何だソレは!?と一斉にずっこける大石達を尻目に、乾が得意げに続ける。
「そう、跡部景吾非公式ファンクラブ会員章――通称『メス猫バッジ』。そして先程の条文はその会則、通称『メス猫鉄の掟』の一部だ」
「いや、非営利で活動しとるっちゅーのは知っとったけどな。なんや、予想以上に本格的やな……?」
 口元をヒクつかせながら、笑い半分呆れ半分といった調子で忍足が言う。それまで何やら考え込んでいた跡部は、ようやく思い出したように口を開いた。
「待てよ? そういや、入学したての頃――」

「おい、跡部! これじゃ練習にならねーよ!」
 入学式から一週間、ますます増える野次馬を指差しながら、向日は頬を膨らませた。
 突如学園に現れた王子様目当てに生徒が集まり、氷帝のテニスコートは非常に厄介な状況になっていた。今も部活動中にも関わらず、写真や動画を撮ったり、跡部の一挙手一投足に悲鳴を上げたりとなんとも姦しい。さながらライブ会場だ。
「……分かった。何とかする」
「お! ついにブチ切れるか?」
 コートを出ていく跡部の後ろ姿を、宍戸が面白そうに目で追う。跡部が客席の前まで来ると、悲鳴はさらに大きくなった。跡部はスタンドをゆっくり見回した後、徐に手を上げた。指を弾く音がコート中に響く。悲鳴がぴたりと収まる。
「おい、メス猫ども!!」
「め、めすねこぉ!?」
 何を言い出す気だ!?とざわつくテニス部員を置いて、跡部が言葉を続ける。
「練習は見世物じゃねえ。見る分には構わねえが、マナーは守ってもらう。一つ、プレー中は席を立つな。動くもんが目に入るとボールに集中出来ねえ。二つ、写真の撮影は却下。フラッシュ、シャッター音、レンズの反射がプレーの妨害になる。三つ、声を出すのはボールが動いてない時だけ。理由は、もう言わなくても分かるな?」
 柔らかく言い含めるような話し方に、集まった生徒らがこくこくと頷く。その反応に満足げに笑った後、跡部は思い出したように付け加えた。
「それから、これは個人的なお願いになるが……。学内ならまだしも、あまり騒ぎを大きくされると困っちまう。お利口にしててくれるか?」
 跡部が眉尻を下げて、唇に人差し指を当てる。効果は覿面だった。
 客席のそこら中から、まさに猫の鳴き声のような、か細い声が上がった。

「個人情報の保護とは、しっかりしてるじゃねえか。自分たちなりに、騒ぎを広めないようにしてたってことだろ」
 大騒動の発信源がそれを言うか、と物言いたげな視線が跡部に集まる。
「ところで乾、それはどうやって入手したんだ?」
 手塚がじとりとした目をバッジに向ける。乾はわざとらしく目を逸らした。
「それは……、もちろん正規ルートで……」
「は!? 正規ってことは、乾も雌猫ってことか!? メスじゃねえけど! え……、じゃあ何だ!?」
 向日は途中で自分の言葉に途中で引っかかってしまい、混乱したように額を押さえた。
「あいつ等のそういう寛容さ、嫌いじゃないぜ」
「跡部、そういう問題とちゃう」
 顔の前で力なく手を振る忍足に、跡部が「そうだな」と一つ頷くと身を乗り出した。
「乾。お前、嘘を吐いてたってのか?」
 俺様のこと、何とも思ってねえのに?
 そんな幻聴が聞こえた気がして、乾は息を詰めた。じっと見上げてくるアイスブルーのせいで身動きが取れない。何度か口を開いては開いては閉じ、カラカラに乾いた喉を潤そうと唾を飲み込む。そして、やっとの思いで口を開いた時、横に座っていた宍戸が大慌てで跡部の目を覆った。
「乾、気をつけろ! 道を踏み外すぞ!」
「アアン!? そりゃ何の道だ! 俺はただスパイが紛れ込んでんなら、真面目にやってる奴らに失礼だろうと……! おい、いい加減手ぇ離せよ!」
 ぎゃーぎゃー暴れる二人を前に、「そういう問題でもないっちゅーねん」と忍足が力なく首を振る。
「……危ないところだった」
 何かとんでもないことを口走るところだった、と乾は額に浮かんだ脂汗を拭った。
「乾……、後で話をしよう」
「手塚!? 俺は、情報収集の一貫として……!」

「なんで、そこで手塚がキレてんだよ」
 宍戸は暴れる跡部から手を離すと、訝し気に言った。
「まあ、情報が漏れようが、どうってことねえよ。来年こそ、俺たち氷帝が優勝を戴くんだからな!」
「そうだぜ! 高等部では負けないかんな!」
 宍戸に続いてそう言うと、向日は食って掛かってくることを期待するようにテーブルを見回した。しかし、さっきまでの騒がしさから一転、青学はしんみりとした雰囲気に包まれている。
「な、なんだよ、急に湿気た顔して」
「そうか、氷帝はみんな持ち上がりなんだよね」
 不二が確認するように言う。大石は困ったように頬を掻いた。
「実は、俺は外部の高校に行くつもりなんだ。タカさんも、高等部ではテニスはやらない予定だし」
「びっくりしたのは手塚だよー! 昨日の打ち上げ中に行き成り『プロを目指してドイツに行く』って言い出すんだもん! そんな話があるなんて、今までこれっぽっちも言わなかった癖にさ!」
 菊丸の言葉に、跡部が驚いたように手塚を見る。
「本当か?」
「ああ」
 手塚はそう言って小さく頷いた。
「……そうか。頑張れよ」
 跡部は目を細めると、短いエールを送った。

『――この青学テニス部に入部して三年。俺たちは全国大会優勝という夢に向かって、ひたすら上を目指してきた。その頂上に立った今、もはや夢は夢ではない。この経験を力に、お前たちにも、それぞれの目指すものに向かって邁進して欲しい――』

「……ってさ。俺、聞きながらちょっと泣いちゃったもん。自分も頑張らなきゃ、って」
 へへ、と照れ笑いを浮かべながら河村が言う。
「かっちょいいじゃん! ってか河村、今の手塚の真似かよ!」
「あはは、似てないよね」
「似てないにも程があるだろ~!」
 しんみりしてしまった空気を吹き飛ばそうと、向日が殊更明るく笑う。
 だがすでに、その場にいる全員が気付いていながら今日まで言い出せなかったことが、隠しようもなく顕わになってしまった。日一日と少しずつ大人に近づいていく時の中で、誰もが変わらずにはいられない。これから何度季節が巡ろうと、この仲間達と過ごした夏は、もう二度とやって来ない。

 そんな中、ふと息を吐いた不二が口を開いた。
「で、結局のところ、手塚と跡部はどういう関係なのかな?」
 怪訝な顔をする手塚に、不二が付け加える。
「さっきの一年の頃の話。どう考えても、君達入学前には知り合ってるよね?」
「せや! まいど会うたら会うたで妙~な雰囲気やし! いい加減観念して吐いたらどうや!」
 話の流れを変えようと、忍足も不二の話題に乗る。
「え、それマジ!?」
「水臭ぇな、何で黙ってたんだよ」
 騒ぎ出した菊丸と宍戸に、跡部は困ったように「話せば長いんだよ」と言った。
「また今度な。それより話を元に戻そうぜ? つーわけで手塚、パス!」
 跡部がニヤニヤと笑いながら頬杖をつく。手塚が意を決したようにパチンと箸を置くのを見て、話を振られようが言うはずがないと構えていた不二を初めとした青学の面々は、驚いたように顔を見合わせた。

「長くなるので端的に説明する。初めて会ったのは、青学に入学する一年半ほど前だ。場所は、都内のテニスコート。振り返ると、あれが一目惚れというものだったんだろうと思う」
 手塚がそこで一旦言葉を切ると、周りから「うおおおお!!」と歓声が上がった。さっきまでのセンチメンタルな空気はどこへやら、赤裸々な告白に場の空気が一気に熱を帯びる。
「わあ、初耳だなぁ!」
 河村は我が事のように顔を赤くした。
「聞かれたことがなかったからな」
 手塚が平然とのたまう。
 聞いて良い雰囲気を出したことがなかったろう…!という全ての青学部員の思いを代表するだろう文句をグッと飲み込んで、乾は続きを促した。
「手塚の御眼鏡に適う子とは、一体どんな子なんだい?」
 なにせ、こんなにも自分のことに関して饒舌な手塚など、ついぞ見たことがない。まさに千載一遇のチャンス。今データを集めずして、いつ集めるというのか!
「真面目で努力家。あと、並外れた世話好きだな」
「ほうほう」
 一心不乱にノートに書き込みながら乾が相槌を打つ。それを押しのけるようにして向日が身を乗り出した。
「なあ、見た目は!? かわいい系? 美人系?」
「今は十人が十人美人というだろうな。昔は人形のように可愛らしかったが」
「不二ぃ、言った通りっしょー!? 手塚ってば、絶対面食いだと思ったんだよねー!」
 菊丸が不二を指差して、まるで鬼の首でも取ったように弾んだ声を出す。
「『今は』とかさ。もしかして手塚、今でもその子のこと好きなんじゃない?」
 不二がニコリと探るような視線を送る。手塚は「ああ」と、恐ろしいほど素直に頷いた。
 少し意外そうな顔をした跡部は、すぐに相好を崩して言った。
「テニスコートで、ってところが全く手塚らしいな」
「いや、趣味が同じっちゅうのは大事やと思うで。相手も上手いんやろか?」
「そうだな、かなりの強敵だ」
 最初に何か妙だと気付いたのは、向かい側に座る忍足だった。大勢の質問に答えながらも、手塚の視線がある一点から動かないのである。まるでその一人だけを相手に話しているように見えるのは、気のせいだろうか。いや、気のせいだろう。そう思いたい。
「手塚は典型的な亭主関白タイプだからな~。相手の子は、三歩下がってついて来るような大和撫子なんだろうな」
 大石が微妙に失礼なことを笑顔で言う。
「いや、真逆だな。負けん気が強くて、人のことをぐいぐい引っ張って行くような奴だ。ついでに口も悪い」
「マジかよ、意外だな! それじゃあ、まるで……まる、で…………」
 向日は何か言いかけて口を噤んだ。隣では大石が、もしもの時の為に常備している胃薬を取り出している。向日が向かいの席を見れば、乾は大事なノートを取り落としているし、不二は口角を限界まで上げて目を爛々とさせている。正直かなり怖い。

「なんで告白しないんだよ? 手塚が学内でキャーキャー言われてるって話、こっちにも届いてるぜ」
 うっかり気付いてしまった者以外、つまり高度な鈍感力を持つ者たちが未だに質問を続けている。
「今までは、部に集中したいと思っていたし、相手もそうだろうと思っていた」
「なるほど。たしかに、テニス漬けで恋愛にまで手が回らないってのはあるよなぁ」
 宍戸はうんうんと頷きながら、分かったような口を利いた。
「相手も、って。なーんだ、脈有りなんじゃん!」
 からかってやろうと思ったのに、と菊丸は唇を尖らせている。
「そう思っていたんだが……。今、自信を失いかけているところだ」
「おいおい、自信だと? なに悠長なこと言ってやがる。ドイツに行ったら、それっきりになっちまうんだぞ? 当たって砕けてこいよ。安心しろ、骨なら拾ってやる!」
「そうか……」
 跡部の励ましに、手塚が硬い表情で頷く。
「いや~、手塚の恋愛相談を聞く日が来るなんて思ってもみなかったなあ」
「全くだぜ! 真顔で『テニスが恋人』とか言いそうだもんな!」
「それか、『俺と付き合う気なら、テニスで俺に勝ってからにしろ!』でしょ!」
「そりゃ、なかなか高いハードルだな。なんにせよ、手塚も一角の男だったってことだな」
 河村がしみじみと言うのに、宍戸、菊丸、跡部と続く。
「ああ。あと、相手も男だ」
 ブッ!と口に含んでいた麦茶を宍戸と菊丸が揃って噴き出す。正面と側面から思い切りそれを被った忍足は、怒ることもせずに無言のまま両者にお手拭きを差し出した。テーブルの逆サイドでは、河村が手元の箸をぱきりと折って固まっている。

「そんな条件をつけるつもりはないが、例えあったとしても問題ない。この夏、その相手に、俺は一度負けているからな」
 手塚は跡部を見つめて、一言一言区切るようにして言った。跡部が驚いたように目を見開いて手塚を見つめ返す。
「手塚……。お前、その相手ってのは、まさか……」
「ああ」
 これでやっと、このボケ合戦も終わるかと、一同安堵の溜息を吐こうとして。
「真田か!」
 盛大に咽た。
「違う。何故そうな――」
「お前や言うとるんや、このド阿呆がああああああ!!」
 それまで必死に耐えていた何かが爆発したかのように、忍足が腹の底から声を出す。そこかしこから、拍手とともに「ナイスツッコミ」と称賛の声が上がった。

「………………は?」
「どこをどう聞いたらその答えに行き着くんや、この天然! いっそわざとや言うてくれ!」
 目を瞬かせる跡部に、忍足が咆える。跡部は手塚の方を向いた。
「……マジか?」
「マジだ」
「そうか……」
 それっきり跡部は黙り込んだ。手塚はまるで一仕事終えたかのように、麦茶を流し込んでいる。そんな中、誰よりも先に痺れを切らしたのは宍戸だった。
「おい、跡部! なに黙ってんだよ! 何とか言えよ!」
 ぐいと跡部の肩を引く。振り向いたその顔を見て、宍戸は続けようとしていた言葉を失った。頬どころか額から耳まで真っ赤に染めて、迷子のように瞳を揺らす。そんな跡部の姿など、今まで一度たりとも見たことが無かった。その場にいた誰もが、この時初めて、氷の怪物が氷解していく様を目の当たりにしたのだった。

「なあ、侑士。思ったんだけどさ」
「なんや、岳人」
「跡部のやつ、ああ見えて律儀じゃん? 質問をはぐらかすことはあってもよ、嘘を吐いたとこって見たことないんだわ」
「そうやなぁ。で?」
「初恋って聞かれて『記憶にない』って言ったのって、マジなんじゃねえか」
「つまり?」
「つまり、本当に覚えがなかったってこと。で、今の状況を見るに」
「はー……、自覚してなかったってことかいな。ほな、しゃあないわ。俺らに出来るんは、後は若い二人に任せて――、」

「撤収!!」
 大石の号令で、次々に重たい腰を上げ始める。
「気を使わせてすまないな。この埋め合わせは後日」
「おう、なんか驕れよ!」
 手塚の言葉に、向日は軽口を返した。
「それより手塚、さっきみたいに遠回しじゃなく、今度こそ相手にちゃんと伝わるように言いなよ」
「心配するな。砕けても骨は拾ってもらえるそうだしな」
 不二からの忠告に、手塚が頷く。
「ほらぁ! 乾ももう行くよー!」
 菊丸が渋る乾の腕を掴み、引き摺って歩きながら言う。
「いや、こんないい所で! せめてボイスレコーダーだけでも……!」
「乾。やはり今度話をしよう。誰にも邪魔されない所で。二人っきりで」
「さあ、菊丸君! どこへ行こうか!」

「あ~あ! なんか、もう一騒ぎしたい気分!」
「おっ! じゃ、カラオケでも行くか?」
「いいねー! 皆で行こー!」
「せやな、甘酸っぱいラブソングでも聴きたいわぁ」

「おい、お前ら! ちょっと待て!」
 まだ赤い顔のまま、跡部が声を荒げて腰を浮かせる。その肩をぐっと押し戻して、芥川が問う。
「跡部、今まで手塚と知り合いだったって教えてくれなかったの、何で?」
「そりゃあ……。部長が他校の部員とつるんでたら、示しがつかねえだろ」
 常に無い真剣な表情を見て、跡部は気まずそうに視線を逸らしながら答えた。
「そっか! じゃ、これからは跡部が我慢することも、遠慮することもないってことだよね!」
 にっこり笑って告げられた言葉に、跡部は弾かれたように顔を上げた。
「俺のヒーローはいつだって、敵からも自分からも逃げない!」
 最後に気合を入れるように跡部の肩を強く叩く。それから返事を待たずに「また夏休み明けにねー!」と大きく手を振ると、芥川は走り去っていった。

 並んで座る手塚と跡部の二人だけを残し、部屋に静寂が訪れた。
「てめえな、場所とタイミングは選べよ」
 手塚と目線を合わせないように正面を向いたまま、跡部が言う。
「奇しくもお前が言っただろう、『このメンバーが揃うことは早々ない』と。今日こうしてお前と会ったのも、何かの縁だと思った。それに……、思った以上にお前に好意を寄せる者が多いと知って焦ってしまった」
 同じく正面を向いたまま、馬鹿正直に手塚が言う。
「だからって、あいつらの前で。しかも、こんな鍋くせえところで……」
 先程曝した醜態を思い出して、跡部は顔を覆った。
「しかし、あいつらがいなければ、お前はどこまでも気付かなかっただろう。それと、俺は良い匂いだと思うが」
「うるせえバーカ! もう黙れ!」
 すんすんと鼻を鳴らす手塚に、跡部が反射的に悪態をつく。二人ともが黙ると、再び煮詰まった鍋がグツグツいう音だけが小さく聞こえた。

「……跡部。これでも、緊張でどうにかなりそうなんだが」
 ようやく手塚の顔をちらりと見た跡部は、思わずといったふうに唇を綻ばせた。
「……なら、ちったあ顔に出せよ」
「お前と会わない間に、随分面の皮が厚くなってしまったらしい」
「ふふっ、違いねえ」
 笑う跡部に視線を合わせて、手塚が言う。
「跡部、好きだ。おそらく初めて会ったあの日からずっと。……初恋を、一緒に始めてはくれないだろうか?」
「……ずりぃんだよ。そんな言い方されたら、もう逃げ場がねえだろ」
 真っ赤な顔をしながら、しかしもはや視線は逸らさずに、跡部は困ったように笑った。
「逃がす気はないからな。ずるくて結構だ。……そろそろ返事を聞かせてくれないか?」
 跡部は大きく息を吐くと、喧嘩でも売るように手塚に顔を近づけた。
「んなもん、気付いた瞬間に決まってる。答えは――」

 ガシャンバターン!と出入り口の方から聞こえた物音に、手塚が振り返る。空のお盆を持った店員達が、あたふたしつつ襖を開けた。
「ごめんなさいね。もうお会計済まされたから、てっきり皆さん帰ったものと思って」
「本当! 全然全く盗み聞きするつもりなんてなかったんですけどね!」
「いえ、お構いなく。俺たちももう帰るところです」
 手塚は鞄を肩にかけながら立ち上がった。
「行くぞ、跡部」
「お、おう。って、何処にだよ?」
 大きな音に固まっていた跡部が、手塚を見上げて言う。その手を引っ張って立たせながら、手塚はいつもと変わらぬ口調で言った。
「家に来い」
「は!? いろいろ順序ぶっ飛ばしてねえか!?」
「前に、物珍しそうに見ていたじゃないか。一度招いてやりたいと思っていたんだ」
「前? てめえ……、いつの話してんだよ」
 言いながら初めて会った日の事だと気付いて、跡部は気恥しそうに頬を押さえた。
「何を想像したんだ?」
 意地悪そうに目を細めて僅かに口角を上げる手塚を見て、跡部が金魚のように口をぱくぱくさせる。
「手塚っ……。お前、変わったな!?」
「そうだろう。さあ、行くぞ」
 跡部の手を引いて手塚は駆け出した。
「あぶねっ! おい、走るんじゃねえ! 人の話を聞け!」
 転ばぬように後に続いて走りながら、跡部が文句を言う。店員達の前を通り過ぎる際に、「ごちそうさまでした!」と言うのは忘れない。
「いえいえ、こちらこそ……」
「ごちそうさまでした~」
 熱く長かった夏が終わり、もうすぐ秋がやってくる。今年の秋は、きっといつになく短い。その一瞬も零れ落とさぬよう固く手を結び直すと、恋の階段を二人で一気に駆け下りた。

  

  

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