ラストダンス

  

 ここ二、三日で朝晩の冷え込みはぐっと厳しくなった。合宿所を囲む山の緑は、急速にその色を変えていく。黄色や赤に色づき始めた木々の下、人気のないコート脇を走れば、小さな野鳥たちのさえずりがいつも以上にクリアに聞こえるようだった。食堂も図書館も軒並み閑散としているところを見ると、施設内に残った者は思っていたより少ないらしい。
 U-17の合宿に参加してからというもの、朝から晩までテニス漬けの日々が続いていた。これを天国と呼ぶか地獄と呼ぶかは個人の主観によるだろうが、分刻みのハードなトレーニングは、部を引退した後も変わらず鍛えていた手塚をしても厳しいものだった。たまの休養日くらい、羽を伸ばしに出かけたくなるのも自然な流れだろう。
 ひんやりとした風を肌に感じながら、徐々にスピードを落としていく。散策がてら、もう一周しようかと考えたところで、手塚ははたと足を止めた。ふいに耳に届いたクラシックの旋律。場違いなそれは、どうやらジム棟の二階から聞こえてくるようだった。音を辿るように見上げた窓の一つに見慣れた人影を認めて、手塚は予定を変えることにした。

  

「よう。お前も残ってたんだな」
 ノックもなしに現れた手塚にさして驚くでもなく、跡部はそう声をかけた。開け放ったばかりの窓から吹き込んできた秋風が、黄金色の髪を揺らしている。
「お前こそ、部員と一緒じゃなかったのか」
「その言葉、そっくりお返しするぜ」
 殺風景な部屋だった。だだっ広い板張りのフロアには、隅のほうに申し訳程度に音響機材が置かれているほかは家具らしいもの一つなく、長く使われていない部屋独特の空気が、どこか空虚に横たわっている。壁の一面を覆う鏡さえなければ、それこそ空き部屋だと思っただろう。
「ダンスルーム? こんなところになぜ……」
 部屋をぐるりと見渡して手塚が呟く。
 跡部は残りの窓を開けていきながら、「案外、エアロビでもさせるつもりだったのかもな」と、本気か冗談か分からない口ぶりで答えた。
 カラフルなレオタードに身を包んだ筋骨隆々とした男たちの図が脳裏に浮かぶ。
「ゾッとすることを言うな……」
 お化けでも見たような顔で手塚が言うと、跡部はケラケラと笑い声を上げた。その間も弦楽器の音色は途切れることなく、穏やかな三拍子を紡いでいる。
「で? 何か用かよ」
 跡部は軽い準備運動のように足首を回しながら尋ねた。この部屋の用途を思い出して、手塚は少し驚いたように目を瞬かせた。
「踊るのか」
「ま、気晴らしにちょっとな」
 そう言う跡部が着ているのは黒い薄手のトレーニングウェアで、たしかに音楽鑑賞という雰囲気ではなかった。
「そうか」
 手塚は納得したように一つ頷くと、それきり口を噤んだ。三小節の沈黙。
「……見せ物じゃねえんだが?」
 いっこうに壁際から動こうとしない男に、跡部は怪訝な目を向けた。
「たまには娯楽も必要だと思わないか?」
 腕組みをしたまま手塚はニコリともせずに答えた。跡部の口から思わずといったふうにため息が漏れる。
「俺様を踊り子扱いするのは、てめえくらいなもんだぜ」

  

 鏡の前に立つと、跡部は俯いたまま何度か踵を上げ下げした。肩の力を抜き、細く長く息を吐き出す。数拍おいて、ゆっくりと両手が上がり、胸の高さで静止した。ピンと伸ばした背筋から、糸を張るような緊張が伝わってくる。呼吸さえ躊躇われるような静寂――――。
 音楽と共に、右足が滑るように一歩を踏み出す。その瞬間、部屋の空気は鮮やかに色を変えた。流れるようなステップは穏やかな波間を漂うように、やわらかく、時に力強く、くるりくるりと円を描く。ゆったりとした動きに合わせて、流れる時間までもが急激に速度をゆるめたようだった。フローリングと靴底とが擦れて時折キュッと上がる音だけが、どこまでも現実だ。
 ターンのたび、窓から差し込む陽の光が金色の髪をキラキラと輝かせる。一人きりのワルツ。柔らかな日差しの中で、それはまるで見えない何かと踊っているようだった。

  

 曲が終わると、跡部はいつもの人を食ったような顔をして手塚を振り返った。
「お気に召したか?」
 手塚はパチリと目を瞬いた。まるで夢から醒めたばかりのように、頭の芯のほうがぼんやりしていた。
「今のは?」
「シャドーつって、まあ、テニスで言うところの素振りみてえなもんだな」
 乱れた髪を払いながら、跡部が近づいてくる。
 シャドーか。今見たダンスには、どうもしっくりこない気がする。むしろ、
「影というよりは」
「ん?」
「俺には光と踊っているように見えた」
 跡部はピタリと足を止めた。眉間に皺を寄せて、まじまじと手塚の顔を凝視している。最適な表現を見つけたように思ったが、何か気に障ったのだろうか。
「もう踊らないのか?」
 手塚は少し残念そうに言った。
 跡部は一瞬、虚を突かれたような顔をした後、まるで質の悪い悪戯でも思いついたみたいに唇の端をニッと上げた。大股で手塚との距離を詰める。
「手塚ぁ」
 まるで舌先で飴玉を転がすような呼びかけ。
「せっかく二人いるのに、一人で踊ることないと思わねえか」
 目の前に立つ男からは微かに花の香りがする。決して甘くはない。例えるなら、朝霧の中の、固い薔薇の蕾のような。
「俺に踊れ、と?」
「安心しろ。俺様が踊らせてやる」
 言うが早いか、跡部は手塚の手を掴んで部屋の中央へと引っ張り出した。

  

「まずホールド。ワルツの基本姿勢だが、片手は顔の高さ」
 差し出された手に、右手を重ねる。
 そう背丈が変わらないせいか、顔の位置が驚くほど近い。綺麗な扇状に広がった睫毛が、黒に近い焦げ茶色をしていることなど、今初めて知った。
「もう一方は、相手の二の腕の上に置くようにして――」
 跡部の手のひらが背中に触れる。そこまで来て、手塚はハッとしたように声を上げた。
「跡部」
「アン?」
「これでは、俺が女性役にならないか?」
 跡部が不思議そうに首をかしげる。
「何か問題あるか?」
 手塚自身、基本的に細かいことには拘らない性質だが、今回ばかりは話が別だ。
「……俺のほうが背が高い」
「それが何だってんだよ。たかだか数センチじゃねえか」
 言葉の意図するところが伝わらなかったらしい。跡部が訝しそうに言う。
 同性同士で組む場合、一ミリでも背が低いほうが女性役になるのはダンスの常識ではなかったのか。少なくとも、フォークダンスの授業ではそうだったが。 
「まあいいぜ」
 無言の抗議をどう受け取ったのか、跡部はあっさり手を離した。
「ただし、男役のほうが難しいぞ。社交ダンスは男女の役割がきっぱり分かれる。リーダーである男は、フォロワーの女を常にリードしなきゃならねえ」
「だが、踊らせてくれるんだろう?」
 長々と続きそうな講釈を、先ほどの言葉尻を捕らえて断ち切る。
「……面倒なことになっちまったぜ」
 文句とは裏腹に、唇は笑っていた。
 ひとまず、オーソドックスなステップから何種類か教わった後、それらを組み合わせて一つのルーティンを作ると、さっそく音楽に合わせて踊ることになった。
 ワルツのステップは、まるで合わせ鏡だ。こちらが片足を踏み出せば、相手は片足を引く。右へ行けば右。左へ行けば左へ。
「覚えがいいじゃねえの」
「話しかけないでくれ。踏み間違える」
「心配しなくても、そんときゃ合わせてやるよ」
 くつくつと可笑しそうに跡部が笑う。肩甲骨から手のひら越しに、その振動がダイレクトに伝わってきて、近いな、と改めて思う。カウントを取る小さな声を聞きながらステップを繰り返す。徐々にではあるが、体が動きを覚えていく。
「習っていたのか?」
「あっちじゃメジャーな習い事の一つだぜ。ガキの頃から教養として身に着けとくようにってな。日本に来てからは、そんな機会もめっきり減ったが、時々思い出したみたいに踊りたくなる」
「好きなんだな」
「まあな。性に合ってるんだろうよ」
 喋りながら跡部はしなやかに背を反らせた。コントラ・チェック。ホールドを崩さず引き上げると、「上出来だ」とまるで機嫌のよい猫のように目を細めた。
 優雅そうに見えて結構な運動量だ。三曲、四曲と踊っていれば、額にもじんわり汗が浮かんでくる。
「まるでスポーツだな」
「まるで、じゃなくてスポーツなんだよ」
 ダンスとは、足の先から頭の天辺まで全身の神経を使って思い通りに自分の体を操ること。
「社交ダンスは、社交の場でのコミュニケーションツールの一つだが、同時に動きの美しさを見せるスポーツでもある。言ってみれば、美しくなけりゃダンスじゃねえ」
 そう言い切る跡部に、なぜか試合中の姿が重なった。彼のプレイスタイルの根本は、こういうところにあるのだろうか。この男ほど美しいテニスをする選手を、手塚は他に知らない。

  

「次でラストにしようぜ」
 壁に掛かった時計に目をやると、そろそろ外に出ていた面々も帰ってくる時間だった。随分集中していたらしい。時間の感覚が曖昧だ。かなり長い時間踊っていたようにも、瞬きの間のことのようにも思える。
 どこかで聞いたことのあるようなメロディが流れ出すと、意識よりも先に体が動いた。
「なあ、手塚」
 曲の終盤、何の気なしに跡部が言った。視線を落とせば、こちらを見つめる淡い色をした瞳の中に、自分の姿が映り込んでいる。
「知ってるか、ドイツ人はかなりのダンス好きらしいぜ?」
「跡部……」
 驚いて足を止める。ちょうど曲の終わりだったようで、長いフェルマータの余韻を残して音が止んだ。
「これから先、多かれ少なかれ踊る機会もあるだろうよ。俺様が仕込んでやったんだ。みっともないとこ見せんじゃねえぞ」
「ああ……」
「よし、絶対に忘れるなよ」
 そう言って笑うと、始まったときと同じ唐突さで跡部の手は離れていった。
 忘れようとしても忘れられないのだろう、と確信めいた予感がする。どこまでも熱い手のひらの温度。夏色の瞳。開花の時を待つ、薔薇の蕾の香りすら。

  

  

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