その証に

  

 リノリウムの床の上を、革靴が軽い音を立てて近づいてくる。
 走るか走らないかというほど早いテンポでありながら、決して踏み荒らすようには響かないその音を聞いて、ミカエルはゆっくりと息を吐いた。

 個室のドアが神経質に四度鳴らされる。ミカエルは小さく「どうぞ」と声をかけた。静かに扉が開く。入り口には予想通り、ダークグレーのスーツを隙無く着こなした跡部が、無表情に立っていた。
「随分お早いお着きでしたね」
 ベッドから背中を起こせないまま、無作法ながら言葉を続けようとする。だが、跡部は既に限界だったらしい。ベッドの脇に駆け寄ると、そのまま糸が切れるように膝をついた。ごく間近に迫った青い瞳が、些細な違和も見逃さないとでもいうように、探るような目つきで見つめてくる。
 日頃の精彩を欠いた瞳に向けて、安心させるように微笑む。瞬間、跡部の口が戦慄いた。
「屋敷で倒れたと……」
 その後は言葉にならず。顔を隠すようにベッドに伏したかと思うと、時折押し殺した声で、何度も何度も「よかった」と繰り返す。暖かい両の掌が、ぎゅっと自分のしわがれた手を握り締めるのを、ミカエルは感慨深く見つめた。いつの間に、この手はこんなに大きくなったのだろうか。
 それでも、まるで小さな子供のように縋り付く姿を見れば、自然と昔を思い起こす。最近では見上げるばかりになっていた柔らかな金茶の髪を、そっと撫でた。
 暫らくお互い無言でそうしていたが、ようやく跡部も落ち着きを取り戻したらしい。気恥ずかしそうに頭を上げると、色白の顔に鼻の天辺だけ赤くして、くしゃりと笑みを浮かべた。
 笑みばかりか、スーツまですっかり皺くちゃになってしまっている。さらに埃まみれになっては敵わないと、椅子に掛けるように勧めるものの、断固として拒否されてしまった。まだ迷子の子供のような顔をしている彼と、手を繋いだまま話をする。

「ご心配をおかけして申し訳ございませんでした。ただの貧血だそうです。まったく、寄る年波には勝てません」
「ミカエルは働きすぎだ。屋敷の者からも、誰よりも早く起きて仕事をしていると聞いたぜ。ゆっくりしてもらいたくてイギリスにやったのに。これじゃ逆効果じゃねえか」
 むっと眉を寄せて、窘めるようなしかめ面を作ってみせる。
 長い執事暦の中で初めて任された、主人のいない屋敷を守るという仕事に、どうもペースが掴めずオーバーワークを起こしてしまったらしい。自分の方がよほど具合の悪そうな顔をして飛び込んできた跡部に対して心苦しく思いながら、ミカエルはふと手に触れた硬い感触のほうへ、訝しげに目を落とした。
 跡部の左手。その長い薬指に、シンプルなデザインのリングが光っている。
 目を瞬かせた後、じわじわと頬を緩めたミカエルの表情を見て、怪訝そうに自分の手を見下ろした跡部は慌てふためいた。

「あ!? これは……!」
 今更何を隠そうというのか。引き抜こうとする腕を掴んで、その左手を顔まで近づけ、しげしげと眺める。跳ね除けることも出来ただろうに、顔を真っ赤にしてされるがままになっているさまは、随分と可愛らしい。
 欧州への出張も多い跡部が屋敷からの報告で駆けつけたにせよ、どうにも到着が早すぎると思っていたのだが、これで会心した。今日はバーミンガムで開催中のテニスツアーの最終日。もちろん手塚選手も出場している大会だ。
 いつの頃からか跡部が身に着けるようになったネックレスがあった。おそらく、このリングはそれに通していたのだろう。いつもは大事に胸元に仕舞い込まれて人目につくことはなかったが、観戦中にだけは嵌めるようにしていたのかも知れない。ボールを目で追いながら、祈るように手を組む姿まで見てきたように思い浮かんで、そのいじらしさにこちらまで頬が赤くなる思いがする。
 そんな大切な指輪を仕舞うのも忘れて、もしかしなくとも観戦していた試合を放り出して飛んできた跡部に、申し訳なく感じるものの、それを上回る温かいものが喉元まで込み上げてくる。
 満足いくまで観察すると、ミカエルは「素敵な指輪ですね」と一言だけ口にして、そっと手を元の位置に戻した。

「坊ちゃまをお守りするのが私の役目と思い、今日まで努めて参りましたが……。これで本当に、ミカエルもお役御免ということですね」
 大きな安堵に一抹の寂しさを混ぜた溜息を吐く。
 それを聞くや否や、跡部は急に顔を引き締めた。
「ミカエル。全部終わったみてぇに言うには、いささか早急だ。お前には、大事な役を頼みたい」
 その口ぶりに、ミカエルはシーツの上で気持ちだけ背筋を伸ばした。
 最近になって上に立つ者の貫禄が一層増した彼を、誇らしい思いで見つめながら次の言葉を待つ。
「俺たちの結婚証明書の証人になって欲しい」
 思わず口をあんぐりと開けたミカエルを見て、跡部は悪戯に成功した子供のようなしたり顔を浮かべた。
「景吾様、それは。そんな、私がそのような大役を……」
「前々から思っていた。届けを出すなら、ミカエル。お前に見届けて欲しい」
 慌てて起き上がろうとするミカエルを押し止めながら、跡部が言う。
「ご両親をさて置き、でございますか。なんと恐れ多い」
「いいんだ。お父様達には、そうだな、日本の届けにサインしてもらおうか」
 跡部がカラカラと笑う。しかし、黙っているミカエルを見るとすぐに口を閉じ、その瞳を窺うように覗き込んだ。
「頼めるか?」
 この瞳に、否と言える者などいるだろうか。
「もちろん。謹んでお受け致します」
 そう言ってほほ笑むと、跡部は柔らかく目を細めて頷いた。

「まだ何年先になるか分からねえがな。だからミカエル、お前にはそれまで元気でいてもわらないと困る」
「おや、左様でございますか。どうぞ私の命があるうちにお願い致します」
「ああん? なら、十年、二十年先でもいいかもな」
「景吾様!」
 繋いだ手をぶらぶらと揺らしながら、秘密の計画を練るように話をする。

 良いではないか。
 せめてこの瞬間だけは、彼を一人占めさせてもらっても。
 数年後には確実に、この大事な坊ちゃまを攫って行くチャンピオンには、もうしばらく病室の前に突っ立っていてもらうのだ。

  

  

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