リバースクライ
バースクライ【birth cry】
生まれたばかりの赤ん坊が初めてあげる声。
胎内から産道を通り抜ける間に気道に詰まった羊水や粘液を、呼気に乗せて体外に排出する役割を持つ。
はじめのうちノイズ混じりだった泣き声は、喉の異物が取り除かれていくにつれて呼吸とともに安定し、次第に本来の澄んだ響きを取り戻していく。
轟々と低いうなり声を上げて、飛行機が離陸する。
宵闇の霧に、おぼろげに霞みながら小さくなっていくロンドンの街の明りを、跡部はぼんやりと見下ろした。華奢な体が、その三倍は幅のあろうかという広いシートに半ば埋もれている。
ヒースロー空港を飛び立ったばかりのプライベートジェット。その搭乗者は、跡部の他にはごく限られた数名の使用人のみであった。彼らも今は別室に控えている。この室内にいるのは、跡部と、それこそ彼がこの世に生まれた瞬間から傍にいる執事のミカエルの二人きりだ。
留守がちな両親に代わって何かと世話を焼いてくるメイドたちも。夢のようなお菓子を作ってくれるコックも。面白い噂話をこっそり耳打ちしてくる庭師も。屋敷で飼っているたくさんの動物たちも。そして、物心ついた頃からずっと一緒にいた幼馴染も。
みんな、この霧の中へ置いてきてしまった。
離陸から数分。機体が気流に乗り安定すると、微かなモーターの回転音を残して、他には何も聞こえなくなった。
「坊ちゃま、久しぶりの日本でございますね」
ミカエルの静かな声に、跡部はようやく窓に向けたままだった顔を正面に戻した。目が合うと柔らかく微笑まれる。
「ささ! 今の時間、日本は真夜中。目的地の時間に合わせませんと、到着早々時差ぼけで苦しむことになりますよ。さっそく、おやすみの準備を致しましょう」
ぱんっと一つ軽やかに手を鳴らして、ミカエルが立ち上がった。ベッドサイドに歩み寄りピンと整えられたシーツを確認して満足気に頷くと、戸棚の中からゆったりしたナイトガウンを取り出す。跡部は、テキパキと支度を進める後姿をじっと見つめた。
寝付きが良くなるように、ペパーミントのハーブティーをお淹れしよう。もちろん飲みやすいよう、ミルクは多めで。
そう思い立ちキッチンへ向かおうとしたミカエルは、視線に気付いて足を止めた。
硬い顔をした幼い主の元へ、ゆっくりと歩み寄る。正面に膝をつき、目線を合わせると、彼の右手に己の手をやんわり添えた。小さな拳が無意識にだろう、硬く握られていたことには、離陸前から気付いていた。今も白い甲に、くっきりと筋が浮き出ている。それを両手に包み込みそっと左右に揺らしながら、ミカエルはおまじないの言葉を言い聞かせるように呟いた。
「大丈夫。きっと大丈夫ですよ、景吾様……」
無言のまま、どれほどそうしていただろう。
気付けば細い肩からは力が抜け、薄い瞼が瞳を覆い隠していた。ベッドに運ぼうか僅かに逡巡した後、ミカエルは起こさぬように細心の注意を払いながら、リクライニングを傾けた。片手を伸ばして手近にあったブランケットを掴み、その体に掛ける。
そして、ゆるく結んだ手を離すことなく跡部を見つめた。膝をついた姿勢のまま、いつまでも見つめていた。
「アウト! ゲーム・セット・アンドマッチ! ウォンバイ手塚! ゲームカウント6―4!」
相手の打球がエンドラインをオーバーしたのを見届けて、審判役が試合終了を告げる。それを合図にネット際まで歩み寄ると、手塚はたった今まで打ち合っていた青年を見上げた。ラリーで暖まった体に、秋風が心地よい。
「ありがとうございました」
「ねえ、君、本当に小学生?」
青年は握手をしながら、いまだに信じられないとでも言うように手塚の顔を覗き込んだ。子供らしからぬ堅実な試合運びのせいか、はたまた落ち着いた雰囲気のせいか、実年齢より上に見られることの多い手塚は、慣れた様子で短く「はい」と答えた。
「俺、こう見えて、高校ではインハイ手前まで行ったこともあったんだけど。まさか、小学生相手に負けるなんてなぁ……」
「はいはい、出ました! 中途半端な自慢話~! もっと真面目に練習しろってことじゃん? 女の子のお尻ばっか追っかけてないでさ!」
「うるせぇっ! テニサーなんて、そんなもんなんです~!」
先程まで審判役を買って出ていた仲間の言葉に、青年が唇を尖らせる。そのまま冗談半分に言い争いを始めた二人を前に、手塚は小さく息をついた。
区立公園の一角にあるこのテニスコートは、ナイター用の照明やレンタル用具、更衣室など一通りの設備を備えた比較的大規模なもので、休日ともなれば様々な年代のテニス愛好家が集まり、賑わいをみせる。手塚がテニススクールのない平日の夕方や週末、ここへ通うようになったのは、今年の春、五年生に進級してすぐのことだった。
同年代の多くは、塾や習い事に行くか、家でゲームなどをして遊んでいる時間帯。目に付くのは、一目で初心者と分かる仕事帰りのOLや、健康のために趣味と実益を兼ねて久しぶりにテニスを始めたようなご年配だ。それに混じるようにして、時折こうした現役が現れる。手塚はそういう人物を見つけては、試合を申し込んでいた。言わば、テニスの武者修行だ。
初対面同士のテニスは、手札の見えないゲームと同じだ。お互いの手の内を探り合うラリー。その中で、相手のプレイスタイルを見極め、癖を知り、弱点を探す。その一球の中に見えた隙を逃さず、突き崩していく高揚感と爽快感。手塚にとってそれは、クラスメイトが夢中になっているテレビゲームなどより、何倍も面白い遊びだった。
ただ、どれだけボールを追いかけても発散しきれない熱だけは、試合後の熱い汗とともに冷たい秋の空気に気化することもなく、いつまでも手塚の胸の中に渦巻いて消えなかった。
「あーあ、せっかくなら赤ずきんちゃんに良いとこ見せたかったなー」
「赤ずきん……?」
じゃれ合っていた青年の口から出た突飛な単語に、手塚は訝しげに首を傾げた。
「ほら、あそこに座ってる赤いマフラーの子。って、頭巾じゃないんだけど! いつもあの辺りに座って、じっとコートの方を見てるんだよね」
「君、気付かなかった?」
言いながら青年が指差す方向に、手塚は初めて目を向けた。観覧用にとコート脇に設けられた座席の中央ブロック、コート全体を見渡す後方。その一つに、その子は一人ぽつんと座っていた。
ピンと糸で吊られているかのように真っ直ぐに伸びた背筋。その凜とした姿勢に反して、首元に野暮ったく巻かれたマフラーのせいで、小さな顔はほぼ埋もれるように隠れている。マフラーの間から、明るい色の頭髪がわずかに覗いていた。
ちょうどその時、件の子供が酷く咳き込んだ。
ゴホゴホと、こちらにまで音が聞こえてくる。その子は慌てたように横に置いていた水筒を掴んで、蓋を取った。中身を注いだカップに口をつけようと、首元のマフラーをぐいと下に引く。それを見て、手塚は納得した。
稲穂のように柔らかな色をした髪に、白く透き通るような肌、大きな瞳。遠目にも整った顔立ちは、作り物めいた美しさを感じさせる。確かに、御伽噺から抜け出してきたような美少女だ。
「二、三週間くらい前からかな? それからほぼ毎日来てるらしいんだけど、誰かを待ってるわけでもないみたいだし。あんまりじーっと見てるもんだから、この前『一緒にテニスする?』って声かけてみたんだけど」
「断られちゃったんだろ? 首、ブンブン横に振ってさ。残念だったなぁ、ロリコン君!」
「んだとコラ!」
騒ぎ立てる彼らをよそに、手塚はその少女から目を離せないでいた。一度視界に入れば、今まで気付かなかったのが不思議なほど、人を惹きつける何かを持った子だった。年は自分と同じくらいだろうか。
一瞬、その不思議な色の瞳と視線が交わった気がした。
それからというもの、コートに立つと、どうにもあの赤が気になってしまう。
黒いチェスターコート。グレーのPコート。ベージュのトレンチ。
衣装持ちな彼女の首元には、いつも必ず、真っ赤なマフラーがモコモコと巻かれていた。十一月上旬にしては、少し大袈裟に感じる。寒がりなのだろうか。
そもそも赤ずきんは、ワインやケーキはもちろん、バッグやラケットといったおよそテニスに関わるようなものは、何一つ持ってきていなかった。唯一の荷物らしい荷物といえば、肩からさげた大きめの水筒くらい。それを時々思い出したように開けては、ちびちびと飲んでいる。その様子だけが、黙って座っているだけでは、よく出来たビスクドールのようにも見える姿を、暫し人間らしく見せていた。
それから、自分が気付くのが遅かっただけで、彼女はテニスコートの常連達にはとっくに知られた存在だったらしい。今もまた一人二人、ピンクや黄色のカラフルなテニスウェアを着た若い女性が近づいて行って、何事か話しかけている。しばらくしてウェアと同じような色の声を上げながら彼女らが去っていくと、その子は座ったまま、じっと手元を見下ろしていた。小さな掌の上に、色とりどりのお菓子が乗っている。何だ、あれは。餌付けか?
彼女はいつもふらりとベンチに現れては、何をするでもなくテニスコートを眺めている。しかし、プレーする人々の動きを追う目線は、単なる暇つぶしと言うには、真剣過ぎるものだった。その目が時折、遥か遠くに瞬く星でも見つめるようにきゅっと細まるのが不思議だった。
こんなに近くでプレーしているというのに、コートの内と外とでは、まるで何光年もの距離を隔てているかのようだ。
人目を奪う容姿でも、目立つ赤色のせいでもなく、その眼差しにこそ、目が行ってしまうのかも知れなかった。
いつもより低い空を、雲が飛ぶように流れていく。
どんよりと暗くなってきた空を見上げていた人々も、今日はもう撤収とばかり次々にコートを去っていく。手塚が気付いた時には、既に辺りに人気はなかった。
集中すると周りが見えなくなるのは、自分の悪い癖だ。最後に壁に向けてスマッシュを叩き込む。跳ね返ったボールをキャッチすると、手塚は帰り支度を急いだ。水分を含んだ空気が、肌にひんやりと纏わりつく。そろそろ一雨来そうだった。
そう言えば、今日はあの子を見かけなかった。天気が悪くなるのを見越して、はじめから来なかったのだろうか。
妙に意識してしまっている自分に気付いて、手塚は顔を顰めた。話したこともないというのに。
何となくもやもやとしたものを抱えながら、公園を後にしようとした時だった。視界の隅に、赤いものがちらついた。
反射的にそちらに顔を向ける。公園北側にある人工の森へと続く小道の前、一人の男と向かい合う小さな背中を見つけた。なんだ、来ていたのか。すると、あれは迎えに来た家族だろうか。
しかし、ふと二人の間に流れる妙な空気に気付く。何やら熱心に話しかける男に対して、少女はじっと見上げるだけで何の反応も返していないようだった。手塚の胸にじわじわと嫌な予感が湧きあがる。気付かれないように、足音を忍ばせて近づく。会話が耳に入ってきた。
「――そんな警戒しないでよ。怪しい者じゃないんだから」
怪しい奴が「怪しい者です」と名乗るわけないだろう、と手塚は眉間に皺を寄せた。
「ただ、前に見かけた時から可愛いな、と思ってて。仲良くなりたいな、なんて」
「…………」
「そうだ! これからウチに遊びにおいでよ。ここからそんなに遠くないんだ。雨も降りそうだし、雨宿りがてら、ね?」
少女の表情は窺えないが、背中からでも困惑が伝わってくる。手塚がどう動くべきか、考えようとした時だった。
「ねえ、黙ってないでさ」
そう言いながら、男の手が小枝のように細い腕に伸びるのを見て、手塚の背筋にぞっとしたものが走る。気付いた時には、そちらに向かって全速力で駆け出していた。
大声を出して人を呼ぼうか。しかし、目に入る範囲に人影はない。騒いで事を荒立てるのは、かえって危険かも知れない。ええい、一か八かだ。
「探したぞ!」
ぐりんと音の聞こえそうな速さで少女が振り向いた。
「先に行くことないだろう。一緒に帰るって約束したじゃないか!」
男の手が触れる寸前、手首を掴んで強引に引き寄せながら言葉を続ける。零れ落ちそうなほど見開かれた大きな瞳が、こちらを見つめている。初めて間近で見た瞳は、見たこともないくらい深い青色をしていた。
「そ、そうなんだ。お友達を待ってるなら、言ってくれれば良かったのに……」
しどろもどろな男を、手塚はちらりと見上げた。痩せぎすの背ばかり高い男だった。
「すみません! そういうことで失礼します!」
そう大声で一息に言い切ると、手塚は律儀に腰を折った。そのままくるっと向きを変え、少女の手を掴んで歩き出す。たじろぐ男が、そして彼女が、何か言い出す前に。なるべく自然に。だけど、なるべく早足で。
自分の左手と彼女の右手を繋いだその瞬間、ぱっと浮かんだ違和感は、焦りのあまり有耶無耶のうちに霧散した。
迂回を繰り返して辿り着いた、コート場の一角にある用具室。中に入って扉を閉めると、手塚はしばらく外の物音に耳を澄ませた。
「どうやら追ってこないみたいだな……」
足音が聞こえてこないのを確認して、手塚はようよう安堵の息を洩らした。
ふと握りしめたままだった手に気付く。その手から辿るように目線を上げると、彼女は真っ赤な顔をして苦しそうに息をついていた。急に恥ずかしくなって手を離す。
「ああいう奴には、まともに取り合うものじゃない。すぐに逃げるなり大声を出すなりしないと、何かあってからでは遅いだろう? もっと警戒心を持たないと。君は、その……目立つんだから」
気の利いた言葉どころか、ついつい説教じみたことを言ってしまった。恐怖で動けなかったのかも知れないのに。
荒い息を吐きながら下を向いてしまった彼女の顔を、手塚は慌てて覗きこんだ。しかし、予想に反して、少女は妙に険のある目つきで手塚を睨み返してきた。思わずたじろいでしまう。こちらとしては助けたつもりだったんだが……。いや、もしかして、
「日本語……、分からないのか?」
少し不安げに尋ねた手塚に、彼女はすぐさま首を横に振った。それに一安心する。だが、だとすれば、この無言の睨みあいはどうしたものか。
黙り込んだ手塚の前で、彼女は逡巡するように視線を彷徨わせた後、一旦目を伏せた。
ただ、それもほん一瞬のことで、すぐに意を決したように顔を上げる。手塚と目線を合わせると、唇を引き結んだまま自分の喉を指差した。それから唇の前で、人差し指同士を小さく交差させてみせる。
そうか、声が――。
「あ。ええと……、俺は! 怪しくは、ないぞ!?」
突然の、それも奇妙な身振り手振り付きの大声に、彼女はぽかんと口を開けた。用具室にシンと沈黙が落ちる。一方の手塚はと言えば、身体の前で両腕を交差させたポーズのまま臍を噛んでいた。思い切り墓穴を掘ってしまった。これでは、さっきの男と丸きり同じ台詞じゃないか。
「本当だ……。信じて欲しい」
両腕のバッテンの間から、そろそろと彼女を見やる。唖然としていた顔が、見る間に崩れる。かと思うと、次の瞬間、火がついたように彼女は笑い出した。
最初のうち、手塚には何が起きたのか分からなかった。
白く小さな歯が並んだ口から、断続的に空気が漏れる音だけが上がる。その口角が上がっているのを見てようやく、声もなく笑っているのだと気が付いた。同じポーズで固まったままの手塚を、ちらと見上げる。吐き出す空気の量が増し、いよいよ耐え切れないというように、お腹を押さえて彼女が蹲った。
よく分からないが、初めて人間らしい表情を見た気がする。笑顔だ。これは、文句なく可愛い。
無理やり笑いをこらえながら、彼女がどうにかこうにか自分の耳を指差す。それから人差し指と親指で丸を作ってみせた。
耳は聞こえている。
それもそうだ。でなければ、どうして今まで会話が成立していたのか。
動転のあまり、つい彼女に釣られて無用かつ滑稽なボディーランゲージをしてしまった。それにようやく気付いて、手塚は耳まで真っ赤になった。どうにもペースを乱されている。
こほん。
乾いた音に、手塚は意識を目の前に戻した。
「おい、笑いすぎだ――」
こほんこほん、ごほっ。
酷くなる咳に、手塚は続けようとした言葉を飲み込んだ。その後も咳は治まるどころか、ますます酷くなっていく。咄嗟に薄い背中を擦る。
吐き気を我慢するかのようにグッと唇を引き結びながら、彼女は肩から下げた水筒を開けた。上蓋に飲み物を移して、ひどく慎重に飲みこむ。時間はかかったが、飲み終わる頃になってようやく、咳は完全に治まったようだった。
はぁ、と大きく息を吐いて、彼女が顔を上げる。よほど苦しかったのだろう、青い瞳が涙できらきら光っていた。それでもにこりと笑うと、小さな唇が『ありがとう』の形を作った。近づいた体からほのかに、甘い花の蜜のような香りがして、思わず鼓動が跳ねる。
そんな手塚の気も露知らず、彼女は水筒からもう一杯注ぐと、手塚の方へコップをずいと差し出した。紅色の液が、たぷたぷと揺れている。お礼のつもりなのだろうか。有無を言わさぬ眼力に圧されて、手塚はそろりとコップを受け取った。
薬じゃあるまいな、と疑いながら一口だけ口に含んでみる。
どうやら甘い紅茶のようだ。渋みもなく、甘さの割にスッと喉を通っていく飲みやすさに、そのままいっぺんに飲み干してしまった。
「おいしい……」
ぽつりと出た言葉に、「そうだろう!」とでも言うように少女が顔を覗き込む。いちいち距離が近いせいだ。自分の鼓動が煩い。
ふと思い出したように、彼女がごそごそとコートのポケットを漁り始めた。
取り出したのは、茶色い革張りの手帳と玉虫色をした万年筆。ぱっと適当なページを開いて、ペンを走らせる。目の覚めるような鮮やかなブルーのインクが、さらさらと文字を綴った。
『名前は?』
万年筆とともに渡された手帳の、その美しい楷書の下に、口に出しながら自分の名前を書く。
「手塚だ。手塚国光」
てづか。
唇が上機嫌に繰り返す。開いたままの手帳を持ち主に返しながら、手塚は自然と尋ねていた。
「君は?」
それにこくりと頷いてから、彼女が手塚の名前の下に再び文字を綴る。
『跡部景吾』
………………訂正しよう。「彼」だ。
今の衝撃で、だろうか。手塚は、先程一瞬だけ浮かんだ違和感の正体を思い出した。
ぱっと彼の右手を取って掌を開かせる。突然の行動に、跡部は目を白黒させた。
几帳面に切り揃えられた爪は、丁寧に磨かれたかのようにつやつやと光を弾いている。その一方で、掌には、指の付け根、親指と人差し指の間、その対角線上の手首の付け根近くなど、考えうる場所すべてに肉刺が出来た痕が残っていた。
先程の違和感は、手を繋いだ瞬間、自分の左手と彼の右手の肉刺の痕が、ぴたりと触れ合った感触だったのだ。
もちろん、テニスをする者なら誰もが経験する傷だろう。しかし、ここまで酷い状態を手塚は見たことがなかった。何度も何度も水ぶくれが出来ては潰れ、それが治りきらぬうちに、また新しい水ぶくれが出来る。そんな練習を、長い間重ねてきた手だった。
どんな球を打つのだろうか。この手と、戦いたい。
「君も、テニスをするんだろう……?」
期待を込めて問いかけたその瞬間。目の前の顔が、心臓を刺し貫かれたかのように歪んだ。瞬時に、手塚は自分の迂闊さを悟った。
この目で見ていたではないか。テニスコートを見つめる跡部の眼差しを。聞いたではないか。ちょっとの運動や笑いにさえ乱れる呼吸を。きっと何かあるのだ。テニスを出来ない事情が……。
不用意に放った言葉の切れ味に自分自身で驚いて、二の句が継げない。
「すまない……」
傷ついた顔をもう一度直視するのが怖くて、手塚は目線を下に落とした。
窓の外、真っ暗な曇天からは、冷たい雨が降り出していた。
ころころころ。こつん。
靴に、何か軽いものが当たる感触。抱えた膝から僅かに顔を上げると、見慣れた黄色が目に入った。
自分の足元めがけて転がってくるそれらの元を辿ると、いつの間にやら、跡部が大量のテニスボールを周りに従えて、正面に座っていた。それを勢いよく転がしてくる。
目が合うと、悪戯っぽくニヤリと笑った。
まるで小さな子供の遊びだ。つい釣られて気の抜けた笑みを返してしまう。今日はもう、ずっとこいつに振り回されっぱなしなのだ。どうにでもなれ。
同じように転がし返すと、やるな、とでも言うように笑って、跡部がさらにボールを増やしてくる。だんだんとボールの速度は増し、ワンバウンドで投げあうようになり、終いには二人とも立ち上がって、掌でボールを打ち合った。
ルールも勝ち負けもないようなゲームだ。訳が分からない。が、何故だか妙に楽しい。毎日テニスをしているはずなのに、久しぶりにボールと触れ合った気がした。
不意にガラッと大きな音が用具室に響いて、二人の肩が同時に跳ねた。
恐る恐る開け放たれた扉を見やると、そこには傘を差した白髪の老人が立っていた。
「景吾さん!」
もしや、跡部のおじいさまだろうか。黒いトレンチコートに白い頭髪と口ひげの紳士然とした姿からは、どことなく跡部と同じ雰囲気が感じられた。
入り口近くにいた跡部が表情を緩めて、彼の方へトトトと足早に歩み寄る。
「あまり帰りが遅いので、心配しておりました」
跡部の目線に合わせるようにしゃがみこむと、ほう、と心から安堵したという溜息をついて老人は続けた。
「ご連絡頂ければ、直ぐにお迎えにあがりましたのに。どうかされたのですか?」
それを聞いて、手塚は今まで忘れていた出来事を思い出した。保護者には知らせておくべきだろう。口を開こうとした瞬間、跡部がぐっと眉を寄せてこちらを振り向いた。一瞬怒っているのかと勘違いする表情だ。しかし、そうではないと何となく分かってしまった。きっとこの人を心配させたくないのだ。『言わないで』という声が聞こえたような気がした。
「あの! 俺が引きとめたんです、一緒に遊びたくて……」
驚いたように老人がこちらを向いた。よほど跡部のことを心配していたのか、手塚の存在に気付いていなかったらしい。
「左様でしたか。景吾さん、お友達が……」
目元を覆い隠さんばかりの白い眉毛の下で、目を大きく見開いた後、今度は見えなくなるほど細めながら呟く。手塚は「友達」という単語のむず痒さに、どう返したものかと口を閉じた。
跡部に目線をやる。彼は、きらきらした笑顔で何度も首を縦に振っていた。
それからポケットから取り出したさっきの手帳の、おそらくあの、二人の名前が書かれたページを、まるで秘密の宝物を見せるかのようにそっと開いた。それを見て、手塚はいよいよどうしていいか分からなくなってしまった。胸の真ん中が、ひどく熱い。
「雨が酷くなって参りました。お家までお送りしましょう、手塚さん」
老人が温かな声で告げる。しかし、手塚と跡部が歩き出そうすると、扉の前に立ち塞がるようにして二人を見下ろした。
「その前に。散らかしたボールを片付けてしまいなさい、二人とも」
ミカエルと名乗った老人の運転するセダンに乗りこみ、家まで送ってもらう間に、後部座席で二人、手帳を挟んで色んな話をした。
誕生日が三日違うだけで、この十月で十一歳になった同い年だということ。跡部は、小さい頃からつい最近までイギリスで暮らしていたということ。そして、いつも夕日が沈むまでの数時間、あのテニスコートに来ているのだということ。
短時間のうちに、手帳は随分埋まってしまった。
聞きたいことは山程あった。何故日本にやってきたのか。学校には通っていないのか。どうして声が出ないのか。テニスは、もう出来ないのか。しかし、出会ったばかりでそこまで踏み込めるほど、手塚も無遠慮ではなかった。いつか、話したい時が来た時に、話してくれればいい。なによりも、もうあんな跡部の顔を見るのは嫌だった。
あっと言う間に、車は手塚の家の前に着いた。
跡部は、人の家を覗くなんて失礼だとでもいうようにすました顔をして座っているが、おそらく純和風の日本家屋が物珍しいのだろう。庭の獅子脅しや、祖父の育てている盆栽にちらちら目線をやっているのが丸分かりだ。いつか家に招いてやりたいな、と思う。
「じゃあ、また明日」
手塚の言葉に、跡部がニッと歯を見せて笑った。車の窓越しに手を振る。二人を乗せた車が雨の中に走り去るのを、手塚は見えなくなるまで見送った。
昨日の冷雨で、東京はまた一歩冬に近づいたらしい。
ざっと吹きつける木枯らしに体を震わせながら準備運動をしていると、赤ずきん改め跡部が現れた。一つ装備が増えている。腕の中に、図画の時間に使うようなスケッチブックを抱えていた。
「……絵でも描くのか?」
すぱん!
小気味いい音を立てて、スケッチブックで頭をはたかれた。大して力も籠もっていないが、条件反射で「痛い」と言ってしまう。見かけによらず凶暴な奴だ。
頭をさすりながら顔を上げると、既にこちらを無視して跡部は一ページ目に何か書き込んでいる。
『今日からこれで話す』
上機嫌な笑みを浮かべて突き出されたノートの中央には、大きくそう書いてあった。
話すとは言ったものの、テニスをしながら筆談は出来ないぞ……。
黙り込んだ手塚に対して、跡部は特に気にした風もなく、『見てる』とだけ書き残して、いつもの観覧席に戻っていった。ただし、今までの座席後方の定位置ではなく、手塚のいるコートのすぐ傍。それも最前列だ。なんだか、まるで参観日のようで気恥ずかしいし、落ち着かない。
いくつか年上の少年と軽いラリーをしている最中だった。唐突に相手がボールを止めて、後ろを指差した。
「『タイム』、だってさ」
振り返れば、跡部が立ち上がって両手でTの字を作っている。険しい顔で手招きされて、手塚は何事かと慌てて駆け寄った。
『ちゃんと柔軟しろ』
「…………してる」
スケッチブックから視線を逸らして答える。
跡部はしばらく疑わしげに目を細めていたが、何か思い立ったらしい。目の前の手すりを掴むと、ひょいと身軽に柵を飛び越えた。軽い音を立ててコートに着地する。そうして訝しげに事の成り行きを見守っていたラリー相手に向けて、軽く頭を下げたかと思うと、手塚の手を引いてすたすたと歩き出した。
「おい、どうした?」
問いかけに振り返りもせず、コートの隅まで引っ張られる。拓けたスペースを見つけて手塚を無理やり座らせると、跡部はクイッと顎をしゃくった。やってみろ、ということか。
適当な幅に足を開いて息を吐き、ぐっと上体を倒す。……倒したつもりだ。
「痛い痛い痛い痛い!」
いきなり背中に加わった重みに、手塚は思わず大声を上げた。涙の滲む目で、ギリッと後ろを睨む。それまで容赦なく背中を押していた跡部が驚いたように、ぱっと手を放した。スケッチブックの出番もない。「まさか、これくらいで?」と顔に書いてある。本気で不思議そうな顔をするな。ちょっと腹が立つ。
「座れ。押してやるから、お前もやってみろ」
むっとしながら言うと、跡部は意外なほど素直に従った。
向けられた薄い背中に手を当てて、少しの恨みも込めて思い切り押してやろうと体重を掛ける。いや、掛けようとした。
スカッと空振りしたかのような感触に驚いて見下ろすと、大きく開いた足の間で跡部は上半身をぺったり地面につけている。様子を窺っていた周囲から、おおーっと歓声が上がった。
その声に跡部はフンと鼻を鳴らすと、流し目を寄越した。「どうだ!」とでも言いたげな子憎たらしい顔をして……。もはやスケッチブックなど必要ない気がしてきた。
「ねえ見て、あの眼鏡の子! めっちゃ体硬っ!」
「え~、なにこれかわいい~!」
「写メ撮っとこ! 写メ!」
いつの間にか集まったギャラリーが取り囲む中、いったい何が悲しくて準備体操など披露しなければならないのか。
柔軟性という点に関しては、間違いなく正反対と言える。
そんなコンビが無言でじたばたしているのが、よほど可笑しかったらしい。たしかに事情を知らぬ外野からすれば、無声映画のコメディのように見えたことだろう。やっている方は大真面目なのだが。
テニスならともかく、たかがストレッチで騒がれるなんて屈辱だ。ちょっと待て。写真はやめろ!
地獄の柔軟フルコースだった――。
妙な疲労感も手伝ってぐったりしている手塚の横で、跡部は満足げに一つ大きく伸びをした。真っ白なダッフルコートについた埃を、パタパタと叩き落としながら立ち上がる。目だけで後を追っていると、壁に立てかけておいたスケッチブックを取り上げ、何やら真剣な顔で書き込み始めた。
『いつか怪我する前に』
向けられた紙面には、ストレッチ前に書いた言葉の下に、そう付け足されていた。
柔軟が苦手だなんて、どうしてばれてしまったのだろうか。
こちらの言葉もしっかり顔に出ていたらしい、跡部はにんまり笑うと、自分の目を指差してから、さらりと書き足した。
『見てれば分かる』
こいつ、参観日の保護者なんて甘たるいものではない。鬼コーチだ!
その日から、奇妙な師弟関係が始まった。
手塚が練習や試合をしている間、跡部は目をそちらに向けながら、たまにペンを走らせている。手塚が休憩がてらドリンクを片手に隣へ腰を下ろすと、待ってましたとばかりページを開くというのが恒例になった。
サーブ時の重心の移し方。甘いショットを打ちに行くタイミング。フォームのちょっとした崩れ。
そういったこまごまとした指摘にも全く嫌な気がしないのは、余りにもそれが的を射ていたからだろう。自分では意識していなかった癖まで言い当てられれば、その洞察力に驚かずにはいられなかった。おまけにフォームを安定させる為に必要な筋肉や、その鍛え方といった打開策まで出されれば、もはや黙って頷くしかない。生半可な知識では、こうも理路整然としたアドバイスは出来ないだろう。
「お前は、勉強熱心なんだな」
思わず口をついた言葉に、跡部は首を傾げた。
「そんなに色々なことを考えながら、テニスをしたことは無かったから。自分が、今までどれだけ感覚頼りのテニスをしていたのか、思い知らされた気分だ」
苦笑いを浮かべながら正直に思ったことを口に出すと、跡部は悔しさを滲ませたような、複雑な表情を見せた。
『才能に頼りすぎるな』
向けられた用紙には、荒々しい筆跡でそう書かれていた。
スケッチブックに書かれた言葉は、文章より単語の方が多かった。跡部は頭の回転が早いようで、言いたいことに書く作業が追いつかないのだ。時々もどかしそうに、コツコツと万年筆で用紙を叩いたり、髪に手を突っ込んでくしゃくしゃに掻き回したりしていた。
しかし、跡部の考えが伝わらなくて困るということは一度もなかった。最小限の言葉と、身振り手振り、それになにより豊かな表情で様々なことを伝えてくる。これも欧米育ちの特性だろうか。(ちなみに、この説は、数年後にアメリカからやって来る大変COOLな少年によって覆されることになる。が、それはまた別の話だ。)
同年代と、いや年上であろうと、こんな風にテニスで意見を交わすのは初めてで、手塚は自分でも驚くほどよく喋った。無駄な装飾のない会話は、いっそ清清しいほどに明け透けで、手塚にはそれがやり易かった。
二人して新しいショットについて話し合うこともあった。相手コートで跳ねないドロップショットの構想をぽろっと漏らした時には、跡部はすぐさま食いついてきた。回転の掛け方についてラケット面の角度やスイングを、ああでもないこうでもないと言い合う。スケッチブックは暗号のような走り書きの羅列で、どんどん青く埋まっていった。
そんなことが続いた、ある土曜日だった。
「ねえねえ! 僕たちにもテニス教えて!」
いつものように二人でテニス談義をしている最中、その幼い声は突然割って入った。
ずいぶん下の方から聞こえてきた声に、驚きながら目線を下げる。子供用のラケットを抱えた男の子が、きらきらと目を輝かせてこちらを見上げていた。小学校の低学年くらいだろうか。その後ろにも同じような年頃の子供が何人か、半分身を隠すようにして様子を窺っている。手塚と跡部は、吃驚して目を見合わせた。
戸惑う手塚の前で、跡部はすぐにしゃがみ込んだ。ちびっ子軍団に目線を合わせると、にっと笑って頷く。背筋を伸ばしてきょろきょろ辺りを見回した後、空いている一番端のコートを指差した。子供たちは、一様に目をぱちくりさせている。
「……各自ラケットを持って向こうのコートに集合、だ」
手塚が助け舟を出すと、口々に歓声を上げながら一目散に駆け出した。
『ラケットが重くて振り抜けないなら、両手でグリップを握ってみろ。無理して片手で打とうとしなくていい』
『スマッシュの時は、頭上に投げたボールをよく見ること。球の位置を確認しながら打つんだ』
手塚は子供たちの前にボールを放り投げながら、跡部が身振り手振りで伝えようとしていることを訳して伝えた。手塚相手の遠慮ないスパルタとは打って変わって、何とも丁寧かつ優しい指導だ。時折、横からそっと手を伸ばして、肘の角度を調整してやったりしている。短時間のうちに、よくも一人ひとりの弱点を見つけられるものだ、と手塚は感心した。
コン、とボールがスイートスポットに当たる、心地よい音が響く。
「見た? 今の見た!? スマッシュ打てたよ! 跡部コーチ!」
子供の言葉に、跡部が目を丸くする。嬉しさと興奮で顔を赤くしたその子とそっくり同じように、見る見るうちに頬がピンクに染まっていった。跡部は顔を綻ばせると、得意げに胸を張るその子の頭をぐりぐり撫で回した。
ボールが壁にぶつかって、規則的な音を立てる。肩幅に開いた足で地面を踏みしめて、ボレーを打つ。相手は、どんな所に打っても打ち返してくる強敵だ。
集中が途切れた途端、ボールはそれまでの軌道を外れて大きく跳ね返った。肩を越えて遥か後方へと飛んでいく。転がったボールは、ちょうど木に凭れて座っていた跡部の足元で止まった。跡部は俯いたまま動かない。足音を立てないようにそっと近づく。自分の影がかかる距離まで来てようやく、ゆっくりと跡部の瞼が上がった。眠っているのかと思ったが、目つきはしっかりしている。
『いい音』
「ん?」
膝の上に置かれたスケッチブックを覗き込んで、手塚は首をひねった。跡部が片腕を伸ばして足元のテニスボールを拾い上げながら短く綴る。
『落ち着く』
「そうだな……」
差し出されたボールを受け取る。再び目を閉じた跡部に倣って、手塚は耳を澄ませた。コート場から、風に乗って、明るい笑い声と共に、軽やかな打球音が聞こえてくる。もしも幸福を音にしたら、こんな音になるんじゃないだろうか。ふとそんな気がした。
カリカリとペン先の走る音に目を開く。
『プロになりたいか?』
「なんだ、やぶから棒に」
唐突ではあったが、予期せぬものではなかった。テニススクールでもこのコートでも、時々飛んでくる質問だ。ここ最近、特に聞かれることが増えたように思う。
「……」
何を書き足すでもなく返答を待つ瞳には、下手な謙遜は無意味だろう。
「どうだろう……。正直よく分からない」
己の力を過信するほど傲慢ではなく、無邪気に夢を語れるほど幼い子供でもない。かと言って、それを卑下するほど卑屈でもなければ、夢を夢だと諦めるほど大人でもなかった。だから、これが今の自分に出来る精一杯の回答だった。
それ以上深く尋ねることなく、跡部は小さく頷いただけだった。
「あ! 見つけた!」
「こんなところでサボってる~!」
大きな声を上げながら、わらわらと子供たちが走ってくる。何回か指導してやったことで、すっかり懐かれてしまったようだ。
「人聞きの悪いことを言うな。休憩だ」
生真面目に言い返すと、隣で跡部が噴き出した。
「ねえ、跡部コーチ! 僕もカッコイイの打ちたい!」
「あのね、たまに眼鏡のお兄ちゃんが打ってるやつ!」
「手塚だ」
「手塚が打ってるやつ!」
「なんで、俺は呼び捨てなんだ……?」
「コン! ってやったらポトッて落ちるやつ!」
「ドロップショットのことか?」
「そうそれ! どろんこしょっと!」
「ドロップショットだ!」
困り切って隣を見下ろすと、マフラーに顔を埋めるようにして笑っていた跡部がようやく立ち上がった。一層賑やかに騒ぎ始めた子供たちを前にして、跡部がパチンと一つ指を弾く。続く指示を待つように、子供たちはぴたりと口を閉じた。それを満足げに見下ろしてから、一団の頭越しにコート場を指す。子供たちが目を大きくした。
「場所取りだ! 急げー!」
よく訓練された子犬の如く一斉に駆け出す後姿を見て、知らず口元が緩む。少し目線を下げれば、跡部も同じような顔をしていた。
「も~! 置いてくよー?」
振り返った一人が、大声で言った。あんまりな文句に顔を見合わせて苦笑する。足を踏み鳴らす子に急かされて、手塚と跡部もコート場に向けて足を踏み出した。
即席のテニス教室の存在は、いつの間にかテニスコート中に知られるものとなった。それも、『跡部コーチと助手の手塚君』という何ともいえない通称で。
どうやらそわそわと機会を窺っていたのは、あの子供たちだけではなかったらしい。
「どうしたらボレーが上手くなるかな。いつもネットに引っかかっちゃって……」
「バックハンドだと、ボールの軌道が安定しないんだけど、これってやっぱり握り方のせいかしら?」
老若男女を問わず、日頃の疑問をここぞとばかりぶつけてくる。手塚からすれば、そんな事まで聞くのかと思うような初心者の質問にも、跡部は面倒なそぶり一つせず答えていく。
思い返せば、観客席の奥にひっそり座っていた頃から人目を惹いていたのだ。こうしてコート近くまで降りてくれば、人が集まってくるのはある意味当然と言えた。
跡部が自分だけの専属コーチでなくなったことに、少しの口惜しさも感じないと言えば、嘘になる。とはいえ、こうも生き生きとした彼の姿を見せられれば、仕方ないと諦めも付く。群衆の中、コートに立つ。その時、まるで体の内側から光を発しているかのように、きらきらと輝いて見えるのだ。
ただ、どんな指導の時にも、跡部がラケットを握ることは一度も無かった。
「コーチ! 僕と試合してください!」
意を決したような固い声に、跡部はボールを集める手を止めた。以前、最初にテニスを教えてほしいと声を掛けてきた少年だった。
「僕、ラリーも続くようになったよ。試合してみたい! ……まだ無理かな」
ぎゅっと自分のラケットを抱きしめた少年に、跡部は困ったように眉尻を下げた。
「跡部は――」
手塚は言いかけて口を噤んだ。代わりに断ってやらなければ、とは思うものの、どう説明したらどちらも傷つけずに済むだろうか。そんな手塚をちらと見上げて、跡部は急いでスケッチブックに走り書きを始めた。
『まずは助手が相手になろう!』
手塚の肩に手を乗せて、跡部はシニカルな笑みを浮かべた。なるほど。
「コーチと戦いたくば、俺を倒してからにするんだな」
調子を合わせて腕組みする。きょとんとしていた少年の顔いっぱいに、徐々に笑みが広がった。
「うおー! 負けないぞー!」
はしゃいで飛び回る子を前にして、ふと不安になる。今までこのコートで数え切れないほど試合をしてきたが、初心者相手はこれが初めてだ。
「上手く手加減出来るか分からないぞ?」
耳元でこそりと呟いた言葉に、跡部は面白そうに片眉を上げた。それから景気づけるように、バンと強く手塚の両肩を叩くと、コートへと押し出した。
手塚がテニスに出会ったのは、小学校に上がった年だった。
両親は、もの静かで線の細い息子を心配したらしい。体力作りも兼ねて、テニススクールに通わせることにしたのだ。
小さな黄色いボールが飛ぶ。追いかける。ラケットで打つ。その単純な遊びに、幼い手塚はすぐに夢中になった。
ボールが上手く打てるようになると、同じ年の子供たちとラリーが出来るようになった。あっちに行ったりこっちに行ったりするボールに振り回されるばかりの短い打ち合いだったが、とにかく無心にボールを追った。ただただ、それが楽しかった。
しかし、三年生になり、試合形式のテニスが始まると状況は一変した。
テニスに限らず、スポーツに勝ち負けは付き物だ。一度勝った相手に、次も必ず勝てるとも限らない。いくらそう教えられている子供でも戦意を喪失するほどに、手塚と周りのスクールメイトとの差は圧倒的だったのだ。
その才能に気付いたコーチ陣は、すぐに彼を上級者クラスへと移動させた。上級生や中学生に交じって、より複雑な戦術や技を学ぶ。ここでも気がつけば、自分より強い者は誰もいなくなっていた。
「なあ、次の自由練習の時間、一緒に打たないか?」
いつものように手塚が誘うと、スクールメイトは困ったように顔を見合わせた。
「うーん、俺たちじゃ相手にならないんじゃない?」
「手塚君は、ほら。特別だから」
当たり前のように言われた言葉に、手塚は困惑した。今まで共にボールを追いかけ、笑いあっていた仲間から、突然突き放されたように感じた。現に、めきめきと腕を上げていく手塚に向けられていた羨望や嫉妬は、いつしか畏怖に変わっていた。プロ育成を目的としたものでもない、ごく一般のテニススクールの中で、手塚の存在は異端だったのだ。
試合となるとお互いにポイントが付き、勝者と敗者が決まる。手塚との勝負で一ポイントも取れず、自信を失ってコートを去った子もいた。
コーチは手塚に、しきりに大会出場を勧めてくる。手塚の持つ力をさらに伸ばしたいという思いもあれば、自分のスクールから優勝者を輩出したいという大人の事情もあっただろう。ただ、大会に出てしまえば、これまで以上に何かが決定的に変わってしまいそうで、手塚は頑なにその申し出を断っていた。自分一人、違う世界に連れて行かれてしまうようで怖ろしかった。
今では、テニススクールの中で、自分から手塚に勝負を挑んでくる者はいない。離れていく仲間をどうすることも出来ず、かといってテニスを辞めることも出来ず。手塚は惰性のようにテニススクールでのテニスを続けていた。
「行きまーす!」
ベースラインの外側に立った少年が、片手を上げて元気よく宣言する。手塚は慌ててラケットを構えた。初めての試合ということで簡易的な4ゲームマッチとしたのだが、果たしてどうなるだろうか。
コン、と軽いインパクト音と共に、緩いトップスピンの掛かったボールが飛んできた。記念すべき一球目としては上出来だ。
しかし、そこからは想像以上にハードな展開となった。時に明後日の方向に飛んでいった特大ホームランのアウトをコート外まで追ったり、時に意図せずネットぎりぎりに落ちたボールをこれまたスライディングで拾ったり。逆に手塚からは、回転の極力掛かっていない打ちやすい球を、どうにか打ちやすい所へ返すように心がけた。相手は最近ラケットの握り方を覚えたような子供だ。一球で勝負がつくよりも、ラリーを打ち合う楽しさを知ってもらいたかった。
試合というよりは、手塚がなんとかボールを繋ぐ形でラリーは続いていったが、それでも少年のネットやアウトといったミスで次第に得点差は開いていく。上がった打ち頃のロブを、思わずスマッシュしてしまい、あっという間に決着はついた。
最後の最後でうっかり本気を出してしまったことに、きまりが悪くなりながらネットに近づく。何か一声励ましの言葉でもかけようと手塚は口を開いた。
「ありがとうございました!」
それより先に、少年が大声を出す。
小さな子供に、通常のコートは大きすぎたのだろう。汗だくで息も上がっている。それでも、顔に浮かんでいるのは満面の笑みだった。こちらの手を取って、少年がブンブン上下に振るのを、手塚はしばし呆気に取られて見つめた。
背中の方から拍手の音が聞こえる。振り返れば、跡部が晴れやかな笑顔で二人の健闘を称えていた。
「あいたたたたた……」
コート傍に設置されたベンチに凭れるように腰掛けて、五十がらみのおじさんが呻く。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫! もう癖になっててね。いや~、今日はちょっと張り切りすぎちゃったかな」
慌てる手塚に、おじさんは顔の前で大げさに手を振って笑った。手塚との対戦中、急に持病のぎっくり腰が再発したということで、急遽、中断となったのだ。少年の相手をして以降、個人練習やテニス教室の合間合間に、こうして試合の申し込みをされることが増えていた。
「すまなかったね、こちらからお願いしておいて。まったく、年は取りたくないもんだよ」
「いえ、それは構いません……。俺もいい勉強になりました」
「嬉しいこと言ってくれるねぇ。よし、手塚君、何か奢ろう!」
額の汗を拭っていたおじさんが、ベンチ横に設置された自販機を見上げて言った。ズボンのポケットから小銭入れを取り出すのを見て、手塚は慌てた。
「そんなつもりで言ったわけじゃ!」
「まあまあ。お詫びとお礼を兼ねて、ね」
小銭を投入口に入れながらの言葉に、しぶしぶ頷く。おじさんが、どうぞ、と言うように自販機の前を空けた。目に付いたボタンを押す。受け口にしゃがみこんで缶を取り出していると、呻きながら再びおじさんがベンチに座りなおした。そのまま立ち去るのも気が引けて、なんとなく缶を片手に座る。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
慌てていたせいか、うっかり普段飲まないような炭酸のジュースを選んでしまった。すぐに飲まないのも失礼だろうか、と手の中で缶を転がしていると、おじさんが軽口を叩くように言った。
「弱い相手とじゃ、つまらなかったかい?」
「そんなことないです!」
思わず大声を出した手塚に、おじさんが目を丸くする。
「普段、スクールじゃ飛んでこないようなハチャメチャな球ばかりだけど、本番でいつも打ちやすいボールが飛んでくるわけじゃないですし……。それを打ちやすいように返すのだって、スピンの良い練習に……あっ」
手塚が自分のあまりの失言に気付いて口を覆うと、隣で聞いていたおじさんは声を出して笑った。
「そうかいそうかい。いやなに、練習の邪魔になってるんじゃないかと思ってたからね。安心したよ」
「違うんです……。いろんな人と試合出来るのは、本当に自分の糧になります」
なおも言い募る手塚に、うんうんと頷く。
「私も、君と試合できて嬉しかったよ。幾つになっても、強い相手と戦うのはワクワクするものだね」
「嬉しい……、ですか?」
「ん?」
缶を握る手塚の手に、ぐっと力が篭もる。
「悔しくないんですか? こんな……、俺みたいな子供に負けて……」
「そりゃあ悔しいさ! 一回り二回りどころじゃない子にコテンパンにされれば、誰だって悔しいに決まってるよ」
「じゃあ、どうして皆わざわざ俺に試合を挑んでくるんでしょう? たとえ、負けるとわかっていても……」
納得できずに問いを重ねる手塚に、おじさんは困ったように頭を掻いた。
「うーん、手塚君。なら君は、勝てると思うから試合をするのかい? 勝つ為に試合をするのかい?」
問いに問いで返されて、手塚は押し黙った。もちろん手塚とて、年上相手に試合をして一敗もしないわけではない。しかし、いつも勝つ気で試合をしているつもりだ。それと、どう違うのだろうか。
「私は、勝っても負けてもテニスが好きだよ。こうやって腰を痛めても、続けたいと思うくらいにはね」
そう言いながら、おじさんはゆっくりと立ち上がった。
「さて、少し落ち着いたから帰るとするよ。今日は本当にありがとう」
「いえ……」
「おっと、いけない。一人だけじゃ不公平だね」
手塚の返事を待たずにチャリンチャリンとお金を入れて、自販機のボタンを押す。おじさんは温かいおしるこの缶を押し付けるように手塚に渡した。
「はい、これは跡部ちゃんの分」
「あとべちゃん……」
「いやいや失敬! 跡部コーチ、だったね。風邪、早く治るといいね。お大事に、って伝えておくれ」
片手に炭酸、片手におしるこの缶を持ってコートへ戻ると、観覧席で空咳をする跡部を見つけた。跡部がこちらに気付いて顔を上げる。
『遅かったな』
「ああ……、少し話し込んでいた」
こちらの答えを聞きながら、両手の缶に注がれる熱い視線に、気が抜ける。そんなに缶ジュースが珍しいだろうか? まあ、海外暮らしには、おしるこは珍しいかも知れない。
「お礼、だそうだ。……半分コしよう」
金曜日の放課後。手塚は駆け足で家に帰り着くと、その勢いのまま自分の部屋に駆け込んだ。ランドセルをドンと机の上に載せ、代わりに立てかけてあったラケットバッグを掴んで風のように飛び出す。当番の日誌を提出しに職員室に行ったところ、今日に限って運悪く担任に捕まってしまった。用事を頼まれれば断りきれず、結局いつもよりだいぶ遅い時間になっていた。夕焼け空が、赤く燃えている。
テニスコートに着くと、最初の生徒であるちびっこ軍団の中で、跡部は一人球出しをしていた。
「跡部!」
弾んだ息のまま呼びかける。跡部がパッと顔を上げた。こちらを見て目を丸くしている。何をそんなに驚いているのか、と手塚は首を傾げた。跡部は、近くに立っていた少年の肩を叩いて球出しを交代すると、足早に手塚の方にやって来た。目の前に着くと、素早くスケッチブックに文字を書きこむ。
『金曜日』
首を捻りながら見せられたその文字に、手塚は「あ」と口を開けた。
手塚の通っているテニススクールは、毎週火曜と金曜の週二日だ。テニスを始めてからの五年間、病気などやむを得ない時以外は、一日も欠かさず通っていた。そのほぼ無意識に染み付いているはずのルーティンが崩れたことに驚く。何を考えるでもなく、無意識の内に足がこちらのコートに向かっていたのだ。
これが単なるうっかりとは言えないことに、手塚は気付いてしまった。スクールには行きたくない。羊水のように穏やかなこのコートで、ただただ優しいテニスをしていたい。心よりも体の方が正直に、手塚に訴えかけてきたのだ。
今から向かったところで、これからでは到底練習の時間に間に合わない。それ以前に、向かう気になれそうにもなかった。
黙ったまま、すとんとベンチに座り込んだ手塚を見て、何か感じ取ったらしい。跡部も静かに隣に腰を下ろした。沈黙が続いた。
「……うるさいぞ」
目を下に向けたまま、手塚が言う。ちらりと横目で見ると、跡部は不思議そうな顔をしている。
「……目がうるさい」
ばちん、と両頬に痛みが走る。何事かと驚く間もなく、叩くように挟んだ頬ごと、顔を無理やり横に向けさせられた。鼻先が触れ合いそうな近さで、跡部がこちらを見つめている。嘘偽りを許さない目だった。
何からどうやって話していいか分からず、手持ち無沙汰にガットを弄りながら、手塚は思いつくままにポツポツとこれまでのことを話し出した。脈絡のない話ばかりだったが、跡部はただ黙って聞いている。今だけは、否定も反論も割って入らない、この状況が有難かった。
「俺は、ただテニスがしたかったんだ。テニスが好きだから。それだけでは、駄目だろうか」
「…………」
「強くなりたい気持ちは、もちろんある。……勝ちたいとも思う」
「…………」
「だけど、嫌なんだ。欲しくもないのに懸けられる妙な期待も。勝っただけで、まるでこちらが悪いことでもしたみたいに向けられる敵意も、やっかみも。俺はただ、目の前の敵を倒しているだけなのに」
それまでじっと話を聞いて跡部が、ここでようやく何か書き始めた。
『対戦相手敵』
まるで数式のような文章だった。真ん中の記号は知っている。ノットイコール。等しくない、だ。
「対戦相手は、敵だろう?」
跡部と知り合ってひと月。初めて考えていることが分からないと思った。
跡部は眉根を寄せて、とんとんと万年筆のキャップ側で自分の額を叩いた。先ほどの文字の下に書き加える。
『Opponent≠Enemy』
Enemyは分かる。「敵」だ。それなら、Opponentというのは「対戦相手」だろうか。
「……何が言いたいんだ、跡部」
問いかけに、跡部はそっと目を閉じた。
短い単語だけでは分かりそうにない。スケッチブックから目線を上げて、手塚は動きを止めた。
跡部の瞳が、青く燃えている。炎だ。高熱のあまり、赤から色を変えた、青い炎。
初めて触れた跡部の激情に、手塚は思わず身を固くした。それを無視して、跡部は手塚の腕を強く掴んで立ち上がった。中央の空いたコートまで、手塚を引き摺るようにして進む。サイドラインに沿ってコートの反対側へ向かい、ベースライン近くまで来てから、跡部は唐突に手を離した。そのまま一人、用具室まで駆けていく。置き去りにされた手塚は、ラケットを握ったまま、その場に立ち尽くした。
ほどなくして、跡部がコートに戻ってきた。手塚とは反対側のエンドラインに立つその右手には、共用の古びたラケットが握られている。心なしか、その手が震えているように見えた。持ち方も、なんだか危なっかしい。
そう思った瞬間、跡部の掌からラケットが滑り落ちた。カランと音を立てて地面に転がったラケットを、跡部は無表情に一瞥した。気を取り直すように一度頭を振る。それから、着ていた上着を脱いで、適当に隅のほうへ置くと、最後に残ったトレードマークの赤いマフラーを乱暴に外し、無造作に空へと放り投げた。鮮やかな赤が、夕暮れの空に舞う。それがコートとベンチを隔てる手摺の上に器用に着地するのをぼんやり見送っていた手塚は、正面に目線を戻してぎょっとした。
跡部の、血管が透けるほど青白く細い首。その上には、真っ白な包帯がきっちりと巻かれていた。
言葉の出ない手塚の前で、再び跡部がラケットを取る。今度はネット越しに向かい合っていても分かるほど、右手が大きく震えた。
「おい……、無茶はやめろ」
思わず静止の声を上げた手塚を、キッと睨む。
左手でポケットの中からテニスボールを取り出すと、開始の合図もないまま、跡部が頭上に向けてボールを高く投げた。教本のように美しいフォームでサーブを放つ。
フォールト。
あんなに震える手で、まともな球が打てるはずがない。いくらフォームがしっかりしていても、ラケット面が安定しなければスイートスポットに当てることなど不可能だ。いい加減に止めなければ……。何か怖ろしいことが起こる予感がして、手塚は唾を飲み込んだ。喉がカラカラに渇いていた。
ネットに当たって跳ね返ったボールが、ころころとサービスコートに転がる。跡部はそれを拾い上げると、ベースラインまで引き返し、ボールとラケットを足元に置いた。
諦めてくれたのか。ほっと息を吐く。その瞬間、出し抜けに跡部が自分の首に手をかけた。目を剥く手塚の前で、力任せに包帯を外す。露になった包帯の下に、目立つ傷は見当たらない。
ラケットを拾い上げ、左手に持った包帯で右手とラケットとを固く一つに縛りつける。結局、跡部が左手と歯を使って結び目をきつく絞め終えるまで、手塚は何の言葉も発することが出来なかった。
「何をする気だ、跡部……」
やっとのこと呟いた手塚に目を向けることなく、感触を確かめるように、二、三度軽く素振りをする。右手を見下ろし小さく頷いた跡部が、ようやく手塚を見据えた。先程までの炎を奥底に秘めたまま、妙に澄んだ瞳がこちらを射抜いた。
再度、高くボールが上がる。
一瞬、甲高いインパクト音がコートに響いた。鋭い風が、体のすぐ真横を通り過ぎていく。
後ろを振り返り、手塚は信じられない思いで足元に転がっている黄色を見つめた。慌てて首を前に戻す。ネットを挟んだ反対側で、跡部は不敵な笑みを浮かべていた。
黄色いボールが、照明の燈されたコートを何十回と行き来する。どちらかが少しでも気を緩めれば、終わる。そんな一進一退のラリーが続いていた。
止めなければならない。
そんな想いとは裏腹に、跡部が放った三球目のサーブが自分のコートに刺さった瞬間、手塚の体は勝手に動いていた。その後は、もはや一度繋がったラリーを自分から断つことなど出来なかった。負けられない。負けたくない。
いつもなら賑やかな音に溢れたコートは、今、水を打ったような静けさに包まれている。
たった二人、手塚と跡部が激しくボールを打ち合う音だけが響く。長い長いラリーだった。その一球の行く末を、誰もが固唾を呑んで見つめていた。
どれだけ強く打ち込んでも、どれだけ難しいコースを突いてもボールが返ってくる。こんなに遠い1ポイントが、これまであっただろうか。初めての経験に、状況を忘れてどうしようもなく高揚した。知らず口角が上がる。
ラケットを振り抜き、跡部を見る。跡部のラケットが打球を捕らえた瞬間、確かに彼も笑っていた。
サービスコートの右端! ドロップショットか!
ラケットの角度からボールの軌道を予測し、手塚はネット際に走った。ボールがネット上部に僅かに掛かる。
コードボール!
しかし、手塚の予想に反して、ボールはぎりぎりの所でネットを越えず、跡部側のコートに落ちる。ボールとネットが擦れる微かな音が、静かにラリーの終わりを告げた。
何とも言えない名残惜しさを感じながら、コートに転がるボールから跡部へ視線を移すのと同時だった。吊っていた糸が切れるように、跡部が膝から崩れ落ちる。
瞬間、コートから全ての音が消えた。
「跡部っ!」
ネットを飛び越えて駆け寄る。地面に額を押し付けるようにして蹲る彼をすぐさま抱き起こした。喉の奥から、ヒュウヒュウと、狭い隙間を無理やり風が通り抜けるような耳障りな音が上がっている。汗をかいて燃えるように熱いはずの体は、紙のように白く、氷のように冷たかった。一瞬でも目を離せば、その呼吸音すら消えてしまいそうな気がして、背筋が凍えるようだった。「救急車を!」と叫ぶ声が、どこか遠くに聞こえる。
「跡部! しっかりしろ!」
喉をぎゅっと押さえたまま目を閉じていた跡部が、睫毛を震わせながらこちらを見上げた。青い瞳に膜を張っていた涙が、ぽろぽろと米神を伝い落ち、地面に吸い込まれていく。
「何か出来ることはないか? 俺に、今、」
必死に言い募る手塚の腕に、ひんやりとした指が添えられる。それから、ベンチに置いたままのスケッチブックを指差した。
「……待ってろ」
何か少しでも楽になる方法があるのかも知れない。ベンチに駆け寄りスケッチブックと万年筆を取り上げると、走って引き返す。もたつく指で右手に結ばれた包帯を外し、小刻みに揺れる手にペンを持たせてやる。苦しい息の下で、青いインクがゆらゆらと文字を描く。
『俺は敵か?』
「……こんな時に、何を言っているんだ」
混乱して叫ぶ手塚を、跡部は透き通った瞳で見上げた。
「坊ちゃま!」
ざわめくコートを、鋭い声が切り裂く。
聞き覚えのある声の、聞いたことのない呼びかけに驚いて振り返る。ミカエルが、ベンチの向こうから走ってくるのが目に飛び込んできた。
コートに座り込む手塚と、その腕の中にいる跡部を見て、すぐさま状況を把握したらしい。地面に膝を着いて跡部の顔を覗き込む。視線を合わせて意識があるのを確認すると、膝の下と背中に手を添えて軽々と抱き上げた。
「皆様、この度は大変お騒がせ致しました。ご心配には及びません。どうぞ、ご安心下さいませ」
張りのある声が、口上を述べるように滑らかにコートに響く。ミカエルは、跡部を抱えたまま、有無を言わさぬ態度で慇懃に腰を折った。
まるで寝入り端、御伽噺でも聞くかのごとく沈黙したコートを見回して、ミカエルが足早に歩き出す。地面に縫い付けられたまま動けない手塚をくるりと振り返り、ミカエルは優しい表情で付け足した。
「さあ、参りましょう。手塚様」
助手席からフロントガラス越しに見えた建物は、まさに御伽噺に出てくるような宮殿だった。いつの間にかぽかんと開いていた口に気付いて、手塚は慌ててそれを閉じた。
エントランス前で車を止め、ミカエルが運転席を降りる。後部座席のドアを開けると、シートに横たわった跡部を抱きかかえた。試合直後から比べれば、はるかに落ち着いてはきたものの、未だ不自然な呼吸音に手塚は気が気ではなかった。慌ててミカエルの後を追う。
内側から玄関の扉が開かれる。中から、古い洋画に出てくるようなメイド服姿の女性が現れた。ミカエルの腕の中でぐったりしている跡部を見て、小さく悲鳴を上げる。それに落ち着いた声で、「お医者様をお部屋へ」とだけ告げて、ミカエルは歩き出した。
医者やメイドたちが、跡部が寝かされたベッドの周りで慌しく立ち回るのを、手塚は部屋の隅に立ってぼんやり見つめていた。
気付けば、いつの間にか室内にいた人々は姿を消していた。天蓋のついた豪奢なベッドに、恐る恐る歩み寄る。綺麗に体を拭かれ、柔らかな寝巻きに着替えさせられた跡部が、広いシーツの上で人形のように静かに横たわっていた。現実味のない光景に、思わずその口元に掌を近づける。……生きてる。
コンコンコン。
控えなノックの音がして一拍後、部屋の扉が開いた。
隙のない燕尾服に身を包んだミカエルを見て、手塚は瞬時に悟った。これが、彼の本来の姿なのだろう。硬い表情の手塚に、ふとミカエルが笑みを向ける。
「お疲れでしょう? さ、我々も少し休憩と致しましょう」
ミカエルは部屋の中にワゴンを運び入れると、その場で何やら支度を始めた。
ワゴンに乗っていた小さなコンロの上に、赤や青のオリエンタルな文様の入ったホーローのポットを置き、火を点ける。それより一回り小さな同じ形のポットに、茶葉を一、二、三杯と入れながら、ミカエルはゆっくりと話し始めた。
「景吾坊ちゃまは、普段はダージリンのブラックティーや、たっぷりミルクを入れたアッサムを好んでお飲みになられるのですが、」
シュンシュンとポットから湯気が上がる。沸いたお湯を、今しがた茶葉を入れたポットへ幾らか注ぐ。
「紅茶は、時間との勝負でございましょう?」
つまみを捻って火を弱め、お湯の入ったポットをコンロの上に戻し、蓋を取る。お湯のポットの上に茶葉のポットを重ね、仕上げとばかりに蓋をした。
「時間が経つほど香りが飛び、酸化して味も落ちます。最後には、渋味ばかりが残ってしまう」
そう言いながら、普段よく目にするものより僅かに大きな砂時計をひっくり返す。
一連の流れるような手つきを、ソファに座った手塚は直ぐ傍でまじまじと見つめていた。手品みたいだ。
熱心な観客に、ミカエルはにこりと笑って手を止めた。
「今お淹れしておりますのは『リゼ』と申しまして、トルコの黒海沿岸地方を原産地とした茶葉でございます。すっきりとした飲み口と、深いコクが持ち味の品種ですが、淹れ方が少々変わっておりまして。こうして茶葉とお湯とを別々のポットに入れておいて、濃く煮出した紅茶に後からお湯を加えて、好みの濃さに薄めて飲むのですよ」
突然始まった紅茶の講義に、手塚は顔を上げると黙って頷いた。
「この紅茶が他の茶葉と大きく異なる点は、その抽出時間にあります。紅茶は茶葉の大きさ、形状、量や質によって蒸らす時間を変えるもの。一般的には、短いもので一分、長いものでも五分前後といったところでしょうか。リゼは、その倍の十分、人によっては一時間以上も、抽出に時間をかけるのです。時間が経っても、いえ、逆に時間が経ってこそ、本来の旨みと香りが引き立つ……」
部屋の中に、温かな蒸気と柔らかな紅茶の香りが満ちる。再び動き始めた手が、手塚の前のテーブルへ焼き菓子の乗った小皿を置いた。
「乾燥は喉の大敵。逆に、温かく甘いお飲み物は、喉を潤す最高の薬となりましょう。それならば、少しでも美味しいものを、とお取り寄せさせて頂いたのです。……坊ちゃまは、何事も出来るだけ早く解決すべきとお考えになる方ですから。時と場合によっては、時間が必要なこともあるのだということ、ご理解頂ければ、と私は常々思っているのです。そう、ちょうど、この紅茶のように……。おや、そろそろ出来上がりますね」
いつの間にか、砂時計が落ち切るところだった。
テーブルの上には、金の縁取りも美しいカッティングラス。
そこに濃い茶色をした紅茶を少しだけ入れ、お湯を注ぐ。淡い紅色が、グラスの中にゆるやかに広がった。その上から、たっぷりと蜂蜜を垂らす。瞬間、ミカエルがしまった、という風に顔を歪めた。
「申し訳ございません、手塚様。私としたことが、ついついお喋りに夢中になってしまいました。初めてのお客様に、甘さのお好みもお伺いせず……。すぐに新しいものを、」
そう言って、新しいグラスを取り出そうとするのを手塚は慌てて止めた。きっと無意識で作ってしまうほどに、何度も何度も淹れた紅茶なのだろう。彼が、跡部の為を思って。
「……いただきます」
ひとくち口に含むと、初めて跡部に会った日に飲んだ、あの味が広がった。
「おいしい……、です」
その言葉に、嬉しそうにミカエルは目を細めた。
「手塚様。跡部様のご友人と見込んで、是非ともお話しておきたいことがございます」
しばらく二人静かに紅茶を楽しんだ後、ミカエルがグラスを置いて切り出した言葉に、手塚は居住まいを正した。
「それは、跡部の喉について、ですか?」
「ええ……。少し長いお話になります」
今から三ヶ月前。七月のイギリス。
跡部は昨年秋に行なわれたイレブンプラスと呼ばれる選抜試験で高得点を叩き出し、十一歳の誕生日を前に名門グラマースクールへの進学を内定させていた。この六月には既に、通常より一年以上早くプライマリーの全課程を修了している。
進学先の学校は、通っていたプライマリースクールからやや離れた地区になる。
跡部には、一歳年下の樺地という幼馴染がいた。いつも自分の後ろをぴったり着いて歩いていた彼が、物理的にも学年的にもさらに開いてしまった距離に、言い知れない寂さを感じていることなど、跡部にはお見通しだった。たとえ口にも顔にも出さなかったとしても、伝わってしまうくらいには、共に時を過ごしてきた。
九月の入学を前にして、これが最後の長期休暇になる。せめてその間だけでも、出来うる限り一緒にいる時間を持とうと、今日も二人でテニスコートに足を運んだのだった。
カラリと乾いた風が、コートを吹き渡る。
どんよりとした曇り空の多いイギリスにあって、強い日差しが全てのものを輝かせるこの夏という季節を、跡部は最も気に入っていた。
空気を切り裂くようなスマッシュが、鋭くコーナーを突く。
コートの端まで転がったボールを拾いに行って、樺地はふと視界に入った時計塔を見上げた。
「跡部さん……」
「もうこんな時間か!」
夢中になっていると、時計の針が進むのも早い。後に控えた習い事や何やのスケジュールを頭の中に並べながら、跡部はテニスバッグを掴んだ。ラケットを仕舞う時間も惜しい。
「樺地! 走るぞ!」
「ウス!」
樺地が短く返事を返す。跡部は、バッグを担いで追いかけて来る彼を振り返った。
こうしてあとどれくらい、一緒にいられるだろうか。
「跡部さん!」
左肩に掛けたバッグに衝撃が走る。慌てて前を向く。目に映った人影に、咄嗟に謝ろうと開いた口を塞がれて、跡部は瞬時に己の身の危険を悟った。男の手に掴まれたテニスバッグごと、強い力で引っ張られる。樺地が喉を引き絞るように、必死に何か叫んだ。
跡部の家に生まれた以上、万が一の事態に備えて、護身術なら一通り習ってきた。冷静に状況を確認する。肩に背負った大きなバッグが可動域を狭めてはいるが、相手の顎辺りなら狙えるだろう。届くはずだ。体を捻って利き腕を繰り出した時だった。握ったままのラケットに気付く。このままでは、思い切りラケットで殴る形になる。
ラケットで、人を……?
一瞬の迷いが、跡部の動きを鈍らせた。同時に、風を切るラケットに怯んだ男が、拘束の手を僅かに緩めた。体勢が崩れる。重力に引かれるまま、地面に向かって倒れこむ。瞬間、跡部の喉にラケットのグリップが刺さった。
喉を貫くような衝撃に、視界が明滅する。上手く呼吸が出来ない。
蹲って嘔吐く跡部を前にして、男はそのまま連れて行くか逡巡したようだった。騒ぎを聞いて駆けつけた警備員が、その隙に男を取り押さえる。
「跡部さん! 跡部さんっ……!」
幼馴染の叫び声を最後に、跡部の意識はホワイトアウトした。
「……手塚様、大丈夫ですか?」
言われて初めて、手塚は自分の喉を押さえていたことに気が付いた。緊張で、額にうっすら汗を掻いていた。
「大丈夫です。……跡部の怪我は、その時の」
「ええ、左様でございます。警察の調べで、身代金目的の誘拐未遂であったことが分かっております。近くには、逃走用の車と運転手役の仲間も……。跡部家所有のコートでありながら、完全に警備の隙をつかれた形でした。全く以って面目ない……。あと一歩遅ければ、どうなっていたことか……」
ミカエルは、感情を抑えるように細く息を吐くと、手塚の疑問に答えるように付け加えて言った。
「グリップで強打したせいで、坊ちゃまは声帯の周りを覆う甲状軟骨という箇所を骨折されていました。骨折の程度が軽かったことは、本当に、不幸中の幸いでございました」
手塚は、そこでずっと心にひっかかっていた心配を口にした。
「今日のことで、その怪我が悪化したりしませんか?」
少し青ざめた手塚の顔を見て、ミカエルが安心させるように微笑む。
「手塚様、ご心配なく。実は、骨折の方は、ほぼ完治している状態なのです」
「……骨折の方、というのは。何か他にもあるんですか?」
手塚からの問いに、ミカエルは少し考えるそぶりを見せてから、丁寧に噛み砕いて説明し始めた。
「喉というのは、人体の中でも特に繊細な器官です。例えば、声帯に針の穴程度の小さな傷が出来ただけで、声を発するのに問題が出てしまうほどに……。坊ちゃまの場合、骨折という外傷から、声帯を動かす神経にまで影響が出てしまったのです。……声帯はお分かりですか?」
「声が出てくるところ、ですよね」
「そうですね。正確には肺からの呼気をコントロールするところ、といった方が分かりやすいかも知れません。声帯というのは、具体的には喉の中央あたりにある、左右二枚の薄い膜のようなもの。坊ちゃまは、そのうちの片方が閉じない状態なのです」
それがいったいどういう状態で、何を引き起こすのかピンと来ず、手塚は首を傾げた。
「先程申し上げましたように、声帯は空気の調節をする弁のようなものです。それが神経の麻痺によって、上手く閉じきらない。その為に、喉のひどい乾燥をはじめ、肺に十分な空気が届かないことによる慢性的な息切れ、息が大量に漏れることによる擦れ声といった様々な症状が表れます」
手塚は、これまでの跡部の様子を思い返しながら、黙って話を聞いていた。
「とりわけ問題だったのが、嚥下です。通常ですと、物を食べたり飲んだりする時には、気管に異物が入らないように声帯が閉じる仕組みになっているのですが、それが働かない。食べられるものも限られますし、僅かな量をゆっくりとでしか召し上がることが出来ません。栄養剤の点滴も行なってはいるものの、この三ヶ月で、坊ちゃまは随分痩せてしまわれました……」
そう言って、ミカエルは眠る跡部を痛ましげに見つめた。
「……ミカエルさん。先程、擦れ声と仰いました。でも俺は、跡部の声を聞いたことがありません」
ミカエルは、手塚へと目線を戻した。
「怪我は、いずれ治ります。……坊ちゃまの場合、もしかしたら問題は、ここにあるのかも知れません」
そう言いながら、そっと自分の胸の真ん中を押さえたミカエルに、手塚はサッと顔色を変えた。
「心臓、ですか?」
「……なるほど。自分ではどうにも動かしようがない、という意味では、似たようなものなのかも知れません」
真剣な表情でミカエルが顔を上げる。
「手塚様。問題は、景吾様の心なのです」
跡部家所有のコートとは、言わばホームのようなもの。そこで起きた事件が、屋敷に仕える者たちに与えた衝撃は、言葉に出来ないほど大きなものだった。
何より、常に会話や場の中心にあった幼い跡部の怪我は、屋敷全体に暗い影を落とした。皆が、その一刻も早い回復を静かに祈っている。跡部邸は、まるで悪い魔法使いが魔法をかけていった後のような重い沈黙に覆われていた。
「坊ちゃま、なりません! お怪我からまだ一ヶ月も経っていないのですよ? 絶対安静。テニスなど以っての他です!」
いつになく厳しい口調でたしなめるミカエルを、跡部はグッと見上げた。
骨折は、ゆっくりとだが着実に回復している。だが、無理な発話による炎症などの諸症状を防ぐ為、医師から出された「声を出さないように」という指示は、かなりのフラストレーションを彼に与えているらしい。テニスがしたいと言い出した跡部を、ミカエルは困ったように見下ろした。
「次の診察で経過が良ければ、に致しましょう」
すぐさま跡部が、ぱっと口を開く。慌ててそれを閉じ、歯噛みしながら、右手の人差し指を立てて1を、左手の指を丸めて0を作り、ミカエルの方に突き出した。
声を出さなくなってからというもの、必要に駆られてとは言え、こうした少し大袈裟で幼い仕草が増えたように思う。
「十分間でも、ダメなものはダメです」
目に力を込めて、開いた左の掌に右手の指を二本、パチッと音を鳴らしてぶつける。
「……七分でも」
右手の五本指をしおしおと差し出す。
「……分かりました。三分で手を打ちましょう」
普段滅多なことでは聞けない主のわがままに、ついつい甘くなってしまうのを自覚しながら、ミカエルは答えた。途端、飛びつくようにハグをしたかと思うと、跡部は善は急げとばかり、道具を取りに部屋へ飛んで行った。
それを見送って、タオルやドリンクといった必要なものを揃えるべく歩き出した時だった。跡部の部屋から、何か硬い物が落ちる音が響いた。慌てて部屋へ飛び込む。
「坊ちゃま! どうかされましたか!?」
部屋の隅に、跡部が立っている。一先ず彼の無事を確認して、ミカエルは胸を撫で下ろした。落ち着いて部屋の中を見回すと、床の上に、跡部がいつも大事にしているラケットが転がっている。
「……坊ちゃま?」
問いかける声にも気付かず、跡部は信じられないものを見るような目で、自分の右手を見下ろしていた。
すぐに全身の精密検査が行われた。
結果として、腕にも脳にも異常は見受けられなかった。ただ、再度行われた喉の検査で、一点、声帯の異常が判明する。事故後、片側が閉じないだけだったはずの声帯は、いつの間にか二つともが全く振動しなくなっていたのだ。
声帯の振動は、発声に欠かせない要素の一つ。跡部は声を出さないのではなく、出せなくなってしまっていたのだった。
声帯に繋がる神経の回復は順調で、ほぼ完全に元通りになっている。しかし、声帯の麻痺は一向に治る気配がなく、振動しない要因も不明。優秀な医師をしても、打つ手無しの状況だった。
「――先程もお話しましたが、喉というのは大変繊細な場所です。声帯が閉じない、振動しないといった症状が、何の前触れもなく生じることもままあるのだと、お医者様は仰られました。ただ、今回の坊ちゃまの場合につきましては、どうしても、何かしらの原因があるように思えてなりません。お小さい頃からテニスをされていた坊ちゃまにとって、ラケットは大事な相棒のようなもの。それで負った傷は、体以上に、心に大きな傷を残したことでしょう……。思えば、我々の回復を願う気持ちも、知らず知らずのうちに重圧になっていたのかも知れません。坊ちゃまがあのように駄々をこねてまでテニスをしたがったのも、いち早く元気な姿を皆に見せたかったが為に、違いありませんから……」
ミカエルは、そう言って一旦目を閉じた。その寸前、目の端に光るものが見えた気がした。
「……声帯の麻痺に対する治療は、神経の再生を促す栄養剤の投与と経過観察がメインになります。期間は、麻痺が起きてから最大六ヶ月間。その期間なら、まだ自然治癒の可能性があるのです。逆を言えば、六ヶ月を過ぎれば、その可能性は限りなくゼロに近くなります。麻痺を受け入れて、片方の声帯が動かなくとも生活出来るようリハビリに専念するか、リスクを冒して手術を行なうか……。それを決めるまでに、坊ちゃまには一度テニスを、そして今の環境を離れてゆっくり休養する必要がある。私からそのように提案させて頂き、医師との話し合いの末、骨折の回復を待ってこの十月、坊ちゃまの生まれ故郷でもある此処、日本にやって来た、と。そういう訳なのです」
長い長い説明を終えて、ミカエルが口を閉じた。
「テニスを……離れて?」
聞いたばかりの言葉の数々が、ぐるぐると頭の中を回る。それでも最初に浮かんだのは、やはりと言うべきか、テニスに関する疑問だった。
「ふふ。手塚様も、本当にテニスがお好きでいらっしゃるのですね」
ミカエルが柔らかく微笑む。
「私が愚かだったのです。テニスと距離を置いた方が、坊ちゃまの為になるなど。日本に到着して早々、坊ちゃまが何と仰ったか……。手塚様、お分かりですか?」
その時のやりとりを思い出したのか、ミカエルが苦笑しながら続ける。
「『テニスが見たい。プレー出来ないならせめて、見るだけでも』」
手塚も釣られて僅かに笑った。全く、跡部らしい。
「もちろん、最初はお止めしました。乾燥した空気は、ただでさえ喉に悪い。その上、不慣れな土地で何が起こるか……。治安の良い国とは言いましても、坊ちゃまの容姿は、何かと人目を引きますし……。それでも、最後には私どもが根負け致しました。お医者様ともお約束して、一日二時間以内、激しい運動をしないこと、との条件付きで、コートに行く許可が下りたのです。それからのことは、手塚様の方がよくご存知なのでは?」
問いかけに、手塚はこっくり頷く。
「実際、テニスコートに通うようになって、症状は随分落ち着きました。ボールのインパクト。軋むシューズ。空気を裂くラケット……。坊ちゃまにとっては、そういったテニスの奏でる音楽の方が、どんなヒーリングミュージックより、ずっと効果があるようでした。そして何より、手塚様、あなたに逢われてからというもの、坊ちゃまは今まで以上にコートに行くのを楽しみにしていらっしゃいました。それに合わせるように、症状も目に見えて良くなられた」
「そんな……俺はただ、跡部とテニスをしていただけで……」
気恥ずかしくなって、手塚は赤くなった顔を見られないように下を向いた。
「謙遜なさることはございません。坊ちゃまは声が出ないと分かった時よりも、テニスが出来ないと分かった時の方が、何倍もショックを受けておられました。テニスは、坊ちゃまの全てでございましたから……。ですから手塚様、どんな形であれ、もう一度坊ちゃまにラケットを握らせてくださったこと、私は心の底から感謝しているのです。本当に、ありがとうございます」
頭を下げたミカエルに、手塚は苦しげに呟いた。
「跡部にしてやれることなんて、俺にはテニスくらいしかありませんから……」
「テニスくらい、などと仰らないでくださいませ」
手塚の言葉を、ミカエルは緩く首を振って否定した。
「私も、坊ちゃまがテニスを始められてからというもの、勉強だけはして参りましたが、練習のお相手にもなれません。今も昔も、私には、戦う坊ちゃまを見守ることしか出来ないのです……」
ミカエルの寂しげな笑みに、手塚は言い募ろうとしていた口を閉じた。
「ですから、日本では可能な限り自由に、坊ちゃまのやりたいようにさせて差し上げたい、と。お出かけになられる際は、万が一に備えてのGPSと、脈拍や体温といったお体の異常を知らせる生体センサーだけを着けて頂いておりました。そのお蔭で、こうしてすぐに駆けつけることが出来たわけですが……、今回は無茶が過ぎたようですね。私も先ほど、監督不行届だ、とお医者様にこっぴどく叱られてしまいました」
そう言って、ミカエルは茶目っ気を込めて片目を瞑った。
「すみません……」
手塚のその一言に、ミカエルはそれまでの柔らかな態度を一変させた。
「手塚様。それは何に対する謝罪でしょうか」
あまりに真剣な表情に、詰問されているような圧迫感を感じながら、手塚が答える。
「……俺が、跡部に無理をさせたばかりに、こんなことになってしまったことに、です」
「無理を『させた』とは? つまり、手塚様が、嫌がる坊ちゃまをコートに引き込み、ラケットを握らせ、テニスをするよう強要した、と。そう仰るのですか?」
ミカエルの言葉に、ぎょっとして目を剥く。
「違います! ……というより、むしろ、連れて行かれたのは、俺の方で……」
頭をぶんぶん横に振って、しどろもどろに答える。そんな手塚に、ミカエルはようやく微笑んだ。
「もちろん、そういうことだろうと思っておりました」
ほっと息を吐いた手塚に、ミカエルが質問を重ねた。
「ところで手塚様。坊ちゃまが目覚められたら、何と声をかけられるおつもりでしたか?」
「それは……」
「もし、私に対して先程仰ったような謝罪を、もう一度口にされるおつもりだったのだとしたら、どうぞそれだけはお止め下さい。……坊ちゃまは、怪我をされて最初に意識が戻った時、真っ先に幼馴染の彼の心配をしていらっしゃいました。自分のせいだと妙な思い違いをして自分を責めていないか、目の前で起こった事故にショックを受けていないか、と。今回のことは、坊ちゃまご自身が考え、選択し、行動されたこと。手塚様から謝罪など受けてしまえば、どれほど心を痛められることでしょう。お願い申し上げます、どうか、決して謝ったりなさいませんように」
ミカエルの言葉に、手塚は黙って頷いた。
「それよりも、ぜひ、坊ちゃまのお気持ちを汲み取って差し上げて下さいませ。坊ちゃまが倒れる限界までテニスをしようとした訳が、きっと何かあるのでしょう? それを理解して差し上げられるのは、手塚様。あなたの他にはいらっしゃらないのです。どうか、宜しくお願い致します」
ミカエルはそう言って、再び深く頭を下げた。
手塚は、打ち合いの前の跡部とのやりとりを思い返していた。ふと、テーブルの上に置かれたままのスケッチブックが目に入る。そこに書かれた綴りも不確かな英単語の存在を思い出し、手塚は急いでページを捲った。
「ミカエルさん、一つ教えてもらいたい単語があるんですが」
すぐに目的のページは見つかった。見やすいように、とスケッチブックの向きを変える。手塚がそれを差し出そうとしたところ、ミカエルは眉を上げた。
「おやおや、私が拝見してしまっても宜しいのですか?」
真意を測りかねて、手塚の手が止まる。
「坊ちゃまは、私どもには一度もそのスケッチブックを見せて下さらなかったのですよ。毎日屋敷に帰って来られては楽しそうに眺めていらっしゃるので、それとなくお願いしたこともあったのですが。笑いながら枕の下に隠してしまわれたりして……」
手塚は、腹の辺りがカッと熱くなるのを感じた。特段考えたこともなかったが、最初に名前を教えた時のように、なんとなくこの人には全て知られているように思っていた。
手塚と同じように跡部も、二人でのやりとりを特別大事に思ってくれていたことを知って、照れくさいような、ムズムズするような、何とも言えない気持ちになる。やましい事をしていたわけでもないのに、なんだか居た堪れない気分だ。
「なら……、ここだけ」
あまり大きくもない手をいっぱいに広げながら、手塚がノートを出来るだけ隠す。その手の隙間から、例の単語を見せた。大人びた少年の思わぬ仕草に、ついつい小さく笑いながら、ミカエルはページを覗き込んだ。
「『opponent』。『試合の相手』という意味の単語ですよ」
滑らかな発音とともに自分の予想と寸分違わぬ言葉を返され、手塚は肩を落とした。
「……では、こっちは?」
念のため、と少し手を広げて、あの数式の全体図を見せる。おや、とミカエルが目を開いた。
「『enemy』。『敵』という意味ですね」
こちらも思った通りの意味だ。万事休すか。
手塚の表情を窺っていたミカエルが、さらに言葉を付け足した。
「『opponent』には、純粋に『試合をする相手』という意味しかありません。対して、『enemy』という単語には、常に憎しみや嫌悪といった感情が含まれます。それ故、『対戦相手』を指す語として『enemy』を使うことは、まず有り得ません。少なくとも、スポーツにおいては」
ミカエルの言葉を、体に染み込ませる様に、何度も頭の中で反芻する。
「私が知る限りでは、己の対戦相手に『敵』などという負の意味を持つ言葉を当てるのは、日本語だけだったと記憶しております。共に一つのスポーツをする人間を『敵』だ、とは。私には、いささか承服しかねますが――」
跡部が目を覚ますまで傍にいたい。
手塚からの申し出に、ミカエルは一も二もなく頷いた。
「もう時間も遅くなりましたから、一度ご自宅にご連絡致しましょう」
そう告げて、部屋を出て行く。再び部屋の中は、手塚と跡部の二人だけになった。
心遣いに感謝しながら、手塚は一つ大きく息を吐いた。ベッドの傍まで運んだアームチェアに腰掛け、眠る跡部をじっと見つめる。
テニスが好きなのに、それが出来ないというのは、一体どんな気持ちだろうか。こんなにもテニスを愛しているというのに、その愛するものに近づけない痛みとは、どれほどのものだろうか。
それでも、どうしてもテニスから離れることが出来ず、傷付きながら、抗いながら、これまで戦ってきたのだろうか、跡部は。自分の中にある、何かと。
共に過ごした、決して長いとは言えない一瞬一瞬に思いを馳せる。
テニスコートを見つめる一途な眼差しに。テニスを愛する人々に向けられた優しい仕草に。周りに何か一つでも多くを伝えようとする姿勢に。そして、手塚自身に向けられた熱の篭った瞳に。
答えは、いつでもその中にあった。
目元にかかっていた金糸に気付き、手塚はそれをそっと横に流した。指の先が、わずかに泣きぼくろを掠める。それに呼応するように、ゆっくりと瞼が上がった。ゆらゆらと辺りを見回す瞳が、徐々にクリアになる。ようやくその青が、手塚を捕らえた。
「……すまなかった」
手塚の言葉に、跡部はすっと目を逸らした。
「お前と戦ったことに、じゃない。……さっき、勝手にミカエルさんにあのスケッチブックを見せたことに、だ」
外されていた視線が、再びこちらを向く。手塚は、大きく息を吸った。
「俺は、臆病者だ。それまで仲間だと思っていた相手が向けてくる敵意が怖かった。強くなることで、一人だけ周りから切り離されるようで恐ろしかった。……いつの間にか、テニスを続ける理由を見失っていた」
相槌を打つこともなく、跡部はじっと手塚の目だけを見つめている。
「だが、お前に会って、俺の中で何かが変わった。自分の力を試すことしか考えていなかった俺に、打ち合いを通して、いろんな人たちがたくさんの感情を教えてくれた。純粋にテニスを楽しむ気持ちを、思い出させてくれた。そして、お前とのラリーで初めて、俺は、負けたくない……勝ちたいという気持ちが、心の底から湧き上がってくるのを感じたんだ」
跡部は、一言も聞き漏らすまいというように息を殺していた。瞳の中に一瞬、あの時の炎が煌めく。
「跡部。俺はもう、真剣勝負を恐れない。勝つことを躊躇ったりしない。俺は、もっと強くなりたい。もっと上を目指したい」
真正面からの手塚の決意を受け止めて、跡部が初めて一つ頷いた。
「弱い心は、いつでも自分の中にある。たぶん、消えることなどないんだろう。俺は、これからもそいつと戦っていくつもりだ。だから……、お前も、負けるな」
急に自分に向けて飛んできた言葉に、跡部は目を瞬いた。
「コートに立つ時、俺たちはいつも一人だ。でも、テニスは一人で出来るものじゃない。ネットを挟んだ向かい側には、いつだって、同じ試合を作る相手がいる。……跡部、俺たちは一人で戦っているわけじゃない。お前は……、俺たちは、『仲間』だ。そうだろう?」
問いかけに、跡部は自分の胸元をぎゅうっと掴んだ。ベッドの中で、一つだけ大きく頷く。
そうだ。自分の『敵』はいつでも、自分の中にこそ、ある。
明けて翌日。お見舞いと称して再び跡部邸を訪れた手塚は、案内された室内に足を踏み入れて些か拍子抜けしていた。こちらの緊張も不安も露知らず、跡部はケロッとした様子で身支度を整えていたのだった。
「もう起き上がって平気なのか?」
シャツの上からもぞもぞとニットを着ていた跡部が、ぷはっと頭を出した。手塚の方を向いて、当たり前だろう、という顔で唇を尖らせる。そこでやっと、手塚は跡部の首元に何も巻かれていないことに気が付いた。
「……そうか。なら、これは持って帰ろう」
母親に持たされた菓子折りを、わざと鞄に仕舞うフリをする。跡部は素早く手塚の手を掴んだ。
『今からコートに行く』
持ってきた葛饅頭を結局二人で全て食べきり、一息ついていると、唐突に跡部が宣言した。
「今日は止めておけ。まだ休んだ方が、」
『休んだ』
「昨日の今日で、」
『だから早く』
「早く?」
『謝りたい。騒がせたこと』
手塚が話すのとほとんど同時に、跡部が文字を書く。確かにあれだけの騒ぎだ。みんな、今頃心配しているだろう。跡部が真剣な目つきでスケッチブックから顔を上げる。
「分かった。……一緒に行こう」
「承知致しました」
猛反対するかと思われたミカエルの言葉に、跡部と手塚は揃って目を瞬かせた。
「どうかされましたか?」
「いえ、てっきり……」
「もう、手塚様が止められた後でしょう? それでもお聞きにならないのなら、私が同じことを言っても仕様のないこと。それに、手塚様もご一緒なら私も安心です」
ミカエルの言葉に、跡部はあからさまに不貞腐れた顔をした。「昨日ミカエルに何をした?」とでも言うような疑惑の目を向けてくる。手塚は、清清しくその視線を無視した。
「なるべく早く戻ります」
「宜しくお願い致します。ところで坊ちゃま、マフラーは如何なさいましたか?」
自分の首元を触りながら、跡部は思い出そうとするように首を捻った。
「放り投げるからだぞ……」
「私も、少々気が動転しておりましたから……。コートは回収したのですが」
「ついでに取ってきます。きっと誰かが預かってくれていると思いますので」
「ありがとうございます。あれは日本へ向けて旅立つ際、坊ちゃまがお母様から頂いた贈り物でしたから。失くされたら大変でしょう?」
ミカエルは、最後の言葉だけ跡部に向けて言った。跡部が罰の悪そうな顔をする。
「いってらっしゃいませ。どうぞお気をつけて」
エントランスまで来て、跡部ははたと足を止めた。
「どうした?」
エントランス前に停めてあった自転車を指差している。心なしか頬が上気しているように見えるのは、気のせいだろうか。
「ああ、あんまり正門から玄関までが遠かったから、自転車で乗り付けさせてもらった」
手塚の言葉を聞いているのかいないのか。跡部は自転車の周りをうろうろしている。ギアを弄ったり、ベルをチリンと鳴らしたりと忙しない。
「まさかとは思うが……、乗ったことないのか? 自転車」
こくんと跡部が頷く。この屋敷を見るに、納得の返事だ。
「せっかくだから、これで行くか。乗せてやる」
昨日は、体力が落ちているところに、激しい負荷をかけたのだ。元気そうに振舞ってはいるものの、本当のところは本人にしか分からない。辛くとも決して態度に出すまいとするだろうから。
ぱぁっと花が開くような笑みを浮かべて、跡部はサドルを跨いだ。
「違う……。初めてで乗れるわけないだろう。後ろに乗れ」
鞄とスケッチブックを自転車の前かごに放り込む。手塚が促すと、跡部は恐る恐る後ろの荷台に腰を下ろした。途端、ぐらりと車体が揺れる。
「掴まってろ」
二人分の体重で重くなったハンドルを強く掴む。片足に力を込めて一歩目のペダルを踏み込んだ。
緩やかな下り坂を、自転車は風になって走る。髪の毛が踊る。
「どうだ?」
ガンガンとあたかも啄木鳥のように、跡部は手塚の背中におでこをぶつけた。充分に楽しんでいるらしい。
「……いつか、ちゃんと試合をしよう。最後まで」
ぽつりと呟いた言葉に、首肯はなかった。腰に回った腕に力が篭もる。それが応えだと思った。
自転車を降りても、なんとなく互いの体温が離れがたくて、手を繋いだ。
まもなくコートに着こうかという時だった。そちらから歩いてくる人影に気がついた。ぴたりと動きを止めた跡部に合わせて、歩みを止める。
「あれは……」
跡部と初めて出会った時、跡部に声をかけていた男だ。不穏な気配を感じて、一歩後退る。
「……随分仲がいいんだね」
男が笑顔で声をかけてきた。跡部は警戒を解かず、じっと男の目を見つめている。目が、笑っていない。
「昨日はびっくりしちゃった。もう大丈夫なの?」
振られた問いに、跡部が律儀に頷いている。どう接したものか、考えあぐねているようだった。しかし、続く男の言葉に、二人してびくりと固まった。
「もう、あんな危ないことしちゃ駄目だよ。安心して。僕が、守ってあげる。これ以上痛くないように、苦しまないように」
男が手に持っていた赤いものに顔を寄せる。昨日置き忘れた跡部のマフラーだった。何時から、何処で見ていたのだろう。繋いだ手と手の間に、じんわり汗が浮かんだ。ぎゅっと強く結びなおす。
「手塚君、だっけ? 君になら任せていても大丈夫だと思ってたんだけど。まさかあんなことをするなんて……。僕の天使を、よくも酷い目に遭わせてくれたね?」
いよいよこれは危険だ。極力口を動かさないようにして、「逃げろ」と呟く。跡部がそれを拒むように、結んだ右手に力を込めた。
「遠くから美しい彼女を眺めているだけで、十分だとも思ったんだよ? でも、こうなったら仕方ないよね?」
男がポケットに手を入れる。刃物のようなものを取り出すのが見えた瞬間、手塚は思い切り跡部を突き飛ばした。
「走れ!」
同時に大声で叫ぶ。跡部は一瞬の逡巡の後、転がるように駆け出した。
跡部が逃げる時間を稼ぐだけでいい。追いかけようとする男の前に立って話しかける。
「あんなこと、とは? 俺が何か、跡部に酷いことをしましたか?」
手塚の言葉に、男が目の色を変えた。
「昨日のことなのに覚えてないのかい 怪我をしている彼女相手に、手加減もしないで! 君には、優しさだとか思いやりだとかいった心がないの」
「優しさや思いやりは、関係ない。俺たちは、ただ、真剣にテニスをしていただけだ」
火に油を注ぐ言葉だ。しかし、どうしても言い返さずにはいられなかった。こんな男に、跡部とのあの心が沸き立つようなテニスを穢されたくなどなかった。
「そうかい……、よく分かったよ。君が、スポーツマンシップの風上にも置けないような人間だってことが!」
激昂した男が、めちゃくちゃに刃物を振り回す。避け切れなかった切っ先が、手塚の頬を掠めた。ピリっとした痛みが走る。
「そこをどけ! 僕の天使を返せ!」
「何がお前の天使だ! 跡部は! 俺のライバルだ!」
咆える男に、無我夢中で言い返した。その時、
「――手塚ァ!」
声変わり前の少年とも少女ともつかない声が、乾いた空気を震わせた。誰のものか考える必要もなかった。声のした方を振り返る。
突然のことに、呆然とした様子の見知った大人達。それを先導するように立つ跡部の右手には、その中の誰かから奪い取ったのだろうラケットが握られていた。その手はもう、震えていない。
咄嗟に意図を汲んで、手塚は姿勢を低くした。跡部がボールを高く投げ上げ、思い切りラケットを振り下ろす。耳元を掠めたボールが、男の手に当たって刃物を弾いた。
手塚は動揺した男の懐に低い姿勢のまま飛び込むと、襟元を掴んで強く引いた。体勢を崩したタイミングで思い切り地面を踏みしめ、腰を軸に、回転をかけるように背負いこむ。男の体が、弧を描いて宙を舞う。綺麗な背負い投げだった。ドスンと大きな音を立てて、男が受身も取れないまま地面に落ちる。
「一本……」
大人達が、倒れた男を取り囲んで押さえつけるのを見ながら、跡部は思わず呟いた。
往生際悪く、男が何事か喚いている。
周りの人々が止めるのも聞かず、跡部はそちらに向けて歩き出した。気付いた男が、途端に口を閉じる。
数人に取り押さえられ膝をついた男の真正面までやってくると、跡部は無表情に男を見下ろした。太陽を背にして立つ姿は、あたかも罪人とその罪を裁く天使のようだった。
「……僕はただ、君を守りたかっただけなんだ」
懺悔でもするかのような男の言葉に、跡部が目を細めた。僅かに口角が上がる。小さな口が開くのを、男は天啓を待つ気持ちで見つめた。
「守る、ねえ? あいにく、俺様は誰かに守られるほど、か弱くねーんだよ」
思考の追いつかない男が、ぽかんと口を開けた。
「言いたい放題言ってくれたみてぇだが……。何がスポーツマンシップだって?」
凍えるような視線で断罪する。
「ラケットも握ったことのねえ野郎が、なに大口叩いてやがる。てめえなんかにスポーツを……、テニスを語る資格はねえよ」
言いたいことは言い切った、というようにラケットを肩に背負い、跡部が背中を向けて立ち去る。数歩進んでふと足を止めると、「それから」と思い出したように肩越しに振り返った。呆然と見上げる男に、凶悪な笑みを浮かべ、最後のとどめを刺す。
「誰が『彼女』だ、バーカ!」
「……見事な一本だな」
ショックの余り、顔から地面に突っ込んだ男を見ながら、手塚が小さく呟いた。
少し離れたところで成り行きを見守っていた手塚のもとへ、跡部はまっすぐ歩み寄った。
「跡部、」
「手塚。それ、大丈夫か?」
言われて初めて思い出した。頬の切り傷に手をやる。血は既に固まっていた。
「何とも無い。皮が切れただけだ」
「そうかよ……」
素っ気無い口調とは裏腹に、心底安心したというように、跡部がほっと大きく息をつく。俺の怪我よりも、もっと大事なことがあるだろう。
「跡部、声が……」
「あぁ……。何だか、すげぇ息が楽になった。まるで長いこと喉に詰まってたもんが取れたみたいだ」
そう言って、何でもないことのように笑ってみせる。
「そうか」
「おう」
初めて音で交わす会話の面映さに、ぎこちなく俯く。二人の間に、僅かに沈黙が落ちた。それを破るように、手塚はとつとつと話し出した。
「何から言えばいいか分からないが……」
「……うん?」
跡部が赤い頬をして視線を合わせる。万感の想いを込めて、手塚は口を開いた。
「お前……、ものすごく口が悪いな」
「あぁ………………、アーン!?」
「そりゃあ、一番に言うことじゃねぇだろぉがぁぁぁぁ!」
跡部の擦れた絶叫が、冬晴れの空にこだました。
「わざわざ見送りに来てもらって、すまねえな」
出国ゲート前は、飛行機を待つ人、その見送りに来た人で溢れている。その喧騒から一歩離れたラウンジで、向かいに立った跡部は未だに息が多く混じる、だが芯のある声で呟いた。
今日、跡部はイギリスへ向けて発つ。
あのテニスコートでの一件から僅か数日。あっという間の出来事だった。
体だけでなく、喉の筋肉というものも使わなければどんどん痩せ衰えてしまうものらしい。これからは専門の医師の下で、発声のトレーニングを始めるのだと言う。今は擦れたままの声も、正しいトレーニングをして鍛えていけば、元通りになるということだった。
もともと日本へは療養目的で来ていたのだ。傷の癒えた今、次に為すべきことは、一刻も早いリハビリの開始だった。
「お前とは、ちゃんとした形で試合したいところだが、先ずは落ちちまった体力を取り戻さないとな。それに……、復帰戦には先約がいる」
「例の幼馴染か?」
「ああ。あいつ、あんなとこ目の前で見ちまったせいか、妙な気を使いやがって……」
そう言って、ほんの少し悲しげな柔らかい目で空の向こうを見やる。
「だから、あいつには一番に、俺が完全に復活した姿を……、違うな、それ以上に強くなった姿を見せてやらなきゃならねえ」
「……そうか」
跡部が幼馴染のことを思って胸を痛めていたことは知っている。少し妬ける。
「いつか必ず帰ってくる。その時まで、勝負はお預けだ」
「……あぁ」
今まであんなに言葉を交わしていたというのに、どうして肝心なときになって言葉が出てこないのだろう。
「……痕、残らなさそうだな」
手塚の頬に手を伸ばして、跡部が泣き出す手前みたいな顔をする。温かな指が、もうすっかり塞がった傷跡を優しくなぞった。
――残っても良かった。それくらい、残していっても良かった。
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
言ってしまえば、烈火のごとく怒るだろう。それとも、泣いてしまうだろうか。
「……じゃあ、またな」
鞄を持ち上げて、跡部が歩き出す。
「跡部!」
咄嗟に叫んでいた。跡部が驚いたように振り返る。
「あれから、ずっと考えていた。……テニススクールについては、正直まだ悩んでいる。続けるのか、辞めるのか、それとも別のスクールを探すのか……。ただ、どちらにしても、このまま有耶無耶にはしたくない。もう一度、皆と正面から向き合ってみようと思う」
手塚の真正直な言葉に、跡部が頷く。
「あと、これはもう決めたことなんだが。中学に入ったら、テニス部に入ろうと思っている」
跡部は意外そうに目を瞬いた。
「もっと力をつけたい。上を目指したい。それを仲間たちと、団体という形で、やってみたいと思う。今の自分に足りない何かが、そこで見つかる気がするんだ。……それに何より、『仲間』とするテニスは楽しいからな」
そう言って、跡部を見やる。
「そうか……。まあ、いいんじゃねーの?」
軽い調子で跡部が答える。その顔には、隠しようのない笑みが浮かんでいた。二人して微笑む。
「跡部。あのスケッチブック、まだ持っているか?」
「……持ってるぜ」
鞄を開けて、荷物の一番上にあったそれを取り出してみせる。
「お前には、もう無用なものだろう? だから……、俺にくれないか?」
ピンと来たらしい。跡部が瞳を光らせながら、手に持ったそれを差し出す。
「絵でも描く気……、痛っ!」
引っ手繰ったスケッチブックで軽く頭をはたくと、跡部が大袈裟な声を上げた。「はえーよ」と文句を言いながら、頭を擦っている。
「約束の印だ。……いつか、必ず戦おう」
「おう。その時は、真剣勝負だからな」
睨むように見つめ合いながら、お互いにグッと握った拳をぶつけた。
今度こそ跡部が、背を向けて歩き出す。エメラルドグリーンのコートが翻る。その首元に、赤いマフラーはなかった。
――少し意外だった。
迷いの吹っ切れた手塚は、そのまま一直線にプロの道へ進んでいくものと、そう思い込んでいた。あいつには、それだけの才能がある。そして、あいつ自身も心の底ではそれを望んでいる筈だ。
まだ、あるのだ。手塚をもう一歩前に踏み出させるために、足りない何かが。それにはきっと――。
「坊ちゃま? もう少しゆっくりなさってからの出発でも、宜しかったのですよ?」
ミカエルの言葉に、跡部は無意識に窓の外に向けていた顔を正面に戻した。
「別に、未練はない。帰りを待ち構えてる奴らが、向こうにはたくさんいるしな。……それに、毎朝毎朝テレビ電話で叩き起こされるのには、もう飽き飽きしてたところだ」
肩を竦め、わざとらしく溜息をつく。ミカエルは控えめに笑った。
「旦那様も奥様も、それはそれはご心配なさっておられましたから。今だから申し上げられることですが、日本へのご出立前日まで、散々駄々を捏ねられまして……。奥様はおろか旦那様まで、『仕事を休んでついて行く!』と……。本当に、あの時は骨が折れました」
見ていたわけでもないのに、その惨状がまざまざと脳裏に浮かんで、跡部は背筋を凍らせた。
「しかし、私も安心致しました。順調に行けば、クリスマスホリデー明けにも通学出来るようになるでしょう。なに、坊ちゃまなら数ヶ月程度の遅れ、すぐに取り戻せます」
「…………」
当然だろ? いつもならすぐさま、そんな自信に満ちた言葉が返ってくるはず。しかし、いくら待っても聞こえてこない返答に、ミカエルは目を瞬かせた。跡部は考え込むように顎に手を置いている。おもむろに跡部が口を開いた。
「そのことなんだが……。グラマースクールへの進学は、一旦見送りたいと思う」
「なんと……」
予想外の返答に、ミカエルは言葉を失った。
「やらなきゃならないことが出来た。日本の学校に通いたい」
ここまで来て、ようやくミカエルは思い至った。
「手塚様と同じ学校へ行かれるおつもりですね」
「いや?」
跡部の即答に困惑する。回りすぎる頭から飛び出す突拍子もない発想は、時々ミカエルを困らせるのだ。
「それじゃ面白くねーだろ? なんてったって、俺たちは『ライバル』だからな」
屈託なく笑いながら、何かを思い出すように跡部は目を閉じた。
「それはそれは……。日本のおじい様おばあ様は、お喜びになられるでしょう。しかし、旦那様や奥様が何と仰るか……」
「二人は俺が説得する。なにせ跡部景吾、一世一代のわがままになるかも知れないからな」
既に頭の中で様々な策を練っているのだろう。楽しそうな主の様子に、ミカエルは一つ諦念の溜息を吐いた。
「こんなにお早く、その言葉を使ってしまっても宜しいのですか?」
「ああ。その価値がある」
笑いながらも真剣な瞳の色を見て、ミカエルはついに白旗を揚げた。
「承知致しました。これ以上、私から申し上げることはございません。……さっそく坊ちゃまに相応しい学校をお探ししなければなりませんね」
「ああ、ピックアップを頼む」
鷹揚に頷くのに、自分の中でエンジンがかかるのを感じる。ようやくいつもの感覚が戻ってきた。
「忙しくなりますね……」
誰に向けるでもなくぽつりと呟く。跡部が笑った。
「時間はたっぷりある。そうだろ?」
「坊ちゃま……!」
ミカエルは思わず驚きと喜びの入り混じったような声を上げた。跡部が頷く。それから晴れやかに言い足した。
「ミカエル。これからも、よろしくな」
青い瞳を真正面から受けて、ミカエルは胸を張った。
「ええ、もちろんでございます。何処へなりと、お供させて頂きます」
再び窓の外に目をやる。遥か眼下には、白い雲がぽつりぽつりと浮いている。視界は良好だ。
強い偏西風を越え、機体はまっすぐ飛んでいく。機首の先には、遮るもののない空がどこまでも青く広がっていた。
白紙のページをいくらか残したままのスケッチブックには、美しい青が踊っている。
暗号のような単語。殴り書きの短い言葉。もし他の誰かが見たとしても、およそ解読できないだろう。
しかし、一つ一つの文字をなぞる度、手塚の脳裏にはそれにまつわる情景が鮮やかに浮かび上がった。嬉しそうな笑顔も、悔しそうなしかめっ面も、涙に濡れた泣き顔も……何もかも、鮮明に覚えている。
手塚は、スケッチブックをそっと閉じて本棚に仕舞った。いつものようにラケットバッグを背負い、家を出る。
怒号のような声援が、ぶつかり合って木霊する。
数多の憧憬と期待を背負い、跡部が目の前に立つ。
「おい手塚。腕、なまってねーよなぁ?」
歌うように甘いテノールが、まっすぐ耳に届いた。
あの頃より、一回りも二回りも大きくなった拳を合わせる。
四年という歳月は、声や姿や立場を変えながら二人の上を過ぎ去った。しかし、変わらない約束が、今もこのコートの上にある。
「それでは、氷帝学園VS青春学園、シングルス1の試合を開始します!」
ネットを挟んで結んだ視線に、歓声が遠ざかった。
「ザ・ベスト・オブ・1セットマッチ、氷帝サービスプレイ!」