やがて土に還る

  

 彼女は俺より一つ年上の、言ってみれば姉のような存在だった。
 そりゃ、遊んでるときなんかは相当やんちゃで、いつまで経っても子供みたいなヤツだったが、普段は穏やかで、わがままを言うこともなければ、誰かを困らせるようなこともしなかった。
 俺がようやく一人で靴を履けるようになった頃、一緒に庭を散歩しようとしたら、はしゃいだあいつが急に走りだしてさ。俺はリードを握り締めてたせいで派手に転んじまって。座りこんで大泣きしてたら、あいつ、申し訳なさそうに戻ってきて、俺の顔を舐めるんだ。俺が泣きやむまでずっと。それ以来、一度だってリードを引っ張られた覚えがない。
 落ち込んでるときや悩んでるとき、どんなに取り繕っても、あいつにだけは全部お見通しみたいだった。一人になりたくて隠れてんのに、どこからともなくやってきて、何をするでもなく、じっと横に座ってんだよ。おかげで俺たちの間には、隠し事なんて一つもなかった。言葉にならないことも、ただ体を寄せ合っているだけで、なんでも通じるような気がした。
 成長するにつれ、それなりに知恵もついて利口になった気でいたが、それでも時々こいつには敵わないと思うときがあった。あいつの瞳を見てると、俺よりずっとたくさんのことを知ってるような、ずっと先まで見えているような、そんな感じがするんだ。
 多分あいつは、自分が俺より先にこの世を離れなきゃならないってことも、前から分かってたんだ。俺はあいつに甘えてばかりだったから、出来る限り長く傍にいようとしてくれたんだと思う。今はただ、それがこいつの苦しみを長引かせはしなかったか。こいつがこれまで俺に与えてくれたもののいくらかでも、俺はこいつに返すことが出来たんだろうかと。そればかり考えてる。

  

 跡部は小さく息をつくと、つるりとした陶器の表面をやさしく撫でるように指先でなぞった。こんなとき静かに横に並んで跡部の頬をその温かな舌で舐めてくれていたのだろう彼女は、二日前の朝、硬く冷たい肉の塊になり、手塚が到着する少し前に、無数の灰の粒子になった。
 跡部の家を訪ねるようになったばかりの頃は、よく人の手を舐めに寄ってきていたが、最近では日当たりのいい窓辺や暖炉の前で目を閉じている姿を見ることのほうが多かった。もう目もあまりよく見えていないらしかったが、手塚が部屋に入ってくると匂いや声で分かるのか、パタパタと尻尾を振りながら長い首をもたげて、客人を歓迎するような素振りを見せた。
「賢い子だった」
 手塚はぽつりと言った。一拍置いて、跡部は「ああ」とざらついた声を出した。
 サラサラとした毛の感触も、陽だまりのような匂いも、こんなにも鮮明に思い出せるのに、この部屋どころか世界のどこにも彼女の魂が既に存在しないということが不思議でならなかった。
「お前があの子を愛したのと同じくらい、あの子もお前を愛していたと思う」
「……うん」
 跡部は陶器に手を添えたまま鼻声で答えた。肩を抱くのもなにか違う気がして、手塚はただ跡部の隣に座って小さな骨壺を一緒に眺めた。
「……お前がおしゃべりで良かった」
「なんだそれ」
 跡部は顔を上げると、赤く腫れた目を手塚に向けて少し笑ってみせた。
「俺は彼女のようにただ傍にいるだけで悲しみを吸い上げることは出来ないだろうが、こうしてお前の話を聞いて、記憶を共有することは出来るから」
 跡部は手塚の言葉を咀嚼するように何度か小さく頷いた。その後、彼女がしでかした一番大きな悪戯や、番犬として活躍した際の武勇伝、一緒に出掛けた旅先での話なんかをしながら跡部は大きな声で笑い、それから少しだけ泣いた。

  
 
 遺灰は跡部の家の庭に撒くことになった。跡部は骨壺の蓋を開けると、この時期一番鮮やかな黄色い花をつける薔薇の根元に灰を撒いた。
 短い黙祷を捧げた後、手塚はおもむろに口を開いた。
「いつか一緒に暮らすことになって、お前がそのとき飼いたいと思ったら……、二人で犬を飼おうか」
「服に毛がつくから嫌だ、って言ってたじゃねえか」
 跡部は間髪入れずに言った。やがて黒い腐葉土に混じっていくのだろう、まだ境界のはっきりとしたその白さを目に焼きつけるかのように、地面を凝視したまま。
「あの子といると、犬と暮らすのも悪くないなと思ったんだ」
「悪くない?」
「とても良い」
 手塚の訂正に満足したのか、跡部はそれ以上なにも言わなかった。ただ、屋敷の中に戻る直前、隣を歩く手塚の耳にかろうじて届くほどの小さな声で「サンキュ」とだけ言った。
 翌年も、またその翌年も、跡部の家の黄色い薔薇は、うっとりするような香りのする美しい花を咲かせている。

  

  

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