Shh!

  

“――忍足、邪魔するぜ”

5連勤を終え、ようやく迎えた週末の昼前。マンションのインターホンがけたたましく鳴り、来客を伝えた。
カメラ越しに見たモノクロの彼は、不機嫌のオーラを隠すことなく身に纏っていた。

「・・・で?今回はどないしたん」

よく冷えたアイスティを置きながら、毎度おなじみの声をかける。
コーヒー派の俺にとってはミントもアールグレイの茶葉も当然必要のないものだ。白い喉がこくりと上下するのをぼんやりと眺めていた。
ミントの清涼感も、アールグレイの香りも跡部の感情を落ち着かせることはなかったらしい。はあ、と憤りが混じった溜息が落ちた。

「だいたい、彼奴はルーズすぎんだよ」
「・・・うん」

「使ったグラスはすぐに洗わねえ」
「はいはい」
「洗濯の時に色物を分けねえ、風呂上がりに髪もまともに乾かさねえ!」
「なるほど」
「ウォーターサーバーのタンクの取り換えも概ねこの俺様がやってんだぜ?」
「さよか」
「家に帰ってきたら携帯が震えようが光ろうが一切出やしねえ。こっちが気になってしょうがねえんだよ!」
「へえ、そうなん」

このやり取りは毎度のことではあるが、跡部がこの家に来る度に項目が少しずつ確実に増えている。跡部と手塚の温度のある暮らしが垣間見えるようで、何ともいえない気分だ。
夫婦喧嘩は何とやら、と昔の人はよく言ったものだ。

「それに・・・」
「なになに」

「――それに、女と連絡取り合ってんだ。手塚の癖に」

・・ああ、そういうことか。

「この俺様が、晩飯作って待ってやってたっつーのに、食べてきた、だとよ!」
「はいはい、それで?」
「手塚の方が早い時は遅かったな、だの何だの言う癖に、こっちが聞けば何でもないとか言って黙ってやがる。ったくルーズで自分勝手でエコじゃねえ男だぜ!」
「なるほどなあ」

「忍足、言っておくがな。俺様は彼奴が誰と会ってようが知ったことじゃねえんだよ。エコじゃねえって話だ」
「うーん、そうなんかなあ」

目の前に居るモノクロではない彼は様々な感情の色を呈していて、出遭ってから随分と時間が経ったのだと感じさせられた。
自分も、彼も大人になったのだと。

「・・どうせいつまでもこうして居られる訳じゃねえんだ、俺だって分かってんだよ。手塚が望めば、今日にだって出ていくつもりだ」

自分も、彼も大人になってしまったのだと。
跡部の表情は然程変わらないというのに、何故か突然自分の胸に棘が刺さったかのようにじくりと痛んだ。
グラスの表面に結露した水滴がするりと流れ落ちていく。

その青い眼が遠くに見ている、あるかどうかも不確かな哀しい結末を無理やり引き寄せて、総てを呑み込んだまま互いのことを忘れたふりをして生きていくというのだろうか。

どうやら跡部は何にも分かっていない。だが、それがとても人間らしくて好ましい。
先程からその“携帯電話が光ろうが震えようが気にも留めない男”は跡部の携帯をひっきりなしに鳴らしているというのに。

学生時代、共にラケットを振っていた頃。
誰よりも強くて、美しくて、華やかで、そして清廉な我らが部長は、時折風になって目の前から消えてしまいそうに思えた。

そんな跡部をある意味歪めているのが手塚国光という存在なのだと知り安堵する一方で、本能的に敵だ、魔物だと認識している自分がいることにも気付く。

どうせ件の男が此処に辿り着くのも時間の問題だ。
俺の中にある種の悪戯心が芽生えてきた。大切な宝物を取られた子供の仕返しのような。

「・・・なら、此処に来たらええやん」
「・・・は?」

「俺やったら手塚と違って洗いもんも水の取り換えもちゃーんとやったるよ?何なら、手塚と違って余所で女と会ったりせえへんし?」

「・・・っ、」

その整った口元が引き結ばれるのを見て、さらなる嗜虐心が沸き起こってくる。じりじりと跡部を追い詰め、壁へと追いやった。困惑の色を濃くして此方を見上げている。
ああ、ほんまに青いなあ。

お互いに打つ手がなくなった瞬間、まるで鈍器で後頭部を殴られるかのようにタイムリミットを告げるドアチャイムが鳴った。

「なんてな。跡部、びっくりした?・・はいはい、待っとったでー」

それからしばらくして玄関のドアが開き、件の男のお出ましにより跡部の眉間の皺が一層深くなる。

「・・・手塚」

「跡部、帰るぞ」
「・・・・・・煩え」
「・・・?どうした」
「・・・・・・別に」

「――手塚、今日は女の人と会わんでええの?」

誰か、俺のこの苦悩を見て欲しいわ。我ながらファインプレーだ。
跡部は決して口に出したりはしないだろう。先刻の悪戯のせめてものお詫びだ。

「女の人?何の話だ?」
「・・・は、とぼけるつもりかよ!昨日晩飯パスしてまで会ってたんだろうが」
「・・・・・・ああ」
「ああ、じゃねえよ。今度はだんまりか?涼しいカオして、信じられねえな」

「・・・・・・言いたいことは済んだか?」
「っ、何だよ。俺様に非があるみたいじゃねえか」
「そこまでは言っていない。言いたいことは済んだのかと言っただけだ」
「何が違うんだよ!」

「・・跡部。昨日俺が会っていたのは、・・今度結婚するチームメイトの婚約者の友人だ。余興の関係でアポイントがあったので時間を作っていた。先週伝えていたと思うが、違うか」
「・・・・・・」

ああ、どうやら思い当たる節があったようだ。疑念がしぼんでいくのが見て取れる。
ピンポン玉のラリーは突然終了し、コンコンと玉だけが転がるかのような後味の悪さを感じた。だが、それで良かった。

「跡部、帰るぞ」
「・・っ、」
「帰らないのか?」
「・・・明日の朝食!いつものカフェのリコッタチーズとミックスベリーのパンケーキで手を打ってやる!」
「ああ、分かった」

*
「忍足、手間をかけたな」
「・・ったく、ほんまやで・・。ちゃーんとしとかんと、取られてまうよ?」
「その心配は要らない」

先程の悪戯心の残渣をぶつけてみたが、相変わらずの鉄仮面でさらりと流された。
するとそこへ、玄関の方から声が響く。

「・・おい、手塚ァ!さっさとしねえと置いてくぜ?」
「ああ、今行く」
「跡部、手塚。気ィ付けて帰りや。ほなまた・・、!」

ああ、そういうことか。
第一ボタンを外してゆるく開いた白いシャツの中。
オンの場面では決して見えないであろう鎖骨の下に、深紅の所有印が色濃く鎮座していた。

「跡部、それ・・」

思わず声を発しかけたとき、鋭い眼光が此方を射抜いた。成る程、これがこの男の正体か。
どうやら黙っていろ、ということらしい。

跡部、安心してええよ。隣に居るソイツは、独占欲の塊のような魔物だから。

パタンともの悲しい音を立ててドアが閉まる。さて、次の襲来はいつになるだろうか。
沈黙の魔法が解けた俺は、背伸びをしてグラスの片付けに取り掛かった。

  

  

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