SPECIAL ONE

  

 跡部さんが指定したのは、上品なパブって感じの店だった。黒に近い色をしたウォールナットの家具に、彩度低めなグリーンの壁紙。壁や天井に取り付けられたアンティークのランプが、その周りだけをぼんやり照らしてる。話し声や笑い声、食器の音があちこちからするんだけど、騒がしいってわけじゃなくて、そのザワザワした雰囲気もひっくるめて、なんか落ち着く。そんな店。
 奥のテーブル席に座ってる二人を見つけて、ちょっと足を早める。通路側にいた跡部さんが先に気づいて片手を上げた。
「よう、越前」
「ちーっす。今日はゴチになりまーす」
 席に着くなり、そう宣言して、
「あ、それと。ご婚約おめでとうございます」
 取ってつけたみたいに、ぺこっと頭を下げる。跡部さんが「ついでかよ」って笑ってる隣で、手塚部長は大真面目な顔して「ありがとう」って律儀に答えた。

「もちろん式は挙げるんスよね?」
 運ばれてきた料理をつつきながら聞いてみる。
 この間のトーナメント、優勝者インタビューでの部長の突然のプロポーズは、いまだにニュースサイトでアクセスランキングのトップを飾ってる。SNSはどこもお祭り状態。グループチャットには、俺がその場に居合わせたからって、野次馬根性丸出しの奴らから「詳細を聞かせろ」ってメッセージが大量に届いてて、うるさいからずっと通知をオフにしてる。俺だって見たまんまのことしか言えないって。動画でも検索してよ。
「ああ。年内には、と考えている」
 そんな一連の騒動の震源地は、いつも通りの落ち着いた声で答えた。ちょっとくらい浮かれてても罰当たんないと思うんだけど。
「場所と日程の調整中だ。試合のスケジュールもあるだろうから、決まり次第連絡する。どうにか都合つけて来いよ?」
 跡部さんも通常営業。なんでもド派手にしちゃう人だから、結婚式なんてやらせたら、すごいことになるんだろうな。なんてったって、一生に一度のことだし。
「言われなくても。こんな面白そうなイベント、見逃すわけないじゃん」
「遅刻厳禁だぞ、越前」
 部長、軽口にしては目がマジすぎ。
「しないっスよ!」
 いつまでも遅刻魔の烙印を押されてるのは不本意だけど、実際、今日もしっかり待ち合わせの時間に遅れてたから、それ以上は言い返せなかった。店の人が通りがかったのを良いことに、追加の注文をして話を逸らした。

 こうして三人で会うのは、部長から少し遅れて俺がツアーに参戦するようになってからだから、もう何年にもなる。部長と俺だけなら、わざわざ連絡取りあってまで会おうとはしないから、言い出しっぺはいつも跡部さん。俺が部長と同じ大会にエントリーしてるときとか、たまたま近場にいるとき、タイミングが合えばって感じ。その頃には、とうに二人は付き合ってたし、それを隠してもいなかったから、跡部さんと部長の関係は公然の事実だった。(でなきゃ、今頃ショックで寝込んでる女子は多かったと思う。)

「へー。じゃあ、もう結婚指輪買ったんだ。どんなの?」
「ちょっと待ちな」
 跡部さんは上着のポケットから携帯を取り出すと、写真を一枚表示させた。まるで結婚会見みたいに、お揃いの指輪をした左手をカメラに向けた二人の写真。跡部さんのドヤ顔と部長のやらされてますって表情の落差がちょっと笑える。でも、間違いなく幸せが詰まった写真。
「いいじゃん。でも、思ったよりシンプルだね」
「思ったより、ってどんなの想像してたんだよ」
「え? なんか、もっとギラギラした厳ついの」
「毎日身に着けるもんだからな。これくらいがちょうどいいんだよ」
 そう言う跡部さんは、いつもより大人びて見えた。
「ん? 跡部、毎日着けるのか?」
 それまでの雰囲気をぶち壊すように部長が言った。
「そのつもりだが……? まさか、てめえは着けねえつもりだったのか?」
 跡部さんの圧に動じることもなく、部長は怪訝そうに一言。
「指輪をしてテニスは出来ないだろう」
 プレー中に着けられないなら最初から着けていかないってことらしい。考え方としては合理的なんだけど、跡部さんはそうは思わなかったみたい。
「手塚……。お前、絶対そのまま引き出しの中に仕舞いっぱなしにするだろ。賭けてもいい」
「そんなことは……、あるかもな」
「一応確認するが、着けたくないってわけじゃねえんだよな?」
「まさか」
「なら、持ち運び用のケース買ってやる。練習のときとか試合中は、それに入れな。それなら失くさねえだろ」
「そうだな……。じゃあ頼む」
 跡部さんが「おう」と応えて、喧嘩とも呼べないような短い話し合いは終了。この二人、意見は割れがちだけど、纏まるまでのスピードは早いんだよね。
「ところでさ、いつまでその呼び方なの?」
「アン?」
 跡部さんが首を傾げる。部長も何の話だ?って顔してる。
「苗字」
 ただの雑談のつもりだったんだけど、その一言で跡部さんと手塚部長は顔を見合わせたまま、たっぷり五秒は黙り込んだ。
「えっと……、俺、なにかマズイこと聞いた?」
 恐るおそる尋ねる。部長はおもむろに口元をナプキンで拭うと、俺のほうに向き直って、改まった話でもするように口を開いた。
「越前、言霊信仰というものを知っているか?」
 いきなり雑談ではまず聞かない単語が出てきた。
「言ったことが本当になる、ってやつ?」
 正解だったらしい。部長は重々しく頷いて、
「言葉には魂が宿る。特に名前にはその人間の魂が宿るから、誰が聞いているか分からないようなところでは、みだりに名前を呼んではならないとされている」
「つまり……、宗教的な理由っスか……?」
 部長の話すトーンに釣られて、思わず声を潜める。
「つまり――」
 部長がさらに何か言おうとしたとき、横から跡部さんの手が伸びてきて、部長の頬をギュッと引っ張った。(ほっぺたはあんまり伸びなかった。)
「いつの時代の話だよ。分かりにくくて悪かったな、冗談だ」
 跡部さんは、前半は部長を呆れた顔で見ながら、後半は俺に向けてケロッとした顔をして言った。
「いや、冗談言ってる空気じゃなかったけど!?」
 怖い話かと思った。胸の辺りを押さえてる俺を見て、跡部さんが笑う。
「苗字で呼んでた期間が長かったから今更ってだけで、深い意味はねえよ。籍入れるっつっても、姓を変える予定はないから、このままでも困らねえし」
「ふーん、そんなもん?」
「お前だって、手塚のこといつまでも『部長』って呼んでるじゃねえか」
「『手塚センパイ』って、なんか違和感あるんスよね。部長は部長って言うか」
「そういうこと。な?」
 最後の部分は部長に向けたものだった。地味に痛かったのか、部長は引っ張られてた頬を擦りつつ、しかめっ面で「ああ」と頷いた。

 店を出る頃には外はもう真っ暗だった。ちょっと冷たい夜の空気が気持ちいい。
「じゃ、またね」
 跡部さんと部長に手を振って、店の前でサクッと解散。次に会うのは試合のときかな。もしかしたら結婚式のほうが先かも。なんとなく、二つ三つなら質問に答えてやってもいいかって気分になったから、後で久しぶりにグループチャットを覗いてみることにした。

  

「嘘つくの下手すぎんだろ」
 越前の後ろ姿が雑踏に紛れて見えなくなってから、跡部は口を開いた。
「嘘は言っていない」
 手塚がムッとして言い返すと、跡部はやれやれと言ったふうに肩を竦めて、二人が住む自宅の方向へと歩き始めた。
「お前だって話を合わせたじゃないか」
「説明したくないみたいだったから、助け舟出してやったんだろ。しかし、名前を呼ぶのが恥ずかしいって感覚、いまいち分からねえな。英語とかドイツ語で喋ってるときは、普通に呼ぶじゃねえか」
 跡部の指摘はもっともだった。今日みたいに誰かが一緒にいる場だと、つい「跡部」と苗字で呼んでしまうのだ。英語やドイツ語のときは、いつも「ケイゴ」と呼んでいるにも関わらず。
 ただそれは、その言語のルールに従っているだけのことだ。目上の人や面識のない相手なら姓で呼んでも問題ないが、一般的にはある程度親しくなれば(あるいは最初から)名前で呼ぶよう求められる。コーチやトレーナーとだって名前で呼び合う。そこに大きな意味はなく、自分と相手との関係や距離感によって、姓と名前を使い分けているに過ぎない。
「日本語だとニュアンスが違う、……気がする」
「ほーう、どんな風に?」
 跡部は興味深げに聞き返した。手塚は少し考え込んで、
「日本語で名前を呼ぶのは、もっと親密というか……、特別な感じがする」
 石畳の道に二人分の足音が反響する。跡部はたっぷり時間をかけて言葉の意味を咀嚼してから言った。
「俺はお前にとって親密で特別な人間だと思ってたんだが、違ったか?」
「違わない。違わないから、それを人前で出すのが恥ずかしいんだ」
 まじまじとこちらを見てくる跡部の視線から逃れるように、手塚はわずかに目を逸らした。
 このままでも困らない。確かにこれまではそうだった。越前に言われるまで、それほど可笑しなことだとも思わなかった。
 しかし、跡部はどう思っているのだろう。苗字で呼べば同じように苗字で返してくるが、手塚と違って名前を口にするのに抵抗があるわけでもない。たまに、妙な愛称をつけてくることすらある。自分がどう呼ぶかばかりで、跡部がどう呼ばれたいかという視点がさっぱり抜けていたのに気づいて、少し不甲斐ないような気持ちになる。
「そうか。分かった」
 跡部は物分かりのよい返事をした。もうこの話は終わりにするつもりなのだと分かった。
「跡部、やはり普段から名前で呼んだほうがいいか?」
「あーん? なんでだよ」
「それが普通じゃないのか」
 はたと跡部の足が止まる。
「手塚、何か勘違いしてねえか。俺様は別に普通なんて求めてねえ」
 ガス灯の煌々とした明かりの下、まっすぐ手塚の目を見て、跡部は言った。
「名前なんざ所詮記号だ。好きに呼べばいい。どう呼ばれようが、俺はお前の『特別』だからな」
 自信満々にそう言い切ると、跡部は手塚の腕を掴んで歩道の端のほうへ避けた。後ろから来たクロスバイクがすぐ傍を走り過ぎていく。
「……ありがとう」
 跡部は返事代わりにニッと笑ってみせた。
「しかし、今更何を言い出すのかと思ったぜ。マリッジブルーなんじゃねえの?」
「そうかも知れない」
 馬鹿正直に手塚が頷く。
「急に不安になった。このままでいいのか。お前はいつだっていろんな形で、愛してるを伝えてくれるのに」
 跡部はびっくりしたように目を瞬かせていたが、すぐに恐ろしく真剣な顔をして言った。
「手塚、キスしろ」
「今、ここで?」
「今、ここで」
 そう言うなり、跡部は目を閉じた。一瞬ためらったものの、手塚は跡部の唇にキスをした。可愛らしいリップ音つきで。
「これでいいか?」
 ゆっくりと瞼が開いて、青い瞳が覗く。その目が見る見るうちに弓なりになる。
「全然足りねえ。けど、今のところはこれで勘弁してやる」
 跡部は尊大に言い放ってから、続けて、
「心配しなくても、お前の愛してるも十分伝わってるよ。それに、俺は気に入ってるぜ? 苗字で呼ばれるのも、二人きりのとき、思い出したみたいに名前で呼ばれるのもな」
「忘れてるわけじゃない」
「知ってる」
 そう微笑んで、跡部は手を差し出した。
「帰るぜ、手塚!」
 跡部の手はあたたかかった。そのあたたかさを逃さないように強く握り返した。いまだに照れくささは抜けないが、家に着いたら真っ先に名前を呼ぼう。それから、跡部が「もうやめろ」と言いだすまでキスをしよう。そう心に決めながら。

  

  

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