1. Ginger
ロッカーから取り出したガラス製の小さな容器は、てっきり髪につけるワックスの類いだと思っていたので、跡部がそれを唇に塗りだしたときにはギョッとしてしまった。淡いミルク色のクリームを薬指で掬って、下唇に薄く伸ばす。鏡台の前で身支度するとき、母もよく同じ仕草をしていたことを思い出して、妙な気持ちになった。
「見すぎ」
跡部は横目で手塚を見ながら意地の悪い笑みを浮かべた。それから、ロッカールームに他に誰もいないことを確認して、小さく手招き。手塚がロッカー一つ分の距離を詰めると、リップクリームをつけた指が顔に伸びてきて、唇の上を一往復していった。
「舐めるなよ?」
普段リップクリームなど使わない。違和感をごまかすように上唇と下唇をむぎゅむぎゅとこすり合わせていると、跡部がからかうように言った。控え目な香り。微かにすうっとするのはミントだろうか。それと、
「スパイス?」
「ジンジャー。寒くなってきたからな。結構いいだろ?」
蓋を閉めながら跡部が言う。
跡部の唇は、まるで生まれてこの方荒れたことなどないかのように、いつ見ても艶々していた。当たり前すぎて気にしたこともなかったが、それもこうした日々の手入れの賜物なのだろう。だとすると、このすべすべした肌も、長い睫毛も、何かしら手を加えているのだろうか。
「おいこら」
頬を掴んで観察していると、さすがの跡部も不貞腐れた声を出した。
「跡部、実は化粧をしていたり」
「するわけねえだろ」
跡部が呆れたように言う。
「で?」
いまだ名残り惜しそうに頬に置かれたままになっている手塚の手を見て、跡部は眉を上げた。
「キスはするのか、しねえのか」
「する」
唇が触れる間際、その頬がうっすらと紅を差したような色に変わるのを見た。
2. ノスタルジア
ガーネットレッドの部屋は、まるで小人の住居のようだった。テーブルも椅子も他の部屋より一回り小さく、その分、窓際に置かれた天蓋付きのベッドと壁を覆う本棚の存在感がやけに大きい。
「たしかこの辺に……」
跡部は本棚の前にしゃがみこんで呟いた。
一番下段にはミルン、キャロル、トールキンといったイギリスの、その一つ上の段にはエンデ、ケストナー、クリュスなどドイツの児童文学が、著者ごとに分類されて整然と並んでいる。古典の名作といわれるものから現代作家まで、図書館並みのラインナップだ。推理ものや伝記、詩集もあるが、圧倒的にファンタジーが多いのが少し意外だった。
「あった。ほらよ」
目的の本を跡部から受け取りながら、跡部の隣にしゃがむ。
「他にも借りていいか?」
「もちろん。好きなだけ持っていけよ」
日本語で読んだことのあるものを何冊かと、跡部のおすすめだという短編集を借りることにした。かなりの量になった本を袋に詰めてもらい、そのままお茶をごちそうになる。
「翻訳も良いのが出てるけど、やっぱ原著で読むのが一番面白いよな」
「どうしても細かいニュアンスまでは訳出できないからな」
今は使っていない部屋だと言っていたが、埃っぽさは少しも感じなかった。普段使わない部屋でも定期的に清掃してあるのだろう。二階建てのロンドンバスのおもちゃ、巨大なクマのぬいぐるみ、壁一面の児童書。時間の止まった子供部屋。引っ越してきた後になって、今の部屋とは別にわざわざ両親が作ってくれたのだと跡部は懐かしそうに微笑んでいたが、なんとなく寂しげに聞こえたのは何故だろうか。
「児童文学って言いながら、今になって気付くことだとか、分かることのほうが多い気がする。だから、いまだに読み返しちまうんだよな」
赤い上着に黒い大きな帽子を被った近衛兵のおもちゃをいじりながら、跡部が言う。子供用の椅子に座っているから、むしろ逆のはずなのだが、そのときの跡部の体は少し小さく見えた。だからと言ってはなんだが。
「どういうこった?」
大きなテディベアの腕に挟まれた跡部は、ただただ訝しげに手塚を見た。
「……こいつがハグしたがっていた」
後ろから抱きかかえたぬいぐるみをそのままに、手塚が答える。
「……そういうときは、『俺がハグしたかった』でいいんだよ」
そう言って、跡部はぬいぐるみごと手塚を抱きしめ返した。
部屋に積もった見えないさみしさは消えなくても、この柔らかな体温が少しでも彼の慰めになればいいと、そう思った。
3. 悪酔い
「酒くさっ」
玄関のドアを開けたときから微かな酒気は漂っていたが、リビングはもっと酷かった。こちらに気づいた真田が「遅かったな、越前」と声をかけた。「おかえり」と手塚。
純米大吟醸、芋焼酎、白ワインに赤ワイン、それからビールにブランデーなどなど、ローテーブルの上に並ぶ酒瓶は種類も産地も様々だった。既にかなりの数の空き瓶が部屋の隅に追いやられている。
「ただいまっス」
「お前の分もあるぞ」
跡部はそう言って、テーブル脇に置かれたクーラーボックスの蓋を開けた。
「え、いいの?」
いそいそと跡部の横に座る。跡部はアルミ缶を三本取り出し、テーブルの上に置いた。てっきり缶チューハイだと思ったのだが、
「ファンタじゃん……」
しかも全部グレープ。
「好きだったと思ったんだが」
心なしか沈んだ手塚の声を聞いて、「今でも好きっス!」と慌てて答えた。
「お子ちゃまはジュースで我慢しな」
グラスにファンタを注ぎながら跡部が言う。
「ちぇー」
つまみも山盛りの枝豆、焼いたソーセージ、チーズや生ハムが乗ったカナッペなど、各自食べたいものを準備しましたという感じが、いかにもこの面子らしい。楽しげに話す声はいつもより若干大きい気もするが、飲み会って案外なごやかなものだな、と越前は思った。もちろん、この時には二時間後の惨状などまったく想像していなかった。
「えちぜん、おれさまが注いだファンタが飲めねえって言うのか?」
「跡部さん、パワハラって言葉知ってる? これ以上飲んだら糖尿病になるって」
「いっぺん言ってみたかっただけだよ」
そう言って、跡部は頬をぷくりと膨らませた。
「もうこの辺にしといたほうが良いんじゃない? アンタ相当酔ってるよ」
「あーん? おれさまのどこが酔ってるってんだ?」
完全に目が据わっている。酔っ払いって本当にみんな同じこと言うんだ、と越前は感心した。
「絡み酒というヤツだな! 跡部ッ、たるんどるぞッ!」
さっきから真田の声量は普段の五倍になっている。キーンと耳鳴りがして、跡部と越前は耳を押さえた。「うるっせえな」と文句を言いつつ、跡部はまた性懲りもなく越前のグラスにファンタを注ごうとしている。そうはさせまいとグラスを遠ざけつつアルミ缶を躱していると、横から救いの手が伸びた。
「跡部、越前が困っているだろう」
手塚は越前から引きはがすように跡部の腕を引っ張った。すると、手塚の引く力が強かったのか、跡部の平衡感覚がとっくに危うかったのか、跡部は手塚の胸にぽすんと寄りかかった。一瞬きょとんとしたものの、跡部はすぐさま体を反転させると、手塚の肩に顎を乗せてニタニタと笑い出した。
「てづかぁ、焼きもち焼いてんのか?」
「……焼いてない」
「そうかそうか、かわいいとこあるじゃねえの!」
跡部は嬉々として手塚の頬を指でつっつき始めた。
「焼いてないと言ってるだろ」
手塚は顔を顰めてはいるものの、跡部の好きにさせている。
「まったく、暑苦しい奴等だッ!」
「そうっスね……」
こういうのは『お熱い』って言うんじゃなかったっけ、と思いつつ、越前はエアコンのリモコンを手に取った。
「とりあえず、もうちょっとクーラーの温度下げます?」
4. Once More, Please!
「手塚、ミカエルがみつまめを用意したって言ってるんだが食べるか?」
「ああ、いただこう」
「そういや、みつまめって初めて食べるな。甘く煮た豆とフルーツにシロップをかけたもの、だよな?」
「あと、白玉や寒天なんかも入ってるぞ。さっぱりしていて、俺は好きだが」
「なんだって?」
跡部は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして言った。
「白玉と寒天?」
「そのあと」
「俺は好きだが?」
「もう一度」
「俺は好きだ」
「……手塚。牛や馬に引かせる農機具で、地面を耕すのに使われるのは?」
「なんだ突然。犂」
「両足につけた二本の細い板で雪上を滑走するスポーツといえば」
「スキー」
「今現在、国内牛丼チェーンの中で、最も店舗数が多いのは!?」
「吉……、すき家?」
「正解!」
跡部はなぜか肩で息をしている。手塚は今まで我慢していた笑いを吐息とともに吐き出して言った。
「跡部、そんなクイズ番組みたいな真似をしなくても、愛してるぞ?」
5. マタドール
「手塚よ、今から同じベッドに入ろうかって相手を投げ飛ばすとは、どういう了見だ?」
青筋を立て、まさに般若の顔をした跡部は、ベッドの上にどっかりと胡坐をかいた。バスローブが捲くれあがって、太もものきわどいところまで露わになっているが、気にする様子はない。目のやり場に困りはしたものの、手塚は顔を上げることができなかった。
「申し訳ない」
手塚は床の上で正座して言った。頭の上にぺしょんと垂れた耳でも見えそうな落ち込み方だった。跡部はそれを見て、少しは溜飲が下がったのか、額に手をあてて大きく息を吐いた。
「俺は、どういうつもりだって聞いてんだが?」
つい数分前まではかなりいい雰囲気だったのだ。シャワーを浴びて、軽くアルコールで喉を湿らせて。手塚のバスローブの襟元を掴んでキスしようとしたら――、投げ飛ばされた。押し倒された、の間違いであってほしかったが、踝あたりを足で払われて一瞬身体が浮いたのだから、どう考えたって投げ飛ばされた、が正しい表現だった。予想だにしない奇襲に、ほとんど受け身も取れなかった。落ちたところがベッドじゃなければ、そのまま伸びていたかも知れない。
手塚にサディズム的な加虐趣味があったとは認めたくなかったので、慌てた様子で引っぱり起こされたときには内心ひどく安堵したのだが、それでも理由を聞くまでは納得しかねる。とにかく初めてのベッドでこれはない。
「お前がバスローブを掴んで引っ張るから、」
「俺のせいだって?」
「違う。最後まで聞いてくれ。引っ張られて、反射的に技が出た。…………その、バスローブが、柔道着に見えて」
手塚は言いにくそうに、もしくは言いたくなさそうに顔を歪めながらも、そう説明した。跡部はたっぷり十秒ほど黙った後、「バカなのか?」と言った。
「それとも、てめえは牛か? 闘牛なのか?」
「すまない。猛省している」
「そんなことってあるか? あの流れで?」
「だから柔道はやめたんだ」
「いや、かなり筋はいいと思うが? 闘争心を発揮するタイミングがおかしいだけで?」
「跡部……、あまりいじめないでくれ」
手塚はそう言って跡部を見上げた。下がった眉尻と訴えかけるような鳶色の瞳を見て、跡部は再び大きなため息をついた。こんな顔をされては怒りを持続させるほうが難しい。
「なら、俺からもお願いだ。どうか、優しくしてくれ」
手塚相手にはどうしても甘くなる自分を自覚しながら、跡部は手を伸ばした。もちろん、今度は衿を掴むような真似はしなかった。