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11. まずめ時

「眠い……」
 跡部は本日三度目のセリフを口にした。それもそのはず、日付が本日になってからまだ五時間も経っていない。いつもならぐっすり眠っている時間だ。
「本当に釣れるんだろうな?」
 こんな夜明け前から釣りに来ているのは手塚と跡部の二人くらいで、吹きっさらしの防波堤には時折強い海風が吹きつけている。
「まずめ時と言って、日の出、日の入りの前後一時間はよく釣れるという話なんだ」
「ふーん。どういう理屈で?」
「プランクトンが海面付近に浮上することで、それを食べる魚も集まってくるらしい」
「へー……」
 跡部は波に揺られるばかりでピクリとも動かない釣り糸を眺めながら力なく答えた。それから半刻ほど過ぎ、水平線に赤々とした太陽が昇っても、状況は何一つ変わらなかった。
「場所が悪いんじゃねえの?」
 朝陽にしぱしぱと目を瞬かせながら跡部が言う。返事はなかった。隣を見ると、手塚はアウトドアチェアに深く腰掛け、釣り竿を両手に握ったまま、すやすやと寝入っている。
「こいつ……」
 跡部は釣り竿をロットホルダーに固定してから、手塚の傍へ歩み寄った。
「おい、起きろ。……起きねえとキスするぞ」
 耳元に唇を寄せ、小さな声で告げる。数秒して手塚はゆっくりと目を開いた。
「起きたか?」
「……寝てたか?」
 手塚はまだぼんやりとした様子で言った。それから跡部のほうを向いて、ぎゅっと眉根を寄せた。
「失敗した」
「ああ、今度は夕方に来ようぜ」
「違う。今から寝たふりをするから、次はキスで起こしてくれ」
「聞こえてたのかよ……! つーか、堂々と寝たふりを宣言するな! って、言った傍から目閉じてんじゃねえよ、手塚ぁ!」
 まさにこの時、跡部の釣り竿が大きくしなっていたのだが、二人がそれに気づくにはまだ少し時間がかかりそうだ。

  

12. 雲を掴む

「跡部くん、左足首は何ともなかった?」
 気づかわしげな入江の顔を見て、跡部は露骨に顔を顰めた。朝から会いたくなかった顔だ。
「入江さんは、すっかり肩の調子戻ったみたいですね」
「うん、湿布貼って寝たおかげかな」
 入江はニコリと笑うと、トレーを持っていないほうの腕をぐるりと回してみせた。この見た目には人畜無害そうな男に、昨日は散々苦汁を飲まされた。勝負の内容にも、自分が気を失っている間に勝利したことにも納得していない。こんなに後味の悪い試合もそうそうないと、一晩経った今でも思う。
「おでこ。たんこぶになってるね」
 そう言って前髪に伸びてきた指を反射的に顔を引いて避けると、入江は「ひどいなぁ」と笑った。
「わざと突いたりしないのに」
「どうだか」
 跡部は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。どうにも苦手だ。この曖昧で胡散臭くて、どこまで行っても掴みどころのない態度が。まるで実体のない霞でも相手にしている気分になる。入江は了承も取らずにトレーをテーブルに下ろすと、跡部の隣の椅子に腰かけた。
「拗ねてるのかな。それとも、お友達がいなくなって寂しいのかな」
 入江はテーブルに両肘をついて、組んだ手の上に顎を乗せると、コトンと首を傾げた。
「それともその両方か。この合宿は人の入れ替わりが激しいからね。強い者だけが生き残る」
「アイツは、手塚は強いから出て行った。もともと、こんな小せえ合宿所に収まるようなヤツじゃなかった。それだけだ」
「そうだね、彼は突き抜けて強い子だった。でも、キミだってもっと強くなるよ」
 跡部はこのときになってはじめて、入江の正面へ向き直った。
「その薄っぺらいおべっかみたいなの、やめてもらえませんか? そんな甘い言葉に喜ぶほど、俺はガキじゃない」
「本心だったんだけどな。そして、ボクからしたら、君は三つも年下のガキに違いない。だから、」
 入江は組んでいた手をパッと離すと、プレートの上の丸パンを手に取った。
「敬語は止めてもらおう。ボクはキミと仲良くなりたいと思っているからね」
 跡部は無茶苦茶な接続詞を頭の中でつなぎ合わせながら、小動物のようにパンを咀嚼する男を見て言った。
「俺は、アンタと仲良くなりたいとは露ほども思ってねえけどな」
「あはっ、素直な子って好きだよ。ボクもキミくらいのときは、純粋で、疑うことを知らず、」
「聞きたくねえ。食事に集中しろよ」
「またまた~」

  

13. 猫かぶり

「これ、宜しかったら皆さんで召し上がってください」
 跡部は手に提げていた紙袋の中から菓子折りを取り出すと、手塚の母親に向けて差し出した。
「あら、ご丁寧に。気を使わせたようでごめんなさいね」
「いえ、国光君とは仲良くさせてもらっていますから、うちの者がどうしても持っていけと言って」
「そうなの。この子あんまり学校や部活のこと喋らないから、こんな風にお友達が遊びに来てくれて嬉しいわ。どうぞゆっくりしていってね」
「はい、お邪魔します」
 跡部はにこりと微笑むと、脱いだ靴をきちんと揃えてから家に上がった。二人のやりとりの間、一言も発さず妙な顔をしていた手塚に肘鉄を食らわす。
「なーに変な顔してんだよ。笑わせんな」
「お前が敬語を喋るのを初めて聞いた。やれば出来るんだな」
「俺様がマナーの一つも心得ていないとでも?」
「正直、気味が悪いな」
 前を歩く手塚の背中に、跡部は本日二発目の肘鉄を食らわせた。
 手塚の部屋は階段を上がって二階の突き当りにあった。南向きの窓際に勉強机と本棚が並び、その向かいにベッドと小さな洋服ダンスがある。跡部はぐるりと部屋の中を見渡してから、部屋の中央に胡坐をかいて座った。
「親御さんの前ではいい子にしてた方が良いだろ、国光君?」
「その呼び方はやめろ、鳥肌が立つ」
 手塚は向かいに座ると、跡部の手に指を絡めた。二人の距離が近付く。
「まったく、どこがいい子なのか教えてもらいたいな」
「国光ー、お茶とお菓子持ってきたんだけど――」
 部屋の中からガンッと大きな物音がして、手塚の母、彩菜は咄嗟にドアを開けた。
「凄い音がしたけど大丈夫?」
 部屋の真ん中では手塚がうつ伏せで倒れている。手塚の右手を握ったまま、跡部は笑みを浮かべて言った。
「大丈夫です。ちょっと……、腕相撲が白熱してしまって」
「ふふっ、元気があっていいわね。跡部君はアイスティーで良かったかしら?」
「はい、いただきます」
 跡部はお菓子の乗ったトレーを受け取り、礼を言ってドアを閉めた。
「なんで、腹に、」
 三発目の肘鉄が綺麗に入ったみぞおちを押さえながら、手塚が途切れ途切れに言う。
「悪い……、その、動転しちまって……」
 さすがに申し訳なく思っているのか、跡部は罰が悪そうな顔をしている。手塚は「そうか」と言いながら、跡部が持っていたトレーを受け取って、勉強机の上に置いた。
「さて……、腕相撲の続きだったか? 相撲でもいいぞ?」
「は? いや、何構えてんだ。マジで? おい、マジでやんのかよ!?」
 二階から聞こえる大騒動をBGMにリビングでお茶を飲みながら、彩菜は「これくらい賑やかなのもたまには良いわよねぇ」と独り言ちた。

  

14. 幸福はパンの形をして

 跡部がテントと格闘している間に、手塚はバーベキューコンロの中にさくさくと炭を組んで火を起こした。その火が万遍なく炭に回る頃になって、とうとう跡部は白旗を上げた。跡部が三十分かけても形にならなかったテントは、手塚の手にかかればものの十分ほどで組み上がってしまった。
「ワンダーフォーゲル部から勧誘が来るんじゃね?」
「これは趣味として楽しみたいんだ」
 手塚は満更でもなさそうに答えながら調理台の前に立った。テーブルの上には大きなボウルが置かれている。
「何作るんだ?」
「パンを焼く」
 跡部は「パン!?」と大声を上げた。手塚はこくりと頷いて、ボウルに被せてあった布巾を取った。ボウルの縁ぎりぎりまで膨らんだ生地を見て、跡部は目を丸くしている。
「これを焼くのか?」
「いや、まだ一次発酵が終わったところだ」
 膨れた生地を上から押すと、しゅうしゅうと空気が抜けていく。手塚はそれをスケッパーで八等分にすると、台の上に取り出して一つずつ丸めていった。つやつやになった生地をダッチオーブンの中に均等に並べる。
「まだ焼かねえの?」
「ああ。これで、またしばらく二次発酵させる」
 生地を発酵させているうちに、二人で付け合わせ用のジャガイモや人参を切ったり、メインの支度をしたりしていたが、跡部がちょくちょくダッチオーブンの中を覗きにいくので、あまり作業は捗らなかった。
「手塚! すげえ膨らんでる!」
「二倍くらいの大きさになったら焼くぞ」
 コンロにダッチオーブンを二台置き、蓋の上に炭を乗せる。しばらくかかると言ったのだが、跡部は焼きあがりまで見守りたいらしい。
「すげえな、パンって自分で作れるのな……」
「趣味で焼く人は結構いると思うが」
「生地があんなに膨らむなんて、神秘的だよな……」
「イースト菌の力だな」
 なぜか甚く感動している跡部の隣で、時々炭の位置を変えながら、手塚はこまめに相槌を打った。コンロの揺れる火が跡部の瞳にきらきらと反射するのが、待ちきれない気持ちを正しく表しているようで可笑しかった。父が初めて外でパンを焼いてくれたとき、自分もこんなふうにわくわくしながら火の傍に張り付いていた気がする。
「焼けてきたな」
「パンが焼ける匂いって、なんでこんなに幸せな気分になるんだろうな」
 跡部は深く息を吸い込むと、うっとりと目を細めた。
「なぜだろうな……」
 幸せが食べものの形になるとしたら、ふくふくとした柔らかいパンがそれに一番近いのかも知れない。
「そういや、もう一つの鍋には何が入ってるんだ?」
「目の前で作っていたのに見てなかったな? ローストビーフだ」
「て、手塚……! 店を開くなら引退してからにしろよ!?」
「大げさな奴だな。そういうのは食べた後に言ってくれ」
 手塚は苦笑しつつダッチオーブンの蓋を開けた。おそらくさっきの十倍くらい大げさな絶賛を受けることになるだろうと予想しながら。

  

15. 案件

「なあ、インスタ更新しねえの?」
 フリルレタスを手でちぎりながら跡部が言う。
「何故?」
「なんでもなにも、ここ何日か上げてねえから。結構いろいろ出掛けたから、ネタには困ってねえはずだが?」
 手塚はパスタの入った鍋をかき混ぜる手を止めて、跡部のほうを見た。
「別に上げる写真がないからじゃない。お前とのあれこれを他人と共有したいと思わないだけだ」
 それだけきっぱり伝えると、手塚は再びパスタ鍋に向き直った。跡部はうっかりちぎりすぎて粉々になったレタスをこぼれないように皿に移しながら言った。
「じゃあ、後で俺が撮った手塚の写真、お前のインスタに上げてもいいか?」
 手塚は再び何故か問う代わりに、続きを促すように首を傾げた。
「俺は、意外と料理上手なお前を世界中に見せびらかしたいから」
 その十数分後、プロテニスプレーヤー手塚国光のアカウントに、明らかに一人前ではない量の手料理の前で、明らかにいつもよりやわらかい表情をした手塚の、明らかに誰かが撮影したと思われる写真が投稿され、ネットに大激震を起こすことになるのだが、当の二人はそんなことにはお構いなしにささやかなランチタイムを楽しむのであった。さらに数時間後、特定班によって手塚の瞳に映る人物が特定されるまで、騒ぎは続くことになる。
 なお、特定後に逆に盛り上がる現象が一部で発生したこともここに併記しておく。

  

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