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16. 怖がりの話

「これ、日吉が話してたお化け屋敷だ」
 買い物の途中、跡部はふと足を止めた。視線の先には何やらおどろおどろしい看板が立っている。
「夏だけの期間限定なんだと。なかなか面白かったって言ってたぜ。涼んでいくか?」
 気温も湿度も高く、水分を摂取してもすぐ汗になって体から出ていくようなありさまだったので、手塚は一も二もなく同意した。
 列に並んでいる間、前方に設置されたモニターからは、お化け屋敷の設定を伝える映像が流れている。
「画面が暗すぎて、何が起きているのかさっぱりだな」
「そうか?」
 跡部の目にははっきり映っているらしい。虹彩の色が薄い分、暗さには強いのだと言う。
「夜目が効くから、見えなくて怖いってのはあんま無いんだよな」
「この場合、それは有利なのか?」
「見えるから怖いってのもあるかも知れないしな」
 なんやかんや話している間に順番が回ってきた。入口で懐中電灯を一本ずつ受け取り建物の中に入ると、予想通り冷房の温度は一段と低く設定されているようだった。
「涼しいな……」
「手塚、怖かったら手握ってやってもいいぜ?」
「お前こそ、怖かったらしがみついても構わないぞ?」
「ははっ、ありえねえ」
 二十分ほどの道のりは快適な散歩コースとなった。背後から幽霊役のスタッフが現れたときに発したのが、避ける際に咄嗟に出た「おっと」という一声だけだったときには、幽霊のほうが拍子抜けしているように見えた。
「あーあ、寒いくらいだったな」
 出口の明かりが見えてきた。跡部は早々に懐中電灯のスイッチを切った。
「もっと驚いたほうが良かっただろうか」
「ちょっと怯んでたよな、あの幽霊」
 笑いながら振り向いた跡部は、手塚の肩の上あたりを見て固まった。跡部の顔から、ざあっと音が聞こえそうな速度で血の気が引いていく。手塚は覚悟を決めてゆっくりと後ろを振り返った。
「なんだ、クモじゃないか」
 天井から垂れた糸の先に五センチほどのクモがぶら下がっている。まんまと跡部の演技に引っかかったと思いながら向き直ると、跡部は相変わらず宙ぶらりんになったクモを見つめたまま、片手で口を覆っている。それを見て、手塚は一つの可能性に辿り着いた。
「クモが怖いのか?」
 跡部は手塚のほうを見ると、紙のように白い顔をしたまま首を大きく横に振った。
「なるほど……。跡部、お前の肩の辺りにもクッ」
 跡部がタックルしてきたので不自然なところで言葉が切れた。コアラのように抱き着いている跡部を見下ろして、手塚はユーカリの樹にでもなったような気がした。
「……クモって、目が何個あると思う?」
 手塚のTシャツに顔を押しつけたまま、跡部がくぐもった声で言う。息が当たったところが熱い。
「さあ?」
「いっぱいだよ……! くそっ、信じられねえ!」
 信じられないのはクモのことか、こうやってしがみついている跡部自身のことなのか、いまいち釈然としないまま手塚はひとまず外に出た。コアラのような跡部を胸にひっつけたまま。それを見て、男同士で抱き合ってしまうほど恐ろしいのだと勘違いした通行人が列をなし、お化け屋敷は今シーズン一の売り上げを記録したとかしないとか。

  

17. 甘々

「跡部ー! 見て見て! これ、すっげー美味そう!」
 日報を入力している跡部に背後から飛びつくと、ジローはパソコンのスクリーンを遮るようにスマホをかざした。画面には白い皿に盛られたスフレパンケーキの写真が表示されている。
「ふかふかのしゅわしゅわなんだって~。どんなだろ? 食べてみたいなぁ~」
 跡部の反応を窺うように横からちらちらと視線を送りながらジローが言う。跡部は「ったく」と呆れ半分笑い半分に言うと、ジローのスマホを取り上げた。パンケーキの写真を一旦自分のスマホに送り、さらに自宅にいる執事にメッセージを添えて転送する。
「あと二分待て」と言って、跡部は再びタイピングを始めた。

 テーブルに焼きたてのスフレパンケーキがサーブされると、ジローは大きな歓声を上げた。皿の上には分厚いパンケーキが二枚。その上に苺、ラズベリー、ブルーベリーが散りばめられ、さらに粉砂糖が満遍なく振り掛けられている。ジローはメイプルシロップの小瓶を手に取ると、パンケーキがひたひたになるまで回し掛けた。
「いっただっきまーす!」
 嬉々としてナイフとフォークを握るジローを見て微笑むと、跡部も自分の皿へと目を向けた。ふんわりしたパンケーキにナイフを押し付けると、見た目通りふわふわと頼りない手ごたえが返ってくる。口の中に入れれば、見た目通りしゅわりとムースのような食感がした。これはこれで美味しいが、普段食べているパンケーキのほうが好みだな、と口にも顔にも出さずに思った。
「美味しいねぇ」とジローが幸せそうに笑う。
「ああ」
 ふわふわとした生き物がふわふわした食べ物を食べて喜んでいるのが可笑しくて跡部も笑った。

「にーちゃんがさ、友達に彼女が出来たんだって」
 苺にメープルシロップを絡めながらジローが言う。
「そしたらさ、急に付き合い悪くなったって愚痴ってて。やっぱ友情より恋愛かよーって」
 ジローは上目遣いに跡部を見た。跡部は「へー」とわざと気のないような返事をして話の続きを促した。
「俺、跡部とあんま遊べなくなったらヤだなー」
「俺が友情より恋愛を取るって?」
「んー。でも、跡部は一人しかいないし、一日は二十四時間しかないんだもん。どこかで何かを削らなきゃダメじゃん?」
 そう言って、ジローは口いっぱいにパンケーキを詰め込んだ。
「仮に何かを削るとしても、俺はお前を削る気つもりなんて更々ねえんだけど?」
 跡部はそれだけ言って、ジローの顔を見た。ジローはリスのように頬を膨らませたまま、へにゃりと笑った。
「跡部のそういうところ好き~」
「そういうところって何だよ」
「俺に甘々なところ! 俺ってば跡部に愛されちゃってるな~」
 ジローが緩み切った顔で言うものの、特に反論することなかったので、跡部は「全くだな」と言って食事を再開した。

 皿に残ったメイプルシロップをパンケーキの最後の一切れを使って食べきると、ジローはまた大きな声で「ごちそうさまでした!」と言った。それから、給仕を呼ぼうとする跡部に「あのさ」と言うと、上半身を前に倒して手招きした。部屋には跡部とジローしかいないのに、だ。
「作ってもらっておいて、すっげー失礼なんだけどさ。跡部ん家のいつものパンケーキのほうが、俺は好きだな~」
 小声で言った後、誰かに聞かれていないか確認するようにきょろきょろ辺りを見渡す。跡部は小さく噴き出して言った。
「それなら、今から作らせるか?」
「え、いいの!? うー、でも、さすがに甘いもん食べすぎかなー」
 ジローは本気で悩んでいるようで、お腹を擦りながらウンウン唸っている。跡部は内線の前まで歩いていった。
「そうだな。じゃあ、ベーコンと目玉焼きを乗せるってのはどうだ?」
「しょっぱい系パンケーキだ! 俺ね、目玉焼きは」
「黄味がとろとろ、だろ」
 跡部は受話器を耳に当てながら言った。
「えへへ~、跡部大好き~」

  

18. 悪友

「景吾くん、今日は何をお探しで?」
 滝はハンガーラックに手を掛け、店員の真似事をするように言った。
「んー、この秋着るニットが欲しいな。あとは気に入ったものがあれば」
「ニットね。あ! 俺、この前来たとき、景吾くんに絶対試してほしいなって思ったのがあって――」
 棚から棚へ移動しつつ目的のものを探す滝の後ろを、跡部もゆっくりついていく。店の一角まで来ると、滝は「これこれ」と言って一枚のニットを手に取った。
「じゃーん! 可愛いでしょ?」
「オーバーサイズ? しかもピュアホワイト?」
 キャラじゃない、と跡部は露骨に顔を顰めた。着丈は普通だが、袖丈が長く肩も大きく落ちたデザインは、普段自分の体形に合わせてジャストサイズで服を着る跡部にしてみれば、一人で買い物に来ていれば決して選択肢に入らないものだ。
「ふーん、意外と保守的なんだー。流行りなのに」
「流行ってると似合うは別問題だろ? 俺より萩之介のほうが似合うんじゃねえの?」
「も~、俺は景吾くんに着てみてほしいんだよ~!」
 滝はひとしきり文句を言った後、ふと真顔になって服を棚に戻した。
「えー、景吾くんのファッション、クラス感も遊びもあって俺は好きなんだけど、一つ足りないものがあります」
「なんだよ、その唐突なプレゼン」
 跡部は半笑いで言った。
「それは、隙です!」
「隙」
「そう、景吾くんのような顔もスタイルもいい子が、一分の隙もなく服を着ていると、あまりにも完璧すぎるという印象を周りに与えてしまうのです! 古来より、日本人は不完全さや間といったものの中に美を見出してきました。今こそ、その美意識に立ち返り、新しいジャンルのファッションに挑戦するときなのではないでしょうか!」
 握り拳で訴えると、滝は「ご清聴ありがとうございました」と言って、演説を聞いて笑っている他の客にまで会釈した。こういうとき、滝には謎の説得力がある。跡部はおざなりに手を叩いた。
「分かったよ、着ればいいんだろ、着れば」
 跡部は棚の上のニットを掴むと、試着室へ向かって足早に歩いて行った。店員に一番奥の一室を案内されると、跡部はくるり振り返った。
「似合わなくても笑うなよ」
「大丈夫、絶対可愛いから」
「可愛さは求めてねえっつーの」
 そう言い捨てると、跡部は試着室のカーテンを勢いよく閉めた。滝はにこにこと手を振ってから一言。
「はー、言えば聞いてくれる景吾くん、ほんと素直で可愛いよねー」
「聞こえてんぞ、萩之介!」

  

19. 恋って

「部長って、なんで跡部さんと付き合ってるんすか?」
 いつもなら部活が終われば早々に桃城たちと買い食いに出かける越前が、携帯を弄ったりロッカーを片付けたりして時間を潰していたのは、これを聞くためだったらしい。手塚は部誌から顔を上げた。
「どういう意図があっての質問か分からないんだが」
「いや、意図とかそんなややこしい話じゃなくて、純粋に謎っていうか。単なる好奇心、みたいな?」
 越前の口ぶりにからかうようなニュアンスはなかった。どちらかと言うと、小さな子供が親に向かって「なんで空は青いの?」と聞くような感じだ。
「それは、好きだからだろうな」
「あー……。じゃ、なんで好きなんすか?」
 なぜなぜ期か? 手塚は家庭科の授業中に先生が言っていた言葉を思い出した。これはちゃんと答えない限り、際限なく続きそうだ。手塚が言葉を探していると、狙いすましたように鞄に入れたままだった携帯が震え出した。
「あ、どうぞ」
「すまない」
 画面を見れば予想通りの人物からだった。
「どこかから見ているのか?」
「どんな挨拶だよ。間が悪かったか?」
「いや、平気だ。どうした?」
「この後、家に寄っていいか? ちょっと渡したいもんがあって」
「分かった。いつ頃になる?」
「今から学校出るから、三十分ってとこか。都合が悪ければ調整するが」
「俺も今から帰るところだ。それくらいには家に着くと思う」
「OK。じゃあ、後でな」
「ああ」
 手塚は通話を切ると越前に向き直った。
「越前、さっきの質問は後日でいいか?」
「あ、別に急ぎってわけじゃないんで。って、あれ? もしかして、今の電話って跡部さん?」
「そうだが?」
 手塚は首をかしげた。
「えっと、話し方とか普通だったんで。恋人相手なら、もっとそれっぽい雰囲気で話すと思ってたから、意外っていうか……」
 手塚が筆記用具を片付けて立ち上がるのを見て、越前も慌てて後に続いた。
「それっぽい、というのがどんなものか分からないし、どうして好きなのかを他人に説明するのは難しいが」
 部室の扉を施錠しながら手塚が言う。
「お前も恋をすれば、分かるようになると思う」
 手塚は学ランのポケットに鍵を入れて振り返った。そこには、越前がどういうわけか顔を真っ赤にして突っ立っていた。
「どうした?」
「な、な、何でもないっす!」
「ということで、一旦ノートに纏めてみるから、続きは次の練習後で構わないか?」
「ノート!? いや、大丈夫っす! なんか解決した気がするんで!」
「そうなのか?」
「はい! お疲れ様っした!」
 駆け足で去っていく越前の背中を不思議そうに眺めつつ、手塚は帰路についた。
「ヤバイヤバイヤバイ!」
 大声を上げながら全力疾走する越前を、通行人が何事かと振り返る。
「あの人、なんつー声出してんの!? 恋って! 恋って怖ぇーっ!」

  

20. 月光

 三連符は淀みなく流れる。跡部の長い指が白鍵と黒鍵の上を滑るように移動していく。繰り返されるテーマは少しずつ構成を変えながら、次第に上へ上へ昇るように高音へと移動し、いつの間にかまたゆっくりと始まりの低音へ帰着する。
 第三楽章から成るべートーヴェンのピアノソナタ第十四番に月光というタイトルが付けられたのは、かの作曲家の死後であったが、この第一楽章を聞くたびに、手塚の頭の中には荒涼とした月が夜毎昇っては沈むさまが広がるのだ。
 第二楽章が始まると、一転、曲調はスタッカートを多用した軽やかなものになる。跡部の指は、まるでピアノの上を跳ね回って遊んでいるようだ。譜面台に楽譜は無い。目の前の鍵盤さえほとんど視界に入れることなく演奏する跡部を見ていると、無数の鍵盤と十本の指との間に、それらを繋ぐ見えない糸でもあるのではないかと疑ってしまう。
 跡部は鋭く息を吸うと、最後の楽章を奏で始めた。それは一つの嵐だった。打ち付ける雨だれのような、人をどこかへ駆り立てるような、そんな性急さを孕んで音楽は続いていく。目で追うのさえやっとの速さなのに、指先は常に正確に鍵盤を捉える。部屋の空気は、何かを恐れるかのように震えている。最後に叩きつけるように和音を響かせて、嵐は止んだ。残響が木霊し、それが耳の中から消えるころ、手塚はようやく詰めていた息を吐きだした。それから演奏者に拍手を。跡部はそれを待っていたかのように椅子から立ち上がると、たった一人の聴衆に向けて一礼してみせた。
「驚いた……」
「言ったろ? ピアノは得意だって」
 さっきまで色とりどりの音を鳴らしていた指を組んで伸ばしながら跡部が言う。演奏中は、まるで別の生き物のように感じられたそれは、今ではすっかり跡部の身体の一部に戻っている。
「いや、本当に。凄いな……。こんなもの一人で聴いて良いのかと思った……、しかもタダで……」
「誰か金取るかってーの。いい加減目ぇ覚ませよ」
 手塚はまだ呆けたように椅子に座り込んでいる。跡部もさすがに照れ臭くなったのか、頬を僅かに赤くしながら、手塚のおでこを突っついた。
「そんな風に弾けたら、気分が良いだろうな」
 跡部の指を手に取って、検分するように眺めながら手塚が言う。
「こんなもん、誰でも弾ける。打楽器は、押せば音が鳴るんだからな」
 跡部はまるで拗ねた子供のような口調で言った。その頬はますます赤くなっていた。
「そうか、ピアノも打楽器だったな」
「弾いてみるか?」
 手塚は跡部の顔を見た。それは跡部の中では、既に決定事項になっているようだった。
「よし。じゃ、連弾しようぜ」
 跡部はさっきまで自分が座っていた椅子を右にずらすと、椅子をもう一つ運んできてピアノの前に置いた。低音側の椅子の座面を叩く。
「ピアノなんて、ほとんど初めて触るんだが」
 椅子に座りながら手塚が言う。まるで自分が鍵盤を押せば爆発するとでも思っているのか、というくらい深刻な顔をしている。
「難しいことねえって。そうだな……、最初は同じリズムを鳴らすだけにするか。小指と親指。ポジションもずっと一緒。ピアノは指の腹で弾くんだ。ほら、左手出せよ」
 手塚がおずおずと手を出すと、跡部はその手を無造作に掴んで白鍵の上に置いた。鍵盤は熱くも冷たくもなく、ただすべすべとしていた。
「そのまま上から押す。力入れなくていいから」
 ポーンと和音の一部が鳴った。跡部は得意げな顔をして言った。
「な? 簡単だろ? じゃ、俺がメロディ弾くから、お前はずっとその二音な。この速さで」
 跡部の左手が譜面台を一定の速度で叩く。少し緊張した心臓と同じ速さで。跡部は手塚のほうを見て、小さく「せーの」と言った。音楽が生まれる予感に、指先が少し震えた。

  

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