21. 空のピクニック
五時ぴったりに鳴り響いた着信音で手塚は目を覚ました。
寝起きの凶悪な目つきで携帯を見つめる。こんな非常識な時間に電話を掛けてくる相手は、一人しか思い浮かばない。
『五分で支度しろ。下で待ってる』
通話ボタンを押した瞬間、跡部はそう一息に言って、有無を言わさず電話を切った。手塚は一つ伸びをすると、欠伸を噛み殺しながら制服に着替え始めた。
台所にいる母に声を掛けると、母はびっくりして「あらまあ」と言いながら大急ぎでおにぎりを握ってくれた。
「おはよ」
手塚が玄関を出ると、跡部は珍しく車の外に立っていた。辺りはまだほとんど夜中と言っていいほど暗く、リムジンのヘッドライトだけが煌々と光っている。跡部は慇懃な仕草でドアを開けると、手塚へ乗るよう促した。
暗闇の中を車が走り出す。
「ポストカード、ありがとな」
「ああ。当日に届くようにしていたが、どうやら本人はイギリスにいたそうだな」
「急用だったんだよ、そう拗ねんな。お前こそ『プレゼント係御中』なんて書いてんじゃねえよ。探すのにすげえ時間かかった」
「その方が親切かと思ったんだが」
手塚は風呂敷包みを開けた。察しの良すぎる母が一人では食べきれない量のおにぎりを包んでくれていたので、とりあえず一つを跡部に渡す。
「昨日の夜こっちに帰ってきて、見つけたのは深夜だぜ。つーわけで、返事は口頭で。『今から行くぞ』」
「俺は『今度一緒に登ろう』と書いたはずなんだが……?」
お互いどう見ても制服姿で、間違っても登山に行くスタイルではない。困惑する手塚をよそに、車は見慣れない場所で停車した。外に出てみると、だだっ広い空間の真ん中にヘリコプターが一機。爆音と突風を撒き散らしながら待機している。
おにぎりを手に、跡部はスタスタとヘリの方へ歩いていく。
「おい、遅れるぞ」
振り返った跡部が、髪の毛を巻き上げる風に顔を顰めながら言う。
「何に?」
「ご来光。せっかくなら昇るところから見てえだろ」
「……今日は普通に学校があると分かってやってるのか?」
「朝練もねえんだし、登校時間に間に合えばいいだろ?」
「言っておくが、パラシュートはお断りだからな」
「そりゃ残念」
先に機内に乗り込んだ跡部は肩を竦めると、手塚に向けて片手を差し出した。グイと引っ張り上げられ、革張りの椅子に腰を下ろす。間を置かず、ヘリは上空へ舞い上がった。真っ暗な街の上を、ヘリは真っすぐ南西方向へ飛んでいく。
「言い忘れるとこだったぜ。誕生日おめでとう」
跡部はそう言って、おにぎりを頬張った。
夜明け前から、空の上でピクニックか。また奇想天外な一年が始まりそうだ。
「ありがとう」
手塚はそう返すと、自分もおにぎりに齧りついた。
22. Treat or Treat?
廊下の曲がり角の先に人の気配を感じて、手塚はピタリと足を止めた。こう何回も驚かされていれば、行動も慎重になる。後輩や他校生からは全然驚かないと嘆かれたが、誰だって突然大声を出されれば(少しは)驚きもする。顔に出ないだけだ。
このままUターンしてやろうかとも一瞬考えたが、自分の部屋へ戻るにはこの道を通るしかない。手塚はそれならば、と小さく息を吸った。
「「Trick or Treat!」」
曲がり角の向こうには白いシーツの塊が立っていた。先ほど聞こえた流暢な決まり文句から一瞬で誰か見当はついたが、そのあまりにもやっつけ仕事な仮装に少々面食らってしまった。
「ふっ、はははは! どんな顔だよ、そりゃ」
白い布地を頭の上までめくりあげて、跡部が言う。
「シーツおばけとは、ずいぶん可愛らしい仮装だな」
「これしか無かったんだよ。やるって決まったの今日だろ。ったく、アイツら、騒げりゃなんでもいいんだろうよ」
「お前も十分楽しんでいるように見えるが」
「そりゃ、せっかくのハロウィンだし? 人を驚かせるなんて、普段出来ねえ遊びだからな」
人を驚かせることなら常日頃からやっているが、と思いつつ、手塚は賢明にも口には出さなかった。
「生憎、菓子はもうないぞ」
手塚は何も持っていないことを証明するように両手を上げた。
「じゃ、Trickだな!」
そう高らかに宣言すると、跡部はシーツの端を掴みつつ、手塚との間合いを詰めた。バサっという音がして視界が薄暗くなる。押し付けられた唇は柔らかくて、それから少し冷たかった。
「ちなみに、俺様は菓子ならまだあるぜ」
シーツの中、鼻の頭をくっつけながら跡部が笑う。
「じゃあ、Treatにするか」
手塚はいつもの口調で答えた。跡部はムッと眉を寄せると、「はいはい」と言いながらポケットの中に手を突っこんだ。手塚は悪戯の成功に思わず破顔しつつ、すぐ目の前のへの字に曲がった唇にキスをした。
23. チークキス
ガラス張りの天井から燦燦と陽が注ぎ、厚手のジャケットでは少し暑いくらいだった。手塚は到着ロビーの電光掲示板を見上げて、目当ての便のステータスを確認した。定刻通りなら、あと十分ほどで到着するはずだ。そこから諸々の手続きを経てロビーまで来るには、さらに数十分はかかるだろう。
早く着きすぎたとは思ったが、どこかで時間を潰す気にはならなかった。人混みの中、手塚を見つけた瞬間の、跡部のあの大輪の花が開くような表情は何回見ても良いものだ。出来れば自動ドアの前の特等席で眺めたい。
「手塚!」
一時間ほどして跡部が到着ロビーに現れた。長旅の疲れなど感じさせない快活な声だった。キャリーを引く足取りも軽やかに、こちらに向かって一直線に歩いてくる。歩みに合わせて揺れる黄金色の髪が、陽光を受けてキラキラ光を弾くのを、手塚は目を細めて見ていた。
跡部は手塚の目の前までやって来て、そこで立ち止まらなかった。キャリーを引いていないほうの手で手塚の肩を掴むと、ごく自然な動作で手塚の頬に頬を寄せた。それから逆側の頬にも。
顔を離した後、跡部は満足げに手塚を見つめて、それからハッとしたように一歩後ろに下がった。その拍子に足でもぶつけたのか、キャリーがガタッと鳴る。
「わ、わりぃ。つい癖で」
手塚の肩に置いていた手を意味もなく振りながら、跡部は珍しく狼狽していた。
「癖?」
「日本人相手には普通やんねえだろ。昔、宍戸にやって、すげえ引かれたことがあって、それ以来気をつけちゃいたんだが……。うっかりしてた、悪い」
跡部はばつが悪そうにしている。手塚は少し考えてから、さっき跡部がやったように頬と頬をくっつけてみた。触れ合ったところから、じんわりと熱が広がっていく。
「お、おい?」
「チークキスも良いんだが」
頬を離して手塚が言う。
「頬だけで良いのかと、少し残念に思っただけだ」
手塚は返事を期待するように押し黙った。跡部は口の中で小さく悪態をついた後、噛みつくようなキスをお見舞いしてやった。
24. サイレンサー
やけに静かだ。手塚は辺りを見回した。
都大会初日である。競技会場となった運動公園には百を越える学校から生徒が集まっているのだから静かなわけがないのだが、手塚はふとそんな気がして首を傾げた。
「どうかした?」
隣を歩いていた不二が言う。
「今日は妙に静かだと思わないか?」
「そうかな? 閑さや、ってこと?」
言われて初めて、そこら中からヒグラシの声が響いているのに気付く。
「いや、そんな風流なものじゃなく――」
と手塚が言いかけたとき、コートに向かう青学の前をペールブルーの一団が横切った。氷帝のこの大軍団を見るたびに、サバンナに暮らすヌーの群れが頭を過ぎる。轢き殺されないよう、他のチームはみな足を止めている。集団の先頭あたりに、一際目立つ金髪を見つけて、手塚はいつものように身構えた。一年前の今頃以来、氷帝の跡部は事あるごとに手塚に絡んでくる。そう頻繁なことではないし、長話をするわけでもないのだが、背後に二百人あまりの部員を引き連れたライバル校の部長が、上級生には目もくれず、わざわざ手塚にだけ声を掛けていくものだから、周囲から突き刺さる視線が痛いのだ。
跡部の涼しげな青い目がこちらを見て、そして、ついと逸らされた。そのまま何事もなかったように別コートに闊歩していく。
「あれ?」
不二が声を上げた。
「君、なにかしたの?」
「なんでそうなる」
「だって、跡部が君に話しかけないことなんて、今までなかったじゃない」
手塚は口を固く閉じた。そもそもこういう場でしか会わないのだから、思い当たる節などあるはずもない。そのうえ、声を掛けられなくてもジロジロ見られるとは思わなかった。手塚は威嚇するように首を巡らせて、もの言いたげな無言の視線たちを黙らせた。
静かだと思ったのはこのせいか、と手塚は半分呆れていた。今までなら、跡部のあのホームランボールのようなスコーンと通る声は、たとえ隣のコートにいても聞こえてきたし、遭遇すれば、なにがそんなに嬉しいのか不可解なくらい上機嫌に手塚に話しかけてきた。
寂しい、と。ぽつりと浮かんだ感情に、手塚は愕然とした。寂しいのか、自分は。
確かに跡部が絡んでくるときの周囲の視線はうるさかったが、跡部が手塚に向ける視線はいつもまっすぐで気持ちがよいものだった。お世辞にも上品とは言えない口調も、内容自体は決して悪いものでなく、むしろ言い返さずにはいられないような軽妙さがあった。そうか、寂しいのか。
順当に初日の試合を制し、青学は準決勝にコマを進めた。次の試合は氷帝戦だ。
先ほどまで氷帝の試合が行われていたコート脇では、跡部の隣に立つ向日が、伝達事項でも述べているのか声を張り上げている。
「お疲れさまでした!」の大合唱が響いて、ペールブルーの群れが散っていく。手塚は流れに逆らって金色の頭を探した。
「跡部!」
ようやく見つけた相手を逃すまいと、手塚は思わず跡部の手首を掴んでいた。跡部はぱっと振り返り、手首を握りしめているのが手塚だと気付くと、さらに目を丸くした。
「その、全く心当たりがないんだが、なにかしたなら悪かった」
謝罪の仕方として最悪なのは分かっていたが、他に言いようがなかった。
「お前の声が聞けないのは寂しい。出来れば、今度会ったときは今までみたいに話しかけてほしいんだが。駄目だろうか?」
跡部はぎゅっと眉根を寄せた。それから捕まれている自分の手首を指差しつつ口を開いた。
「いてえよ」
落ち葉を踏みしめたみたいな、カサカサとした小さな声だった。驚いて思わず手塚は手を離した。
「声変わり。声が出ねえの。分かったか?」
時おり声を裏返しながらそれだけ言うと、跡部は喉を押さえながら盛大に顔を顰めた。喉が痛いらしい。
「あー! 跡部あんま喋んなって!」
後ろのほうから向日がおかっぱ頭を揺らして駆けてくる。
「医者に言われてんだろ。また無茶して声張って、へーんなダミ声になっても知らねえかんな!」
跡部は返事代わりに舌打ちすると、手塚のほうを向いて性質の悪い笑みを浮かべた。手を伸ばして、手塚の頭をぽんぽんとあやすように叩いたかと思うと、小さな、囁くような声を出した。
「寂しい思いをさせて悪かったな。次会ったときは、お前から話しに来いよ。待っててやるから」
気障ったらしく跡部が言う。もっとも、語尾が全てひっくり返っていたので、格好はついていなかったが。本人もそれは分かっているようで、冗談めかしてくるりと目を回した。
「行かない」
「じゃあな」
「行かないからな!」
向日と一緒に歩いていく跡部の背中に向けて、手塚は必死になって繰り返した。
その翌週以降、数ヵ月の間、跡部を見かけるたびに物影に隠れようとする手塚と、それを捕まえては手塚の耳元で話しかける跡部という謎の構図が見られるようになったが、それが終わる頃には、手塚もすっかり周囲の視線が気にならなくなっていたのだった。
25. ティターニア
跡部は顔を上げて向かいのソファに座る手塚をちらりと見た。「分からないところがあったら質問する」と言ってドイツ語の小説を読み始めてから、かれこれ二十分ほど経つ。ブロンズ像のように微動だにしない手塚の姿に、跡部は思わず苦笑した。眉間の皺が後々残らなきゃいいが。
そのとき、ドアの向こうから小さな鳴き声が聞こえた。珍しい。女王様のお出ましだ。跡部は立ち上がってドアをわずかに開けた。隙間から、するりと音もなく一匹のラグドールが入ってくる。跡部を見上げて、もう一度短く鳴いた。今のは「ありがとう」か。いや、「ご苦労」だな。
「どうした? ティターニア」
跡部の足の間を八の字を描くように歩いた後、ティターニアはようやく跡部以外の人間がいることに気付いたのか、ピンと尻尾を立てた。それからゆっくりと慎重に、しかし興味津々といったふうに尻尾は立てたまま、手塚のほうへ近寄っていく。手塚はよほど集中しているのか、足元を右へ左へ移動する白い塊には目もくれなかった。ティターニアが体をこすりつけるように歩くせいで、手塚の黒い学ランのズボンには白い毛がくっついている。これでも無視できるとは大したものだと跡部が思ったとき、こちらも我慢の限界だったのか、ティターニアは手塚の膝の上に飛び乗った。
「ん? どうした、跡部」
手塚は膝の上の猫をひと撫でして言った。
「妙なボケかましてんじゃねえよ」
手塚は跡部のほうを見て、ほんのわずかに口角を上げた。
「見ない顔だな」
「客がいるときは滅多に出てこねえ。気まぐれな性格でな。ティターニアだ」
「なら、ティーだな」
「なら、ってなんだよ。変なあだ名つけんな」
手塚に掛かれば、マルガレーテはマルに、エリザベートはエリになるのだ。その都度、自分のペットたちの代わりに抗議の声を上げているが、今のところ何の効果もない。
「だって、呼びにくいじゃないか。なあ、ティー」
手塚がティターニアの首元を指で掻く。ティターニアは喉を鳴らした。
「ほら、この子もティーが良いと言ってる」
「ちげえよ。仕方ねえな、好きに呼べ、だ」
構われて満足したのか、ティターニアはひょいと手塚の膝から飛び降りた。あとに残った惨状を見て、跡部は声を出して笑った。太ももと言わず腹と言わず、黒い学ランが白い毛まみれになっている。手塚は自分の制服を見下ろして、諦めたようにしおりを挟んで本を閉じた。
「跡部、ブラシを貸してくれ」
「上着脱げよ。手伝ってやる」
実は前にも一度マルガレーテで同じ状態になったことがあるので、手塚も手慣れたものだった。跡部は洋服ブラシを一本手渡して、代わりに学ランの上着を受け取ると、二人で黙々とブラシを掛け始めた。
「もし俺様の名前がもっと長かったら、俺にも変なあだ名がついてたのかねえ」
跡部は何の気なしに言った。手塚はふいに顔を上げると、真剣な表情で跡部をじっと見つめた。
「な、なんだよ」
「ダメだ。跡部以外思いつかない」
「そりゃ一安心だ」
「そもそもお前が長い名前をつけるのが悪い。ペットの名前なら呼びやすさが重要じゃないのか?」
「ああん? 呼びやすいか呼びやすくねえかは主観の問題だと思うが? 俺は呼びにくいなんて思ったことねえし」
「日本語なら二、三文字が一番呼びやすいと思うが。あと、ついでに言わせてもらうと、キング・オブ・サタンは無いと思うぞ」
「なーにが無いんだよ! 漆黒の魔王だぞ!」
「無いな……」
跡部のネーミングセンスについては、この時は良否がつかなかったのだが、まさかそれから十数年後、今度はペットよりもさらに重大な、人間の名づけにおいて同じ話題が蒸し返されることになろうとは、二人とも夢にも思わなかった。