26. ×××
「女の子だとさ」
電話を切るなり、跡部は喜色満面で手塚を振り返った。
「ああ、聞こえた。今、何カ月くらいだ?」
「七カ月だと。いろいろ買い揃えてるとこらしいぜ」
樺地ももうすぐパパか、と跡部はしみじみと呟いた。妊娠が分かったときも、親より先に跡部に連絡してきたくらいである。ほとほと仲のいい二人だ。
「でな、樺地が娘の名付け親になってほしいって言うんだよ」
手塚は一拍置いて恐る恐る尋ねた。
「……誰に?」
「俺様に決まってるだろうが」
跡部はムッと唇を尖らせた。
「ちゃんと断ったのか?」
「当然。快諾した」
「跡部……。忘れたのか、キング・オブ・サタンを」
手塚は神妙な面持ちをして言った。
「てめえはいつまでその話を蒸し返すんだよ。人の子にサタンなんてつけねえから安心しろ」
「俺はお前のネーミングセンスを信用していないだけなんだが」
「うるせえな! 絶対お前も納得するような名前考えてやるから、黙ってみてろ!」
翌日、「休憩時間に読む」と言って、さっそく購入した『女の子のお名前辞典』を手に出勤した跡部は、手塚の予想通り社内各所であらぬ誤解を生み、たくさんのお祝いの言葉をもらって帰ってきた。そのたびに、一人一人に事の次第を説明したらしいが、明日には話に尾ひれがついて、取引先から祝電でも届くんじゃないかと手塚は気が気でなかった。
跡部はその後もその手の本を数冊購入し、常に手元において読み返し、最終的にかなり本格的な姓名判断の本にまで手を出した。それだけに飽き足らず、忙しい仕事の合間を縫っては、懇意にしているという占い師のもとを訪ねたり、有識者の意見を聞いてくると宣言して大学の門を叩いたりしていた。
日頃からマルチタスクが得意なはずの跡部が、これほど一つのことに没頭している姿を見るのはこれが初めてだった。というか、ここまで来ると、もはや異常である。取り憑かれていると言ってもいい。
夕飯を食べながら、跡部が虚空を見つめて「牛丼……」と呟いたときには、さすがに怖くなって肩を揺さぶって正気づかせた。
「なんだよ、牛丼って名前にするとでも思ったのか?」
と跡部は笑っていたが、樺地なら跡部が「牛丼」と言えば、喜んで命名してしまう可能性がないとも言い切れない。それを止められるとしたら、自分しかいないのだ。
一度など、セックスの最中に跡部が突然「思いついた!」と叫んで紙とペンを取ろうとするので、ベッドの上で羽交い絞めにして押しとどめる羽目になった。後になって、せっかくいい名前を思いついたのに、てめえのせいで忘れちまったとグチグチとなじられたが、忘れるくらいならその程度のものだったのだろう。そもそも、セックスの真っ最中に思いつく名前なんて、まともな名前のはずがない。
「悠長に考えていたら、先に産まれてしまうんじゃないか?」
樺地の電話から二カ月が経った。跡部は相変わらず四六時中、名前を考えている。
「跡部?」
先程、スコーンを焼くためにキッチンへ向かった跡部に呼びかける。跡部はカウンターの向こうからひょいと顔を出した。どこかしてやったりという顔をしている。
「どうだ!」
跡部はそう言って、粉まみれの指でつまんだメモ用紙を手塚の目の前に突きつけた。
小さな紙片の中央には、一つだけ名前が書かれていた。奇をてらったわけでも古臭いわけでもない、響きの美しい良い名前だと思った。
「いいんじゃないか」
手塚が素直にそう答えると、跡部は携帯を取りに走って部屋を出て行った。
「俺様をこれだけ悩ませた女は、後にも先にもお前だけだぜ」
腕の中の赤ん坊に、跡部は優しく語りかけた。跡部を散々悩ませた女、もとい女の子は、親指の先ほどの小さな拳を握りしめて、すやすやと眠っている。
「妙な言い方をするな」
手塚は呆れた声を出した。
「跡部さん、素敵な名前を、ありがとうございます。妻も、とても気に入っています」
樺地は穏やかな笑みを浮かべながら、ゆったりとした口調で言った。
「俺のほうこそ光栄だ。名付け親にしてくれてありがとう、樺地」
きらきらとした笑顔を樺地に向けると、跡部は愛おしくてたまらないといった表情で腕に抱いた赤ん坊に視線を戻した。
「この子は俺の娘みたいなもんだからな。何が欲しい? お前のためなら、星の一つや二つ、取ってきてやるぜ」
「跡部さん……、小さいうちから甘やかすのは、ちょっと……」
「小さいうちに甘やかさなくて、いつ甘やかすんだ?」
「甘やかす範囲の話なのか、それは」
手塚は跡部のネーミングセンスについて考えを改めた。しかし、その数週間後、手塚が知人から譲り受けたメスのジャイアント・シュナウザーに跡部が「クイーン・オブ・ハデス」と命名しようとして、再び言い争いが勃発するのだった。
27. ピンポン
列車はビル街を抜け、大きな河川を越え、次第に窓の外に広がる景色にも緑が多くなってくる。跡部は窓枠に頬杖をついて、流れていく風景を物珍しそうに眺めていた。
「おじいさん、具合のほうはどうなんだ?」
「意外と元気だぞ。お土産は饅頭がいいと言っていた」
「ははっ、そりゃ良かった。たくさん買って帰ろうぜ」
友人と箱根旅行に行く予定だった祖父が出発の三日前になって突然ぎっくり腰になったおかげで、思いがけずこうして跡部と旅行に行くことになった。予約のなかなか取れない宿らしく、代わりに父と母で行ってきたらどうかという話になったのだが、母が「動けないお義父さんと国光だけ残して旅行なんて」と言うので手塚に話が回ってきたのだ。
「でも、彩菜さんもよく子供だけで行かせてくれたよな」
「『二人ともしっかりしてるし、特に国光は大人っぽいから大丈夫でしょう』とのことだ」
「大人っぽいねえ……。物は言いようだな」
「何か言ったか?」
「なんにも」
跡部は笑みを誤魔化すように、再び車窓に目をやった。やはりと言うべきか快速列車など乗ったことがないようで、珍しい乗り物に乗った感覚でいるらしい。牽制の意味も込めて、事前に乗車券を渡しておいてよかった。ヘリで旅情は味わえないと思う。
駅から送迎の車に乗って到着したのは、山麓にひっそりと佇む風情のある旅館だった。チェックインを済ませ部屋に荷物を置くと、さっそく周辺の散策に出かけた。
豪勢な夕食を食べ、温泉にも浸かり、あとは部屋でのんびりするばかりという風呂からの帰り道、通りがかった一角に卓球台があるのを見つけた。休憩スペースも兼ねているようで、五つ並んだマッサージチェアのうちの二つには老人が半分ウトウトしながら座っている。
「腹ごなしも兼ねてやってみるか?」
温泉でしっかり温もったのか、跡部の頬はいつもより濃いピンク色をしている。
「そうだな。少し体を動かしていくか」
浴衣の帯を締めなおしながら手塚は言った。
「卓球なんてやったことあるのか?」
「体育の授業で二回くらい。お前は?」
「俺も授業と、あとは遊びに出掛けたときに父や祖父と何度かやったな」
「俺、二回とも全勝だったぜ」
跡部が備え付けのカゴの中から真っ赤なラバーの貼られたラケットを取り出しながら言う。
「奇遇だな。俺もだ」
バチッと火花が散る。テニスと名のつくもので負けたくないのは同じらしい。
カンコンと小気味よい音を立ててオレンジ色のピンポン玉が卓球台の上を行き来する。持ち前の動体視力と反射神経を活かして、両者一歩も引かぬ試合となった。跡部の放ったドライブレシーブがエンドライン近くに沈み、一瞬で遥か後方へ飛んでいく。
「っしゃー!」
跡部の大声で老人たちがびくりと目を覚ました。
手塚は部屋の隅まで転がったピンポン玉を拾い上げた。汗でぐっしょり濡れた襟元が肌に張り付いてくる。跡部は浴衣の合わせを大きく開いてばさばさ風を送っている。
「本気で勝たせてもらうぞ、跡部」
「今までは本気じゃなかったって? 言ってろ」
手塚はトスを上げると、身体を低くしてネットすれすれのサーブを放った。
「負けたー!」
跡部は大声で叫ぶと卓球台に両手をついた。前髪から汗が滴っている。
「返しにくい球ばっか打ちやがって……」
と、後方からぱちぱちと小さな拍手が聞こえた。さっきまで眠っていた老人たちが、マッサージチェアで揉み解されつつ手を叩いている。
「いやあ、ええもん見せてもらったのお」
「若さじゃのお。若いってええのお」
跡部と手塚は顔を見合わせて目をぱちくりさせた。
「お兄さんたち上手じゃのお。卓球部かい?」
「「テニス部です!」」
「ほほ、そうかい、そうかい」
手塚は跡部を振り返った。跡部は額の汗をぬぐい、手早くラケットとピンポン玉を片付けると、顔を上げてこう言った。
「とりあえず……、もう一度風呂に入るか」
「そうだな」
28. アトベナイズ
「社長って意外とヒマなんだ?」
プレイヤーズボックスに座る跡部を見つけるなり、開口一番リョーマは憎まれ口を叩いた。一目で高級ブランドのものと分かる三つ揃えのスーツを着た男は、何千という観客が詰めかけたスタンドの中でもとんでもなく浮いていた。
「早引きしてきたんだよ。うちはワークライフバランスを重視してるからな」
跡部はサングラスを外して胸ポケットにしまった。
「早かったじゃねえの。負けたのか?」
「冗談。勝ったに決まってんじゃん。部長の試合見たいから飛ばしてきた」
同じ大会に出ていても、こうして試合を観戦できる機会はあまりない。ここのところ快勝を重ねている手塚のテニスを、敵情視察も兼ねて一度生で見ておきたかったのだ。リョーマは跡部の隣に腰を下ろした。
「よしよし、よくやった」
「もう! やめろよ!」
犬にでもするように髪の毛をかき混ぜてくる跡部の手から逃れると、リョーマは帽子を目深に被った。
コートに目をやれば、ちょうど控室からベンチに向かって歩いてくる手塚の姿が見えた。手塚はコーチに目礼し、その奥に座る跡部とリョーマに気づいて、そして、
「部長が……、笑った……?」
「手塚だって笑うことくらいあんだろ」
「ウルトラレアなんだけど!?」
リョーマの大声は幸いなことに歓声に紛れたが、すぐに会場が観戦ムードになったので慌てて口を閉じた。
試合は手塚のリードで進んだ。その間、チェンジコートなどの際に、試合の様子を映していたカメラが観客席に向けられることがあるが、跡部とリョーマは目視できただけでも三回は会場のモニターに大写しになった。もちろんリョーマが出場選手なのもあるだろうが、横に座っている無駄に目立つ男のせいも大いにあると思う。それを証明するように、カメラに気づいた跡部が微笑みながら手を振るたび、会場のあちこちから黄色い悲鳴が上がった。
手塚は相手の強打を軽くいなし、得意のドロップショットを決めるべきところで決め、結果として三―〇のストレート勝ちを果たした。
「ま、あの人が格下相手にそう簡単に取らせるわけないよね」
「当然だ」
周りが総立ちになって選手たちに拍手喝采を送る中、跡部とリョーマも立ち上がって手を叩いた。
手塚は四方の客席に向かって律儀に一礼した後、手を振って歓声に応えると、ボックス席を振り返った。リョーマが目が合ったと感じた瞬間、隣にいた跡部が手塚に向けて、それはもう映画のワンシーンのような特大の投げキッスを放った。
「うわ……」
カメラはその瞬間もばっちり収めていて、客席の至るところから日本にいた頃、散々聞いた覚えのある悲鳴が巻き起こった。
手塚に視線を戻して、リョーマはさらに唖然とした。顔の高さに上げた左手で空を掴むような仕草をした後、握った拳に口づけると、手塚はこちらを見つめたままその手を開いて、小さく、しかしはっきりと投げキッスを返した。こちらというか、間違いなく跡部一人に向けてなのだが。流れ弾にでも当たった気分だ。
「うっわぁ……」
もちろんカメラがその決定的シーンを逃すはずもなく、まるでインかアウトか非常に判定の難しいボールが出たときみたいに会場全体がどよめいている。そんな周囲の反応などお構いなしに、跡部はご満悦の表情で手塚に手を振り返している。
「毒されちゃったんだ、手塚部長……」
「人聞きの悪い。感化されたと言え」
29. Beginning
跡部はひどく疲れていた。半年かけて進めてきたプロジェクトが、いよいよ本格的に動き出す直前になって頓挫したのだ。取引先の海外企業が急な身売りを決めたが為に、話がまったくの白紙に戻ってしまった。始動前とあってマイナスこそほとんど出なかったものの、これまで費やしてきた時間が無駄になったのかと思うと、一緒に取り組んできたメンバーにも申し訳が立たなかった。なにより、変調を察知できなかった自分に腹が立つ。
過ぎたことはどうにもならない。明日からまた気を改めて仕事に取り掛かるためにも、何か気晴らしになるようなことをして帰ろうと、スーツのまま繁華街へ出てきた。
こんな時は、良い音楽を聴くに限る。携帯で今からでも行けそうな演奏会がないか検索したところ、ちょうど歩いて十分ほどの場所で小さなジャズのコンサートがあるのを見つけた。あまり聴かないジャンルだが、そういうのもたまにはいいか、と跡部はそのホールを目的地に設定して歩き出した。
繰り返しになるが、跡部はその日ひどく疲れていた。「目的地に到着しました」という音声案内を聞いて、ろくに画面も見ずにルート案内を終了したが、そこがまさか目的地の一つ手前のビルだとは思いもしなかった。
入口に貼られたポスターが目に入る。自分と同い年くらいだろうか、涼しげな風貌の青年がきらびやかな衣装を身に纏って佇んでいる。ポスターには大きく「手塚国光」とある。おそらく彼がメイン奏者なのだろう。跡部は当日券を購入して会場に入った。
そこで初めて、何かがおかしいことに気がついた。若い女性客が異様に多い。というか、男性客の姿がまったく見当たらないのだ。珍獣でも見るような視線に内心たじろぎつつ、跡部は入り口近くの壁際に立った。オールスタンドの会場は既に後方近くまで人で溢れていた。
「男性ファンって珍しいですね」
隣に立っていた女性が跡部に話しかけた。
「いえ、ファンというか……。今日が初めてなんです」
「わっ、新規さんですか! ようこそ~! 楽しんでいってくださいね!」
なぜか嬉しそうな女性に、跡部はどうにかして作った笑顔で「ありがとうございます」と返した。ここにきてようやく場所を間違えた可能性に思い至った。会場のこの妙な熱気といい、なにか怪しい集会だったらまずいな、などと考えているうちに客席の照明が落ちた。
明るくなったステージの上には、例のポスターの男が恐ろしいほどの仏頂面で立っていた。
「みんな、今日は来てくれてありがとう」
よく通るバリトンが会場を包む。いい声をしてるな、と思った瞬間、周りの女性たちが鼓膜を突き破るような悲鳴を上げた。跡部は何か事件でも起きたのかと、慌てて辺りを見回した。今しがたの挨拶への反応だとは思ってもみなかったのである。
「さっそく一曲目、行くぞ!」
曲が始まって、やっと跡部にも、これがいわゆるアイドルのライブなのだと分かった。それもそのはず、ステージに現れた男はとてもアイドルという雰囲気ではなかった。どちらかと言えば、サックスでも吹いているほうが余程しっくりくる。
しかし、ベルベッドのような歌声、客席を射る真剣な眼差し、少しぎこちないが熱のこもった振付、そのなにもかもが一瞬にして跡部の心を貫き、まるで嵐のように吹き抜けていった。
気づけばアンコールの曲も終わり、跡部は呆然と拍手を送っていた。会場の温度は開演前に比べて間違いなく三度くらい上がっていたが、それだけでなく体中が熱かった。ライブで感じたこの感動を直接彼に伝えたい、と強く思った。跡部はレストランでも、感動するほど美味い料理に出会ったときには、なんの躊躇もなくシェフを呼ぶタイプの人間なのだ。
「あの、彼と話をする機会ってありますか?」
跡部は開演前に言葉を交わした女性に向かって尋ねた。
「物販でCDを買えば、この後の握手会に参加できますよ。一枚で一回。一回数秒って感じです。いつもライブ後は混むんですけど、ここからなら、今すぐ行けば混む前に買えると思いますよ」
ライブの余韻を残すかのように頬を上気させた女性は、丁寧にそう説明した。跡部は礼を言って会場を出ると、物販コーナーに向かい、少し悩んだ末、二十枚ほどCDを買った。一枚で数秒なら、話をするにはもう何枚か必要だろうと考えたのだ。
握手会の列に並んでいる間もやはりジロジロ見られたが、そんなことはもはや少しも気にならなかった。前に並ぶ女性たちが「何話そう~!」とはしゃいでいる。まるで彼女たちと同じように胸を弾ませている自分に気づいて、恋する乙女かよ、と跡部は自嘲した。
いよいよ跡部の番になった。受付のスタッフに、CDケースについていた握手券を束にして渡す。スタッフが一瞬呆けたような顔をした気がしたが、そのまま前に進んだ。カーテンで仕切られた小さなスペースに入ると、長テーブルの向こうに手塚が立っていた。手塚は跡部を見て目を瞬かせた。
「久々に良い音楽を聴いたぜ。実は、ここに来るまで少しばかり気が滅入ってたんだが、あんたのおかげで元気が出た。ありがとよ」
そう言ってから、そういえば握手会と言っていたことを思い出して、跡部は右手を差し出した。手塚はまるで生まれて初めて人間の手を見るような目をして跡部の手をじっと見下ろしていたが、ややあって遠慮がちにその手を握り返した。それはまるで商談相手にするような、ごく一般的な片手での握手だったが、アイドルの握手会というものを知らない跡部は何の疑問も抱かなかった。
「それだけ言いたかった。じゃあな」
跡部が手を離そうとすると、手塚は慌てたように握っていた手に力を込めた。
「その、ありがとう。そう言ってもらえて嬉しい。また来てくれるか?」
跡部は少し驚いて手塚を見つめた。ライブ中もそうだったが、相変わらず手塚はニコリともしなかった。
「いつもここでやってんのか?」
「ここでやることが多いが、いろいろだ。他県にも行くし。詳しいスケジュールはホームページに載ってる」
「そうか。じゃ、また来る」
跡部はそう言って微笑んだ。手塚の横にいたスタッフが「時間です」と告げた。
ビルの外に出て深呼吸する。冷たく澄んだ夜の空気が、火照った体を冷ましていく。跡部は手に提げたCDの山を見下ろすと、寝る前にもう一度聞くか、と思いながら足取りも軽く歩き出した。
30. 残響
「手塚、君のその人の顔を覚えないところ、アイドルとして致命的だと思うよ」
不二は長テーブルを折りたたみながら、同じくパイプ椅子を片付けようとしていた手塚に向かってため息交じりに言った。もう耳にタコができるほど言われたセリフだった。
「二回並んでくれた子に、まったく同じこと言ったでしょ。足踏んづけてやろうかと思った」
握手会の間、不二は手塚の横で時間を見ていたはずだが、自分よりもよほど客のことを覚えている。
「二回目だと申告してくれれば、お互い時間を有効に使えただろうに」
「本当、そういうとこだよ……」
不二は作業の手を止めた。
「ちょっとで良いから、自分のこと覚えてほしいと思ったんでしょ。もう少しファンの子の気持ちも考えてみたら?」
「そう、か……」
しゅんとした手塚の顔を見て、少し気が晴れたらしい。不二はテーブルを脇に抱えて歩き出した。手塚も椅子を数脚まとめて後に続く。
「でもさ、やれば出来るじゃない。金髪の男の子がいたの覚えてる? ものすごいイケメンの。『また来てくれるか?』なんて、君の口からそんなリップサービスを聞く日が来るなんて思わなかったよ」
もちろん覚えている。むしろ、ライブ中から気づいていた。ステージから全員の顔が見渡せるくらいの小さな箱だ。最後列にいたものの、女性客ばかりの会場で頭一つ高い青年は嫌でも目についた。そのうえ、立ち居振る舞いから滲み出るオーラがとても一般人のものではなかったので、もしかすると同業者が見学にでも来たのだろうかと思っていた。光の加減か、その瞳は暗く沈んでいるように見えた。
ところが、手塚が歌い始めた瞬間、その瞳がまるで深い水の底から浮かび上がった宝石のように眩く輝きだしたのだ。鮮烈な光景だった。その変化を生み出したのが自分なのだと思うと、胸が震えた。次第に熱を帯びる視線に、いつまでも曝されていたいとすら思った。
手塚のファンの中でも、男性のファンは極端に少ない。だから、彼女や友人の付き添いで来ただけかも知れないと思っていた青年が握手会に現れたときには、驚きのあまり固まってしまった。人の顔を覚えるのはとことん苦手なはずなのに、間近で見た彼の笑顔が、声が、頭から離れない。
「手塚ったらすっかり面食らってたよね。それに比べて、彼のあの堂々とした態度。一瞬どっちがアイドルか分からなかったよ」
「たしかに……」
「もう、本気にしないでよ!」
倉庫にテーブルを運び込むと、不二は手塚の背中をバシンと叩いた。思わずひりひりと痛む背中をさする。
「彼、また来てくれるといいね」
「ああ、そうだな」
そうは言ったものの、だ。
「手塚ぁ! 来てやったぜ!」
「出たな」
跡部はいつも通り高そうなスーツを着て、ライブ後の握手会に現れた。あの日以降、ほとんど欠かさずライブやイベントに現れるようになった跡部は、毎回とんでもない数のCDやグッズを買っていくため、今では他の客からも太客と認識され、一目置かれている。最近では、ファンの間で密かに「泣きぼくろの彼」と呼ばれているらしい。
「跡部、お茶飲む?」
「ありがとう、不二。いただくぜ」
この頃は最後尾に並んだ跡部と、こうして撤収前にちょっとした雑談をするのがお決まりになっていた。今日も新しく出たシングルを百枚単位で購入したらしい。
「どうぞ、粗茶ですが」
「サンキュ」
紙コップのお茶を飲む姿さえなんだか絵になっていて、手塚はついジトリと観察してしまった。
「お前さ、また三曲目のサビ前のフリ間違えてたよな。もういっそのこと、そっちに変えれば?」
「よく気がつくな。指摘されたのは初めてだ」
「あんなの誰でも気づくだろ。遠慮して言わねえだけじゃねえの?」
初めて会ったときからそうだが、跡部の態度は他のファンとは丸きり違っていた。まるで馴染みのスタッフか古くからの友人のようなフランクさで話しかけてくるので、手塚は跡部が本当に自分のファンなのか、いまだに分からないでいる。
「ところで、跡部。お前、そんなに毎回大金を使っていて大丈夫なのか? 自分がいくら使ったか、ちゃんと把握しているんだろうな?」
跡部はきょとんとした顔をして、それから腹を抱えて笑い出した。
「アイドルがファンの懐の心配してんじゃねえよ、バーカ。応援したいから金出してんだ。それは他のファンも同じだろ? 分かったら励めよな」
跡部は残りのお茶を飲み干すと、いつものように右手を差し出した。手塚もいつものようにその手を握り返す。
「じゃあな、また来る。不二、ごちそうさま」
そう言って、跡部は颯爽と去っていった。「バカだって」と不二は笑っている。手塚は跡部の手の感触が残る掌をジッと見下ろした。
「あいつの金遣いといい、身なりといい……、本職はホストだったりするんだろうか」
「うーん、あの顔で、あの気の利きようでしょ。ひょっとしたらひょっとするかもね」
不二は冗談のつもりで言ったのだが、手塚が言葉通りに受け取ったせいで、本人から訂正が入るまでその後半年もの間、手塚の誤解は解けないままなのであった。