31. 爆弾発言
「跡部、お前に謝らなければならないことがある」
手塚はやけに深刻そうな声で言った。来週、青学で行なう予定の青学と氷帝との合同練習について、おおかたの話がまとまったタイミングだった。扉一枚隔てたテニスコートからは、威勢のよい掛け声と打球音が聞こえてくる。プレハブ建ての部室はひんやりとして、少し肌寒かった。
「なんだよ。まさか、今更都合が悪くなって中止にしたい、なんて言わねえよな?」
どうせ取るに足らないようなことなのだろう、と跡部は思った。手塚の真面目くさった性格が、些細な問題も大事にしてしまうのだろうと。
「まさか。そういう話ではないんだが……」
手塚は歯切れ悪く途中で言葉を切ると、ちらりと跡部のほうを見た。まるで叱られるのを怖がっている子供みたいで笑ってしまった。
「怒らねえから言ってみろよ」
その言葉に安心したのか、手塚は小さいがはっきりした声で「実は」と切り出した。
「昨日、夢にお前が出てきたんだ」
「へえ?」
跡部は腕を組んでパイプ椅子にもたれかかった。
「詳しい流れは覚えていないんだが、とにかく、夢の中で俺はお前のことを自分の好きなように扱ってしまって」
「す、好きなようにって?」
急に話がおかしな方向に進みだしたので、声がひっくり返りそうになった。手塚はさっきから机の上で組んだ手に視線を落としている。
「つまり、キスをしたり体に触ったり、ということなんだが……。それで、途中で目が覚めはしたんだが、その、どうにもならなくて、そのまま」
抜いてしまった。手塚は懺悔室で己の罪を告白する罪人みたいな悲愴さを漂わせながら、先ほどよりもさらに小さな声で告げた。跡部は今聞いた内容をどうにか理解しようと努めたが、単語がぐるぐる頭の中を回るばかりで、思考は何一つ意味のある形を成さなかった。頭が真っ白になるというのはこういうことか、と他人事のように思う。
「すまなかった。……許してくれるか?」
許すもなにも夢の話だろうが、とか、なんでそんなこと面と向かって本人に言えるんだよ、とか。そういう指摘は後になって沸々と湧き上がってきたもので、そのときの跡部には首を縦に動かすのが精一杯だった。
「そうか、ありがとう」
手塚はほっとしたように口元をほころばせると、おもむろに立ち上がった。
「黙ったまま合同練習に挑みたくなかったから、謝ることが出来て良かった。では、また来週。楽しみにしている」
「俺様が美しすぎるのが悪いのか……? 忍足、お前はどう思う? 美しさは罪だと思うか?」
翌日、氷帝の部室である。跡部は窓辺に頬杖をついたまま、物憂げな眼差しを忍足へ向けた。
「今日もキレッキレやな、跡部。なに傾国の美女みたいなこと言っとん?」
跡部は躊躇うように目を泳がせた後、話をする気になったのか、椅子ごと身体の向きを変えた。
「参考までに聞きたいんだが。よく知った相手から性的な目を向けられていたと分かったら、どう対処するのが正しいと思う?」
「ヘビーな質問やなあ……。なんかあったん?」
「いや、別に」
跡部は言葉を濁した。それでは何かあったと言っているようなものだったが、言う気がないならあえて聞き出すこともないだろうと忍足は言及を避けた。
「せやなあ、実害がないならほっとけばええし。もしあるようなら、自分にはそんな気ないって、はっきり言うたったらええんやない? 嫌なもんは嫌って言わんと相手がつけあがるって、跡部、前に自分で言っとったやん」
跡部は目を丸くした。
「そうか……」
頭を抱えたい気分だった。忍足の言葉を聞いて、ようやくはっきりした。昨日の一件以降、何を悩んでいるのかすら分からず悶々としていたのだが、一番の問題は、手塚の衝撃的な告白そのものではなく、それを聞いて嫌だと思わなかったことなのだ。
昨夜はふとした瞬間に手塚に言われたことを思い出して、ベッドの上でのたうち回ったりもしたが、手塚にも手塚の話した内容にも嫌悪感を抱きはしなかった。それどころか、手塚とそういう関係になるのを想像してみたとき、どこか満更でもなく思っている自分がいたのだ。こんな形で手塚に対する想いを自覚させられることになるなど、想定外もいいところだった。
謝罪を終えて、すっきりした顔をしていた手塚のことを忌々しく思い出す。そんな夢を見ておきながら、勝手に済んだ話にしてんじゃねえぞ。
「今度の青学戦……、全員、完膚なきまでに叩きのめしてやる」
「え、怖っ。どういう思考回路を辿ったら、その結論に行き着くん?」
練習試合について早急に作戦会議をする必要があると言って、忍足に参加メンバーの招集を言い渡して部室から追い出すと、跡部は背もたれに体を預けた。次に会ったときが年貢の納め時だ、手塚国光。
「夢の中だけでいいのかよ」
そう問いかけたときの手塚の顔を想像して、跡部は込み上げてくる笑いをこらえきれなかった。
32. 香水
「加奈、今日めっちゃいい匂いする! 新しい香水?」
「へへっ、分かる? ついに買っちゃったんだよね~!」
教室の後ろのほうから女子の賑やかな声がする。先ほどから漂ってくる砂糖を煮詰めたような甘たるい匂いの元はここだったのか、と手塚は内心ため息をついた。良い香りでもあまり度が過ぎると考えものだ。
「香水? 俺も使ってるぜ?」
学校での話をしたところ、跡部は事も無げに言った。放課後、制服のまま向かった跡部の家で、数日ぶりに彼の体温を堪能しているときだった。手塚はびっくりして、思わず腰に回していた腕をゆるめて跡部を見つめた。
「そうなのか?」
「まさか、何も着けてねえのに良い匂いがするとでも思ってたのかよ」
跡部がからかうように言う。
「そういえば、今日は少し匂いが違う気がする」
まさにそう思っていたと答えるのも癪なので、手塚はさりげなく話を逸らした。
「お? 意外と鼻が良いじゃねえの。一昨日、秋冬用に変えたんだよな」
跡部は手塚の腕を解いて、飾り棚に並んでいたガラス瓶の一つを手に取った。透明な瓶の中には薄い琥珀色の液体が入っている。なんでも、自分の好みに合わせて調香師に作らせたオリジナルらしい。
「そこまで中身は変えてないけど、やっぱ冬は重めのほうが……って、分かんねえか」
手塚の難しそうな顔を見て跡部が笑う。
「気に入ったなら分けてやるよ」
「いいのか?」
「もちろん。あんま着けすぎるなよ?」
その夜、眠る前になって手塚は引き出しの中にしまっておいた香水瓶を取り出した。掌にすっぽりと収まるくらいの小瓶の中で、香水がたぷたぷと揺れている。言われた通り枕に一吹きして、ベッドに寝転ぶ。大きく息を吸って、手塚は訝しげに眉を寄せた。
「どうだった? 俺様と添い寝してる気分は味わえたかよ?」
部屋の扉を開けるや否や、手塚は跡部をぎゅっと抱きしめた。鼻から息を吸い込んで、大きく吐き出す。
「全然味わえなかった。匂いが違う。試しに自分にも着けてみたが、お前の匂いにはならなかった」
ようやく一息ついて体を離す。跡部は呆気にとられたような顔をしていたが、合点がいったのか、くつくつと笑い始めた。
「お前、ほんと鼻が良いのな。香水は肌の匂いと合わさって香るもんだからな。お前と俺じゃ、同じ香水を使っても、まったく同じ匂いにはならねえんだよ」
そう説明する跡部からは、やはり好きだと思った香りがする。
「なるほど。なら、やっぱり俺はお前の匂いが好きなんだ」
納得したように呟いて、手塚はもう一度跡部を抱きしめた。じんわりと熱い跡部の身体から、さっきよりも強く香りが立った気がした。
33. 傷口
跡部が叫ぶ声は、客席の悲鳴に掻き消されて手塚の耳には届かなかった。
突然地面に押し付けられた体。地鳴りのような轟音と振動。地面に散らばる鉄くず。覆い被さるように背中に回された腕。状況が飲み込めた瞬間、血の気が引いた。舞い上がる粉塵で視界が滲む。なぜ、という思いで跡部を見つめる。
「勘違いするんじゃねえ」
立ち上がろうとした跡部の顔が苦痛に歪んだ。白い膝下に広がる真っ赤に腫れた内出血の跡。
「痛めたのか……?」
「お前の腕に比べりゃ、どうってことねえよ」
その余裕ぶった笑みを見た途端、カッと頭に血が上った。もの問いたげな跡部を制して、肩に腕を回すと、足に力の入らない体を支えながら前へ進む。これ以上跡部が何か言おうものなら、場所も考えず掴みかかってしまいそうだった。一歩進むごとに小さく息を呑む音が聞こえる。相当痛むのだろう。それなのに、この男は笑うのだ。
ゴールテープを切った瞬間、トラックの外に待機していた救護班が走ってくるのが見えた。見えてはいたが、手塚はそれを無視して、そちらに気を取られている跡部の手を引いて背中に乗せると、抵抗される前に体を起こした。
「ああ!? 何すんだよ! 下ろしやがれ!」
耳元で跡部が喚く。一瞬体がふらついた。太腿を抱えて揺すりあげるように背負い直すと、慌てたように跡部の腕が巻き付いてきた。
「黙ってろ」
低く一喝すると、跡部はピタリと動きを止めた。そのまま医務室に着くまで、お互い口を開かなかった。
救護担当のスタッフは、まず小さな擦り傷を水ですすぎ、打ち身になった部分を氷で冷やした。その後、薬を塗って、仕上げとばかりに包帯を巻いていく。軽い打撲で済んだのは、運が良かったとしか思えなかった。
「……お前はもっと自分を大切にするべきだ」
人前で包帯姿を見せたくないのだろう、競技場に戻る前、更衣室に立ち寄ると跡部は早々にジャージに着替えた。
「そりゃあ自分の身が一番かわいいさ。でも、手が出ちまったもんは仕方ねえだろ」
跡部はジャージのファスナーを上げながら言った。あの場で並走していたのが手塚でなくても、跡部ならきっと同じように手を伸ばす。万人に与えられる優しさが今は無性に悔しく、悲しかった。庇われた手塚が気に病まないよう、過去の試合まで掘り返して。なぜ、怪我をしておきながら心まで自分で痛めつけようとする。
跡部が黙り込む手塚をベンチに座ったまま見上げていたが、唐突に手塚に向かって両手を伸ばした。
「おい、そろそろ行かねえと表彰式に間に合わねえんだが? 俺様の馬車は、まだ休憩中か?」
手塚は要領を得なかった。跡部はやれやれと言うように頭を振った。
「医者が言ってたろ。出来る限り歩いたりするなって。あ、入り口まで来たら下ろせよ? さすがに負ぶわれたまま再登場なんて御免だからな」
甘えるように見せかけて甘やかされている。こういうとき、コイツには敵わないと思う。
「急ぐのなら走るが?」
「バーカ。振動が怪我に響くだろ」
今はこの背中の重みだけでいい。手塚は跡部を背負うと、歓声が待つスタジアムのほうへゆっくりと歩き始めた。
34. デジャブ
会場のそこかしこから声援と蝉の鳴き声が聞こえてくる。
晴天に恵まれた七月の土曜日、手塚は母親と一緒に中学生のテニストーナメントを見に来ていた。来年入学する予定の青春学園はもちろん、関東大会まで進出してきた近県の強豪校の試合を観戦して、中学生のレベルがどんなものか把握しておこうと考えていた。
日差しは強く蒸し暑かったが、大きな街路樹の並ぶ遊歩道は日陰になっていて、いくらか快適だった。探していた自販機はすぐに見つかった。先客がいるのに手塚が気づくのと同時、自販機の前に立っていた少年が振り向いた。手塚と同じくらいの背丈の金髪の男の子だった。アルミ缶を両手で握っていたその子は、場所を譲るように脇に避けた。
手塚はお茶のペットボトルを二本買った。ゴトンと音を立てて落ちてきたボトルを取ろうと取り出し口に手を突っこんだときも、その子はまだそこに立っていた。なぜかがっかりしたようにボトルを見ている。
お釣りをポケットに入れて踵を返そうとしたとき、少年が「なあ」と声を出した。
「これの開け方、教えてくれないか?」
そう言ってずいと差し出したのは、先ほどから彼が握りしめていたミルクティーの缶だった。手塚は唖然としてその子を見つめた。冗談を言っているふうには見えなかった。
「……貸して」
手塚は紅茶の缶を受け取って、プルタブに指を掛けた。口で説明しても良かったが、やってみせたほうが早いと思ったのだ。プシュッと勢いよく空気の抜ける音がして、プルタブが開く。手塚はまるで手品でも見たように目を丸くしている少年に缶を手渡した。
「ありがとう。買うまではなんとかなったんだけど、開け方が分からなかったんだ」
少年はにこりと笑って言った。それから少し温くなった紅茶を一口飲んで、「甘っ!」と思い切り顔を顰めた。
「国光、こっちよ」
白い日傘を差した母が、コートを囲むフェンスの手前で手を振っている。
「間に合ってよかったわね。もうすぐ始まるみたいよ」
母が取っておいてくれた場所からは、コート全体がよく見渡せた。買ってきたペットボトルの一本を母に渡す。
「……自販機のところで変な子に会いました」
「変な子?」
日傘の下に入るよう手塚に促しながら、母が首をかしげる。
「缶ジュースの開け方を教えてくれって言われたんです。自販機も缶ジュースも初めてみたいで。日本語で話しかけてきたけど、金髪で青い目をしていたから、外国から来たのかも知れません。それにしたって、今どきそんなことも知らない人がいるのかと驚きました」
手塚は眉間に皺を寄せながら言った。
「こんなにどこにでも自販機があるのって、日本くらいなものらしいわよ。だけど、缶ジュースが初めてっていうのは、ちょっと珍しいわね。ふふっ、もしかしたら、お忍びで日本に遊びにきた、どこかの国の王子様だったのかも」
「母さん……」
母は時々、空想好きな少女のようなことを言い出すのだ。確かに王子様みたいな格好が似合いそうな子だったな、と思ったところで両校の選手がコート中央に整列した。試合が始まる頃には、さっきの出来事は手塚の頭の中からすっかり忘れ去られていた。
「手塚、開け方教えてくれ」
跡部は桃の缶詰を手塚に差し出した。手塚は妙な既視感を感じながら缶詰を受け取った。キッチンの引き出しから缶切りを取り出して、缶の縁を挟む。そのままぐいと押し込むと、蓋に切れ目が開いた。
「ここをこうしてこうだ。やってみろ」
「適当過ぎんだろ。ったく」
跡部は缶切りを受け取ると、悪戦苦闘しながらギコギコと缶を開けていく。
「缶切りも使ったことがないとはな」
「これでもかなり出来ることは増えたんだぜ? 前はプルタブの開け方も知らなかった」
「それは大躍進だな。……この話、前も聞いたか?」
手塚はふと首をかしげた。
「さあ、どうだったかな。どうした?」
「初めて聞く話のはずなんだが、前にどこかで聞いた気もするんだ」
「デジャブってやつ?」
「そうかも知れない」
手塚は危なっかしい跡部の手元を注視しながら言った。
35. Polestar
ロンドンの中心部にほど近い場所に、そのテニスコートはあった。個人所有の小さなコートだと聞いていたが、とんでもない謙遜だったらしい。二面あるコートは整備されたばかりのようにピカピカで、夜間にも問題なくプレー出来そうな立派な照明設備に、更衣室、シャワールームに至るまで、どこも機能的でありながらまるで五つ星ホテルのような高級感が漂っている。
約束の時間より随分早く着いた手塚は、設備を一通り見て回りながら、こんなに虫のいい話があっていいのだろうかと何度目ともつかない自問自答を繰り返した。
手塚のもとにその話が舞い込んできたのは、ふた月ほど前のことだった。イギリスのとある企業から、是非ともスポンサーとしてプロ活動を支援させてほしいという旨のメッセージが届いたのだ。提示された破格のスポンサー料はもとより、世界各地にあるプライベートコートを自由に利用してほしいという申し出は非常に魅力的だった。内心何か裏があるのかも知れないと思いつつも、詳しい話をしにドイツまでわざわざ足を運ぶつもりだというその企業の代表者と会う約束を取り付けたのだった。
現れたのは、銀色の髪に透き通るような青い瞳が印象的な穏やかそうな老紳士だった。聞かされた内容はメールと変わらず、ほとんど無条件で大金を受け取るようなものだった。訝しげな手塚に対して、老人は「これは慈善活動みたいなものだから、素直に受け取ってほしい」と告げた。それから、実は日本に所縁のある自分の孫が手塚の大ファンなのだと、照れ臭そうに笑いながら言ったのだ。
もしイギリスに来ることがあれば、一度で構わないので孫のコーチを頼まれてはもらえないか。別れ際に言われた言葉が、手塚の頭の中にずっと残っていた。まだまだプロとしては駆け出しのテニスプレーヤーである手塚に、そんな熱心なファンがいるとはどうにも信じがたかったし、一種の社交辞令とも受け取れたが、なにか自分に出来ることがあるなら恩に報いたいという気持ちがあった。そんな折、フランスで開催された大会の後に連絡をとってみたところ、大喜びでロンドンまでの移動手段に加えて宿の手配までしてくれたのだった。
体を温めておこうかとコートに戻ってきたところで、手塚はふと、その孫とやらの名前も年齢も聞いていないことに気がついた。性別すら危うい。たしか男の子だったと思うのだが。年上もやりにくいだろうが、あまり年下でも困る。部活での指導経験はあるものの、小さな子供の扱いには慣れていない。愛想が良いとはお世辞にも言えないことは分かっている。最悪泣かせでもしたら後味が悪いではないか。
無意識にラケットをいじりながらぐるぐる考えこんでいると、入り口のドアが開く音がした。しばらくして、ラケットバッグを背負ってコートに現れたのは小さな男の子だった。手塚と目が合った途端、まるで幽霊にでも会ったように固まってしまった。そういえば電話口で、「孫には、臨時のコーチが来るとだけ伝えてある」と茶目っ気たっぷりに話していた。
ダークブロンドに澄んだ青い瞳を持つ、人形のように整った顔をした子供だった。その顔が一瞬、泣き出す間際のように歪んだ気がしたが、瞬きをした次の瞬間には愛嬌のある笑顔に変わった。
「お会いできて光栄です、手塚さん。跡部景吾と言います。いつも試合を拝見しています」
堂々と右手を差し出す態度はずいぶん大人びていたが、多く見積もっても八つか九つくらいだろう。日本人離れした容姿をしているが、流暢な日本語だった。
「ありがとう。今日はよろしく頼む」
手塚は小さな柔らかい手を握り返した。
ファンだと言うわりに大騒ぎするわけでもなければ、委縮して動けなくなるわけでもない。跡部は手塚の指導を素直に聞き、分からなければすぐに質問を返す優秀な生徒だった。一から十を知る利発さとそれを実践できる器用さがあり、言われたことは余さず吸収していく。
ふと、母が庭に植えた植物の手入れをしながら言った言葉を思い出した。
「花が咲いたとき、お世話してきた甲斐があったなあと思うの。手間を掛けたぶん、きれいに咲いてくれる気がするのよね」
あいにく植物を育てることには、ちっとも興味を持てなかったが、今なら母の気持ちが少しは分かる気がする。水を与えれば与えただけ伸びていく。短時間のうちにそれを目の当たりにすると、胸が湧きたつような新鮮な驚きと喜びがあった。
「少し休憩するか?」
汗びっしょりになっている子供に気付いて、手塚は慌てて声を掛けた。文句も言わずついてくるので、つい色々とさせてしまったが、時計を見ればかれこれ二時間は経っている。
「……はい」
跡部はタオルで汗を拭ってから、お手洗いに行ってきますと言ってコートを出た。
おそらく同年代の中では、かなり強い部類に入るだろう。手塚はたまにこうして練習を見るくらいなら、今後も続けてもいいのではないかと思い始めていた。トーナメントの合間の、いい息抜きにもなるだろう。
もう一度時計を見ると、十五分ほど経っている。跡部はまだ帰ってこない。線の細い子だった。無理をして具合でも悪くなったのかも知れないと、手塚は大げさかと思いつつも心配になり洗面所へ向かった。
ドアをノックすると、手洗い場の蛇口から勢いよく水が流れ出る音、それからバチャバチャという水音がした後、「はい」とはっきりとした声が帰ってきた。手塚がドアを開けると、顔を洗っていたらしい跡部は不思議そうな表情で手塚を見上げた。
「どうかしました?」
「それはこちらの台詞だ。どうした? なぜ泣いている?」
跡部はぎくりと体を強張らせた。表情は取り繕えても、真っ赤に充血した目を見れば、ついさっきまで泣いていたのは明らかだった。
「きつかったり、嫌なことがあったなら言ってほしい。俺はそういうのを察するのがあまり得意でないから」
こういうときは、優しく話しかけたほうがいいのだろうとは思うものの、手塚の声はいつもと変わらず平坦なものだった。みるみるうちに青い瞳が潤んでいく。
「泣いてません」
鼻の頭を真っ赤にしながら跡部が言う。
「なぜ嘘をつく」
「嘘じゃないです」
手塚はため息をついた。
「白々しいぞ」
「泣いてねえって言ってんだろ!」
手塚はわずかに目を見張った。さっきまでの大人しさや従順さなど脱ぎ捨てて、毛を逆立てて威嚇している。まるで小さな獣のようだと思った。
「ずっとあんたの試合を見てた。自分よりずっと格上の、ずっと体格のいい選手を倒していくあんたに憧れてた。俺も強くなって、いつか同じ舞台に立ちたいって。こんなの、こんな、お膳立てされた場じゃなく、いつか、」
そこまで言って、跡部は唇を引き結んで目を閉じた。おそらく、この機会を作ってくれた自分の祖父にも手塚にも黙っていようとした本心だった。それを俺が無理やり引きずり出した。
「今日はありがとうございました。とても勉強になりました。教えていただいたことを活かして、これからも練習に励みます」
跡部はまるで睨みつけるような強い眼差しで手塚を見つめた後、深く頭を下げた。手塚は目の前のつむじを数秒見つめてから、細い腕を掴んで歩き出した。
「な、なに……?」
「勝手に終わらせるな。まだ練習時間は終わっていない」
なかば引きずるようにコートに戻ると、手塚はラケットを手にネットを挟んで反対側の面のエンドラインに立った。
「試合形式だ。一セットマッチ。俺からサーブを打つ」
跡部はまだ何が起きているのか分かっていないようだった。
「どうした? 早く構えろ」
手塚がボールを地面につきながら言う。跡部は意を決したように、ラケットを握りしめた。
手加減など一切しなかった。球威に圧されてラケットが弾かれようが、子供の足ではどうあっても届かない場所に打ち込もうが関係ない。どうにかボールに当ててくることはあっても、ほとんどラリーにもならなかった。結局、一ポイントも与えることはなく、あっという間に決着はついた。
「これが、今の俺とお前との差だ」
コートの真ん中にしゃがみこんだ跡部を見下ろして言う。
「悔しかったら追いついてみろ。自分の恵まれた環境に文句を言うくらいなら、せいぜいそれを利用しろ」
跡部が顔を上げる。いつの間にか涙など乾いてしまったようだった。膝に手をついて立ち上がると、頼りない足どりでネット際まで歩いてくる。
「その言葉、いつか後悔させてやるよ。それまでご指導してくれんのか?」
にやりと悪ガキのように跡部が笑う。なんとなく、こちらの笑い方のほうが彼らしいと思った。
「ああ、毎回叩きのめしてやる。覚悟しておけ」
手塚はそう言って、右手を差し出した。握った掌は焼けるように熱くて、手塚はそのとき確かに、なにか予感めいたものを感じたのだ。いつか大勢の観衆の中で、再びこの手を取るときがやって来る。そして、そのとき自分は、ひと欠片も後悔などしていないだろうとも。