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36. コペルニクス的転回(180度)

 目覚めた瞬間、鈍器で殴られたように頭が痛んだ。カーテンの隙間から差し込む光の強さからして、太陽はいつもよりずいぶん高い位置にあるようだった。手塚は目を閉じたまま寝返りを打とうとして、自分が何かあたたかいものに抱きついて眠っていたことに気がついた。身じろぎしたせいか、腕の中のものが小さく愚図るような声を上げる。
 手塚はここでようやく、はっきりと目を覚ました。瞼を開けると、見覚えのある後ろ頭と白いうなじが視界に飛び込んできた。ドイツにある自宅のベッドの上だった。両腕を目の前の人物の腰に回し、背後からしっかりと抱きかかえるような形で横になっている。恐る恐る確認すると、かろうじて下着は身に着けているものの、二人ともそれだけだった。
 腕の中の人物が誰なのか、実のところ声を聞いた時点で既に分かっていた。手塚は内心ひどく取り乱しながら、どうしてこんなことになっているのか思い出そうと、痛む頭で必死に意識を集中させた。

 昨日は手塚の二十歳の誕生日だった。ドイツでは十六歳から酒が飲めたが、日本の法律では成人ではないからと言って、これまで一度も飲もうとしたことはなかった。しかし、二十歳を迎えた手塚をコーチ達が逃すはずもなく、世界で一番美味いビールが何か教えてやると意気込んで、さっそく酒場に連れ出された。
 初めて飲んだビールはただただ苦かったが、不味くはなかった。気づけばジョッキを何杯も空け、体の内側からぽかぽかする不思議な感覚を味わいつつアパートまで帰ってきた手塚は、玄関の前に立つ人影を目にしたとき、酔って幻覚でも見たのかと思った。
「ご機嫌じゃねえの、手塚」
 寒さで頬と鼻の頭を赤くした跡部が、玄関のドアに寄りかかるようにして立っている。
「どうしたんだ、突然。何しに来た?」
「あーん? 何って、お前の誕生日を祝いに来たに決まってんだろ?」
 跡部は手に提げていたワインバッグを持ち上げてみせた。
 玄関のドアを開けて、暖房をつける。手塚が食器を取りにキッチンへ向かうと、跡部は勝手知ったるといった様子でコートとマフラーを適当な椅子の背に掛けて、ソファに腰を下ろした。
「一言連絡しろ」
「サプライズって言葉知ってるか?」
 ワイングラスなどもちろん家にないので、ガラスコップと適当な皿を見繕ってローテーブルに置く。跡部は持ち込んだワインやつまみを袋から取り出しながら、ちらりと手塚のほうを見た。
「でも、嬉しかっただろ?」
 自信満々といった顔で言う。手塚はため息をついた後、小さく頷いた。跡部が持ってきたのは、手塚が生まれた年(つまり跡部が生まれた年でもある)に作られたワインだった。
「自分の誕生日に開けなかったのか?」
 つい三日前、一足先に二十歳になった跡部に問う。
「ああ、俺はもっと良いワイン開けたから。って、冗談だっつーの」
 手塚の顔を見て、跡部が笑う。
「お前と飲みたいから取っておいたんだよ。なんつーか、そういうのもたまには良いかと思って」
 少し照れくさそうに跡部は言った。胸がきゅうと痛くなって、手塚は咄嗟にテーブルの下で拳を握った。そんなことを言われたら、勘違いしそうになる。
 跡部とは中学の頃からの友人だった。少なくとも、跡部にとってはそうだったと思う。三年の夏の大会をきっかけに親しくなって以降、卒業した後もこうして時々遊びに来ては、テニスをしたり、とりとめのない雑談をしたりして帰っていく。そんな跡部のことを友人として見れなくなったのはいつからだろう。もしかしたら、気づかなかっただけで初めからそうだったのかも知れない。気持ちを伝えるつもりはない。告げてすべてを失うくらいなら、友人でもいいから傍にいて欲しかった。
 跡部はいつものようにケラケラと上機嫌に笑いながら、手塚のコップにワインを継ぎ足した。
「しかし、かなり飲んできたって言うわりには、ペース早いんじゃね? 結構強いのな」
「さあ、飲むのは初めてだから、よく分からない。でも、これは多分美味いと思う」
 手塚はまた一口ワインを飲んだ。ワインの良し悪しは分からないが、きっと上等なものなのだろう。
「ははっ、多分な」
 跡部は行儀悪くソファの上に片膝を立てた。伏し目がちにコップを見つめる目元に、睫毛の長い影が落ちている。わずかに開いた唇の隙間から、熱いため息が漏れる。
「まさか、こうして二十歳を祝って一緒に酒を飲むことになるなんてな。中学の頃は思ってもみなかったぜ」
 手の中のコップを揺らしながら跡部が言う。
「ああ、まったくだな」
「ずっとこうしていられたらいいのにな……」
 跡部は友人として言っているのだ。これからも友人同士、こうして酒を飲んだり、テニスをしたり、たまに馬鹿な遊びをしたりして過ごしていけたらと。頭では分かっているのに、気づいたときには跡部の目の前に立っていた。
「どうした? ……手塚?」
 硬い表情をした手塚を、跡部は訝しげに見上げている。
「跡部……」

 何度思い出そうとしても、記憶はそこでプツリと途切れている。
 しかし、この状況を見れば、あの後何が起きたのか馬鹿でも予想がつく。ちゃんと気持ちは伝えられたのだろうか。まさか、酔いに任せて無理やりなんてことは――。
 最悪の事態ばかりが頭をよぎり、冷や汗が浮かんでくる。そのとき、鼻にかかった声を上げて、跡部がわずかに身じろいだ。ピタリとその動きが止まる。手塚はカチコチに固まっていた体をどうにか動かして、腰に回していた腕をほどいた。跡部はくるりと向きを変えて、手塚と顔を合わせた。
「……はよ。気分は?」
 跡部は特に怒りも笑いもしていなかった。まるで普段通りなのが逆に奇異に映る。どう答えるべきか逡巡した後、手塚は素直に「頭が痛い」と答えた。
「水持ってきてやるよ」
 跡部は軽い口調でそう言うと、ベッドから起き上がった。白い素肌に太陽の光が当たって、輪郭が発光しているように見えた。
「待ってくれ」
 腕を掴んで引き止めると、跡部の体がビクリと強張った。
「その、昨日のことなんだが……。途中から記憶が飛んでいるのか、何も覚えていないんだ。俺は何かおかしなことを言ってなかったか?」
「自覚なかったのかよ? てめえの発言はいつも少しおかしいぜ」
 跡部は明らかに目を合わせようとしない。悪寒が走った。
「まさか……」
「まあ、酔えばだれでもやらかすことはある。あまり気に病むなよ、手塚。俺様も犬に噛まれたとでも思って忘れてやる」
 そう早口に言って、逃げるように立ち上がろうとするので、手塚はさっきよりも強く腕を引いた。不意を突かれたのか、跡部がベッドに倒れ込む。
「おいっ」
「忘れたなんて言わないでくれ。好きだ、跡部」
 ぎゅうと正面から抱きしめる。ハッと息を呑む音がした。
「ずっと好きだった。無理やり抱いたうえに覚えていないなんて最低だと思う。でも、俺はお前が」
「抱かれてねえが!?」
 跡部は声を裏返らせた。ぽかんと口を開けたまま、しばらく見つめ合ってしまった。跡部は一つ咳払いをした。
「てめえがゲロ吐いて服が汚れたから脱がせたんだよ。着替えはどこだって聞いても答えねえから、諦めてそのまま寝た」
 分かったか? 跡部は小さな子供に言い聞かせるように言った。慌てて頷く。
「つまり、抱いてないし、告白もしてないんだな?」
「んー。まあ、そうだな」
 跡部は明後日の方向を見ながら答えた。
「良かった……」
 手塚は枕に顔を埋めたが、すぐにガバッと起き上がった。
「待て。お前の前で吐いたのか?」
「ああ、そりゃ盛大にな。俺の服もまとめて洗濯機に入れといた」
 手塚は無言で固まった後、苦々しく顔を歪めた。
「醜態を晒したようだな……。それでも、本当にお前のことが好きなんだ」
 まるでそれしか言葉を知らないように繰り返す。積もり積もった思いが雪崩を起こしたように口から滑り落ちて止まらなかった。
「分かった分かった。もう嫌ってほど分かったから」
 跡部は手塚の顎に指をかけて上向かせると、唇を掠めとるように口づけた。
「俺も好きだよ。……水取ってくる」
 パッと立ち上がると、跡部はキッチンのほうへ足早に歩いて行った。手塚は呆然とその背中を見送った。頬をつねらなくても、今も頭の中で銅鑼を打ち鳴らすように響く頭痛が現実だと教えてくれている。もっとも、銅鑼ではなく鐘の音かも知れない。

  

37. コペルニクス的転回(360度)

 かじかむ指先でインターホンを押す。やはり手塚は留守だった。おおかた誕生祝いだとか言って、飲みに連れていかれたんだろう。
 これまでも、何かと理由をつけて手塚に会いに来ていた。優勝祝いだとか、美味い和食の店を見つけたとか、理由はなんでもよかった。手塚はいつも少し困ったような顔をしながら、跡部を家へ迎え入れた。そうやって何年も友人の皮を被りつつ、手塚にも自分にも嘘をついてきた。おそらくこれからも。
 今日だって、いないかもしれないと分かっていながら、こうしてドイツまでのこのこ来てしまった。来なくていいと言われるのが怖くて、連絡は出来なかった。手に提げたワインボトルが揺れる。何時間か分からないが、ここで待とうと思う。その間に頭も冷えるだろう。
 日付が変わる少し前になって、手塚は帰ってきた。いつも地面を踏みしめるようにまっすぐ歩く足取りは、どこか覚束なかった。
「ご機嫌じゃねえの、手塚」
 わざと冷やかすように言う。
「どうしたんだ、突然。何しに来た?」
 手塚は困惑したように言った。何気ない一言が胸に痛い。
「あーん? 何って、お前の誕生日を祝いに来たに決まってんだろ?」
 そう言って、これ見よがしに今日来た理由を掲げてみせた。
 手塚は何も言わずにキッチンへ向かい、食器の準備を始めた。この家に来て、ここに座っていろだとか声をかけられた試しがない。好きにしろということだろうと解釈してソファに腰を下ろした。
「一言連絡しろ」
 手塚は仏頂面でローテーブルの上にガラスコップと皿を置いた。
「サプライズって言葉知ってるか?」
 怒っているわけではないはずだと、ワインボトルを取り出しながら手塚の様子を窺う。
「でも、嬉しかっただろ?」
 なるべく軽口に聞こえるように確認すると、手塚はため息をついたものの、小さく頷いてみせた。それだけで心が浮き立ってニヤついてしまう。
 ボトルのラベルを見せて生まれ年のワインだと言うと、手塚は驚いた顔をした。
「自分の誕生日に開けなかったのか?」
 実を言えば、跡部の二十歳のお祝いとしてイギリスの祖父から贈られたワインだった。「大切な人と一緒に飲みなさい」と言って。そんなこと、目の前の男に教えてやるつもりなど毛頭なかったが。
「ああ、俺はもっと良いワイン開けたから。って、冗談だっつーの」
 手塚のムッとしたような顔を見て、思わず笑う。
「お前と飲みたいから取っておいたんだよ。なんつーか、そういうのもたまには良いかと思って」
 自分で言っておきながら、らしくもないと自嘲する。
「しかし、かなり飲んできたって言うわりには、ペース早いんじゃね? 結構強いのな」
 手塚はビールと同じ感覚でいるのか、水のようにワインを喉に流し込んでいく。
「さあ、飲むのは初めてだから、よく分からない。でも、これは多分美味いと思う」
「ははっ、多分な」
 手塚は不思議そうにコップの中を覗いている。眉の力が抜けた表情は、心なしかあどけなく映った。
「まさか、こうして二十歳を祝って一緒に酒を飲むことになるなんてな。中学の頃は思ってもみなかったぜ」
 感慨深く呟く。きっと、これが幸せなのだと。
「ああ、まったくだな」
「ずっとこうしていられたらいいのにな……」
 妙に長い沈黙があった。そんなに可笑しなことを言っただろうか、と顔を上げると、まるで今から人を殺しに行くような顔をして、手塚が目の前に立っていた。
「どうした? ……手塚?」
「跡部……、吐きそうだ」
 よく見れば、手塚の顔は真っ青だった。
「ああん!? ちょっと待て!」
 何か袋を、と跡部は慌てて立ち上がったが一足遅かった。手塚が立ったままだったせいもあって、吐いたものが手塚の服はもちろん、跡部のほうにまで跳ねている。
「座ってろ。まだ吐くなら袋にしろ。いいな?」
 跡部がその辺にあったビニール袋を手渡すと、手塚は弱々しく頷いた。
 ひとまずキッチンへ行ってコップに水を入れて戻ると、また少し吐いたらしい手塚の背中をさすりながら水を飲ませ、口をゆすがせた。妙に生真面目なところがあるから、酒場でもここでも勧められるがまま飲んでしまったのだろう。まだ酒の飲み方も知らないのだ。ペースを考えてやればよかった、と跡部は少し後悔した。
「着替えたほうがいいな。脱げるか?」
「脱げない……」
 手塚はぐったりと目を閉じたまま言った。まるででっかい幼児だなと思いつつ、バンザイをさせて上着を脱がせる。少しためらったものの、何を恥じらうことがある、と己を叱咤してズボンも脱がせた。飲みかけのワインボトルに栓をして冷蔵庫に入れた後、床を掃除し、ついでにテーブルの上も軽く片付ける。最後に自分の汚れた服を脱いで、手塚の分と一緒に軽くすすいだ後、洗濯機に放り込んだ。乾燥機能付きだから、朝には乾いているだろう。
「おい、手塚。着替えどこだ?」
 ベッドに寝かせていた手塚に尋ねる。「こっちだ」と呻き声がした。
「いや、どこだよ」
 暖房がついているとは言え、十月の真夜中にパンツ一枚である。鳥肌の立つ腕をさすりながら手塚の顔を覗き込むと、いきなりベッドに引きずり込まれた。
「なっ」
「こうしてくっついていれば、あたたかいだろ……」
 手塚は酔っ払いとは思えない力で跡部を後ろから抱きしめた。引き剥がそうにも腰に回された腕はびくともしない。手塚の少し早い鼓動が背中から伝わってきて、頭がどうにかなりそうだった。
「放せよ、マジで」
 発した声は情けなく震えていた。もう限界だ。
「好きだ、跡部」
 幻聴かと思った。手塚の熱い息が首筋にかかる。
「好きだ。好きなんだ」
 何度も何度もうわ言のように繰り返す。酔っ払いの冗談にしてはあまりにも重い、絞り出すような声だった。信じられなかった。ただ、同じくらい強く信じていたかった。
「そういうのは、素面のときに言いやがれ」
 跡部が呟く。どうせ聞こえてないだろうと思ったのに、意外にも手塚は「素面のときなら聞いてくれるのか?」と返事を返した。顔を見ようにも、相変わらず抱き枕よろしく抱え込まれていて、身動きが取れない。
「ああ、聞く。聞くから、今は大人しく寝ろ」
「分かった。朝になったら、もう一度言うからな」
 そう素直に答えると、手塚はすぐに寝息を立て始めた。
「……この状態で寝れるわけねえだろ、バーカ」
 特大のため息をついた後、跡部は諦めたように目を閉じた。

  

38. 夢

 校庭をぐるりと囲むように植えられた桜の木は、満開の時期を過ぎて後は散るばかりだった。柔らかな雨のように降り注ぐ花びらが、歩道を淡いピンクに染めている。校門の手前で送迎の車を降りたところ、前方に見知った後ろ姿を見つけた。
「よっ」
 駆け足で近づいて、追い抜きざまに背中を叩く。
「跡部か。脅かすな」
 手塚は立ち止まりもせずに言った。いつもの仏頂面もグレーのブレザーのおかげか、なんとなく柔らかく見える。
「そういうのは驚いた顔してから言えよ」
 教室までの短い距離を並んで歩く。芸術の選択科目を何にするか決めたか尋ねると、手塚は何の迷いもなく「書道」と答えた。音楽にするつもりだった跡部は、少しがっかりした。これが唯一、同じ教室で授業を受けられる可能性のある科目だった。だからと言って、事前に聞いたところで、相手の科目に合わせる気などさらさらないのだが。
 二限目と三限目の間の休み時間、移動教室のために手塚が教室の前を通りがかった。いたずら半分に手を振ってみたところ、律儀に振り返されてしまい、仕掛けたこっちが恥ずかしくなって目を逸らす羽目になった。
 昼食は手塚が外で食べようと言うので、中庭の日当たりのいいベンチで弁当を広げた。手塚の弁当は母親の手作りらしく、卵焼きやアジのフライ、ピーマンの炒め物なんかが彩りよく盛り付けられている。一点、ウインナーがカニやタコの形をしているのには手塚も閉口していた。男子高校生の弁当にしては、いささか可愛すぎるとでも思っているのだろう。外で食べたがったのも、これをクラスの連中に見られたくなかったのかも知れない。
 櫓を漕ぐようにゆっくりと時間は進んだ。帰りのホームルームが終わると、手塚が教室にやってきた。プリントを二枚持っている。
「明日から仮入部期間だろう。どうせ入部するなら一緒に出さないか?」
 手塚はそう言って、そのうちの一枚を跡部に差し出した。
「入部届?」
 跡部はポケットに手を入れたまま、一番上の文字を読み上げた。
「何の?」
「跡部、その冗談は面白くないぞ」
 手塚はどこか呆れたように言った。
「テニス部に決まっているだろう。同じ高校に入ったんだ。二人で全国優勝を目指そうと決めたじゃないか」
 ガラスの砕ける音がした。跡部はその瞬間、すべてを理解した。夢だ。なんて都合のいい!
 跡部は体をくの字に曲げて大声で笑った。
「馬鹿げたこと言ってんじゃねえよ。俺の知ってる手塚はとっくにプロになってるぜ。でも、そうだな……、こいつは受け取っておいてやるよ」
 跡部は手塚の手から引き抜くようにして、ぺらぺらの用紙を奪い取った。そのとき、夢の中のアイツはどんな顔をしていただろう。

 ベッドの上で目を覚ました後も、跡部はしばらく大声で笑っていた。起こしにきたミカエルが、昨晩何か悪いものでも食べたのかと心配するほどだった。
「坊ちゃま、お荷物の中に、坊ちゃまのお好きな石鹸やシャンプーなどを詰めておきましたのでお使いください。それから、タオルも今回は多めに入れております。それから」
「分かった分かった。何か足りないものがあったら連絡するし、なくても連絡する」
 跡部が苦笑しながら答えると、ようやくミカエルは口を閉じた。
 去年のプレW杯でのヤツとの試合がなければ、ここに自分はいなかっただろうと断言できる。その選択が正しかったのかは今でも分からない。それでも、あの夢を見たのがイギリスの自宅のベッドの上だったなら、きっとあんなに笑えなかった。
 思い出しても当分笑えそうだ。俺と手塚が同じチームだなんて。そんなつまらない冗談、こっちから願い下げだ。
「ミカエル、留守を頼む」
「いってらっしゃいませ、景吾坊ちゃま」
 またこの季節がやってきた。庭に植えられた桜の木は、燃えるような紅色に染まっている。今日から二度目となるU-17の合宿が始まる。

  

39. パーソナルスペース

「最近、距離近うない? お前と手塚」
 風呂場の脱衣所で一緒になった忍足が軽い口調で言う。跡部は「はあ?」と素っ頓狂な声を上げた。
「どういう意味だよ」
「言葉通りやけど。ちゅうか、手塚がお前に近づきすぎちゃうかと思うて」
 跡部は合宿に参加してからのことを思い返してみた。目が悪いせいか、跡部が掲示物などを見ているときに横から声をかけてくることは度々あったが、距離が近いかどうかなど気にしたこともなかった。
「ジローなんていつも飛びかかってくるぜ?」
「それはジローやからな。手塚が飛びついてくるのとは訳が違うやろ」
 そんなことを言うものだから、ジローみたいに背中にぶら下がってくる手塚をまともに想像してしまった。
「ははっ、そりゃ怖ぇな」
「だーかーらー、そういう話やなくて。パーソナルスペースってあるやろ? 例えばな」
 そう言って、忍足は一歩跡部に近づいた。元々隣で服を脱いでいたので、顔と顔との距離が一気に三十センチほどに縮まる。跡部は反射的に半歩後ろに下がった。
「な? これが普通やろ。それが手塚相手やと距離感バグってんねん」
「そうか?」
「ちょっと気にしてみ。めっちゃ近いから。あれは相当懐いとるわ」
「懐くねえ……。あいつに限って、そんなことねえと思うがな」

 翌日もストレッチの後、サーキットトレーニングから練習が始まった。ようやく折り返しを過ぎた頃、跡部が前方に張り出されたトレーニングメニューを確認していると、ふと背後に人の立つ気配がした。
「跡部、次は何だ?」
 振り返ると、跡部の肩に顎が乗せられそうな位置に手塚が立っている。
「あ? あー、短距離ダッシュだな」
「じゃあ、移動するか」
 そう言うと、手塚はスタスタと先に歩き出した。跡部はふいに昨日の忍足の言葉を思い出した。たしかに近いと言えば近いかも知れない。
 休憩時間、跡部がベンチに座って休んでいると、手塚がやってきて、跡部の座っている位置から拳二つ分くらいのところに腰を下ろした。ベンチは丸々空いているのに、だ。視界に入れつつも特に声をかけずにいると、手塚は黙ってドリンクを飲み始めた。跡部はなんだか楽しくなってきた。野生の生き物が好奇心を隠しつつ、恐る恐る近づいてくるのに似ている。
「なあ、近くね?」
 我慢できなくなった跡部がニヤニヤしながら言うと、手塚の動きがピタリと止まった。失敗した、と跡部は思った。
「そう、だな」
 手塚は俯きがちに呟くと、跡部が座っているのとは逆の方向へずるりと移動した。大きく開いた空間を、冷たい風が吹き抜けていく。跡部は小さく身震いした。
「別に離れろとは言ってねえだろ。寒いから寄れよ」
 跡部はなるべく素っ気なく聞こえるように言った。手塚はパッと顔を上げると、何か言いたそうに口を開けて、結局何も言わずに跡部のほうへまたずるっと移動した。今度はさっきよりも近い。二人の間には、もう指一本くらいしか入りそうにない。だから近いっつーの、と思ったものの、跡部がそれを口に出すことはなかった。今更ながら、この距離感が妙に心地よいことに気づいてしまったので。

  

40. 夕立

 打ち始める前から空はどんよりと曇っていたが、こんなに早く降り出すとは予想外だった。ポツリと雨粒が一つコートに落ちたかと思うと、あっという間に本降りになった。残念だが今日はここまでということにして、ラケットやボールをバッグにしまう。
「手塚、傘持ってきてるか?」
 跡部は屋根付きのベンチから暗い空を見上げた。雨は当分止みそうにない。
「いいや。この後どうする? 家に来るか?」
「行く」
 跡部はパッと立ち上がった。
「なら、どこかで傘を買って――」
「買いに行くまでに濡れるだろ。家まで走ろうぜ」
「まあまあ距離があるぞ」
 手塚がバッグを肩に掛けつつ言うと、跡部はニヤッと笑って、
「競争な!」
 言うが早いか、雨の中に躍り出た。手を抜く気などないらしい。肩に掛けたラケットバッグをものともせず、トップスピードで駆けていく。手塚は一瞬呆気にとられたものの、遅れを取らないようすぐさま走りだした。
 雨粒が強く肌を打つ。眼鏡についた水滴のおかげで視界は最悪だ。前方の金色の頭を追いかけて走る。しばらくすると、急に跡部のペースが落ちて横並びになった。見れば、跡部は笑っていた。雨に濡れた髪の毛を、額に、頬に張り付けて、子供のように笑っていた。目が合って、手塚も釣られるように笑った。笑い声は地面を叩きつける雨音に紛れて消えた。
 結局、笑い過ぎたせいでまったく勝負にならなかった。脇腹を押さえて、ぜえぜえと荒い息をつきながら玄関の前に立つ。ドアを開けると、ちょうど廊下を通りがかった母が、濡れ鼠になった二人を見て目を剥いた。
「ははっ、狭っ」
 揃って押し込まれた脱衣所は、跡部の家と違って一人用の広さしかない。ずっと笑っていたせいで止め方を忘れてしまったのだろうか、跡部は濡れて肌に張り付いた服を剥ぎ取るように脱ぎながら、まだ笑っている。ぐしょぐしょに濡れた下着も靴下もすべてカゴの中に放り投げて、浴室に飛び込む。
「唇、青くなってるぜ」
 シャワーのコックを捻る手塚を覗き込みながら跡部は言った。そう言う跡部の唇も同じようなものだった。
「それなら、お前が温めてくれ」
 頭上のシャワーヘッドからは四十度の雨が降り注ぐ。跡部は手塚の首に腕を回すと、冷えた唇を押し当てた。冷たいキスは、やがて体温よりもシャワーよりも熱くなる。その刹那に永遠を感じた。

  

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