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41. 指輪

 駅前の正面にある商業ビルの壁面に、一辺が数メートルはある巨大な広告が貼り出されていた。ジュエリーブランドの広告らしい。彩度を落とした色調の中、淡い髪色のモデルの顔が大きくプリントされた、シンプルだがインパクトのあるポスターだ。表情を隠すように顔の前に掲げられた左手には、おおぶりなシルバーのリングが光っている。指の隙間から覗く意志の強そうな青い瞳がまっすぐ正面を見据える。
 通りがかった人の多くが歩調をゆるめ、広告を仰ぎ見ていた。SNSにでも上げるつもりなのだろう、スマホで写真を撮っている人もいる。
「あのリングかわいいー。どこのブランド?」
「ちょっと待って、今調べてる。あ、今月リリースのニューブランドだって」
「モデルの子めっちゃ美人~! なんて名前だろ」
「男の子だよね?」
「そうだと思うけど……。あ、でもサイズはユニセックスらしいよ」
 周りでは、目まぐるしい速さで情報交換が行われている。手塚は改めて広告を見上げた。写真のモデルから妙な親近感を感じるのはどういうわけだろう。そこで手塚ははたと思い出した。跡部が新しくアクセサリーのブランドを立ち上げると言っていたのも、ちょうど今の時期ではなかっただろうか。嫌な予感がする。あのポーズも異常に馴染みがある気がする。
「広告に穴でも開けるつもりか?」
 後ろから耳に息を吹きかけるように声を掛けられて、手塚は瞬時に振り返った。薄い色のついたサングラスをかけて、跡部は愉快そうに笑っている。
「その熱視線は本物に向けて欲しいもんだな」
「やはりお前か」
 手塚が呆れたように言うと、跡部はこれ見よがしにポスターそっくりのポーズを決めてみせた。

 手塚に指輪を渡してから二カ月が経った。失くしたという報告こそ受けていないが、実際に身に着けているかは今のところ不明だ。元々アクセサリーを着ける習慣もなさそうだった。押し付けるように持って帰らせたのは、今回売り出した中でも特に跡部が気に入っているデザインだった。その辺に転がっている石ころみたいな潔ささえ感じる武骨さが、どこか手塚らしいと思ったのだ。
 跡部は今しがた買ってきたばかりの雑誌を手に取った。若い女性向けの情報誌だ。今月号の若手アスリート特集とやらに手塚が載っているらしい。ちなみに本人からは「絶対見るな」と言われている。そんなこと言われて見ないバカがいたら教えて欲しい。
「人のこと言えねえだろ」
 跡部はくつくつと笑いながらページをめくった。スタイリストが用意した衣装を着込んだ手塚は、まるで本物のモデルのようだった。いつもの取り澄ましたような無表情すら、それらしさに一役買っている。インタビュー記事には、優等生の模範解答のような味も素っ気もない回答が並んでいる。最後のページまで来てふと手が止まった。写真に写り込んだ手塚の右手の薬指に、例の指輪が嵌まっている。身に着けている洋服にはシャツやズボン、靴下に至るまでブランド名が書かれている中、リングの横に並ぶ「私物」の二文字に思わず笑みが浮かんだ。
 今度、正式にモデルのオファーを出してやろうか。おそらくすぐに却下されるだろう提案を思い浮かべつつ、ひとまず記事の感想を本人に伝えるべく、スマホを手に取った。

  

42. 百億の男

 赤茶けたレンガ造りの建物が立ち並ぶ一角に、目的のギャラリーはあった。ニューヨークはチェルシー地区。数百ものギャラリーがひしめくアートの聖地。昼間は観光客の多いこの一帯も、夜更けともなれば静かなものだった。しんと冷えた十二月の空気に背中を押されるように、手塚は扉を開けた。
 途端、目に飛び込んでくる鮮やかな色、色、色。巨大なマッチ箱の内部のような空間に、特大のキャンバスがいくつも並んでいる。部屋の中央には、それこそ天井を突き破りそうなほど高さのあるものから、花瓶ほどの大きさまで、大小さまざまな彫刻がリズミカルに配置されている。
「いらっしゃーい」
 彫刻の裏側から間延びした声が聞こえた。マフラーを緩めながら近づくと、芥川は床の上にあぐらをかいて座っていた。作業着なのか、服のあちこちに絵の具がこびりついている。
「跡部から連絡がいっていると思うが、今日は代理で来た。個展開催おめでとう」
 明日から始まる芥川の個展を前に、もともと二人で訪ねる予定だったのを、急なトラブルで仕事を抜けられそうにないと言うワーカホリックの代わりに、手塚一人でやってきたのだ。跡部が事前に手配していた花束を差し出すと、芥川は「よいしょ」という掛け声とともに腰を上げた。受け取った花に顔を埋めて匂いを嗅ぐ。真冬にも関わらず黄色いひまわりをメインにあしらった豪快な花束は、目の前の男によく似合っていた。
「ありがと」
 ニッと歯を見せて芥川が笑う。
「跡部も会期中には必ず寄ると言っていた」
「うん、俺も撤収まではこの近くにいるつもり。寝てるかもだけど。そんときは出るまでケータイ鳴らしてって伝えて」
「承知した。……見ていっても?」
「どーぞ」
 昔からあいつには抜きん出たセンスがあった、と跡部はよく言っていた。跡部の個人宅には、数年前に購入した芥川の絵がリビングの一番目立つところに飾られている。
 芥川の作品は、人物をモチーフにしたものがメインのようだった。鮮やかな色彩で描かれた、躍動感を感じさせる生き生きとした動きや表情が、見る者の目を惹きつける。彫刻など今にも呼吸を始めそうだ。
 ギャラリーの一角には、作家の簡単な来歴とともに何点か素描が置かれていた。手塚はそのうちの一つに目を留めた。学生時代のスケッチという説明のついた、テニスをする人物の鉛筆描きのデッサンだ。顔の細部まで描き込まれているわけではない。それでも、彼を知る者ならば、一目で誰をモデルに描いたか分かるものだった。今にも風を切るテニスボールの音が聞こえてきそうな、鋭くも美しい跡部のテニスが、白いクロッキー帳の上に切り取られていた。
「芥川、ここの絵はみんな売り物なのか?」
 手塚は、花束を手に提げたまま、ぶらぶらと部屋の中をうろついている芥川に問いかけた。
「そうだよー。展示が終わるまでは置いてるけど、売れたらお嫁に行く予定。欲しいのあったらオマケしたげるよ、友達価格ってことで」
 芸術家というよりは、まるきり商売人みたいな顔で言う。だが、手塚がどの絵を見ているのか分かると、芥川は急に表情を変えた。
「やっぱやーめた。お前には売らない」
「言い値で買うぞ?」
「えー? じゃあ一億」
 手塚は少し驚いたように目を見開いた後、唇に手を当てた。「一億……、一億か……」と小さな声で呟く。
「あーっ! ダメダメ! やっぱ十億! じゃなくて百億!」
 手塚から本気の気配を感じ取ったのか、芥川は矢継ぎ早に値段を吊り上げた。手塚もさすがにそこまでは手が届かない。
「そうか、交渉決裂だな」
「他のなら売ってもいいよ?」
「こういうのは跡部のほうが詳しいからな。アイツに任せる」
 手元の腕時計に目を落とせば、もうすぐ日を跨ぐところだった。祝いに一杯奢るという手塚の申し出を「明日朝一で挨拶しなきゃだし」と断ると、芥川は一人ギャラリーに残った。展示の最終チェックを終え、戸締りを確認し、ふと足を止める。
「本物が傍にいるんだからイイじゃんね」
 芥川は苦笑いしながら百億の男に語りかけた。

  

43. 日記

 はじまりがそうであったように、終わりもまた突然にやってきた。
 他に好きな人が出来た。もう好きではなくなった。そもそも好きだと思ったのは間違いだった。別れる理由はいろいろと想定していたが、こういう終わり方もあるのかと、跡部はそのときになって初めて知った。
 手塚が事故にあった。車との衝突事故だった。病院から電話を受けた跡部は着の身着のままタクシーに飛び乗った。手塚の自宅から病院までの道のりは長くとも二十分ほどだったが、体感では数時間にも感じられた。容体についての話はなかった。バラバラになった手塚の身体がアスファルトの上に散らばっているさまを想像して、今朝食べたものを全部戻しそうになった。
 そうして駆け込んだ病院で、奇跡的にかすり傷程度だと医者から聞かされたときには、場違いにも笑い出しそうになった。どれだけ幸運な男なのだろう。車のスピードがそこまで出ていなかったのと、受け身が上手く取れていたおかげではないかと言う。ただ、頭を打っているので、意識が回復したら念のため検査を行なうことになった。
 白い病室の白いベッドで、頭に包帯を巻いた手塚は静かに眠っている。
「早く目ぇ覚ませよ、バーカ」
 跡部は大きな欠伸を漏らした。昨夜はこいつのせいで寝不足だった。すっかり安堵したのもあって、跡部はベッド脇の椅子に腰掛けたまま釣られるように眠りに落ちていった。

「……跡部?」
 手塚の声がして、一気に意識が覚醒する。困惑したように辺りを見回す手塚を見て、跡部は胸を撫で下ろした。
「病院だよ。今朝、コートに行く途中で車とぶつかったの覚えてるか?」
「車と!?」
 手塚はすぐさま体を起こすと、体に掛けられていたシーツを剥ぎとった。両手両足が正常に動くことを確認し、安堵のため息をつく。慌てて動いたせいで痛むのか、頭に手を当てて顔を顰めている。
「医者呼んでくる。頭打ってるから、念のため検査するんだと」
「ああ……。ところで跡部、今日はどうしてこっちに来ているんだ? お前と何か約束していたか?」
 どうやらここ半年ほどの記憶が綺麗さっぱり飛んでしまったらしい。様々な検査を経て得られた結論を、跡部は淡々と受け入れた。ちょうど付き合い始めた頃からなのは、偶然ではなく必然だと思った。
 降って湧いたような告白を受けたその日から、常にこの関係が辿りつく終着点の存在を意識していた。手塚の好意を信じないわけではなかったが、それが永久に続くものだと純粋に信じられるほど盲目ではなかった。そのせいか、跡部の頭には手塚の記憶が回復するのを待とうとか、その手助けをしようなどという考えは欠片も浮かばなかった。まるで最初から何もなかったかのような、こんなにも綺麗な終わり方があると言うのなら、それが一番望ましい終焉のようにさえ感じられた。
 そこからの行動は早かった。入院に必要なものを持ってきてやる、と適当な言い訳をして病院を出ると、手塚の家へ戻り、泊まるときのために置いていた着替えや洗面用具、買い足した食器などを処分して、自分がこの空間に存在していた痕跡をすべて消した。まるで犯罪者みたいだな、と自分の手際の良さに少し笑った。
 なにか見落としはないかと部屋を見て回っているとき、ふと寝室の奥にある書き物机が目に留まった。眠る前、手塚はそこに座って欠かさず日記をつけていた。その背中を思い出した瞬間、跡部はハッとした。机の引き出しを開け、中に入っていた日記の日付を確認する。一番新しい一冊を手に取り、ゴミ袋に入れようとしたところで、ふと手が止まった。魔が差したとでも言うのだろうか。悩んだ末、跡部は日記を自分の鞄に押し込んで家を出た。

 その後も、手塚との関係は良好だった。もともと半年前までは、手塚からそういう意味で好かれているなんて感じたこともなかったのだ。単なる腐れ縁じみた友人に戻っただけだった。
 事故からひと月ほどして再会したとき、手塚は使っていた日記がなくなったことを跡部に話した。
「いつも引き出しに入れていたから、失くすはずがないんだが……」
「へえ、お前でも物を失くしたりするんだな」
 跡部が茶化すように言うと、手塚はむっつりと黙り込んでしまった。
 記憶がなくなったことで、その期間の練習が無駄になったのではないかと手塚は危惧していたが、体に染みついたものがそう簡単に消えることはなかった。各地で行なわれるトーナメントに変わりなく出場している姿をテレビなどで目にすると、やはりこれで良かったのだと思えた。

 その日、跡部は鞄に入れたまま放置していた手塚の日記に初めて手を伸ばした。付き合っている間だって、一度も読みたいとは思わなかった。そもそも人に読ませるために書いたものではないのだから、今からする行為には後ろめたさがつきまとった。それでも跡部は意を決してページを開いた。気が済むまで読んだら、今度こそ処分してしまおうと心に決めていた。
 今日の出来事、練習メニュー、食べたもの。しらけそうなほど実直に書かれた日々の記録の中に、跡部が恐れ、微かに期待していたものがあった。
『跡部が洗面所に歯ブラシを置いて帰っていった。また来るという約束のようで嬉しい』
 電話で話した内容、一緒に出掛けた場所、跡部のちょっとした癖や仕草、性質の悪い冗談まで。取るに足らない小さな出来事と手塚の短い感想が、いくつもいくつも続いている。読み進めていくうちに、急に視力が落ちたみたいに日記の文字がぼやけて読めなくなった。紙の上にポタポタと水滴が落ちてきて、やっと自分が泣いているのに気づく。一度気づいたら止まらなかった。嗚咽を上げて泣いたのなんて、子供のとき以来だった。確かにそこに愛があったのだと、もう戻らない過去を書きとめた日記がうるさいくらい静かに訴えていた。
 捨てられないと思った。日記と同じように捨てられないこの想いを抱えて、これからも生きていくのだと思った。
 ようやく涙が枯れる頃、部屋の中にインターホンの音が響いた。跡部は居留守を決めこんだ。しかし、いつまで経ってもインターホンは鳴りやまない。とうとうカチンときて、いったいどこのどいつだとエントランスのカメラをオンにした瞬間、跡部は息を呑んだ。腕組みをした手塚が、ドアの前で仁王立ちしている。こちらの声が聞こえるわけでもないのに、跡部は両手で口を覆って息を殺した。しばらくすると、手塚はカメラをひと睨みして、ドアの前から立ち去った。
 ずるずると壁に凭れながら床にしゃがみ込む。心臓はいまだに挙動不審な動きをしている。大きく深呼吸を繰り返す。やっと呼吸が整ってきた頃、ふと顔を上げた跡部は、今度こそ悲鳴を上げた。バルコニーの柵をよじ登ってきた手塚と、窓越しに目が合ったのだ。ほぼほぼホラー映画だった。咄嗟に部屋から逃げ出そうとしたが、窓ガラスを素手で割ってでも追って来そうな手塚の表情を思い出して、ぎりぎりで踏みとどまった。ゆっくりと窓に近づき、鍵を開ける。
「……ここ、何階だと思ってんだ」
「意外と簡単に登れたぞ。セキュリティーが甘いんじゃないか」
 手塚は部屋に入る前に、窓のサッシのところで靴を脱いだ。
「律儀な強盗だな……」
 手塚は跡部の顔をじっと見つめた。多分誤魔化しようがないほど酷い顔をしている。
「泣いていたのか?」
「俺様だって、一人で泣きたい日もある。で? ここまでするとは、どういう用件だよ」  
「人を強盗呼ばわりするが、勝手に日記を持ち出すのは窃盗じゃないのか?」
 床に落ちた日記を目にするなり、跡部は舌打ちした。泣きすぎて頭がガンガンする中、どうやってしらを切り通そうか考える。
「お前は詰めが甘いな」
 手塚はふと表情を和らげた。
「日記が一冊消えたくらいで、お前への気持ちがなくなるとでも?」
 手塚はバッグの中から古びた日記を取り出してみせた。表紙の日付は中学か高校のときのものだ。
「こっちはこれだけ年季が入ってるんだ。甘く見るなよ」
 跡部は目を皿のようにして、手塚と日記を見比べた。枯れたと思っていた涙がまたボロボロと溢れてくる。
「お前は犯罪者にはなれそうにないな」
「てめえ、は、素質がありすぎて、怖え、よぉ!」
 とうとうしゃくり上げて泣き出した跡部を胸に抱いて、手塚は声を出して笑った。

  

44. 弱点

 最初はたまたま肘が当たっただけだった。手塚が消しゴムを取ろうと手を伸ばした際、跡部の脇腹あたりを掠めたのだ。手塚は咄嗟に謝ろうとした開いた口を開けたまま、素っ頓狂な悲鳴を上げた跡部をまじまじと見つめた。
「……悪い」
 気まずかったのか、逆に跡部が謝ってきた。手塚の肘の当たったところを庇うように押さえている。
「……そんなに痛かったか?」
「いや、脇腹が弱いんだ」
 跡部はそう言って目を逸らした。弱いというのはくすぐったいという意味か。途端に試してみたくなって、手塚は無防備な反対側の腰の辺りを軽くつついた。期待通り大げさな声を上げて、跡部の身体がびくりと跳ねる。
「手塚てめえ……」
 両腕を体に巻きつけて守るように身を屈めたまま、跡部は苦々しげな声を出した。
「思わぬ弱点を晒したな、跡部」
 文章題も切りのいいところまで来たし、今日はこれで終わりにしておこう。手塚は新しいおもちゃを見つけたような気持ちで跡部を見下ろした。一拍あって、跡部はソファから素早く立ち上がった。そのまま脱兎のごとく逃げようとした跡部の腰を後ろから掴む。途端、空気の抜けた風船みたいに跡部はソファの上に倒れこんだ。
「やめろやめろ、ハハハ! マジで、はっ、怒っ、あはははっ!」
 怒りながら笑うという器用な真似をしながら、跡部は必死に身をよじった。蹴り飛ばそうとジタバタ動く足を膝で押さえつけ、容赦なく脇腹をくすぐる。最初こそ手塚の手を引き剥がそうと躍起になっていたが、笑いすぎて力が入らないのか、すぐに防戦一方になった。
 手塚が触れるだけで面白いように体が跳ねる。脇腹が弱いと言っていたが、背中も脇の下も首筋も全部弱いようだった。何分くらいそうしていただろうか、いつの間にか跡部の声は随分小さくなっていた。あんまり楽しいので、ついやりすぎてしまった。
「大丈夫か?」
 ボサボサになった髪を掻き分けて跡部の表情を窺う。目に飛び込んできたのは、真っ赤に紅潮した顔と涙の浮かぶ瞳。うっすら開いた口からは絶えず荒い息が漏れている。身を守るように体を丸めたまま、跡部は声もなく手塚を見上げていた。手塚は見えない誰かに背筋を撫でられたような気がした。
 跡部の上からサッと体をどけて、「トイレに行ってくる」とだけ言って部屋を出た。数メートル進んだところで廊下の壁に寄り掛かる。
「嘘だろう……」
 ありえないと思いながら、あの瞬間、間違いなく跡部に欲情していた。早鐘を打つ心臓はいまだに静まりそうにない。驚きのあまり飛び出してきてしまったが、どんな顔をして部屋に戻ればいいのだろう。ひとまず頭を冷やそうと、跡部の部屋から一番遠いトイレを探しに行くことにした。

  

45. バラ

 一瞬、入浴剤を入れすぎたのかと思った。真っ白なバスタブに張られた湯の上に、深紅の花びらがぎっしりと浮かんでいる。いわゆるバラ風呂だ。浴室にはバラの香気が充満していた。跡部はさっそく花びらの中に埋もれている。
「入らねえの?」
 手塚は意を決して体を湯舟に浸した。
「いい趣味をしている」
「お褒めに与り恐悦至極」
 手塚の嫌味を気にするでもなく、跡部はバスタブの縁に腕をかけ、その上に頭を乗せると、リラックスしたように目を閉じた。恐ろしく馴染んだ光景だったが、自分がその一部になっているのを俯瞰すると、うすら寒いものがある。バラ風呂が似合う男なんてそうそういない。
 肌に張り付いてくる花びらが妙に気になる。手塚は自分の足や腕にくっついた花びらを剥がしては、意趣返しのように跡部の肩や背中に貼りつけていった。跡部は一度だけ片目を開けて手塚を見たが、またすぐに目を閉じてしまった。
「バラの煮物になりそうだ」
 指でつまんだ花びらに鼻を近づけて、手塚が言う。
「なんか不味そうだな」
 どんな料理を想像したのか、跡部は顔を顰めつつ笑った。
 いよいよ跡部の肌に貼るところがなくなってしまい、手塚は思いついたように頬の上に花びらを乗せた。これにはさすがの跡部も顔を上げた。それをいいことに、腕で隠れていた反対側の頬にも花びらを貼る。
「面白いか?」
 両頬に真っ赤な丸い花弁をつけたまま、跡部が訝しそうに言った。
「ああ、面白いぞ。おかめみたいで」
 言い終わらないうちに、手塚の顔面めがけて跡部は水鉄砲を打った。

  

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