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46. ウイスキーボンボン

 今日のお茶請けはチョコレートだった。跡部の家で出てくるものは、どんな小さなものであれ一分の隙もないように見える。大きなプレートの上には、色も形も様々な一口大のチョコレートが並んでいる。艶々としたチョコはまるで一つ一つが精巧に作られた芸術品のようで、触れるのが躊躇われるくらいだ。手塚は目についた一つを指でつまみ口に入れた。薄い表面が砕け、中からとろりとした甘い液体が舌の上に流れ落ちてくる。なんともいい匂いがする。内側のサリサリとした砂糖の食感も面白い。手塚はすっかり気に入って、そればかりを選んで食べた。
 それから半刻ほどして、ようやく跡部が現れた。
「悪い、待たせたな」
 跡部が習い事やなんやで遅れるときには、本を読んで時間を潰していることが多いが、手塚は出された菓子を口に運んでいるところだった。
「遅い」
 手塚はパクリと茶色い塊を口に入れて、眉を吊り上げた。跡部は少し驚いて手塚を凝視した。こんなことで怒るとは、虫の居所でも悪いのだろうか。
「悪かったって。機嫌直せよ」
 跡部は手塚のすぐ隣に腰を下ろした。すると手塚はあろうことか、跡部の肩にぐりぐりと額を押し付け、「寂しかった」と呟いたのだ。跡部は石のように体を強張らせながら、どうにか首だけ動かして手塚のつむじを見下ろした。これは重病かも知れない。すぐさま肩から手塚の頭を引き剥がし、額に手を当ててみる。よく見れば、額どころか顔全体がうっすら赤くなっている。
「熱あるんじゃねえの……?」
 ぼんやりとした表情を浮かべる手塚の肩越しに、テーブルに置かれたチョコレートが目に入った。大皿の一角だけが綺麗に無くなっている。一つだけ残っているのは、跡部の記憶が確かなら、
「ウイスキーボンボン?」
 手塚はゆっくりと瞬きした。
「美味しかったぞ」
 跡部のひんやりとした手が気持ちがいいのか、手塚は目を閉じて言った。どうやらチョコに入っていた洋酒で酔っぱらってしまったらしい。可愛らしいところもあるものだ、と跡部は笑った。
「食い過ぎだ。今日はもうおしまいな」
 途端、手塚はパッと目を開けた。
「あと一個あっただろう」
「意外と食い意地張ってるのな、お前。これ以上酔っぱらわれても困る。親御さんに何て言やいいんだよ」
「酔っていないから平気だ」
 そう言う間にも、手塚の手はプレートに伸びている。跡部は人を呼んで皿を下げさせるか一瞬悩んで、こっちのほうが早いか、と最後の一つを自分の口の中に放り込んだ。手塚の動きが止まる。勝ち誇った顔をした跡部の頬を、手塚が両手で掴んだ。あ、と思ったときには親指を口の中にねじ込まれて、こじ開けられた咥内に手塚の舌が入り込んでいた。舌の上のチョコレートを手塚がかっ攫おうとする。苦肉の策で、跡部は舌でチョコを押しつぶした。ウイスキーの匂いが鼻に抜ける。手塚はムッと眉を寄せたが、砕けた欠片を探すように跡部の口の中を荒らしていく。上顎から頬と奥歯の付け根まで、ガサ入れでもするような乱雑さでなぞられて、とうとう跡部もブチ切れた。身勝手な舌を前歯で強めに噛んでやる。手塚がわずかに怯んだうちに、肩をぐいと押して距離を取った。飲み込んだ唾液は、やはり甘たるかった。まだ物欲しそうにしている手塚を睨みつけ、荒い息をつきながら、跡部は唇の端から垂れた唾液をぐいと拭って宣言した。
「てめえは、金輪際、ウイスキーボンボン禁止だ!」

  

47. ハサミさん

 ぴりっとした痛みが指先に走った。どうやら紙で切ったらしい。
「跡部、絆創膏持ってないか?」
「あるぜ」
 跡部はすぐにポーチの中から絆創膏を一枚取り出した。
「おてて出しな」
 いつものようにどこか高慢な態度で跡部が言う。何かおかしなものを聞いた気がしたが、手塚は黙って手を差し出した。跡部はなぜか苦虫を噛み潰したような顔をしながら手塚の掌に絆創膏を押しつけると、何も言わずに再び自分の課題に取り掛かった。
 さっきのやりとりを忘れかけた頃、ふと跡部が顔を上げた。
「手塚、ハサミさんあるか?」
「ハサミさん」
「ハサミ」
 今まさに難しい手術に挑まんとする外科医のような顔つきで跡部は繰り返した。手塚がハサミを手渡す。跡部は一旦は受け取ったものの、すぐに机の上にハサミを置いて、両手で顔を覆った。あー、と手の下から長い呻き声が聞こえる。
「どうかしたのか?」
「今週、職場体験だったんだよ」
 この一週間、幼稚園で手伝いをしてきたのだと言う。よりにもよってなぜ幼稚園を選んだのか、手塚はむしろそちらのほうが気になったのだが、要は周りの先生たちがそういう言葉遣いだったので、聞いているうちに移ってしまったらしい。
「今日、部活でもやっちまって。後輩からは『バブみを感じる』とか訳分かんねえこと言われるし……」
 自分の発言なのに思い通りにならないというのが余程ショックだったのか、跡部は見たことがないくらい落ち込んでいる。
「そうか……。よしよし」
 項垂れた頭を撫でてやると、跡部はそのまま机に突っ伏してしまった。
「てめえまで真似しなくていいんだよ……」

  

48. インサイト・インサイド

 昔から表情の乏しい子だと言われていた。感情が顔に出ない子だと。一度、心配になった両親が小児科の先生に相談したところ、「性格だね。どっしりしているだけでしょう」と一笑されたらしい。それからは、小さな変化も見落とさないようにしていたら、だんだん何を考えてるのか分かるようになったのよね。アルバムの写真を整理しながら母は言った。
 学校やクラブでも度々同じことを言われたが、特にそれで困ることはなかった。伝えるべきことは最低限言葉にしているつもりだったし、愚痴を言い合ったりだとか、新しく買ってもらったおもちゃを自慢げに話したりだとか、そういう経験や感情をわざわざ共有することに特別な意味を見出せなかった。
 最近になって初めて、そういう性分のせいで困ることが出てきた。自分とは真逆なほど多弁で表情豊かな男と親しくなってからだ。母と同じくらい正確にこちらの考えを読み取る男は、おそらく人一倍機微に聡いのだろうと思う。
 テレビ画面を見つめる横顔。少し眠くなってきたのか、伏し目がちな目元に長い睫毛がうっすらと影を落としている。ふと、視線に気付いた跡部がこちらを向いた。
「何考えてるか当ててやろうか」
 にやりと唇の端を吊り上げて笑う。心臓が跳ねた。まさか伝わったのだろうか。胸の底に溜まった決して綺麗なだけではない感情が。今にもその唇に食らいつきたいと荒れ狂う衝動が。跡部はパチンと指を弾いた。すぐさまノックの音がして、扉から執事が顔を出す。
「ミカエル、夜食の準備を頼む。軽くでいい」
 扉から目線を戻して、跡部が微笑んだ。
「腹が空いたって顔してたぜ」
 当たらずとも遠からずといったところだった。手塚は生返事を返しながら、テレビを見る振りをして視線を逸らした。これまでの経験値の低さが仇となった。いまだにこの感情を共有するタイミングを恐々と計っている。

  

49. アンバー

 合宿初日の大浴場は大騒ぎだった。到着早々行なわれた振るい落としで少しは人数が減ったものの、百五十人もいれば共有スペースである食堂や浴室はなかなか混雑する。特に入浴の時間は被りやすいらしく、コート別に大まかな枠が決められていた。中学生はもちろんみんな同じ時間帯だ。
 広い湯舟にはしゃいで泳ぎ出そうとする者、打ち水で修行ごっこを始める者。髪が濡れて誰なのか分からなくなっている者、生えてるだの生えてないだのと下品な話題で優劣をつけようとする者。何十人もの声が浴室に反響してとにかく騒々しい。跡部は少しうんざりしながら持ってきた石鹸に手を伸ばした。と、右側に座っていた人物と手がぶつかった。
「すまない」
 隣を向けば、手塚が髪を洗っている最中で、シャンプーかコンディショナーを探しているようだった。
「シャンプー?」
「リンスを」
 備え付けのもので良いのだろう。跡部はシャワーの前に並ぶボトルのラベルを見て、目的のものを渡してやった。
「ありがとう」
 ガシガシと髪をすすぎ終わると、手塚は蛇口を捻ってシャワーを止めた。顔を上げた手塚を見てドキッとした。釣り目ぎみのキリリとした目元は、前髪から落ちてくる水滴のせいか、単に視力が悪いせいか、いつも以上に細められて鋭さを増している。琥珀色の瞳はどこか猛禽類を思わせた。
「跡部か」
「まったく、ガキばっかだな。風呂くらい静かに入りたいぜ」
「同感だ」
 眼鏡を外したところを初めて見たせいだ、こんなに胸が騒ぐのは。心の中でつまらない言い訳をしながら、跡部はシャワーのコックを捻った。周りが煩くて良かった。このやかましい鼓動の音も、隣までは届かないだろうから。

  

50. 美しい右手

 指が長いなと思った。節の目立たないすらりとした指だ。整えられた爪は、何を塗っているわけでもないのに艶々とした光沢がある。
 一見、何の苦労も知らないような手だ。しかし、傷一つなさそうな白い手の内側の、その実、ざらりとした硬い感触を知っている。あちこちに出来た肉刺は、会うたびに血を滲ませては治ってを繰り返す。そうして新しい傷が治るたび、その皮膚は前よりほんの少し厚くなり、また少しだけ強くなれる。そう信じながら、俺たちはみなテニスをする。彼の手は、俺の目には特別美しく映る。
 相手のラケットを弾き飛ばすほどの強烈なスマッシュを打つ手は、時に優雅にフォークとナイフを持ち、ノートにさらさらと文字を綴り、ピアノの鍵盤の上を踊るように動く。俺の頬を撫で、髪を漉き、どこまでも甘やかす。
 もう少しだけ近くで見たくて、膝に置かれていた手を掴んだ。人差し指がぴくりと動く。なめらかな爪の表面から、指の輪郭をなぞり、筋張った手の甲へ。滑らせた指をそのまま掌側に回して、顔の高さまで手首を持ち上げてみる。ふと、右手越しに目が合った。跡部は口をへの字に曲げて、耳まで真っ赤にしている。
「何だよ」
 ぶっきらぼうに跡部が言う。返事の代わりに目の前の手の甲に口づけを落とした。

  

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