51. もこもこ
軽く水気を取っただけの素肌にバスローブを羽織って浴室を出る。跡部はベッドの方を見るなり、湧き上がってくる笑いを堪えながら言った。
「よく似合ってるじゃねえの、手塚」
手塚は腕組みをしてベッドに腰かけていた。神経質そうな指が腕を叩いている。
「なんだこれは」
手塚は、まるで自分が着ているものを少しも視界に入れたくないとでもいうかのように、跡部をまっすぐ見つめて問いかけた。手塚が不満を訴えている「これ」とは、今着せられている寝巻のことだ。もこもことした素材がぬいぐるみを彷彿とさせる、淡い色のパジャマだった。
驚くほど似合わねえな、と内心で思いつつ、それも織り込み済みで置いておいたのだから、跡部としては満足だった。
「貰ったけど着てなかったから、ちょうどいいと思って出してやったんだよ。何か文句あるか?」
「大ありだ。貰いものなら、お前が着るべきだろう」
「ほーう、人から貰ったもんを、これ見よがしにお前の前で着てもいいって?」
手塚はグッと言葉に詰まった。
「……誰から?」
「先輩」
跡部はそれだけ言って、手塚の出方を窺うように目を細めた。もの言いたげな顔をしたものの、手塚は結局何も言わず、僅かに開いていた口を閉じた。
勝負あったな、と跡部は鼻を鳴らして手塚の前に立った。肩に置いた掌を腕へと滑らせる。なるほど、安眠は期待出来そうにないが、見た目通りの触り心地だ。
「ははっ、これは抱きつきたくなるな」
手塚はしかめっ面のまま、黙って跡部の腰を引き寄せた。
52. こたつの魔力
「もう少ししゃんと出来ないのか、跡部」
「誰のせいだと思ってやがる。てめえのせいで、俺様の身体は駄目になっちまった」
跡部は悩ましげな吐息を漏らすと、ついにはテーブルに頬を乗せて突っ伏してしまった。手塚は呆れたように跡部のつむじを見下ろした。
「コイツがなきゃ、もう生きていけないかも知れねえ。手塚ぁ、どうしてくれんだよ」
「大げさな奴だな。そんなに気に入ったのか?」
「ああ……」
うっとりと目を閉じたまま、跡部は言った。
「最高だな、こたつって」
手塚はテーブルの真ん中にみかんを盛ったカゴを置くと、ぬくぬくと肩までこたつ布団に潜っている跡部の向かいに座った。家に来て初めてこたつに遭遇してからというもの、跡部はずっとこの調子だ。寒さには強いはずだが、それとこれとは話が違うらしい。
「家にも欲しいな。一台買うか」
「あの家のどこに置くつもりだ」
煌びやかな宮殿のような邸宅を思い出しつつ、手塚が言う。
「まずは畳敷きの和室を作るところからか……」
跡部はたまにこういう本気か冗談か分からない言い方をする。
「わざわざそんなことしなくても、恋しくなったら家に来ればいいだろう」
手塚はみかんの皮を剥きながら言った。跡部がわずかに頭を上げる。
「それってこたつだけの話か?」
「さあな」
にやにや笑う跡部の足をこたつの中で小突いてやった。
53. 勘違い
テニスコートからの帰り道、空腹に耐えかねてコンビニに寄った。夕食前に買い食いもどうかと思ったが、育ち盛りの食べ盛りである。もちろん夕食も完食するつもりだ。跡部はしばらく物珍しそうに店内をうろついていたが、最終的に手塚に倣ってスチーマ―の中の中華まんを一つ買った。
「お前も買い食いとかするんだな」
跡部は歩きながら、まだ熱い包みを開いた。白い湯気が上がる。
「あまりしないが、今日はよく動いたからな。お前こそ、コンビニで買い物するとは思わなかった」
「馬鹿にしてんのか?」
「してないが?」
同じく肉まんの包みを開けながら、手塚が不思議そうに言い返す。跡部は出鼻を挫かれたような気がして、黙ってピザまんに齧りついた。これははたしてピザなのか何なのか。跡部は口の中のものを形容する言葉を真剣に探すあまり黙り込んでしまった。
「不味いのか?」
眉間に皺を寄せている跡部を見て、手塚が尋ねる。
「あーん……」
跡部はまだ考え込みながら手塚のほうを向いて、そこで余計に謎が増えた。手塚がぽかんと口を開けて跡部のほうを見ている。べつに顎が外れたというわけでは無さそうだが。
跡部は手塚の顔をじっと見て、たった今自分が口にした言葉を頭の中で反芻して、それから手元のピザまんに目を落とした。どんな勘違いだよ。跡部は面白いので訂正はせず、手塚の顔の前に食べかけのピザまんを突きつけた。手塚は遠慮する素振りすらなく一口齧っていった。
「俺は悪くないと思うが。いらないなら貰ってやろうか?」
「やらねえよ、バーカ」
それからふと思い立って、跡部は自分も口を開けて待ってみることにした。
54. 炎
部室の入り口からノックの音がした。正レギュラー用の部室だ。利用する資格のある者ならカードキーを持っている。ノックするとしたら、準レギュラー以下の部員か教師かもしくは。
「はい」
「その声、跡部か? OBの△△だけど。開けてくんない?」
二つ上の元テニス部員だった。跡部は逡巡した後、内側からドアを開けた。
「どうかしました? △△先輩」
跡部が名前を呼ぶと、男は嬉しそうに笑った。
「いや、大した用じゃないんだけど。今、跡部一人?」
「ええ」
跡部は入力途中のパソコンに目をやった。男は「懐かしいー」と言いながら室内を見回している。二年前の夏の大会直前に準レギュラーに降格したのだから、そんなに懐かしがるものがあるとも思えないのだが。全国大会での健闘を称えられても、なんの感慨も湧かなかった。早く残った作業を終えて帰りたかったが、用件を切り出されないまま話はずるずる続く。
「そういや、俺、こないだ彼女出来たんだ。でも、すぐ別れちゃった」
男は当たり障りのない会話のフリをして言った。
「なんでだと思う?」
本題はこれだと直感した。遠回りな話し方も、体の上を這うような視線も、すべてが不快だった。
「さあ?」
「お前のことが忘れられなかったから」
予想していたのにゾッと悪寒がして、跡部は咄嗟に後ろ手でテーブルの端を掴んで堪えた。
「ずっと好きだったんだ。女と付き合ったら忘れられるかと思ったけど、逆に跡部のことが好きなんだって思い知った」
「俺は先輩の気持ちには応えられません」
跡部は正面に立つ男の目を見て、きっぱりと言った。
「それって、俺が男だから?」
「逆に、先輩は俺が男だから好きなんですか?」
跡部はわざとそう問い返した。男は虚を突かれたような顔をして、それから自虐にも似た笑みを浮かべた。
「お前のせいでおかしくなっちゃったんだよ。お前に会うまでは、ちゃんと女の子が好きだったのに」
「それで? 俺に責任を取れとでも?」
跡部は嘲るように言った。テーブルを掴む指先に力を篭めるあまり、腕が震えた。
「……聞いてくれてありがとう、跡部。おかげで、ちゃんとお前のこと諦められそうだよ」
表情を見ればそれが嘘であることは明白だったが、跡部は何も言わなかった。最後に名残り惜しげに跡部を一瞥して、男は部室を出て行った。オートロックの閉まる音がして、跡部はその場にしゃがみ込んだ。どの面下げて言えたことか。男と話している間も、頭にあったのはただ一人。
「てめえだけは好きになってくれるな、手塚……」
ネットを挟んで対峙したときの、こちらを焼き切らんばかりの眼差しを思い出す。そのままこの想いまで真っ黒に焦げついてしまえばいいのに、胸の奥に灯った炎は未だ消えることなく赤々と燃えている。これが愛なのか何なのかは分からない。ただただ相手に伝わらないことだけを祈っている。
「お前のせいで、か」
もしも手塚、お前に同じことを言われたなら、炎に巻かれて俺はきっと呼吸の仕方も分からなくなる。
55. ヘアーサロン
「手塚、てめえ何度言ったら分かるんだ?」
うつらうつらしていたところに声がかかった。手塚はベッドから頭を起こすこともなく、薄目を開けて跡部を見上げた。
「その話、明日じゃ駄目か?」
欠伸が出る。眼鏡は外していたものの、跡部がさらに眉を吊り上げたのは分かった。
「その濡れた頭をどうにかしろって話だよ。枕までびちゃびちゃじゃねえか」
「心配するな、朝には乾く」
手塚は跡部が入れるよう、掛け布団を少しめくった。その手に乗るかというように、跡部はベッドサイドに仁王立ちしている。
「禿げるぞ」
「うちは禿げない家系だから安心してくれ」
「ハッ、てめえが禿げても俺様の知ったこっちゃねえがな」
「禿げても好きだって?」
「まあな。……って、違う!」
跡部がベッドを殴る。衝撃はスプリングに吸収されて手塚まで届かなかった。手塚は吐息を零すように笑って、そのまま本当に寝入ってしまった。
「この野郎……」
跡部はしばらく手塚の寝顔を見下ろしていたが、ふと格好の悪戯を閃いて、密かにメイドを呼びつけた。
なんだかいつもより頭が重い気がする。そのうえ、まるで弱い力で四方八方から髪を引っ張られているかのように頭皮がチクチクする。手塚はベッドから体を起こすと、自分の頭に手をやった。
「なんだ、これは」
髪全体が何本にも分けて編まれている。手塚は毛先を止めているゴム紐の一つを無造作に引っ張った。力任せに引っ張ったせいで、何本か髪の毛まで一緒に抜けた。
「おい、マジで禿げるぞ」
いつから起きていたのか、跡部は枕に顔を半分埋めてニヤニヤ笑っている。手塚は実行犯であろう相手をじとりと睨みつけた。
「取ってやるよ」
跡部はパッと起き上がると、手塚の髪に括りつけてあったゴム紐を手際よく外していった。最後に編み目をほぐすように髪に指を通す。
「ふっ、ははっ、上出来じゃねえの!」
跡部の会心の笑みを見て、手塚は壁に掛かった鏡を恐る恐る覗きこんだ。いつもはピンと伸びた直毛が、パーマでもかけたようにふわふわと波打っている。
「なんてことしてくれるんだ……」
「誰かさんがすぐ寝ちまったせいで、暇してたもんでな」
跡部は飄々と答えた。結局、頑固なウェーブは櫛を通したくらいではどうにもならず、シャワーを浴びる時間もなかった手塚は、そのままバスに乗って朝練へと向かった。
「部長! どうしたんすか、その髪!」
部員たちの物問いたげな視線を代弁するように、桃城が大声を上げた。手塚は威嚇するような目つきで振り返った。
「何かおかしなところでもあるか?」
「えっ、いやいや! オシャレだな~と思って。どこの美容院っすか? なーんて」
桃城がへらりと笑う。手塚は一拍置いて口を開いた。
「……跡部のところだ」
「へ~、跡部さんと同じとこっすか。そりゃまた高そうっすね~!」
「そうだな、思ったより高くついた」
手塚は緩くカールした前髪をつまんで、苦々しげにそう零した。