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56. 誘導尋問

「これで何人目だ、あーん?」
 跡部は小さな耐熱性のグラスに、適温に冷ました湯を注ぎながら言った。半分まで注いだところで焼酎を加える。
「数えてない」
 手塚は分かりやすい嘘をついた。過去の試合の流れをすべて諳んじられるほど記憶力のいい男が、短期間とはいえ付き合った相手を忘れるわけがない。
「昔のお前からは想像できねえな。言い寄ってくる女を取っ替え引っ替えとは」
「俺だって、ちゃんと相手は選んでる」
 手塚は受け取ったグラスに手を添えただけで、口をつけようとはしなかった。跡部は自分のグラスを手に取りつつ鼻で笑った。手塚の眉がぴくりと動く。
「何か文句でも?」
「友人として忠告してやるがな、手塚。そんなこと繰り返してると、いつか週刊誌に売り飛ばされるか、最悪、後ろから刺されるぞ。俺はてめえのベッド事情なんて聞きたくねえし、テニス以外で怪我したなんてのも許さねえからな」
「不誠実なことはしていないつもりだ」
「じゃあ、その顔はどうしたんだよ」
 跡部はグラスを傾けつつ、いっそ見事なほどくっきりと手のひらの跡の残る頬を顎でしゃくった。手塚が家を訪ねてきたときから気になっていたものの、食らった自分が一番よく分かっているだろうとあえて指摘しなかったのだが、どうも理解が足りないらしい。
「別れ話をしているとき、なんで別れたいのかと聞かれたから、他に好きな人がいると言ったら叩かれた」
「それのどこが誠実なんだよ……」
 跡部は思わず会ったこともない元恋人に同情した。手塚の実直そうな外面に騙される女のなんと多いことか。付き合っている間はどうか知らないが、これが本人の話通りなら、最悪の別れ文句だ。
「そいつのことが忘れられないから、似たような人を探してしまうんだろうな。それなのに実際付き合ってみると、似てないところばかり目につくんだ。あいつならこう言うだろうとか、こうするだろうとか……」
 何かを思い出すように手塚はゆっくりと語り出した。手塚がこんなふうに自分のことを話すのも珍しい。いつものごとく顔には出さないが、今回こそ堪えたのだろうか。それにしても、そんなふうに一途に思う相手がいたとは。跡部は突然ハッとしたような顔をした。
「お前の好きな人って……、まさか人妻じゃねえだろうな?」
「何を根拠にそんな」
「だって、要するに好きでも言えない相手なんだろ? それとも、もしかして、もうこの世に……?」
「勝手に殺すな」
 手塚は苛立たしげに眉を寄せた。
「だからお前には言いたくなかったんだ」
「悪い悪い、茶化してるわけじゃねえって」
 はあ、とため息をついて、手塚はグラスをテーブルに置いた。
「跡部。以前、俺がブロンドばかり選んでいると言ったよな」
「あ? ああ」
 手塚の歴代のガールフレンドは華のある金髪の美女ばかりで、手塚にそんな分かりやすい好みがあったとは、と一度からかったことがあった。
「言われて気づいた。つい目が行くんだ、金髪に」
 手塚は跡部のほうへ手を伸ばすと、ダークブロンドの髪を指で漉きながら言った。
「何故だと思う?」
 告白というより、まるで誘導尋問だ。手から滑り落ちたグラスが床に転がる音が、どこか遠く聞こえた。

  

57. コーヒーブレイク

「跡部くんのシフトは十八時までとなっております! 跡部くんのレジをご希望のお客様は、入り口向かって右手の列にお並びください! まもなく列を締め切ります! 通常オーダーのお客様は左手からお入りください!」
 コーヒーショップの入り口近くで、店員が声を張り上げている。店の外壁に沿うように並ぶ女性たちの長蛇の列は、遊園地のアトラクションを思い出させた。手塚は本能的に回れ右しようとする足をなんとか意志の力で動かして、列の最後尾に並んだ。通りを歩く人が、今日は何か特別な催しでもあるのかと不思議そうに通り過ぎていく。それから、入り口に置かれた小さな黒板の『中学生が職場体験を行なっています。あたたかく見守ってください』という文字を見て、納得したようなしていないような顔をしていた。
 もともと職場体験は十時から十五時までの予定だったが、噂を聞きつけた女性客が大挙して店に詰めかけたため、跡部だけ延長して対応することになったらしい。せっかくだからお前も来い、と言うので軽い気持ちで来てしまったが、最終日の今日は特に混みあっているようだった。手塚は先ほどから列の整理に奮闘している若い店員に無性に謝りたい気持ちになった。
 そもそも跡部がレジに立つだけで、なぜこんなに人が集まるのか。注文なんて誰が取っても同じじゃないか。
「跡部くんの友達?」
 ふと、件の店員から声がかかった。手塚は少し驚きつつ「はい」と答えた。
「ヤバイね、彼。この列すごくない?」
「すみません。ご迷惑をおかけします」
 手塚は謝罪の見本のようなお辞儀をした。店員は「全然全然」と笑いながら、顔の前で手を振った。
「勉強熱心だし気は回るし、このままずっとバイトに入ってほしいくらい。って、まだ中学生なんだよね、残念!」
 じゃあ楽しんで、と言い残して店員はまた列の整理に戻っていった。
 二十分ほどしてようやく店内に入れた。跡部は制服のカッターシャツの上に他の店員と同じエプロンを身につけていた。よそ行きの愛想のいい笑みを浮かべながら、手慣れた様子で注文を取りレジに打ち込む。なにか二言三言、言葉を交わすと、女子生徒たちはみな浮かれたような足取りで商品の受け取り口へ向かっていった。
 手塚の番になった。跡部は一瞬、いつものあの悪ぶった笑みを浮かべたが、すぐに他の客に向けていたのと同じ晴れやかな笑顔を作って言った。
「ご注文をどうぞ」
「おすすめのコーヒーをホットで」
 ろくにメニューも見ずに言う。
「コーヒー単品のご注文でしたら、エチオピアなどいかがでしょうか?」
「なら、それを」
 金額を読み上げた跡部に小銭を渡す。なんだか妙な感じだ。同じことを考えていたのか、目が合った瞬間、跡部が小さく吹き出した。列はまだまだ続いている。それ以外には特に会話らしい会話もないまま、手塚は受け取り口に向かった。ドリンクを用意するのは専門のスタッフらしく、手際よく大量の注文をさばいていく。その手の中のカップを見て、手塚はふと手書きの文字が書かれているのに気付いた。どうやら跡部が名前やメッセージを書いて渡しているらしい。一つ前にドリンクを受け取った客が「部屋に飾る!」と言いながら、友人とカップを見せ合っている。
 手塚は店内を見回したが、やはり満席のようだった。コーヒーを受け取り、店を出ようとして、ふとカップの側面に書かれた文字が目に入った。
『もうすぐ上がる。先に帰るなよ』
 他の客に読まれないようにだろう、わざわざドイツ語で走り書きされたメッセージを見て手塚は苦笑した。レジからは絶えず跡部の声が聞こえてくる。手塚は店を出て入り口から見える位置で足を止めると、酸味の強いコーヒーを一口飲んだ。

  

58. トリガー

 枕元で携帯が鳴っている。手塚は手探りで携帯を掴むと、眩いディスプレイをほとんど睨むような目つきで確認した。時刻は深夜一時を少し回ったところだった。発信者の名前から緊急の用件らしいと踏んで、すぐに電話に出る。
「どうした?」
「手塚っ! どうすればいい!? ついに出たんだ、ヤツが! もうここには住めねえ!」
 跡部は押し殺したような声で一気に捲し立てた。電話越しにも緊迫した空気が伝わってくる。手塚はベッドの上でゆっくりと身体を起こした。
「落ち着け。何があった?」
 最初に跡部から家を出ると聞いたときは、一人暮らしなど出来るのかと半信半疑だったが、周囲の心配もよそにこれまで大きなトラブルもなく平穏な生活を送っていた。家に上がったこともあるが、広い部屋はいつも整然と片付いていたし、セキュリティーも申し分ないように見えた。しかし今、電話口から聞こえる跡部の声はただごとではない。空き巣か強盗の類かと、手塚は携帯を握る手が汗ばむのを感じた。
「家に帰ってきて、寝室の電気をつけたらいたんだよ……。すぐにドア閉めたから一瞬しか見てねえけど、絶対アイツだ。初めて見た、あんな、でかい」
 跡部は語尾を震わせながら一度言葉を切った。ほとんど涙声だった。
「……ゴキブリ」
 手塚は十秒ほど黙想した。
「聞いてんのか、手塚ァ!」
「聞こえている。それで、お前は今どこにいるんだ?」
「リビング。ソファで寝ようかとも思ったけど、どっちみち寝室に入らねえと着替えも取れねえし……。なあ、どうすればいい、手塚」
 最初に比べれば声色は落ち着いてきたものの、いまだパニック状態にあるらしい。リビングを右往左往する跡部の姿が頭に浮かぶ。
「跡部、手元に新聞か雑誌はあるか?」
「あ、あるぜ?」
「家にはお前しかいないんだろう。なら、お前が殺すしかない。いいか、殺すときは前に回って狙え。後ろからだと空気の動きで勘づかれる。叩くときは躊躇するな。一発で仕留めろ」
 跡部は絶句した。それから、絞り出すような声で「出来るわけねえだろ……!」と呟いた。
「そうか。なら、一緒に住むか?」
 その言葉は驚くほど自然に口をついて出てきた。前から考えてはいたものの、今が切り出すタイミングのような気がしたのだ。こんなときに何言ってんだ、と怒鳴られる覚悟だったが、
「住む! 住もうぜ! いつにする!? 今から!?」
 跡部は一も二もなく承諾した。考える素振りすらなかった。手塚は思わず微笑んで言った。
「今、何時だと思ってるんだ」
「お前こそ、俺様を誰だと思ってんだ。今からプライベートジェット手配したら、数時間でそっちに着くぞ」
「そんなことが出来るなら、その人員をゴキブリ退治に呼んだらどうだ?」
 長い沈黙があった。
「……冴えてるじゃねえの、手塚」
「お前の頭が回っていないだけだろう」
 それからしばらくして、どうにか話がつきそうだと手塚が電話を切ろうとしたとき、跡部は慌てたように言った。
「あのな、別にゴキブリが怖いからってわけじゃねえから! 俺がお前と暮らしたいから、一緒に住むんだからな! そこんとこ誤解すんじゃねえぞ!」
 手塚の返事も聞かずに電話は切れた。手塚は枕元に携帯を戻して、再びベッドに横になった。なんならこの先ずっと専属で、ゴキブリ退治を請け負ってやってもいいと思いながら。

  

59. シロツメクサの約束

 会社に向かう車中、新聞をチェックしていた跡部は、ふとスポーツ欄の見出しに目を留めた。東京出身の十代のテニスプレイヤーがプロ転向を発表した、という小さな記事だった。その選手の名前を目にした瞬間、跡部の脳裏に懐かしい思い出が鮮やかに蘇った。
 中学二年の春、跡部は近隣の幼稚園で五日間ほど職場体験をすることになった。美術館や図書館といった身近な公共施設から、警察や消防、近所の商店街まで、選択肢は山のように用意されていたが、あえて自分が将来就くであろう仕事から一番遠そうなものを選んだ。単純にそのほうが面白そうだという直感からだったが、中学に上がるまで海外で暮らしていたので、日本の幼児教育がどんなものなのか純粋に興味もあった。
 迎えた初日、跡部が担当することになった年長クラスの五歳児たちは、とにかくパワフルだった。自己紹介を終えた途端、ものすごい数の質問攻めにあって、跡部は初っ端から面食らってしまった。
 自分の半分ほどの背丈の子供たちは、まだ拙い語彙を駆使してコミュニケーションを図ってくる。はじめのうちは様子を窺うように遠巻きにこちらを見ていた子も、いくらも経たないうちに人のことを遊具代わりにして遊びだした。こんな元気の塊を日々相手にしている先生たちに畏敬の念を抱きつつ、跡部はへとへとの状態で放課後の部活へと向かった。
 二日目ともなると、一人一人の性格も分かってきた。外遊びの時間、園庭の隅で一人ぼんやりしているのは「くにみつくん」だ。大人しくて積木遊びやお絵描きのほうが好きそうに見えるが、年長さんの中で一番足が速いのだと、隣の組の女の子がこっそり教えてくれた。(それに「いちばんかっこいい」らしい。)
「なに見てんだ?」
 跡部はくにみつの隣にしゃがみこんだ。
「はっぱ」
「変わった葉っぱでもあったか?」
 くにみつは首を横に振った。
「はやくテニスがしたいなあ、っておもってただけ」
 そう言って、またつまらなそうに足元の雑草に目を落とす。
「くにみつはテニスが好きなんだな。俺もテニスやってるぜ」
「ほんと?」
 くにみつは跡部を振り仰いだ。どうもテニスを習っている子が身近にいないらしい。話が分かる相手だと思われたのか、くにみつは急に饒舌になって、どの選手のプレーがかっこいいだとか、あんなショットを打ってみたいだとか、目をきらきらさせながら話し始めた。他の子が夢中になっている電車や恐竜なんかは二の次で、習い始めたばかりのテニスのことで頭がいっぱいのようだった。
「あとべくんは、どこのクラブにかよってるの? ちかい?」
「前は通ってたが、今は学校のテニス部だけだな」
「がっこうでテニスできるの? いいなあ、ようちえんでもできればいいのに」
 はあ、と物憂げにため息をつく姿に思わず笑ってしまう。
「……あとべくんのテニス、見てみたいな」
 地面を歩くアリの列を目で追いながら、ぽつりと言う。膝を抱えて小さく丸まった姿があんまり可愛かったので、跡部はつい「見に来るか?」と聞いてしまった。
「あっ、親御さんが良いと言えばだけどな」
 くにみつは弾かれたように立ち上がった。
「行く! ぜったい行くっ!」
 その後、幼稚園と学園、迎えに来た保護者の了承を得て、一部の園児とその保護者が放課後の練習を見学しに来ることになった。くにみつの大声を聞きつけて、他の子どもたちまで集まってきてしまったのだ。その日の練習は、二百人を超える部員の掛け声に園児たちの甲高い歓声が加わり、いつも以上に賑やかだった。
 その一件があってからというもの、随分くにみつに気に入られたらしい。残りの三日間は、何をするにも跡部の隣にべったりだった。一人っ子の跡部にとっては、まるで年の離れた弟が出来たようで、みんな平等に接しなければと思いつつ、ついついくにみつにばかり構いすぎてしまった。だから、あんなことになったのかも知れない。
 最終日の帰りの会の後、子供たちに囲まれて最後のお別れをしているとき、その輪の中にくにみつの姿がないことに気がついた。教室を見渡すと、くにみつは端のほうで俯いている。跡部はいつかのようにその隣にしゃがみこんだ。
「お前のおかげで楽しかったぜ。これからもテニスがんばれよ」
 そう言って頭を撫でると、くにみつはパッと顔を上げた。泣くのを堪えるように顔を真っ赤にしている。くにみつは覚悟を決めたような表情で跡部を見つめると、制服のポケットから何かを取り出して言った。
「あとべくん、すきです。ぼくとけっこんしてください」
 小さな手のひらの上には、シロツメクサの茎を結んで作った指輪が一つ乗っている。予想外の出来事に、跡部はぽかんと口を開けた。お昼ごはんの後、園庭に出たときにでも作ったのだろうか。ポケットに入れっぱなしだったせいか少し萎れている。跡部は壊さないようにそっと指輪を摘まむと、左手の薬指にはめてみた。大きなシロツメクサは、ダイヤモンドなら何カラットくらいになるだろう。
「ありがとう。大事にする」
 跡部は微笑みながら言った。くにみつは笑うのと泣くのを両方堪えているような顔をした。
「じゃあ、けっこんしてくれる?」
「そうだな……、くにみつが俺よりもテニスが強くなったら、考えてもいいぜ」
「やくそく! やくそくだよ!」
「ああ、約束する」
 希望を持たせるようなことを言うべきではないのかも知れない。そう思いつつ、幼い好意を無下にすることが出来なかった。子供の成長は早い。あと数カ月もすれば、きっと自分のことなど忘れてしまうに違いない。それなら、今だけでも喜ぶ顔が見たいと思ってしまった。
 あれからもう十年以上経つ。跡部はグループ会社の一つを任される立場になった。この記事の「手塚国光」があの「くにみつ」と同一人物なのか、小さな写真一枚では判断がつかなかったが、そうであればいいなと跡部は思った。そんな奇跡が一つくらいあってもいい。
 社長室の机に座り、パソコンを起動させる。上がってきた案件に目を通していると、内線が鳴った。
「跡部社長、受付に面会希望のお客様が来られています。アポは取られていないようなのですが、なんでも社長の古いお知り合いだと仰られておりまして……」
「珍しいな。どこの誰だって?」
「はい、テニスプレイヤーの手塚国光様とお伺いしております」

  

60. シロツメクサの約束 その後

 応接室の扉を開けた瞬間、ソファに座っていた青年は勢いよく立ち上がった。真新しいスーツを着て直立している姿は最終面接にやってきた就活生そっくりで、跡部は少し笑ってしまった。
「掛けてくれ」
 跡部はそう言って向かいのソファに腰を降ろした。テーブルの上にはコーヒーが手つかずのまま置かれている。跡部は改めて正面に座る青年の姿に目を細めた。身長は自分と同じくらいか、それより高いかも知れない。生真面目そうな表情。飾り気のない眼鏡は、彼の雰囲気に溶け込むように馴染んでいる。
「突然押しかけたにも関わらず、お時間いただきありがとうございます」
 落ち着いたバリトンが耳を打った。
「……俺のこと、覚えてらっしゃいますか?」
 不安を滲ませながら問う。跡部は相好を崩した。
「まだ少し信じられねえけどな。デカくなったな、国光。いや、手塚プロ?」
 手塚はわずかに目を見開いて、それから強張っていた表情をわずかに弛めた。
「跡部さんはお変わりないようで」
「そりゃ、幼稚園児と比べればな」
 さすがに中学生の頃に比べれば自分もそれ相応に年を重ねたはずだが、目の前の彼からは昔の面影を探し出すほうが難しかった。
「しかし、お前こそよく俺のこと覚えてたな。今日はどんな用件で? スポンサーでも探してんのか?」
 旧縁を頼って来たのだろう、と跡部は自分から話を切り出してやったのだが、手塚は「いえ、そういうわけでは」と歯切れ悪く言葉を濁した。
「なら、わざわざどうして?」
「それは……。跡部さん、俺と最後の日に約束したこと、覚えてますか?」
 手塚はまっすぐに跡部の目を見て言った。膝の上に置かれた握りこぶしに力が篭るのが見えた。
「ああ……、覚えてるぜ」
「その話をしに来たんです」
 跡部は一瞬、立ち眩みのような感覚に襲われた。どうも十数年前にうやむやにしたツケを払うときが来たらしい。
「手塚、今日の夜、時間あるか?」
「あります」
 なくても作るという勢いで手塚が頷く。
「七時にまた受付に寄ってくれ。プロになった祝いだ。美味いもん食わせてやるよ」

 馴染みのレストランのドアをくぐると、そのまま予約席に案内された。
 手塚は移動の車の中から言葉少なだった。今は椅子に腰かけて、黙ってメニューに目を落としている。今朝会ったときにも思ったが、年のわりには随分落ち着いている。
「俺のおごりだ。好きなもん選びな」
「ありがとうございます」
 手塚は顔を上げて会釈すると、また難しい顔をして黙り込んでしまった。そこに、ウエイターが飲み物のオーダーを取りにやってきた。
「俺は白を。お前は?」
 手塚は跡部を見て、それからウエイターに「同じものを」と言った。ウエイターが「かしこまりました」とメモを取ろうとする。
「待て待て。手塚、お前いくつになった?」
「この十月で十八になりました」
 跡部はウエイターの方を向くと、「グレープジュースを二つ」ときっぱりした口調で告げた。
「おいこら、未成年」
「ワインのことか……」
 手塚が小さく呟くのを聞いて、肩の力が抜けてしまった。見た目は大人だが、中身はそうでもないらしい。
 食事中はこれまでの空白を埋めるように話をした。手塚は饒舌とは言い難かったが、跡部の振った質問に一つ一つ自分の言葉で返すところが好ましく思えた。
「へえ、テニス部で部長を。中学から海外に出ても良かったんじゃねえの」
「小さいときから、中学ではテニス部に入ると決めていたので。跡部さんがそうだったように」
 そう言って、手塚は少しはにかむように微笑んだ。跡部は面映さを誤魔化すように首を振った。
「悪い見本になっちまったな」
「そんなことありません。部活を通して学んだことも多くあった。それになにより、あなたは俺の憧れだったから……」
 手塚は腹を括ったように居住まいを正した。
「跡部さん、あのときの約束はまだ有効ですか?」
 射るような眼差しが胸を刺す。今度こそうっかり絆されてしまわないよう、跡部はわずかに視線を逸らした。
「まだ十八だろ」
 手塚にというより、自分に向けて呟く。
「もう十八です。結婚だって出来る」
 跡部はギョッとして手塚の顔を凝視した。とても冗談を言っているようには見えないのが恐ろしい。
「今更結婚してくれなんて言いません。でも、子供だからという理由で拒絶しないで欲しい。ちゃんと俺のことを知ってから、答えを出して欲しいんです」
「それはつまり……、お友達からお願いします、ってやつか……?」
 口にした直後、跡部は盛大に後悔した。手塚は顔を真っ赤にしながら、こくりと頷いた。あー、駄目だ駄目だ。絶対駄目に決まってんだろ。
「と、友達なら……」
 跡部は慌てて自分の口を覆ったが、一度出た言葉が戻るはずもなかった。
「本当に?」
 きらきらと期待に輝く手塚の目を見て、跡部はなかば自棄になって頷いた。手塚は頬の熱を冷ますように手の甲を何度か当てた後、一つ空咳をしてから言った。
「では改めて。これからよろしく頼む、跡部」
「変わり身早えな……」
 記憶の中の愛らしい五歳児が、目の前の青年にアップデートされていくのを感じつつ、跡部は深いため息をついた。

  

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