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6. A Piece of Cake

「ユウくん、アタシのも一口食べてみて。はい、あ~ん♡」
「あ~ん♡」
 カフェテリアの一角では、いつものように新婚さんもびっくりな甘い空気を撒き散らす二人が、仲睦まじく互いのパフェを食べさせあっていた。最初こそ奇異なものを見る目をしていた他校の生徒も、練習中だろうが食事中だろうが四六時中この調子なので、今ではすっかり見慣れた光景としてスルーしている。もしくは、単に巻き込まれまいとしている。
「相変わらず仲がいいな、金色、一氏」
 紅茶とシフォンケーキの乗ったトレーを持った跡部は通りがかりにさらりと声をかけた。
「あら、跡部君。お茶の時間? アタシの隣、空いとるで~」
「小春! 俺の目の前で浮気か!」
 この流れでいけば、たいていの者が苦笑いしながら別の席を探すのだが、跡部は違った。
「邪魔でなければ、相席させてもらうぜ」
 一氏は「お、おう。俺はかまへんで」と若干ひるみながらも虚勢を張って言った。
「どんなイケメンやろうが、俺と小春の仲は引き裂けへんからな!」
「キャッ、はよ座って座って!」
 空いた椅子を引きながら金色が言う。跡部は礼を言って腰を下ろした。
「跡部君て、ホンマきれいな顔しとるなぁ」
 金色は頬に手を添えてほう、と感嘆の溜息をもらした。
「こ、小春ぅ~」
「でも残念。アタシの好みじゃないの。たとえどんなにブサイクでも、アタシにはユウくんしかおらへんっ!」
「小春~! ブサイクは余計や~!」
 パフェ越しに抱き合う二人を見て、跡部は肩をすくめるとティーポットから紅茶を注いだ。
「ほんと、羨ましいぜ」
 金色は一氏からパッと身体を離すと、椅子に座りなおした。
「跡部君。恋やな」
「あん?」
「恋、しとるんやろ?」
 ティーカップを傾ける跡部の腕に手を置いて、金色が小声で言う。「距離が近い!」と騒ぐ一氏を無視しながら。
「ユウくんは黙ってて! アタシの乙女心探知機がビンビン反応してるわ。しかも、相手は近くにおる。そうやろ?」
「……金色、お前占い師か?」
「アタシで良ければ相談に乗らしてもらうわ。お代は、そうやな、そのケーキ一口でええよ」
 金色はプレートの上のシフォンケーキを指差して言った。
「ずいぶん安いんだな」
「アタシは恋する乙女の味方やからね」
「俺は乙女じゃねえんだが」

 手塚と喧嘩をした。ちょっとした言葉の掛け違いが原因だったが、お互い譲歩するタイミングを逃して以降、二日も膠着状態が続いている。手塚は何も言わない。言ってこない。アイツが一氏くらい分かりやすく嫉妬や愛を口にするなら、あるいは状況は違っていたのだろうか。
「じゃ、跡部君。アタシが合図したら、打ち合わせ通りに」
「ああ」
 思考の海から浮き上がって、跡部は頷いた。こんな小芝居がうまくいくとは思わなかったが、気晴らしにはなるだろう。
「跡部きゅん~! もう~、うっかりさんなんやから。髪の毛に野菜スティックついとるで♡」
 そう言って、金色は跡部の耳にかかった人参を指でつまんで齧った。サクッと小気味良い音がして、一番にぎわう時間帯の食堂が凍り付いた。
「ありがとう。ああ、小春もあわてんぼうだな。おでこにナタデココついてるぞ」
 跡部は金色の額に張り付けてあったナタデココを手に取ると、一つ口に運んだ。二人が見つめあいながら微笑みを交わす。耐えきれず謙也が叫び声を上げた。
「信じられへん! あの跡部様が! ショートコント!」
「ひとまず、写真押さえますわ」
 財前はカメラを素早く連写モードに切り替えた。三つほど離れたテーブルでは、椅子に縛りつけられた一氏が滝のように涙を流しながらすすり泣いている。
「跡部クン、かっこええ上におもろいなんてズルいわ。いつの間に練習してん?」
 白石が笑いながら首を傾げた。
「あら、くらりん。アタシら前からズッ友よ?」
 金色が跡部の腕に腕を絡めて「ね?」と言う。跡部は「ああ、ズッ友だ」と意味を理解しないまま繰り返した。
「跡部様がズッ友て! ズッ友!」
「大丈夫すわ、先輩。録画も回してますんで」
 大笑いする謙也たちの後ろから、「面白くないな」と低い声がした。
「何が面白くないって? 嫌に厳しいじゃねえの、手塚」
 跡部は金色と組んだ腕に力を込めた。手塚はピクリと眉を寄せて言った。
「ああ、笑いには少し心得がある」
 謙也が「嘘やろ」と呟く。
「そりゃ、ぜひご教授いただきたいもんだな」
「そうか、ついてこい」
 手塚は食堂の出入り口に向かって歩き出した。跡部は金色のほうを振り返ると、口の動きだけで感謝を伝えた。
「お安い御用やで」
 金色が手を振りながら小声で応える。
「しかし手塚クン、即行で駄目出しとは笑いにシビアな男なんやなぁ」
「くらりんも西のイケメンとして気張らな。跡部君、筋がええからすぐ追い抜かされてまうで」
「小春ぅ~、そろそろ堪忍してくれ~」

  

7. 涙の理由

 その日は跡部の家のホームシアターで映画を見ていた。いわゆるスパイもので、アクションシーンの完成度はもちろん、話の筋も一風変わっていて面白いという評判だった。興味はあったものの上映期間を逃してそのまま忘れかけていたところ、ふとレンタルショップの棚で見つけて借りてきたのだ。
 跡部は最初こそ時々コメントを挟んでいたが、中盤からは黙って画面に集中しているようだった。部屋の立体音響は映画館と比べても遜色なく、手塚自身すっかり映画の世界に没入していたので、その時点では跡部の異変にはまったく気づかなかった。
「なかなか面白かったな」
 スクリーンにエンドロールが流れる中、隣を向いた手塚は目を見張った。跡部はクッションを胸に抱えて声もなく泣いていた。両目からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちていく。
「跡部、どうした……?」
どちらかと言うと感動するような内容ではなかったはずだが。若干戸惑いながら尋ねると、跡部は手塚のほうを向いて、まるで怒っているぞとアピールするようにギュッと眉を寄せた。
「聞いて、ない。犬が、死ぬなんて、聞いてないっ」
 跡部が言っているのは主人公の愛犬のことだ。スパイ活動中に何度も主人公の窮地を救い、時に場を和ませていた愛嬌のある小型犬で、よく躾けられた演技に手塚も感心していた。最後の銃撃戦の最中、主人公を守ろうと敵に襲いかかり命を落としてしまうシーンには胸が痛んだが、まさか跡部が泣くほどショックを受けているとは思ってもみなかった。そういえば、以前何かの折に、動物が死んだり、かわいそうな目に合ったりするのはフィクションだとしても苦手だと言っていた。
 エンドロールが終わっても、跡部の目からは壊れた蛇口のように涙が流れ続けている。
「跡部、あまり泣くと目が溶けるぞ」
「と、溶けねえよっ、バァーカ!」

「――と、しゃくり上げる跡部が、信じられないくらい可愛かったんだ……」
 手塚は噛み締めるように言った。それまで黙って話を聞いていた不二は、おもむろに口を開いた。
「で、せっかくの練習のない放課後にこうして呼び出された僕たちは、何が悲しくて君の惚気話を聞かされてるのかな?」
 部室に集められた三年レギュラー陣の気持ちを代弁した質問だった。その目が一切笑っていないことに手塚は気づいていないのか、「よく聞いてくれた」と言ってホワイトボードをひっくり返した。
「『一番泣ける動物映画』?」
 河村がホワイトボードの上のほうに書かれた文字を読み上げる。
「みんなの知恵を借りたい」
「手塚、それって、跡部の泣き顔を見たいから泣ける映画を教えてくれって、つまり、そういうこと……?」
「察しがいいな、河村。そういうことだ」
 手塚は至って真剣だった。大石は乾いた笑い声を上げている。
「跡部もヤバイ奴に捕まったにゃー」
と、菊丸は完全に他人事のように言った。
「それで、具体的に何本上げれば解放してもらえるんだい?」
 乾は話を進めることにして尋ねた。
「さしあたり、十ほど頼みたいんだが」
 それを聞いて、手塚以外の五人は諦めたように顔を見合わせた。
「順当なところで『フランダースの犬』とか?」
「『ハチ公物語』は泣けるって聞くけど」
「少し古いが『南極物語』は鉄板だぞ」
「犬縛りで無いなら、馬の話なんだけど――」
 後日、それらの映画を持参した手塚が、ラインナップを目にした瞬間、跡部に殴りかかられたのは言うまでもない。

  

8. 世界が目覚める前に

 夜明け前の静けさが好きだ。太陽が地平線から顔を覗かせる前のわずかな時間。壁掛け時計の針も、明るい日中に比べると、どこかとろとろと周回しているように見える。その穏やかさが好きだ。
 裸眼で見る世界の輪郭は曖昧にぼやけていて、窓ガラスでさえ硬さを失っている。寝室の空気は深い群青色をしている。シーツも枕カバーも同じ色の中に沈んでいる。
 その静寂の中で聞く、彼の健やかな寝息。規則正しく上下する胸郭の動き。吸って吐いてを繰り返す微かな空気の流れ。それらの小さな当たり前の事象をいつも、まるで奇跡を見るような気持ちで観測している。
 あたたかな朝日に照らされて、彼の金色の髪が、白い肌が、本来の色を取り戻す。その鮮やかな瞬間が好きだ。寝起きでぼんやりした彼の、すこし掠れた「おはよう」という声が好きだ。俺を見つめる青く凪いだ瞳が好きだ。
 窓ガラスの向こうで、微かにオートバイのエンジン音が聞こえる。もうすぐこの部屋にも朝がやってくる。一日の始まりに「おはよう」を言うために、シーツの上に寝転んだまま、世界が目覚めるのを待っている。

  

9. ミルクティー

 手塚がいれる紅茶はたいてい苦い。茶葉を蒸らす時間が長すぎるせいだ。何度言っても三分間が守れない。ポットの蓋を閉じた後、砂時計をひっくり返しても、考え事をしていたり別の作業を始めたりで、砂が落ち切ったのに気づかない。たまに砂時計をひっくり返すのすら忘れていることもある。キッチンタイマーを使えばいいのに、時間をセットするのが面倒だとか、ピピピと急き立てるような電子音が好きじゃないとか、往生際の悪いことばかり言って、いつもはぐらかしている。
 特別苦い紅茶が出来たとき、手塚は分かりやすく気まずそうな顔をする。茶葉をダメにしてしまったという自覚はあるらしい。それでも、紅茶に口をつけた後、「この渋みが良いんだ」と負け惜しみみたいなことを言って俺を笑わせる。緑茶じゃねえんだから渋くていいわけねえだろ。
「砂時計が落ち切ったときに、音が鳴ればいいと思わないか?」
 テーブルの向かいに座って手塚が言う。今日の紅茶は相当苦いらしい。
「音って、たとえばどんな?」
「そうだな……、小さい鈴か、風鈴みたいな音がいい。絶対売れると思うんだが」
 俺は「残念ながら、商才は無いようだな」と言って、ミルクピッチャーを手に取った。
 朝、紅茶の支度をするとき、手塚は極力、音を立てないように動く。食器がカチリとぶつかる音がキッチンから聞こえるたび、慌てふためくヤツの姿を想像して、俺はベッドの中で寝たふりをしながら笑いを噛み殺している。 
 渋みを誤魔化すために、温めた牛乳をいつもより多めにティーカップに注ぐ。この苦くて甘いミルクたっぷりの紅茶が、意外と嫌いじゃなかったりする。

  

10. ホークアイ

「マジで跡部様じゃん!」
「こんな一般人向けコートに現れるなんてな! いや~、目撃情報信じて良かった~!」
 コート脇の茂みの裏で、二人組の少年は小さくハイタッチをした。
「ほんと助かるぜ。氷帝に潜入なんてぜってー無理じゃん?」
 少年の一人はそう言いながらスマホを取り出した。
「おい、一応偵察って名目で来てんだからカメラ回せよ」
「一台で十分っしょ。録画はお前に任せた。俺はフォトグラファーの仕事に専念する」
「お前なぁ……。ったく、儲けは山分けだからな」
「あいあい」
 もう一人の少年はため息をつきつつ、ビデオカメラをコートに向けた。レンズの先では跡部が一人で準備運動をしている。しばらく撮影を続けていると、今度はコートの壁面を使って壁打ちを始めた。
「ありがとうございます! 本日のベストショットいただきました!」
「どれどれ? おっ、いいじゃん!」
「これは一枚千……いや、二千円は堅いね」
 スマホの画面を覗き込んでいた二人は、声をかけられるまで自分たちの後ろに立つ人影に気づかなかった。
「そんなにいい写真なら、俺にも見せてくれないか」
「はあ? 誰よ、お前」
 メンチを切りながら振り返った自称フォトグラファーの少年は、驚きのあまりその場に尻餅をついた。
「てててて手塚国光!?」
「たしかに、よく撮れているな」
 手塚は二人組の間にしゃがみ込んだ。ディスプレイには、テニスウェアを大きく捲って首から流れる汗を拭う跡部の写真が表示されていた。凛とした表情と、胸元から綺麗に割れた腹筋までが鮮明に写っている。
「へへ、だ、だろ? これなんて乳首までばっちり写ってるからポイント高いぜ」
「うちの学校にも跡部様のファン多いからさ、そいつらにいい値段で売れるんだよ」
 偵察にかこつけて盗撮の真似事をしていようと、曲がりなりにもテニス部員である。あの手塚国光と会話しているという状況に舞い上がり、二人はすっかり饒舌になっていた。手塚はスマホの画面から目を離して少年たちのほうを向くと、表情を変えることなく言った。
「そうか。消せ」
「そうそう! …………へ?」
「聞こえなかったか? 写真を消せと言ってるんだ」
 手塚は淡々とした口調で繰り返した。
「簡単だろう。削除ボタンを押すだけだ」
「いや、でも」
「消せよ」
「は、はい……」
 二人は真っ青になって下を向いた。恐ろしくて手塚の顔を直視することは出来なかった。震える指で削除のボタンを押す。今日どころか過去の大会で撮ったものまで、跡部を写したすべての写真を消去させられた少年は、後に友人たちに対して「命まで消されなくて良かった」とだけ語ったという。

「手塚! 遅かったじゃねえの」
 約束の時間をかなり過ぎてようやく現れた手塚に、跡部は腹を立てるでもなく声をかけた。
「すまない、所用で遅れた。ところで、次からはお前の家のコートで打たないか?」
「あーん? お前が、気を遣うから外のコートが良いって言ったんじゃねえか」
 跡部は怪訝そうな顔をしている。
「気が変わったんだ」
 手塚は小さく肩をすくめた。
「変なヤツ。今日はここでいいんだろ?」
「ああ。あ、ちょっと待て」
 手塚はそう言うと、跡部のトップスの裾を無造作に掴んでハーフパンツの中に押し込んだ。ぴしっと収まったのを確認して「これでよし」と頷く。
「かっ、勝手に人の服インしといて何がよしだよ! ダサい恰好させて俺様の戦意を削ごうってか!?」
「どんな攻撃だ。なら、俺が勝ったら今日一日インで過ごしてもらうぞ、跡部」
「なら、俺様が勝ったら、てめえが一日中インにしろよ!?」
「俺は別に構わないが」
「そこは構えよ……!」

  

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