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61. カウンターアタック

 待ち合わせの十五分前に着くよう行動してしまうのは、もはや癖のようなものだった。おかげでたいがいの待ち合わせは一番乗りだ。だから、跡部が自分より早く到着しているのを見たときは驚いた。手持無沙汰に携帯をいじるでもなく、跡部は雑踏を行き交う人の群れに目を向けていた。飛びぬけて背が高いわけではない。それなのに、遠目にもすぐ見つけられたのは、人目を引く容姿のせいか、はたまた本人の醸し出すオーラのせいか。
 手塚が少し歩調を早めたとき、ふと跡部が視線を下げた。目の前には大学生だろうか、若い女性が立っていて、跡部に何か話しかけている。どうもナンパで間違いなさそうだ。手塚も跡部もトレーニングウェアにラケットバッグという出で立ちだったから、彼女もまさか相手が中学生だとは思っていないのかも知れない。
 こういう手合いには慣れているのか、跡部は角の立たないようやんわりと断りを入れている。が、相手もなかなか引き下がらない。跡部は一瞬女性から視線を逸らして、そのとき初めて手塚がすぐ近くまで来ているのに気づいたようだった。手塚が話がつくまで少し離れたところで待っていようと方向転換しかけたときだ。
「手塚ぁ」
 聞いたことのないような甘えた声だった。手塚は咄嗟に身構えたが、跡部の行動は早かった。手塚の腕に強引に自分の腕を絡めると、後ろで目を丸くしている女性を振り返ってにこやかに微笑んだ。
「悪いな、今からデートなんだ」
 跡部は有無を言わさぬ力強い足取りで手塚を連行していった。手塚はちらりと後ろを振り返ったが、彼女は何が起きたか分からないという顔でその場に立ち尽くしていた。
「なかなか良い断り文句だったな。相手の意表を突くことで、一瞬で戦意を削げる」
「……冗談と思ってない顔だったぞ」
 いまだ歩調を弛めないどころか腕もがっちりと組んだまま、跡部は手塚に笑いかけた。
「お前とのテニスはデートより楽しいぜ?」
 跡部は茶化しているのか、また頓珍漢なことを言った。変に意識しているのは自分だけなのかと思うと、組んだ腕を振り払うことも出来なかった。

  

62. マイ・バレンタイン

「二月十四日、そっちに行く」
 跡部から連絡があって、手塚はようやくその日が何の日か思い出した。ここ最近、店先にやたら赤いポップや飾りが目立つようになっていたが、これまでずっと貰う側の立場だったので完全にスルーしていた。跡部にしても、毎年自宅にトラック数台分のチョコが届くだとか、放課後には告白のために長い行列が出来るだとか真偽不明の噂話が青学まで届いていたが、ヨーロッパでは主に男性から贈り物をする日だと聞く。そちらでの生活のほうが長いのだから、案外渡すほうが慣れているのかも知れない。

「久しぶりだな、手塚。お前のバレンタインがはるばるドイツまで会いに来てやったぜ」
 バレンタインの日、玄関のドアを開けた手塚に歯の浮くような台詞を投げつけながら、跡部は悠然と微笑んだ。
「お決まりだが、食えるほうがいいかと思ってチョコにしたぜ。じっくり味わって食べな」
 部屋に入るなり、跡部はさっそく手にしていた包みを手塚に渡した。
「ありがとう」
 手塚はもらったばかりのチョコレートをダイニングテーブルに置くと、隣にあった数本の赤い薔薇の花束を無造作に跡部に差し出した。
「これは俺からだ。荷物になるかも知れないが」
 マフラーを外そうとしていた跡部は、驚愕の眼差しを手塚に向けた。
「…………俺に?」
「他に誰がいるんだ」
 跡部はマフラーを中途半端に首に巻き付けたまま、そろそろと花束に手を伸ばした。
「完璧に油断してたぜ……」
「俺から渡しても問題ないだろう」
「大問題だぜ。本命からのバレンタインが、こんなに嬉しいなんて知らなかった」
 手にした花束に目を落としたまま呟くように言う。聞いてるほうが恥ずかしくなるような発言も、全て本心から出た言葉なのだと思うと、仰々しい言葉の一つ一つが途端に愛おしく思えてきて困る。
「今から出掛けるぞ」
 手塚はコートに袖を通しながら言った。
「あん? 今来たばっかだってのに、どこ行くんだよ?」
「近くにトルテの美味しい店があるんだ。お薦めはチョコ味だが、どうする?」
「……奢れよ?」
 跡部はぱちりと瞬きした後、苦笑しながら言った。

  

63. ジンクス

 放課後の練習も終わり、部室で汗をぬぐっていた手塚はふとその手を止めた。額にかすかな違和感があった。前髪を横に流しつつ、ロッカーの扉の内側についている小さな鏡を覗きこむと、右眉の上あたりに、ペンでつついたくらいの小さな膨らみが出来ている。
「想いニキビかな?」
 隣で着替えていた不二の発言に、手塚は訝しげな目を向けた。
「知らない? 『想い、想われ、振り、振られ』って」
 不二は軽く拍子をつけながら、自分の額、顎、右頬、左頬を順番に指差した。
「なんだそれは」
「前に姉さんから聞いたんだ。ニキビ占いってのがあって、ニキビの出来る位置で恋愛運なんかを占うんだって。いろいろ見方があるらしいけど、おでこのニキビは想いニキビって言って、好きな人がいる印らしいよ」
「そっか、不二の姉ちゃん占い師だもんね。手塚、好きな子いるんだ~?」
 菊丸がニヤニヤと笑みを浮かべて言う。
「馬鹿馬鹿しい」
 恋心を寄せたり寄せられたりするだけでニキビが出来るなんて、ほとんど呪いではないか。手塚はタオルをバッグに仕舞うと、さっさと制服に着替え始めた。手塚が話に加わる気がないと悟ったのか、菊丸は不二に問いかけた。
「顎に出来るのが想われニキビ?」
「そうそう。誰かに想われてたら出来るニキビ。右の頬だと――」
  
 三日後の土曜日、都内の私立中学の生徒会役員を集めた大規模な集会があった。各校の実情や生徒会としての活動、地域との関わりなどについてグループ単位での意見交換や討論を行なった後、全体の場でグループ代表者による発表やスピーチが行なわれた。この秋、生徒会長になったばかりの手塚にとっては、これからの活動の参考になる面も多々あったが、休憩時間には大石に任せてきた部活のことが頭を過ぎった。
 閉会式が終わって会場出る頃には、辺りは夕焼けに染まっていた。といっても四時を少し過ぎたくらいだから、練習もそろそろ終わる頃だろう。
「手塚!」
 ふいに知った声が聞こえて振り返る。氷帝の跡部だ。ジャージ姿を見慣れているせいか、ブレザーが新鮮に映る。
「そういや、お前も生徒会長になったんだってな。部長と兼務だろ? 忙しくなるな」
「ああ。でも、お前は去年から両方やってるだろう」
 跡部は少し驚いたような顔をした。
「知ってたのか」
「お前は自分が思ってるよりも有名だぞ。今日も目立っていたしな」
 日本人離れした派手な見た目もあるだろうが、その発言内容の斬新さと説得力、人を惹きつける話し方など、まるで学生らしくない堂々とした立ち居振る舞いは壇上で他のパネリストを圧倒していたし、周りの参加者の反応を見るに、また新たなファンを獲得したようだった。
「いや、お前が知ってたことに驚いたって意味。まあ、俺様が目立っちまうのは仕方ねえことだがな」
 跡部はさも当然といったふうに言って歩き出した。帰る方向は同じだったので、並んで歩く。妙に眩しいと思って隣を見ると、淡い金髪に夕陽が反射して光っている。薄く笑みを浮かべた横顔をなんとなく眺めていると、急に跡部がこちらを向いた。
「なにか顔に付いてるか?」
 そんなに不躾な視線を向けていただろうかと手塚は内心ドキッとした。そのとき、ふと脳裏にこの間の不二との会話が過ぎった。それだけに留まらず、手塚の口はその占いの内容をつらつらと話し出していた。突拍子もない話に、跡部の足が止まる。
「――で、不二が言うには、俺のニキビは想いニキビというものらしいんだ」
 説明は以上だとでも言うように、手塚はそこで話を切った。それまで神妙な顔で手塚の話に耳を傾けていた跡部は、数拍置いてニヤリと唇を吊り上げた。
「つまり、俺様の顔にニキビがねえか見てたってことか?」
 そういうことになるのだろうか。肯定も否定も出来ずにいると、跡部は手塚の反応に構うことなく話し続けた。
「その話が本当なら、俺様の顔は今頃、痘痕だらけになってねえとおかしいだろ」
 自信満々にそう言える人間もなかなかいないと思うが、同時に、他でもない跡部が言うと何よりの論拠になる気がした。
「てめえがそんなジンクス信じるような性質だとは思わなかったぜ。けど、心配してくれてありがとよ」
 もともと手塚も占いなど信じていなかったが、曖昧に返事をするに留めた。どうしてこんな話をしてしまったのか、自分でもよく分からなかった。少し先に黒いリムジンが停車しているのが見える。
「車で帰るけど乗ってくか? 家まで送るぜ」
「いや、少し部室に顔を出そうと思っている」
「そうかよ。じゃあ、お疲れ」
 跡部は車に乗り込む前に一度振り向いた。
「栄養取って、しっかり寝ろ。そうすりゃすぐ治んだろ。綺麗な顔してんだから大事にしろよ」
 それだけ言って、跡部はその場を後にした。夏よりもまた一層白さを増したように見える肌には、吹き出物など一つも見当たらなかった。それを見て安堵を覚えたのは何故だったのか、手塚はまだ知らない。

  

64. 正夢

 こんなに爽やかな気分でコートを後にするのは、いったい何年ぶりだろう。長い間記憶の底に沈んでいた、初めてラケットを握った日の、初めて思い通りにサーブが決まった日の、初めて試合で勝った日の、テニスを通じて感じたありとあらゆる喜びが胸に溢れてくる。今すぐどこかへ駆け出したいような、この嵐が収まるまでしばらくジッとしていたいような、相反する衝動。
 ふと、足下で猫の鳴き声がした。ふさふさとした長い毛を風に揺らしながら、青い一対の瞳が手塚を見上げている。猫はまた短く鳴いた。
「跡部……」
 まるで早く行け、とでも言っているようだった。手塚は小さな額をひと撫でして、合宿所から旅立った。

「手塚くーん、元気にしてるー?」
 ビデオ通話をオンにした途端、入江の膝の上で無理やり前足を振らされている跡部が視界に飛び込んできた。手塚の顔を見た瞬間、跡部の瞳孔がキュッと縮んだ。
「……はい、元気にやっています」
「跡部くんも、この通り元気だよ」
 元気、なのだろうか。前足を握られて固まったまま、跡部は尻尾をだらりとさせている。神経質なほど毛づくろいしているおかげで常に艶々だった毛並みは、まるで乱闘の後のようにあちこち逆立っている。
「でも、跡部くんってグルメだよね。ボクが用意したキャットフード、全然食べてくれなくて。合宿所の売店にある、一番高い猫缶しか口に合わないみたいなんだ」
「そうですか?」
 確かに選り好みするところはあるが、手塚がキャットフードをうっかり切らしたときには、鶏肉や青魚などを与えて一日しのいだこともある。ものすごく不服そうな顔をしていたが。
 そのとき、それまで置き物のように微動だにしなかった跡部が、か細い声で鳴き始めた。掠れたような鳴き声はいつも甘えるときに出すもので、画面越しでは撫でてやれないのがもどかしかった。
「手塚くんに会えて嬉しいね、跡部くん」
 顎の下を撫でようとした入江の指に跡部が噛みつく。
「こらっ、跡部!」
「あははっ、甘えてるのかな?」
 甘噛みというより、本気で噛みついているようにしか見えないのだが、入江は愉快そうに笑っている。
「じゃあ、手塚くん。慣れない外国暮らしで大変だろうけど、練習頑張って。また跡部くんの写真送るね」
「はい、色々とご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いします」
「大丈夫だよ。手の掛かる子ほど可愛いって言うでしょ。それにボク、どちらかと言うと、懐かない生き物のほうが好きなんだ」
 入江は白い歯を見せてニコッと笑うと、また跡部の前足を無理やり掴んで左右に振った。威嚇するように牙を剥く跡部の横顔を最後に、映像は途切れた。

 枕元でアラームが鳴っている。手塚は目を開けて天井を凝視した。妙な夢を見た。なんで跡部が猫なんだ。
 携帯のアラームを止めて、眼鏡を掛ける。逡巡した後、ビデオ通話のボタンを押した。
「手塚? どうした?」
 跡部は驚いた顔をして言った。もちろん人間の跡部だ。食堂だろうか、後ろには見覚えのあるガラス窓が見える。
「いや、元気にしているかと思って」
「そりゃ、こっちの台詞だ。なんだ、寝起きか? 頭すげえぞ」
 跡部がカラカラと笑い声を上げる。元気そうだ。跡部の声で気づいたのだろう、他の中学生も顔を出しきて、一気に画面の密度が上がった。口々に何か言っているが、同時に喋るのでさっぱり聞き取れない。それに被さるように、午後の練習再開を告げるアナウンスが流れた。
「用がねえなら一旦切るぜ。夕方にでも掛け直そうか?」
「いや、ただ顔が見たかっただけだ。気にするな」
 跡部は目を大きく見開いた後、照れくささを誤魔化すように顰め面を作った。
「あっそ。じゃ――」
「跡部くん、誰と話してるの?」
 跡部は横を向くと、手塚がこれまで見たことのない表情で声の主を見た。と同時に、唐突に通話が切れる。手塚は目を閉じると、しばしの間、今は遠い合宿所に思いを馳せた。あの夢のように、噛みついたりしていないといいのだが。

  

65. 王様は誰だ

「ここらで一つ、王様ゲームでもしません?」
 久々に日本に帰ってきた手塚と越前、さらに跡部も巻き込んで、河村の実家で一杯やっているときだった。いい感じに出来上がっていた桃城が、悪い笑みを浮かべながら突然そんなことを言い出した。
「桃、コンパじゃないんだぞ」
「大石せんぱ~い! 今日は無礼講って言ったじゃないっすか~!」
 さっきから割り箸に何か書いているなとは思ったが、いそいそとクジを作っていたらしい。越前は苦笑いしながらジョッキを傾けた。
「いいぜ。やってやろうじゃねーの、王様ゲーム」
 隣から威勢のいい声が上がる。
「さっすが跡部さん! 話が分かる!」
 昔からの癖で、青学OBたちは一斉に手塚のほうを向いた。手塚は手に持っていたグラスから視線を上げて、いつもと変わらぬ表情で「構わないが」とだけ言った。

「せーのっ! 王様だーれだ?」
 全員同時に割り箸を引く。
「俺だっ!」
 跡部はあぐらをかいたまま割り箸を握ったほうの腕を高々と掲げた。越前は持ち前の動体視力で跡部の割り箸に書かれた数字の「2」を読み取ると、慌てて跡部の腕を引っ張りおろした。
「跡部さん!?」
「わりぃ、条件反射だ」
 どんな条件反射だよ。越前は跡部の顔を凝視した。顔色が変わらないのでよく分からないが、実はかなり酔ってるのかも知れない。
「……俺か」
 テーブルの向かい側で、手塚がぽつりと呟いた。手にした割り箸の先端には小さく王冠が描かれている。
「お! じゃあ部長、じゃなかった王様。命令をどうぞ!」
 恭しく首を垂れながら桃城が言う。手塚は黙って周囲を一瞥してから、おもむろに口を開いた。
「跡部、キスしてくれ」
 手塚以外のほぼ全員が「ん?」という表情で固まった。実際、声にも出ていた。周囲の反応を見て、手塚も不思議そうに首を傾げた。
「……どこにだ?」
 その間に畳の上を膝立ちで移動してきた跡部は、手塚のすぐ横まで来て問いかけた。手塚は無言で自分の頬を指差した。
「Yes, Your Majesty」
 ふっと微笑んでそう言うと、跡部は恥ずかしげもなく手塚の頬にキスをした。可愛らしいリップ音のおまけ付きで。その音でようやく正気づいたのか、場は一時騒然となった。
「手塚、王様ゲームって知ってるか!?」
「俺は……、何か間違っていたか?」
「誰かー! 手塚にルール説明してーっ!」
「跡部さんはルール分かってたよね!?」
 越前が詰め寄ると、跡部は眉を顰めた。
「ああ、氷帝の奴らとやったことがあるぜ。王様を引いたヤツが、俺様にお願い事が出来るってゲームだろ?」
「そんな限定的なゲームある!?」
 どうも良いように言い含められていた跡部はその王様ゲームの際、芥川には発売したばかりのゲーム機を買ってやり、滝とは登別まで温泉旅行に出掛けたらしい。それに比べれば、手塚のお願いなど可愛いものだっただろう。
「なるほど、王様が指名した番号の人間に命令できるゲームか。それはそれで面白そうじゃねーの」
「だから、本当はそういうゲームなんだって」
 越前は額を押さえた。その直後、手塚が実は跡部の引いた番号を見ていながら、間違えて名前で呼んだらしいと分かると、場はさらに凍りついた。当然、そのあと二回戦が開催されることはなかった。

  

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