66. 一撃必殺
「また山ぁ!?」
跡部の非難混じりの大声にも、手塚は少しも動じなかった。
「何が不満なんだ?」
「この前も山だったじゃねえか。次は海にするってことでお前も納得しただろ。忘れたとは言わせねえぞ」
次のバケーションをどこで過ごすかで二人は激論を交わしていた。前回の休暇には、手塚たっての希望でスペインはピレネー山脈の最高峰アネト山に登ったが、十二時間にも及ぶ行程の最中、氷河にピッケルを突き立てながら、跡部は自分が修験者にでもなったような気がしていた。体を動かすのは好きだ。自分の限界を試すのも悪くない。しかし、年にそう何度もやるものではないと思う。
「聞くだけ聞いてみるが、どこに行きてえんだよ」
手塚はその言葉を待っていたようだった。
「お前、前にサントリーニ島に行きたいと言っていただろう。だから、オリンポス山はどうだ?」
「接続詞間違ってんぞ。ギリシャってとこしか合ってねえよ」
手塚は言うべきことは言ったとばかりに黙り込んだ。これでも譲歩したつもりなのだろう。しばらく睨み合った末、跡部はため息をついた。
「じゃあ、コインで決めようぜ。俺が勝ったら、海辺のホテルでのんびり過ごす。お前が勝ったら、山登りでもなんでも好きなだけ付き合ってやるよ」
「いいだろう。ただし、じゃんけんで決める」
手塚はきっぱりと言い切った。
「じゃんけん? なんだよ、そんなに自信あんのか?」
跡部は鼻で笑った。
「ああ。跡部、俺はパーを出すぞ」
「あん?」
跡部は訝しげな目を手塚に向けた。いつもと変わらぬポーカーフェイスからは余裕のようなものが感じられる。よくある誘導術だ。パーを出すと伝えることで、相手にチョキを出させる。だが、手塚がそんな単純なひっかけを使うか?
「絶対に俺が勝つ」
手塚はさらに言葉を重ねた。どうしてそう自信満々に言える? 俺にチョキを出させてグーで勝つつもりか? それとも、本当に馬鹿正直にパーを出すのか?
「行くぞっ!」
跡部が出す手を決めかねている間に、突然、手塚が大声を出した。グラウンドの端から端まで届くような馬鹿デカい声だ。
「じゃんけんぽん!」
あまりの大声と勢いに一瞬たじろぎ、跡部は咄嗟に拳を握ったまま出してしまった。手塚はと言えば、宣言通りパーを出している。
「汚ぇぞ! 最初はグーじゃねえのかよ!?」
「そんなルールはない。それに、あらかじめパーを出すと言っただろう」
いつの間に用意していたのか、手塚は意気揚々とテーブルの上に登山地図と行程表を並べ始めた。
「どんだけ山に登りてえんだよ……!」
「一人で行ってもいいが、俺はお前と登りたいんだ」
手塚はそう言ってテーブルから視線を上げた。窺うような瞳には、どれだけ文句を言おうと跡部ならついてきてくれるだろうという期待と傲慢が滲んでいる。跡部は諦めたように首を横に振った。
「ったく、横暴が過ぎんだろ」
「下山したら、そのままエーゲ海のほうへ出るか。一、二泊なら出来るぞ」
二人は額を突き合わせて、旅行の詳細を詰め始めた。
67. ブラックメール
「跡部、お前のお母さんの好きなものが知りたいんだが、何か思いつくものはあるか?」
手塚からの電話は初っ端から用件に入る。つまり、これは世間話ではないということだ。
「お母様の? そんなもん聞いてどうすんだよ」
質問の意図を問うただけだと言うのに、手塚は何故か口ごもった。
「聞いて驚くなよ」
「勿体ぶるなよ」
「お前のお母さんから、バレンタインのチョコが届いた」
手塚の前振りのおかげで、飲みかけのシャンパングラスを落として割るという惨事は免れた。小さい頃ならいざ知らず、レイトティーンの我が子の友人にバレンタインのチョコを贈る意味とは――。
「なんで……」
「聞きたいのはこっちのほうだ。『景吾をよろしく』と書いてあったぞ。何か俺のことを話したのか?」
「したかしてないかで言えば、してるが……」
正直なところ他の友人の倍くらい手塚の話をしている気がするが、特別なことは何も言っていないはずだった。しかし、母の勘の鋭さは侮れない。
「それがなんで好きなものの話になるんだ?」
「ホワイトデーのお返しをしないといけないだろう?」
「意外と冷静だな……」
「冷静なわけないだろ。今、信じられないくらい汗を掻いてる」
さすがにこれには笑ってしまった。ちょっとやそっとのことでは動じないあの男にチョコ一つで大汗を掻かせるとは、わが母ながら大したものだ。
「お母様は、そうだな……、甘いものなら何でも好きだぜ。特にクリームブリュレには目がない。あとは、人を招いて一緒にお茶をするのも好きだな」
「……分かった。近いうちに伺おう。日程はまた相談させてくれ」
「ああ。しかし、とんでもない手を打ってきたな」
苦笑しながら、意外と冷静なのは自分のほうかも知れないと思った。わざわざ手塚にチョコを贈ったのも、好意あってのことと分かるからだろうか。
「そういうところは、お前にそっくりだと思うぞ」
「なら、心配いらねえな。顔や性格もそうだが、お母様とは好みも似てるんだ。お前のこともすぐに気に入るだろうぜ」
68. 眼鏡
風呂に入る前にテーブルに置いたはずの眼鏡は、跡部の手の中に移動していた。ソファにだらりと座ったまま、双眼鏡よろしく目に当てて部屋の中を見回している。
「結構度がキツイのな。頭痛くなってきた」
「普通より強めに矯正してもらってるからな」
返せと言外の意味を込めて手を差し出したのだが、跡部はもう少し遊ぶことにしたようで、自分で眼鏡をかけてしまった。
「過矯正だと目が疲れるんだろ? だからいつも皺が寄ってんじゃねーの?」
眉間を指差しながら揶揄うように言う。
「もう慣れた。ないと落ち着かないくらいだ」
「ふーん……」
眼鏡を掛けているといないとでは印象が変わるらしい。眼鏡を外しているときの、この物珍しいものを見るような跡部の視線は、少しこそばゆいが嫌いじゃない。
「邪魔じゃね?」
「邪魔だと思ったことは……、いや、邪魔だな」
手塚は目と鼻の先にある無防備な唇にキスを落とした。そのまま柔らかい唇を食む。跡部の掛けている眼鏡の縁が額に当たって、カチッと音がした。
「こういうとき」
不意打ちだったせいか、跡部はソファの上で変な体勢で固まっている。その鼻先からずり落ちかけた眼鏡を取り上げて自分の耳にかけると、ようやく全てが元通りになったような感じがした。
「さっき見たとき思ったんだが、お前は眼鏡がないほうがいいと思うぞ。似合わないということではないが」
「……そうかよ」
跡部はソファの上で膝を抱えて小さくなった。手塚は跡部の隣に腰を下ろした。
「そんなに落ち込むことないだろう。ただ、眼鏡で顔が隠れるのがもったいないと思っただけだ」
跡部は複雑な表情で手塚のほうを見た。
「お前は……、一生眼鏡掛けてろ」
「なんだ、悪口か?」
「そうだよ」
「何を拗ねている?」
「拗ねてねぇよ、バーカ」
69. パブロフの犬
手塚からのキスはいつも唐突だった。雰囲気とか、場の空気とか、タイミングとか、そういったものはコイツの頭の中には存在しないんじゃないかとすら思う。いつまで経ってもその調子なので、思い切って理由を尋ねてみたところ、「キスしたいと思ったからキスした」「カッとなってやった」とまるで突発的犯行を示唆するような言い訳しか出てこなかったので、最終的には手塚とはなにか根本的なところでものの感じ方が違うらしい、と結論づけた。
それでも、最近になって事前に予測がつくようになった。考えが読めるようになったというわけではなく、単純にキスの前に手塚が眼鏡を外すようになったのだ。一度ノーズパットが鼻に刺さって痛い思いをしてからというもの、ポケットにしまうなり、テーブルに置くなりするようになったので、それが暗黙のうちにキスの合図になっている。
そのとき、隣で本を読んでいた手塚がぱたんと本を閉じた。閉じた本はテーブルの上に。さらに眼鏡を外して眉間を揉んでいる。それから、本の横に眼鏡を置くところまで見届けて、跡部はこれは来るなと身構えた。本に栞を挟み、ひとまず膝の上に置く。手塚はその小さな動きで初めて気がついたとでもいうように、跡部のほうを見た。
「もう読み終わったのか?」
手塚はそう言って、胸ポケットから小さな布を引っ張り出した。眼鏡を手に取り、慣れた手つきでレンズを拭き始める。
「は……?」
跡部は絶句した。キスしねえのか、と言いかけて、それではまるで自分がキスされるのを待ってたみたいじゃないか、と気づき愕然とした。勘違いするな。俺はコイツの突拍子もない行動を読もうとしていただけで、唾を飲み込みながら待てをしていたわけじゃない。
「なんでもねえ」
突っぱねるように言って本を開いた。栞を挟んでいたのに、どこまで読んだか咄嗟に思い出せない。ふと、肩に手が置かれた。
「んだよ」
顔を上げた途端、唇が重なった。
「待ってたんだろう? 可愛いな、と思ったからキスした」
近頃、自分から犯行動機を述べるようになった男を見つめながら、跡部は随分長いこと言葉を失っていた。
70. 鬼のパンツ
世の中には勝負下着というものが存在するらしい。人に見られて恥ずかしくない下着、相手をその気にさせる下着、など捉え方は人それぞれのようだが、自分にはおよそ関係のないものだと思っていた。そもそも日頃から見られて困るものなど身につけていない。生きていれば毎日が勝負ってことだ。
「こんなのどこで見つけてくるんだ?」
手塚は跡部の下着を見るなり真顔で尋ねた。これが好意的なニュアンスなら「お前の分も買ってやろうか?」とでも返せば良かったが、あいにくと手塚は不謹慎なものでも見るような目つきをしている。
「どこって、普通に店で売ってるぜ」
跡部は黒地に金色で特徴的なバロッコモザイクがプリントされた、イタリアのトップメゾン製のブリーフを見下ろした。
「お前は派手なパンツしか穿けないのか? 前はトラ柄だったろ」
「トラ柄って……、別に鬼のパンツみたいなの穿いてるわけじゃねえんだからいいだろ。それとも萎えるってか? 俺はいいぜ、このまま寝ても」
「……そうは言ってない」
と言いつつ、思い切り不服そうな顔をしているのを見て、まあ一度くらいコイツの趣味に合わせた下着を穿いてやってもいいかと思ったのだ。どちらかと言えば清楚系が好きそうだもんな。かと言って、レースやらフリルやらの下着は引きそうだし。と、それなりに知恵を絞った結果、無難にネイビーのショートボクサーにした。これで反応が良ければ、妥協してやらないこともない。しかし、
「待て待て待て、おいこら、手塚っ!」
かなり強めに声を上げると、ようやく手塚の手が止まった。パンツごとずり下げられそうになったズボンを引っ張り上げつつ、跡部は肩で息をした。
「ダメか?」
急に殊勝な態度を装う手塚に絆されかけるも、今日の目的を思い出して踏みとどまる。跡部は自分でシャツとズボンを脱ぐと、ベッドの上にどっかりとあぐらを掻いた。
「俺様の下着について、何かコメントすべきことがあんだろ」
手塚は跡部のボクサーパンツを見つめて、しばらく考え込んだ後、ようやく「いつもの強そうなパンツはどうした?」と言った。
「いや、いつも嫌そうな顔してたじゃねえか。つーか、強そうってなんだよ」
「嫌だとは言ってないだろ。趣味が合わないと思っただけで、その、いつものほうがお前らしくていいんじゃないか?」
おそらくこれが正解だと思って答えたのだろう。残念ながら大外れだ。あと、どうせ脱ぐからって顔に出てんだよ。
「…………寝る」
跡部は頭から布団を被った。手塚が何か言っているが徹底的に無視した。人の厚意をなんだと思ってやがる。次は絶対一番強そうなパンツ穿いてきてやるからな。