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71. また明日

「こんなふうに誰かと同じベッドで寝るなんて、幼稚園のとき以来だ」
 跡部は囁くような声で言った。薄暗い部屋の中で瞳だけがぼんやりと光って見える。
「合宿は?」
「部屋は一緒でもベッドは別だろ」
「それはそうだな」
 一般的なキングサイズよりもさらに大きなベッドは、二人で横になってもまだスペースを持て余している。シーツを伝いに感じられる体温がくすぐったいが心地よかった。
「寝るときはいつも一人だった。お父様もお母様も家を空けることが多かったし。ミカエルや家の誰かが本を読んでくれることもあったけど、読み終わったら部屋を出て行っちまう。だから、眠くなるまでぬいぐるみに読み聞かせをしてた。子守歌まで歌って」
 跡部は眠いのかゆっくりと瞬きを繰り返している。
「ま、昔の話だ」
「いつまでやってたかは聞かないでおく」
「それはそれは、お優しいことで」
 吐息だけで笑う。夜の空気が静かに揺れた。
「眠るとき、誰かの体温が隣にあるっていいよな」
「誰かの?」
 手塚は訂正を促すような口調で言った。
「お前の」
 跡部は気の抜けた笑みを浮かべて、手塚の肩口に額を寄せた。跡部の柔らかい髪が頬に触れる。
「歌ってやろうか、子守歌」
「あん? じゃあ、『誰も寝てはならぬ』。全力で頼むぜ」
「家中の人間を起こすつもりか?」
 顔を枕に埋めるようにして跡部は笑い声を殺している。
「……寝るのが惜しい気がしてきた」
「明日も朝から一勝負するんだろ?」
「そうだった。勝ち逃げされたまま家に帰すわけにはいかねえからな」
 手塚は跡部の頭のてっぺんにキスをした。
「おやすみ」
「おやすみ、また明日」

  

72. ターゲット

 夢中になれるものがあると、人生は最高に楽しい。会社でどんなに嫌なことがあっても、現場で彼に会えば一瞬ですべて忘れられる。私の特効薬。生きる糧。それが手塚国光くん。
「みみぴ! こっちこっち!」
 ハンネを呼ぶ声がする。いつものメンバーが手を振ってる。揃いの法被は彼のイメージカラーのコバルトブルー。
「なんでこんな後ろにいるの?」
「確かな筋から情報を得ましてな。ここのところ、客席右奥のドア近辺が、一番目線もらえる率が高いんですわ」
 ともも先輩がクイッと親指で差した先には、ファンの間でも最近話題の泣きぼくろの彼が、いつものように壁際にすらりと立っていた。
「マジすか」
「で、今日はそっちで見てみようって話になったの。さて、全員揃ったことだし、移動移動!」
 姉御肌のしーちゃんの号令で、ステージに背を向けて入り口近くまでUターン。前のみちみち具合に比べれば、後ろのほうはスペースに少し余裕があった。
「あの、私たちが前にいても大丈夫ですか?」
 法被隊の一人が声をかけると、泣きぼくろの彼はちょっと目を丸くした後、やさしく微笑んだ。
「構わないぜ。十分見えるから」
「ありがとうございますっ!」
 手塚くんのファンはマナーが良い。邪魔になるような荷物はきちんとロッカーに預けるし、ライブ中でも押し合ったりしないし、悲鳴で彼の歌や大事なコメントを掻き消したりしないし、うちわだって胸の位置を死守する。
「みみぴ、うちわ新しくしたんだ?」
「うん、今回のは自信作なんだ~!」
 うちわには遠くからでも見えるように、大きな文字で「撃ち落として♡」と貼った。手塚くんに伝わるよう、指鉄砲のマークもつけた。一作目の「ウインクして♡」のときは、気づいた手塚くんが両目をぎゅっとつぶってくれた。(ウインク出来ないの可愛すぎて、打ち上げで散々暴れた。)二作目の「ハート作って♡」は指ハートや両手ハートじゃなく、腕を大きく広げて手を頭に乗せるという斬新なポーズで応えてくれた。(おさるさんだよ、じゃん。愛愛だよ。)
「風流だな」
 他の子たちと話していた泣きぼくろの彼が、法被やうちわを感心したように眺めながらそう言っているのが耳に入った。たしかにもうすぐ夏だけど、あいにく私たちは年中この格好だ。手塚くんもそうなんだけど、彼もちょっと天然さんなのかも知れない。というか、近くで見てもびっくりするほど顔が良い。なんでパンピーやってるのか分からないくらい顔が良い。って待て待て、落ち着け私。私には手塚くんが、
「はじまった!」
 会場が暗くなりイントロが流れ出す。結論から言うと、ともも先輩の情報は正しかった。こんな後ろなのに、いつもの倍くらい目線をもらえてる気がする。
 この日のライブも熱かった。一足先に夏が来たみたいだった。そんな中、M7の特に激しいダンスナンバーで事件は起きた。会場の熱気のせいか、元々体調が良くなかったのか、私の前にいた子が突然大きくふらついたのだ。その子の腕がぶつかって、声を上げる間もなく、体がぐらりと後ろに倒れる。
「大丈夫か?」
 背中を支える手の感触。いつの間にか瞑っていた目を開けると、泣きぼくろの彼が私の顔を覗きこんでいた。いや推せる。
 背中を支えてもらいながら身体を起こす。ふらついてた子は幸い倒れはしなかったみたいだけど、床に座りこんでいる。周りはステージに夢中で気づかない。
「ちょっと借りるぜ」
 泣きぼくろの彼はそう言って、さっきの衝撃でフロアに落ちてしまった私のうちわを拾い上げた。何をする気なんだろうと不思議に思っていると、彼はうちわを頭上に掲げてステージのほうへ向けた。ステージ前にいたスタッフと目が合うと、こちらに来るよう手で合図している。そのとき、ステージの手塚くんがこっちを向いた。
 それからのことは幻覚だったのかも知れない。手塚くんは歌いながら、マイクを持ってないほうの手の人差し指をこちらに向けて、バンと指先を跳ね上げた。全部が奇跡みたいに完璧だった。このブロマイドが出たら五億枚買う。
 周りの子も一斉に心臓を押さえてる。
「ははっ、コントみてえ」
 場違いな感想とともに、泣きぼくろの彼がうちわを返してくれた。そのまま彼は座りこんでいる子の隣まで行って、立てるかどうか聞いている。インカムで連絡を受けたらしい別のスタッフがやってきて、彼と二人でその子を両脇から支えつつ、会場の外へと連れ出していった。すれ違いざま、彼が一瞬だけ自分の胸に手を当てたように見えた。

  

73. アスリートごはん

「今回の『アスリートごはん』担当の、テニスプレイヤーの手塚国光です。普段自宅で作っている料理を一品、ということで、今日は鰻を捌いて蒲焼きを作ろうと思います。鰻にはエネルギー代謝に不可欠なビタミンB1や抗酸化作用のあるビタミンAが豊富に含まれ――――。分かった。単純に好きなんだ、鰻が。これで良いか? ――――場所の説明? 今、自宅のキッチンで撮影している。こら、あまり変なところを映すな。時間も限られていることだし、さっそく調理に移ろう。――――うん? 要らないところは編集でカットしてもらえるだろう、多分。まず、活きた鰻を氷水につけておく。こうすることで動きが鈍って捌きやすくなる。捌くときは軍手をはめる。滑って危ないからな。鰻をまな板に出したら、頭の付け根に切り目を入れて締め、目打ちをする。目打ちが家になければ釘でもいい。今回は専用の包丁ではなく、よくある出刃包丁で捌いていく。右手で鰻が暴れないよう上から押さえながら、包丁で背を――――。ああ、左利き用だ。つまり? 逆? ――――そうだな。では……、見ている皆さんは好きなほうの手で押さえてくれ。――――なんで笑うんだ、どっちでもいいだろう。とにかく切るぞ。中骨の上を滑らせるようにして一気に尾まで刃を通す。内臓と骨は別の料理に使うので取り分けておく。骨はこうやって刃で削ぎ取るようにして…………時間がかかるので、ここはカットするなり早送りするなりしてもらおう……。骨が取れたら頭を落として水でよく洗う。最後に背ビレと腹ビレを落としたら終了だ。適当な大きさに切って、串を打ったら炭火で焼いていこう。適当なところでタレを塗ってさらに――――、分量? いや、目分量だが。画面に出してくれるんじゃないか? ほら、料理番組でよく下のほうに出てるだろう? ……あー、タレの材料は醤油、みりん、砂糖、酒だ。分量はこちらに。――――指差さなくていい? まあ、やってしまったものは仕方ない。カットしてください。――――うるさい、編集の方に向けて言ったんだ。……どこまで説明した? ああ、もう焼きあがったな。こうして家でも簡単に出来るので、ぜひ作ってみてほしい。蒲焼きをごはんに乗せて上からだし汁をかけて、うな茶にして食べるのがおすすめだ。…………以上。……笑ってないで早くカメラを止めろ」

  

74. 催眠術

 夕食後の自由時間は合宿参加者にとっては憩いのひとときだ。一人静かに読書を楽しんだり、おしゃべりに興じたり、ネットやゲームをしたり、各々好き勝手にくつろいでいる。談話室の大型テレビでは「最新・世界のミステリー」と題したオカルト番組が流れていた。もっとも、テレビの画面を食い入るように見つめているのは日吉とごく一部のメンバーだけのようだった。手塚は部屋の一角に置かれたソファに座って、暇つぶしがてら画面を眺めていた。
 番組の中盤、カメラがスタジオに切り替わると、特別ゲストとして催眠術師を名乗る人物が現れた。ぴしっとしたスーツを着た、ベンチャー企業の若手社長みたいな雰囲気の男だ。男がひな壇に並ぶ芸人の一人に術を掛けてみせる。スイッチが切れたように突然眠りだした芸人を見て、スタジオは騒然としている。
「へっ、嘘くせー。寝たフリなんていくらでも出来んじゃん」
 切原の発言に、日吉はイラッとした顔をした。
「催眠術はアメリカなんかではメンタル治療にも使われてる、れっきとした医療行為だぞ」
「はあ~? マジックとどこが違うんだよ?」
『それでは、この後、ご家庭で今すぐ試せる簡単催眠術を紹介していただきます』
 進行役のアナウンサーの言葉を聞いて、二人はぴたりと口を噤んだ。二人組になって手を握り、お互いが交互に催眠術師役となって言葉を掛けていくうちに手が離れなくなる、というものらしい。切原と日吉が言い争いながらテレビの真似をしているのを見るともなしに見ていると、横から肩を叩かれた。
「やってみるか?」
 跡部がニヤニヤしながら言う。
「お前がやりたいのなら付き合ってやってもいいぞ」
「素直じゃねえな」
 差し出された左手の上に、手塚は右手を乗せた。さきほどテレビから聞こえてきたガイダンスを、跡部は詩でも詠むように諳んじた。跡部の言葉を復唱するように繰り返す。跡部の掌はなんとなくひんやりしていそうだと思ったが、実際触れてみると意外なほど温かかった。そういえば、あの試合の後も、跡部の掌は燃えるように熱かった。
「やっぱ掛かんねえじゃ~ん!」
 切原の大声が聞こえる。
「お前の集中力が足りないんだ!」
「俺のせいかよ!」
 手塚は跡部と顔を見合わせた。なんだか急に恥ずかしいことをしているような気がしてきた。
「ま、催眠術なんて、そう簡単に掛かるわけねえよな」
 そう言って苦笑しつつ手を離そうとして、跡部は急に顔を強張らせた。
「外れねえ……」
 呆然と呟く。
「手塚、そっちは? 外れそうか?」
 手塚は指を動かしてみようとして、やめた。
「いや、こっちも駄目だ」
「嘘だろ……」
 跡部の顔からみるみる血の気が引いていく。解き方もやるだろうと救いを求めるようにテレビを見るも、画面はいつの間にか次のミステリーの現場へと移っていた。視聴者が撮影したという怪奇現象に、日吉たちの目はくぎ付けになっている。
「しばらくこのままにしてみるか」
 手塚が耳打ちすると、跡部はぎょっと目を剥いた。
「消灯時間までこのままだったら……?」
「一晩したら外れているかもな」
 跡部の顔が青くなってそれからおでこまで真っ赤になるのを見ながら、手塚は焼け付くように熱い手をそっと握りなおした。

  

75. バードコール

 鬱蒼とした緑の中を、山道は緩やかに上へ上へと続いている。もう何個目とも知れない案内板を通り過ぎ、小川の中に置かれた石の上をそろそろ渡り、また永遠に続くような森の中を進む。木々の合間から時おり覗く景色を見てはじめて、随分高いところまで来たことに気がついた。
「少し休もう」
 それまで黙々と前を歩いていた手塚がようやく足を止めた。山道脇のわずかに開けた場所が休憩所になっていた。額の汗を拭い、腕時計を確認して跡部は目を剥いた。
「一時間しか経ってねえ……」
「まだまだ先は長いぞ」
 ベンチに座り込んでリュックから水筒を出していると、手塚がブロック状の栄養補助食品を一袋差し出した。口に入れた瞬間、湿気たクッキーみたいだと思ったが、食べているうちにさっきまで霞がかっていた頭がはっきりしてきた。
「気付かねえうちにカロリー消費してたんだな」
「意識して食べておかないとバテるぞ」
 羊羹もあるが、と言う手塚に首を振って、周りの木々を眺める。山の麓とは若干植生が違うようだった。どこか遠くのほうで鳥が鳴いている。手塚はふと思い出したようにリュックの中から小さな木片を取り出した。
「なんだそれ?」
「バードコールだ」
 コルクくらいの太さの木の枝に、ボルトをねじ込んだだけのように見える。手塚はボルトを握って軽く捻った。キュルと思いのほか高く澄んだ音が出た。
「へえ、面白いな。本物の鳥みてえ」
「鳥のほうはどう思っているか分からないがな。まあ、おもちゃみたいなものだ」
 キュッキュッと少し回した後、手塚はバードコールを跡部に手渡した。つるりとした木の感触を確かめるように握ってから、ボルトをぎゅっと押し込んだ。ステレオのボリュームを調整するみたいに回してみる。キュルルルと甲高いさえずりが手元から生まれて、自然と頬が緩んだ。
「気に入ったか?」
「ああ、鳥の仲間入りした気分だぜ」
 ベンチに座ったまま何分か弄っていると、バードコールを鳴らす前にキュルと声がした。見れば、梢の上のほうにメジロが一羽止まっている。跡部がボルトを回すと、返事をするようにまた鳴いた。それを何度か繰り返した後、メジロは会話を切り上げて飛び去って行った。
「見たか?」
 跡部の得意げな笑みを、手塚は複雑な表情で見つめ返した。
「……ちょっと貸してくれ」
 跡部は大声で笑った後、「特別にコツを教えてやるよ」と上機嫌に言った。

  

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