81. 雨の日
「雨は嫌いだ」
メイドから受け取ったタオルで髪や手足を拭いながら手塚は言った。ズボンは膝のあたりまでぐしょぐしょに濡れていた。どうせ下に履いていたのだから、こんなことならハーフパンツで来ればよかった。
「そうか? 俺は好きだぜ」
跡部はタオルを持ってきてくれたメイドに手塚のズボンを手渡した。帰るまでに乾かしておいてもらえるらしい。上もテニスウェアに着替え終えると、そのまま二人で屋内コートへ向かった。
「こんなふうにずぶ濡れになることがないから、そう言えるんだ」
「そこは否定しねえけど」
跡部はラケットでボールをリフティングしながら言う。
「降り方によって違う雨の音だとか、雨の日独特の空気の感触とか静かさとか、そういうのも情緒があると思うけどな」
練習は校内での素振りや筋トレくらいしか出来ないし、プリントは肌にくっつくし、どんよりとした空は見ているだけで気が滅入りそうになるものだが、跡部の目には違うように映るらしい。
「それに、雨の日があるから晴れの日が楽しみになるんじゃねえの? ずっと晴れだったら、なんのありがたみも感じねえだろうし、多分いつか飽きるぜ」
手塚は跡部の青空よりも青い瞳を見つめ返した。同じものを見ているようで、その実、跡部の目には世界はもっと明るく、美しく見えているんじゃないかと思うときがある。
「そういう考え方もあるな」
そう思うとき決まって、手塚は自分の視界もほんの少し明るくなったような気がするのだ。雨は先ほどまでと変わらず強く降り続けている。それでも窓を叩く雨音は少し優しく耳に届いた。
82. アンセクト
テーブルの上の皿を見て、跡部は一瞬険しい顔をした。皿の一番手前には、大きなエビが丸まる一匹プレスされたエビせんべいが置かれていた。
「片付けようか?」
エビも節足動物だったか、と手塚は跡部の反応を見て思い出した。
「いや、食べる」
跡部はせんべいを一枚手に取ると、ぺらぺらになったエビと見つめ合った後、小さく一口齧りついた。
「エビは平気なのか?」
「出されたもんは食べるようにしてるだけだ。食い物に罪はねえからな。活き造りなんかは、まだ少し気合いがいるが」
「シャコも?」
「虫みてえだな……と思わないようにして食べる」
跡部はあまり表面を見ないようにしながらせんべいを食べている。
「そう言えば、昆虫の外殻と甲殻類の外殻は同じ成分で出来ているらしいな」
手塚はなんの悪気もなさそうに言った。跡部はぴたりと動きを止めると、食べかけのせんべいを口元から離した。
「今一番思い出したくなかった情報をどうもありがとよ。おかげでバッタ食ってる気分になっちまった……」
「この前テレビで見たんだが、バッタやクモなんかも食べれるらしいぞ」
「てめえは俺様の努力を無にしてえのか?」
うっかり力を込めたせいで、手の中でせんべいがパキッと折れた。手塚はきょとんとした顔で跡部を見つめ返した。
「食べれば平気になるかと思ったんだが」
「そんなもん食ったら余計悪化するっつーの!」
「案外美味いかもしれないぞ。アリを揚げて塩を振ったものをご飯に混ぜて――」
「やめろっ! もう聞きたくねえ! ゴマまで食えなくなる!」
「スーパーワームだったか、芋虫みたいな虫をチョコレートでコーティングするとまるでオレンジピールみたいに――」
「お前、わざとだろ!?」
「バレたか」
手塚はもう跡部の胃袋に収まることはないであろうせんべいの欠片を彼の手から取り上げて、口の中に入れた。
83. 花火
花火と言えば冬に見るものだと思っていた。ガイ・フォークスの夜を中心とした十一月の花火シーズンには、キンと冷えた空気を切り裂くように街のあちこちで花火が上がり、誰も彼も歓声を上げながら夜空を見上げる。花火は場を盛り上げる最高のエンターテインメントであり、祝福の象徴だった。
それとは正反対に、日本では花火が夏の風物詩と呼ばれていることは、知識としては知っていた。実感を持って理解したのは中一の夏。氷帝のメンバーに連れられて行った夏祭りで、はじめて日本の花火を目にしたときだった。
「そろそろだな」
手塚は腕時計に目を落として言った。生ぬるい風がバルコニーに吹きつける。ビルの下では人の波が同じ方向を見つめている。
ふいに地表から細い光の線が現れた。光は夜空に向かって波打ちながら昇っていき、次の瞬間、目の前の夜空に大きな丸い花を咲かせた。一拍遅れて地響きのような重い音が腹に響く。びりびりと空気が震えて肌が粟立つ。
手塚は手すりにもたれかかって夜空を見つめている。薄い唇の隙間から、感嘆の溜息が漏れた。しっとりと纏わりつくような空気の中を、花火は幻のように浮かんでは消えていく。日本の花火には人を沈黙させる力がある。
「これは何のお祝いなんだ?」
夜空に広がる大輪の花に目を見張りながら、跡部は甚平姿の向日に尋ねた。
「え? 夏祭りだから、夏のお祝い、とか?」
「適当に答えなや」
忍足が呆れた顔をして言った。
「お盆の前後やったら、迎え火とか送り火の意味もあるらしいわ。亡くなったご先祖様を、盛大に迎えて送り出したろって感じかな」
「あー、大昔に疫病やら飢饉やらで人がたくさん亡くなったとき、供養のために上げたって話なら聞いたことあるぜ」
溶けかけのかき氷を口に掻き込む合間に、宍戸が言う。
「そうなんだ? 俺、みんなが見たいから上げてるんだと思った」
ジローがそう言ったとき、ひときわ大きな花火が上がった。宍戸と向日とジローの三人が声を揃えて「たーまやー!」と叫ぶ。
「究極、見たいからってのは間違いないな」
謎の単語に面食らっている跡部を見て、忍足は笑いながら言った。
色とりどりの花火は、散る前に新しい花を咲かせていく。夏の花火はお祝いというより祈りに近い。過ぎていく夏を、時間を、命を見送る。出来ればまた次の年も、こうして巡り会えますように。
最後の花火が夜空に溶けていくのを見ていると、ふと腕を叩かれた。
「綺麗だったな」
「ああ……」
夜空は元の暗さと静寂を取り戻していた。白い煙が花火の幽霊みたいにうっすらと棚引いている。
「また来年も、一緒に見られるといいな」
もう何も見えない空を見つめながら手塚が言う。花火の幽霊に向かって、祈るように。
「見ようぜ。ちょうどいい花火大会がなかったら、俺様が打ち上げてやるよ」
来年の夏は、お互いどこにいるか分からなかった。だから、祈るよりも確実な方法を提示してやった。手塚はびっくりしたように振り返って、それから苦笑した。
「お前が言うと冗談に聞こえないぞ」
「まあ、冗談じゃなく本気だからな」
どの国の空にだって、今日見たのに負けないくらい美しい花火を。そのときは、景気よく四尺玉でもブチ上げてやるか。
84. ライセンス
ヒースロー空港の駐車場で迎えの車を待っていると、手塚のすぐ目の前に黒のジャガーが停まった。鏡面のように磨かれた車体を何気なく眺める。ふいに運転席の窓が開いて、金髪の男が顔を覗かせた。
「なに突っ立ってんだ? 早く乗れよ」
サングラスの下の顔を見て、手塚は目を見張った。
「いつ免許を取ったんだ? 待て、免許は持ってるな?」
トランクに荷物を載せて助手席に乗り込んだ後も、手塚はまだ目の前で起きていることが信じられなかった。
「ったりまえだろ」
跡部は最初から見せる気だったのか、ダッシュボードからイギリス国旗がプリントされた免許証を取り出した。手塚は受け取ったカードをまじまじと見つめた。正面を向いた顔も個人情報も間違いなく跡部のもので、写真写りが良すぎる以外に不審な点は見当たらなかった。跡部がギアを入れ替える。車はゆっくりと動き出した。
「教習所に通ってるなんて聞いてなかったぞ」
「イギリスに教習所なんてないぜ? 専門の講師もいるにはいるが、免許持ってる人間に同乗してもらって一通り教われば、いつでも試験受けれんだよ。だからこっちで取ったんだけどよ」
なんでも申請するだけで仮免許が発行され、すぐに路上で練習できる制度になっているらしい。手塚の感覚からすれば、少しおおらかすぎる気がした。
「ジャガーで練習したのか……」
「いや、練習は家の車でやった。いつも送迎してくれる運転手に教わって」
「まさか、ロールス・ロイスで?」
「運転席の作りは、どれも似たようなもんだろ?」
仮免許練習中のステッカーを貼り付けた黒塗りの高級車を想像する。間違いなく跡部よりも、助手席に乗った運転手や周りのドライバーのほうが恐ろしい思いをしたことだろう。
「ちなみに、免許取ってから助手席に人を乗せるのは、これが初めてだぜ」
手塚は思わずシートベルトがちゃんと締まっているか確認した。跡部はその様子を横目で見て、顔を顰めた。
「なんだよ、その反応。今のは感激するとこだろうが」
「いいから前を見ろ、前を」
跡部はムスッとした後、しばらく黙って車を走らせていたが、ふと何かを見つけて声を上げた。
「なあ、ちょっと寄り道していいか?」
「構わないが……?」
向かった先は、どこにでもあるハンバーガーのチェーン店だった。車は減速しながらドライブスルー専用レーンに滑り込んだ。
「一回やってみたかったんだよな。手塚、なに頼む?」
「……アイスコーヒー」
跡部はマイク越しに、コーラとフライドポテトというジャンクフードのお手本みたいなセットをオーダーした。あらかじめ予習してきたのではないかと疑うくらい、支払いや商品の受け渡しもスムーズだった。跡部は受け取った紙袋をそのまま手塚に手渡すと、再び車通りの多い幹線道路に出た。
手塚はそれぞれの飲み物をドリンクホルダーに置いて、油まみれのポテトを一口つまんだ。
「意外と上手いな」
「そうか?」
口元に差し出されたポテトに齧りつきながら跡部が言う。
「ポテトじゃなくて、お前の運転のことだぞ」
跡部は手塚を一瞥して、にやりと口角を上げた。
「そうだろ。安心して俺様のドライビングテクニックに酔いな!」
「車酔いは勘弁してくれ」
85. 相対屈折率
「中学生二枚お願いします」
「中学生、ですか?」
チケットカウンターの女性は戸惑いながら手塚の言葉を復唱した。
「はい。学生証なら持ってます。跡部」
手塚が振り返ると、跡部は既に取り出していた学生証をカウンターの上に置いた。手塚も自分の分を横に並べる。女性は跡部のほうは軽く一瞥をくれただけだったが、手塚についてはしっかり時間をかけて学校名などを確認した後、顔と学生証の写真とを照合するように何度も見比べた。
「……はい、ありがとうございます。おひとり様千百円になります」
入場料を支払い、水族館の中に入る。閉館間際とあって人影はまばらだった。
「五度見……、五度見はねえだろ……」
跡部はさっきから笑いを噛み殺している。
「いったい何が信用できないんだ。中学の学生証なんて誰が偽造する?」
「ははっ!」
閉じた空間に笑い声が反響する。跡部は慌てて口を押さえた。
「制服着てくればよかったな?」
「全員制服を着てたのに俺だけ教師に間違えられた話、前にしなかったか?」
「それ、鉄板だよな。何度聞いても笑える」
やわらかな絨毯に足音が吸い込まれる。控え目な照明の中、ひんやりとした空気に包まれていると、まるで水の中を歩いているようだった。近海を再現した水槽を一通り眺めた後、ペンギンの大きな水槽の前で跡部の足が止まった。
「昔飼いたかったんだよな、ペンギン…………」
そう言いながら、熱心にキングペンギンの群れを見つめている。やっぱり飼おうと言い出さないうちに、手塚は跡部の腕を掴んでじわじわとガラスから引き離した。
海底の生き物のコーナーでは、チンアナゴが気に入ったようでしばらく水槽の前にべったり張り付いていた。一方、タカアシガニの水槽には近付こうとすらしなかった。
「近くで見たら案外可愛いかも知れないぞ」
「んな訳あるかっ」
手塚がいるカニの水槽から最大限距離を取りながら、跡部は反対側の壁沿いを横歩きで進んでいった。
フロアの突き当りにひときわ巨大な水槽があった。壁一面を使った水槽の中を、半透明のクラゲがゆらゆらと泳ぎ回っている。淡いブルーのライトに照らされて、クラゲ自体が発光しているように見えた。
「クラゲがこんなに綺麗だとはな」
跡部は目を皿のようにして、目の前の光景に見入っている。
「海で出会ったらそれどころじゃないからな」
「ガラス一枚で見え方が変わるってことか」
手塚はふと思い立って、すぐ傍にあった水槽の後ろに回った。
「何か変わって見えるか?」
円柱形の水槽の中を上へ下へとクラゲが漂っている。ガラスの向こうで跡部は綺麗に笑った。
「いいや? 変わらず大好きだぜ?」
手塚は不意をつかれて、危うく水槽に額を打ちつけそうになった。