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86. ボディーガード

 ポケットの中で携帯が震えている。跡部は一瞬だけ画面を確認すると、視線は前に向けたまま電話に出た。
『――跡部、お前が遅刻とは珍しいな。寝坊か?』
「ちげえよ。なんつーか……、変な奴らに絡まれてる」
 その一言で細い道を塞ぐように立っていた一団がわあわあと騒ぎ出したので、跡部は携帯を当てていないほうの耳を塞いだ。
「ああ? 悪いがよく聞こえねえ。とにかく大丈夫だから、そこで待ってろ。いいな」
 結局、一方的にそう言って電話を切った。
「なに普通に電話出てんだ、話の途中だろうが!」
 先頭にいた男が怒鳴る。ブリーチを掛けた髪がカラメル多めのプリンみたいになっている。
「分からねえんだが、あんたが彼女と別れたって話が俺様と何の関係があんだ?」
「だーから、俺より『跡部様』のことが好きになっちゃったから別れようって言われたんだっての!」      
「俺が寝取ったわけでもねえのに、そう言われてもな……。つーか、そんな女、会った記憶もねえんだが」
「りなぴょんを俺の女呼ばわりすんじゃねえ!」
「してねえよ……」
 跡部はこめかみを指で叩きながら言った。本格的に頭が痛くなってきた。
「で、俺様にどうしろって?」
「慰謝料だ。慰謝料払え!」
「そうだ! アニキはそれは深い心の傷を負っちまったんだ! 半端な額じゃすまねえぞ!」
 横にいた子分と思しき一人が声を上げる。跡部はパッと表情を明るくした。
「なんだ、そういう話か」
「おお、さすがお坊ちゃん。話が早えじゃねえか」
「てめえらに払うような金は、びた一文持ち合わせてねえ。じゃあな」
 跡部は迂回しようと踵を返したが、すぐに後ろから肩を掴まれてため息をついた。
「いやいや、跡部様」
 プリンが馴れ馴れしく肩に腕を回す。跡部は暑苦しい腕を一瞥した。
「金が欲しいだけなら、はじめからそう言えよ。俺は仲間に奢るのは好きだし、慈善事業にちょっとばかり寄付もするが、人を騙したり脅したりして金を巻き上げるようとするような野郎とは一切関わりたくねえ」
「俺たちだって暴力は好きじゃないぜ? お互い、痛い思いはしたくねえだろ?」
 逆に殴りかかってくれれば、こっちも正当防衛ってことで動けるんだけどな、と跡部がそろそろ会話を続けるのも面倒になってきたときだ。
「おい、跡部から離れろ」
 最悪のタイミングだ。跡部は目をぐるりと回して手塚のほうを振り返った。
「待ってろ、つっただろ」
 プリンは仲間たちとニヤニヤと視線を交わした。
「せっかくお友達が来てくれたんだ。協力してもらおうぜ。おい、そのひょろっとしたの掴まえろ」
「手塚、逃げろっ!」
 手塚が荷物を道路脇に放ったかと思うと、あとは一瞬だった。五人ほどいた男の仲間たちは次々に足元を掬われ、投げ飛ばされ、あっという間にアスファルトの上にバタバタと転がった。耳元で悲鳴が上がる。プリンの腕を手塚がねじり上げていた。
「このまま腕を折られるのと、大人しく家に帰るのと、どちらがいい?」
「か、帰ります! 帰ります!」
 手塚が腕を離すと、男たちは慌てて立ち上がり、そのまま逃げるように走って行った。
「怪我はないか?」
 手塚は道の先を睨みつけていたが、男たちの姿が見えなくなると跡部のほうを向いて尋ねた。
「お、お前こそ怪我は……ねえな」
 跡部は手塚の腕を取って右から左から確認した。 この細い腕が自分より確実にウエイトのある相手を投げ飛ばしたとは、にわかには信じられなかった。
「お前、こんな強かったのかよ。虫も殺せないようなヤツだと思ってたぜ……」
「誇示するようなことでもないだろう。少し手荒になってしまったが……、幻滅したか?」
 さっきまでの威勢の良さが嘘のように、手塚は困ったような顔をしている。
「まさか。惚れ直したぜ!」
 跡部は高らかに宣言して、最強最愛のボディーガードに抱きついた。

  

87. 潮風

「夏に一度も海に入らなかったのなんて、今年が初めてだぜ」
 波打ち際を歩きながら跡部は言った。足元まで来た波が次々に砕け、白い泡になって消えていく。
「いろいろあったからな」
「いろいろ、ね」
 ついこの間までの賑わいが嘘のように、九月の浜辺は物淋しかった。海の家と一緒になって、海まで閉店を決め込んだみたいだった。
「ドイツに行こうと思う」
「いつ?」
 跡部は旅行のスケジュールを尋ねるような軽さで聞き返した。
「出来れば年内。近々、とあるプロ選手がヒッティングパートナーの募集を始めるらしい。選ばれれば一番いいが、駄目なら留学生としてアカデミーに入る」
「下調べは万全ってわけだ」
 海や空は世界のどこへでも繋がっていると言うが、目の前の海がドイツまで繋がっているとは到底思えなかった。潮風に乗って、磯の香りが強く鼻をつく。この匂いを跡部は生き物の匂いと言った。
「……やっぱ足だけでも入っとくか」
 跡部はそう言うなり、サンダルを脱いで海のほうへ歩いていった。波が寄せてくるたび、ほんの気持ち程度折り返しただけのズボンの裾を掠めていく。
「結構気持ちいいぜ?」
「いや、俺は……、入るか」
 海水は思っていたより温かかった。剥き出しの足裏に砂の感触が刺さる。
「大丈夫だろうぜ。お前のドイツ語はネイティブにも十分通用するだろうし。留学の打診が来る程度には実力も保証されてる」
「そのあたりは心配していない」
 手塚が即答すると、跡部は「可愛くねえの」と鼻で笑った。
「じゃあ、何が心配なんだよ」
「そうだな……、あえて言うなら食事か」
「俺は人間関係のが不安だぜ。お前、妙に恨みを買いやすいってか、変なのに好かれやすいだろ」
「変なの? お前よりも?」
 跡部は無言で海面を蹴り上げた。咄嗟に腕で顔をかばったが、Tシャツとジーパンはずぶ濡れになった。
「おら、どうした? かかってこいよ!」
 笑いながら跡部が再び足を振り上げる。手塚は真正面から海水をまともに浴びながらも、一番高くまで足が上がったところで、目の前に来た足首を掴んだ。跡部の顔から笑みが消える。手塚は掴んだ足首を前に突き出すようにして放した。派手な水しぶきを上げて、跡部が尻餅をつく。
「容赦ねえな……」
 跡部は濡れた前髪をかきあげながら呟いた。
「ほら」
 手塚が手を差し出すと、跡部は立ち上がるように見せかけて、その手を思い切り引っ張った。再び水しぶきが上がる。膝をついて起き上がると、前髪から水が滴り落ちた。
「油断したな、手塚!」
 海に半分浸かったまま跡部が言う。ひときわ高い波が来て、唯一無事だった肩のあたりまで洗っていった。引かれ合うように重ねた唇は、少し塩辛かった。
「しょっぱいな」
「ん……。つーか、どうすんだこれ」
 跡部はべたべたになった服をつまみながら今更なことを言った。
「乾くまで歩くか」
 今度こそ跡部は大人しく手塚の手を掴んで立ち上がった。潮風は強く、濡れた服をはためかせる。
「乾くかぁ?」
「大丈夫」
 なんの根拠もないがそう答えた。全部どうにかなるような気がしていた。

  

88. ライバル

「宮崎、ですか?」
 跡部は呆然と繰り返した。手に提げた見舞いの菓子折りが、急にズシリと重くなったように感じた。
「そうなのよ。そちらに良い先生がいるってご紹介を受けて、今日の夕方の便で」
「そうですか……」
 連絡を入れたら気を遣うなと断られるだろうと思って、アポなしで来たのが間違いだった。例の仏頂面を拝んで軽く雑談でもして帰るつもりだったのに、入院だなんて、まさかそんな大事になっているとは。いや、その可能性がないわけではなかったのだから、自分が考えないようにしていただけかも知れない。
「せっかく来てくれたんだし、良かったら上がっていって?」
「いえ、俺は」
「まあまあ、お茶の一杯でも。ね?」
 手塚の母親だとは俄かには信じがたい柔和な笑みを向けられて、跡部は根負けしたように頷いた。押しが強いところはよく似ている。
「本当に急だったのよ。昨日の夜、バタバタ荷造りして。あの子、なにか忘れ物してないといいんだけど」
 跡部の前に冷えた麦茶を置きながら手塚の母親が言う。その様子は一人息子を案じる母親そのもので、手塚がそんなふうに当たり前に子供扱いされているのを見聞きするのは不思議な気分だった。一度はガラスのように脆く崩れ落ちるも、鋼のような精神力でコートに立ち続けた、あの鬼気迫る姿を目の当たりにしたばかりとあっては尚更だった。
「跡部君は氷帝の部長さんなのよね。一昨日、国光と試合をした」
「はい」
 玄関先で名乗ったときから、跡部に注がれる視線は変わらず柔らかかった。手塚が試合や、その結果負った軽くはない代償について家族にどう話したのかは分からないが、少なくとも悪い感情を持たれていないのは確かだった。
 手塚なら跡部を恨みはしない。そう頭で理解していても、突きつけられた現実は跡部の喉を内側からギリギリと締めつけた。いつもなら相手がいくら年上だろうと会話に困ることなどないのに、思考は上滑りするばかりで気の利いた言葉一つ浮かばない。結露の浮いたグラスを意味もなく見つめる。
「国光ね、帰ってきたとき笑ってたの」
 跡部は顔を上げた。
「だから、『勝ったのね』って聞いたのよ。そしたら『いいえ、負けました』って」
 手塚の母親は今にもクスクスと笑い出しそうな顔をしている。
「『でも、いい試合が出来ました』って言うの。いつもはあんまり試合のこと話したりしないから、ああ、これは本当にいい試合だったのね、と思ったわ」
 試合に負けて勝負に勝った。それだけでなく、手塚は既にあの試合を消化して、前へ進んでいるのだ。これだけ急いで宮崎へ向かったのも、すべてはまた戦いの舞台へと戻ってくるために。
「腕が治ったら、また試合したい。そう伝えてください」
 跡部は手塚の母親に向かってはっきりとした口調で告げた。
「あら、駄目よ」
 手塚の母は表情を変えずに答えた。
「そういうのは人伝にしないで直接伝えなきゃ。それに、国光もそのほうがリハビリ頑張れると思うし」
「そうでしょうか……?」
 跡部は虚を突かれつつも聞き返した。
「ええ。だって、『次は絶対倒します』って言ってたんだもの」
 ニコニコと笑う母親に微笑み返しながら「後で必ず伝えます」と跡部は言った。その笑みが若干引き攣っていたことには目をつぶってもらいたい。

  

89. マッサージ

 ラップトップの電源を落として閉じる。首を回すと結構大きな音がした。ソファに座っていた手塚が顔を上げる。
「終わったのか?」
「ああ。待たせたな」
 ついでに肩を回してみると、またバキバキと音がする。手塚は眉間に皺を寄せた。
「揉んでやろうか?」
「あーん? そんなサービスやってんのか?」
「いいから黙って足を出せ」
「足?」
 跡部は首を傾げつつ手塚の隣に座った。手塚はソファの端に移動して自分の膝を叩いた。
「足裏マッサージなら時々父さんにやってる。結構上手いぞ」
「へえ、そんな特技があったとはな。足の裏にあるツボを押すんだろ?」
 手塚の膝の上にドカリと片足を乗せる。
「ああ。痛かったら言ってくれ」
「ハッ、あいにく俺様はどこも至って健康、ダァーーーッ!?」
 跡部の絶叫が響く。手塚は「なるほど」と頷いて、さらにそこを強く指で押した。
「いっ、た! 痛い! 痛いって言ってんだろうがっ!」
「言ったらやめるとは言ってないだろ」
「じゃあなんで言わせた!?」
「痛いところを言ってもらわないと、どこが悪いか分からないじゃないか」
 手塚は心底不思議そうに言った。跡部は心底恐怖した。思わず伸ばしていない方の足を守るように抱える。
「……で、どこが悪いんだよ」
「親指だから、頭だな」
「頭!? 頭が悪いってエエエッ!?」
「胃も悪そうだが。ストレスか?」
 跡部は息も絶え絶えになりながら手塚を睨みつけた。
「テメエ、後で覚えてろよ! おんなじ苦しみを味わわせてやるからなっ!」

  

90. まさかの事態

「手塚、今週の日曜、英二たちとスケートに行くことになったんだけど、君もどう?」
 放課後、廊下を歩く手塚を見かけて、不二は声をかけた。
「すまない、その日は先約がある」
 手塚は特に申し訳なさそうでもない顔で答えた。
「へえ、デートかな?」
「まさか。跡部にオーケストラのコンサートに行かないかと誘われているだけだ。ベートーヴェンのエグモントをやるらしい」
「跡部と? 二人で?」
 不二は思わず目を見開いた。
「そうだが?」
「君たちそんなに仲良かったっけ?」
「悪くはないな」
 手塚は表情を変えることなく、さらりと言った。手塚と休日に二人きりで出掛けるなんて、「大の仲良し」と言っても過言ではないと思うのだが。不二はふと思い出して尋ねた。
「この前は、一緒に海釣りに行ったって言ってなかった?」
「ああ、クルーザーを出してもらった」
「その前は、山にスキーに行ってたよね?」
「スキー場を持ってると言われて」
 不二は探るような目つきで手塚を見た。
「……付き合ってる?」
「まさか」
 手塚は先ほどと同じトーンで繰り返した。

「不二が、そんなに毎週一緒に出掛けるなんて、ほとんどデートじゃないかと言うんだ」
 コンサートからの帰り道、街灯の下を歩きながら手塚は言った。跡部は手塚を横目で見てニヤリと笑った。
「そのつもりだって言ったらどうする?」
「悪い気はしないな。お前と出掛けるのは楽しい」
 いつもの軽口だろうと思って、手塚は調子を合わせるように答えた。
「それを聞いて安心したぜ」
 跡部は大股で三歩ほど手塚の前に出ると、コートのポケットに両手を突っこんだまま尊大に言い放った。
「俺と付き合え、手塚」
「……どこに?」
「あえて言うなら、俺様に、だ」
 まさか、と思いつつ、文字数は同じでも手塚の口から出てきたのは「いいぞ」の三文字だった。

  

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