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91. ひとりっ子魂

「跡部さん、暇なら打とうよ」
 練習試合の監督役をしている手塚と跡部のところまでくると、越前は挑発するような態度で言った。
「暇そうに見えるか?」
 跡部はクリップボードをボールペンで叩いてみせた。
「それより、今の時間はジローと対戦してるはずだろ。ジローはどうした」
「見当たんない」
「さっきまでその辺にいたんだがな……」
 跡部はため息を吐いて、腕時計に目を落とした。
「仕方ねえな。そっちの部長が良いって言えば、代わりに相手してやる」
「やった! 部長、いいよね?」
 跡部の隣に立つ手塚に向けて、越前はおざなりに確認した。
「相手がいないということなら、やむを得ないな」
「ウィッス。じゃ、跡部さん借りていきまーす」
「イヤだ」
 と手塚は言った。聞き間違いようのないくらい、きっぱりはっきり言った。コートに向かおうとしていた越前と跡部は呆気にとられて振り返った。
「間違えた。やはりダメだ」
 手塚は首を横に振ってから、発言を訂正した。
「なんで!?」
 越前が噛みつくように言う。手塚はあからさまに目を逸らした。
「芥川と試合する時間なら芥川を探してこい」
「んなもん、探してる間に試合時間が終わっちまうぜ。あいつ、平気で植え込みの中で寝てたりするから」
「ほらね!」
「イ……、とにかくダメなものはダメだ」
 手塚は腕組みすると、部長権限だとでも言うように厳めしい顔を作った。
「部長のケチ! ちょっとくらい貸してくれてもいいじゃん! 減るもんじゃなし!」
「少し減るかもしれないだろう」
「お前、俺様のこと鉛筆かなんかと勘違いしてねえか? 何が減るってんだよ……」

  

92. 七転八起

「景吾君、正門のところで他校の男子が君のこと待ってるらしいよ」
 他の生徒から伝言を言付かったのか、部室に入るなり滝が言った。
「他校の?」
 跡部はパソコンの画面から目を離した。
「名前までは分からないけど、なんでも学ランで眼鏡を掛けてたって――」
 そこまで聞くと、跡部は椅子から立ち上がり、青い顔をして部室を飛び出していった。
 跡部の予想した通り、校門の前には手塚国光の姿があった。まるで飼い主を待つ忠犬のように、背筋を伸ばして立っている。猛スピードで走ってくる跡部を見るや、手塚の頭に生えた耳がピンと立つのが、跡部にはありありと見えた気がした。
「跡部」
「てーめーえーなー! 学校まで来るなって言っただろ!?」
 跡部は手塚の胸を人差し指でドスドス突きながら言った。手塚がなんとなく嬉しそうにしたのですぐにやめたが。
「一緒に帰ろうと思って」
「通学路かすりもしねえよな? それに、俺はいつも車で帰んだよ」
「たまには歩くのもいいだろう?」
 手塚はそう言って首をかしげた。跡部は身体の内側で荒ぶる激情を逃がすように、歯の隙間から息を吐きだした。
「手塚。一つ、大事なことを確認させてくれ」
 跡部は一言一言噛み締めるように言った。
「俺たち、付き合ってねえよな?」
「今はな」
 手塚はしれっと答えた。
「今は、じゃねえんだよ。今後も未来永劫、俺様がお前と付き合うなんてことは、百パーセントありえねえ」
「どうしてそう言い切れる」
 手塚は強気に言い返したが、頭の耳がぺしょりと下を向いた気がして、跡部の良心はほんの少し痛んだ。跡部は自他ともに認める愛犬家だった。
「お前のことは嫌いじゃないぜ? 一プレイヤーとしてリスペクトもしてる。でも、お前が言うような『好き』とは違げえんだよ」
 手塚の唇にキュッと力が入るのが見えた。さすがにここまではっきり言えば、手塚も諦めて大人しく帰るだろう、と跡部は思った。とんだ思い違いだった。
「跡部……、この前のは遊びだったのか? 二人であんなに熱い夜を過ごしたのに……」
 周囲がざわつく。いつの間にか、手塚と跡部の周りには、二人を取り囲むような形でかなりの数のオーディエンスが集まっていた。
「テニスの話だからな!」
 跡部は周囲に知らしめるように声を張り上げた。実は手塚がこうしてアタックしてくるのは、既に三回目だった。前回は、そのまま追い返すのも忍びないと思った跡部のほうから、軽く打っていくかと誘ってナイター設備のあるテニスコートに行ったところ、二人ともすっかり熱くなってしまい、時間も忘れてかなり遅くまで打ち合ったのだ。
「あのとき、気持ちが通じあったと思ったんだが……。本気だったのは俺だけだったのか?」
 騒ぎは輪をかけて酷くなった。人垣の後ろから啜り泣きまで聞こえてくる。
「落ち着け、手塚。とにかく場所を移そうぜ。なんつーか、あらぬ誤解を受けてる気がする」
 周りの生徒たちに目をやりつつ小声で言う。その際、手塚のほうへ顔をほんの少し近づけただけで、雌猫たちから断末魔みたいな悲鳴が上がった。
「は、腹減らねえ? 喫茶店とか、どこでもいい。食いたいもん頼んでいいから、どっかで腰落ち着けて話そうぜ? な?」
 跡部は必死だった。とにかくこの場を離れなければ、という一心だった。しかし、そんな跡部の思惑をよそに、手塚は目をキラキラさせて言った。
「それは……、デートということで良いのか?」
「良いわけねえだろっ! 行くぞ!」
 跡部は手塚の腕をひっつかんで歩き出した。その際、跡部に少しでも後ろを振り返る余裕があったなら、見えない尻尾を千切れそうなほど振る手塚の姿が見えたに違いない。

  

93. 花の王

 六月のドイツはバラの見頃を迎えていた。バラといえば育てるのが難しい花という印象があったが、どうやら日本の気候での話のようで、街を歩けば道路脇も家々の庭も色鮮やかなバラの花に埋め尽くされている。まるで町全体があの独特の華やかな芳香に包まれているようだった。
「なんか、お前ここんとこ機嫌いいよな」
 川べりを走りながら、ジークフリートは薄気味悪そうな顔で言った。
「そうか?」
 ペースを落とすことなく手塚が言う。もともと二人で仲良くランニングする予定などなかったが、スタートしようとしたところでばったり出くわし、競争するように同じコースを走っていた。
「バラの花見て、時々うっすら笑ってるだろ」
「綺麗じゃないか」
「はっ! お前に花を愛でる趣味があったとはな!」
 ジークフリートは大げさに驚いてみせた。
「好きな花なんだ」
 手塚は大きく息を吸い込んだ。バラの香りのする空気が肺を通って全身に伝わっていく。
「ふーん。まあ、嫌いなヤツはそんなにいないか」
 街路樹として植えられているのは特に丈夫な品種らしい。枝にびっしりとついた赤い花が太陽の光を燦燦と浴びている様は繊細さとは無縁で、むしろ力強い。
「そんなに好きなら、部屋に飾ったらどうだ? 花瓶に活けて何日かしたら、部屋に吊るしておくんだよ。そしたら花のシーズンが終わっても長いこと楽しめるぜ?」
 手塚は走りながら少し考えた。
「ドライフラワーになっても香りは残るのか?」
「残るわけないだろ。乾燥してんだから」
「それなら結構だ」
「なんだそれ。好きな花って言ったくせに」
 手塚は走るペースを上げると、小さな声で言った。
「花というより匂いが好きなんだ」
「おい、急にペース上げるなよ!」
 後ろから猛追してくる足音がする。手塚は額の汗を拭いつつ、進路を右に取った。

  

94. ラブレター

 手塚が通学用のカバンを開けたとき、教科書の一番上にパステルブルーの封筒が乗っているのを跡部は目ざとく発見した。
「ラブレターか?」
「果たし状でなければそうだろうな」
 手塚は筆記用具を取り出しながら気のない声で答えた。花柄の封筒はまだ封を切られた様子もなかった。
「下駄箱に入っていたから持ち帰るしかなかった」
「ちゃんと返事書けよ?」
 手塚のベッドの側面を背もたれ代わりにして、跡部は機嫌よく笑っている。
「なんでそんなに嬉しそうなんだ」
 手塚は奇異なものを見る目を跡部に向けた。
「あーん? 恋人がモテるの見ると気分がいいだろ。俺様の手塚はイイ男だって言われてるようなもんだからな」
「よく分からない感性だな」
「じゃあ、お前はどう思うわけ?」
「お前がラブレターを貰ってきたら?」
 手塚は想像力を働かせるように上を向いた。しばらく沈黙が続いた。
「そんなに難問なのかよ」
「いや…………、今、こっそりゴミ箱に捨てておきたい気持ちと戦っているので少し待ってくれ」
 跡部は目を丸くしたまま、手塚の頭の中の戦いに決着がつくのを待った。時間が過ぎるにつれ、手塚の眉間の皺はだんだん深くなった。
「……出来れば、受け取っても俺に言わずに処理してほしい」
 かなりの熟考を重ねた結果、手塚は渋い顔をしてそれだけ言った。
「負けたんだな……」
 呆れたように言いながら、跡部はカバンの内ポケットに入っている数通の手紙は、絶対に手塚の目に入れないようにしようと心に誓った。

  

95. 演技

 手塚に渡されたチケットを跡部はしげしげと見つめた。
「海原祭って立海の文化祭だろ? なんでお前がチケット持ってんだよ」
「幸村に頼まれて、劇に出ることになった」
「劇?」
 手塚はいつもの無表情のまま頷いた。
「お前、演技なんて出来るのかよ」
「出来ないと断ったんだが。一言セリフを言うだけでいいと熱心に請われてな」
 幸村が例年演劇の演出をしているという話は聞いたことがあったが、まさかよりにもよって手塚に声をかけるとは思わなかった。どう考えても役者向きじゃないだろ。このカチカチの表情筋を見ろ。
「どういう役なんだ?」
「いつも通りでいいからと言って台本も渡されてないから、正直どんな劇かも分からないんだが、何かのリーダーだとは聞いている」
「へえ、こだわりがあるんだな。下手に役のイメージを持たせたくないってことか。セリフって長いのか?」
 跡部は何の気なしに尋ねた。
「ああ。いい加減、お前との会話にはうんざりしている。用件が済んだなら、さっさと出て行け」
 手塚は冷めた目をして言った。吃驚するのと同時に怒りで目の前がチカチカした。無言で部屋を出ようとしたところ、ドアを開ける寸前で手塚に腕を掴まれた。
「急にどうした?」
「どうしたじゃねえよ、てめえが言ったんだろうが」
「いや、お前がセリフのことを聞くから言っただけなんだが」
 手塚は困ったように眉根を寄せつつ首を傾げた。跡部はぽかんと口を開けた。大きく瞬きした途端、先ほどの怒りで涙の膜が張っていたらしい右目から涙が一粒零れ落ちた。
「俺の演技もなかなか悪くないということだな」
 手塚は親指の腹で涙を拭ってやりながら言った。
「紛らわしい言い方すんじゃねえよ……」
 跡部は否定も肯定も出来ずに、今は少し得意げに見える手塚の顔を睨みつけた。

  

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