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96. 未知の単語

 事前に電話してきたとおり、手塚はお昼の営業時間ギリギリに店にやってきた。小さなお客さんを連れて。
「いらっしゃい」
「久しぶりだな、河村。一年ぶりくらいか?」
「もっとじゃないかな」
 カウンター席に座った二人の前にお茶の入った湯呑を置いて、おしぼりを手渡す。金髪の男の子は「ありがとう」と言って、大きな青い目で河村を見上げた。お人形さんみたいにきれいな顔をした子だった。
「じゃあ、君が噂の手塚の秘蔵っ子ってわけだ。はじめまして、河村隆です」
「跡部景吾だ。それと……、俺は手塚の子供じゃない」
 跡部は少し戸惑いながらもはっきりと言った。河村は思わず手塚と顔を見合わせた。手塚は珍しく笑い出しそうだったが、咳払いをすると真面目な顔をして言った。
「跡部、秘蔵っ子というのは大切な弟子という意味だ」
「ごめんごめん、分かりにくかったよね」
 跡部は顔を赤くして「まだまだ知らない言葉が多いぜ」と悔しそうに言った。
「今日は俺が握らせてもらうよ。跡部くん、何が食べたい?」
 河村は元気づけるように尋ねた。跡部は壁にかかった旬のネタを一通り眺めて、
「とりあえず、ギョク」
「それは知ってるんだね……」
 手塚が「子供を連れて行ってもいいか」と電話をかけてきたときには何事かと驚いたが、実際に目の前で二人のやりとりを眺めていると、年齢差をあまり感じないのが不思議だった。絆とか信頼関係とでも言うのだろうか。見えないはずの何かが、二人の間には確かに存在しているように思えた。
「こんなに美味い寿司を握る職人が友達にいるなんて最高じゃねーの」
「いやあ、そんなに美味しそうに食べてもらえると、こっちも握り甲斐があるよ」
 手塚はウニの軍艦巻きを頬張る跡部を眺めていたが、急に何かに気付いたように跡部の頬に手を伸ばした。
「跡部、頬にお弁当がついているぞ」
 跡部はリスのように頬をいっぱいにしたまま、手塚のほうを向いて固まっている。頭上にハテナマークが大量に浮かんでいるのが河村にも分かった。
「ご飯粒のことだ」
 手塚は指先についた米粒を跡部に見えるように目の前にかざした後、何事もなかったかのようにおしぼりで拭きとった。そんなふうに手塚が甲斐甲斐しく人の世話を焼くなんて。
「手塚、まるでお父さんみたいだね」
「おと……、せめてお兄さんじゃないのか」
 跡部はなだめるように手塚の腕を叩いた。
「元気出せよ、パパ。うなぎもあるぜ」
「お前はそうやってすぐ調子に乗る」
「先にガキ扱いしてきたのはそっちだろ」
 河村は笑いながら手早くうなぎを握り始めた。

  

97. さんぽ

 窓ガラスをカリカリと引っ掻く音が聞こえた。音のしたほうに目を向けると、リビングにいる跡部が窓を開けようと奮闘している。既にロックの解除には成功したようだが、重いガラスを動かすのは猫には難しいだろう。手塚は前足と鼻先を器用に使って、飼い主に気付かれないよう、外からほんの少しだけ開けてやった。
「助かったぜ」
 ラグドールの跡部は数センチの隙間をするすると通り抜けて出てきた。
「なんだ、また駆けっこでもしにきたのか?」
 シェパードの手塚は厳しい口調で言ったが、尻尾がかすかに揺れている。
「今日は違うぜ。手塚、俺様を『さんぽ』とやらに連れて行け」
 跡部はふわふわの毛を見せびらかすように胸を反らした。手塚の尻尾がぴたりと止まる。
「駄目だ。お前は知らないだろうが、外は危ないところなんだ。庭で良いなら一緒に歩いてやる」
「危ないって言うなら、なんで毎回『さんぽ』って聞くたびに大喜びしてんだよ。俺様に隠れて何か楽しいことしてんだろ」
 跡部は疑わしそうに目を細めつつ、手塚の前を行ったり来たりした。飛びつきたくなるのでやめてほしい。
「本当に外を歩いて帰ってくるだけだぞ」
「じゃあ、外ってのが重要なわけだ」
 そう言うなり、跡部は凄まじいスピードで庭を横切り、塀の上にぴょんと飛び乗った。慌てたのは手塚だ。
「お前が行かないなら、俺は一匹でも行くぜ」
 跡部は手塚を見下ろして言った。手塚は逡巡したものの、庭に置かれたベンチを足場にして塀を一気に飛び越えた。
「バレないようにすぐ帰るぞ」
 唸るように言う。跡部は手塚のすぐ傍に着地すると、嬉しそうに手塚の腹に頭突きを食らわせた。
 手塚はお気に入りの散歩コースを辿るように歩き出した。跡部は右に左に首を忙しなく動かしながら、手塚の隣をちょこちょこ歩いている。途中、跡部がスズメや鳩を追いかけて離れていきそうになるたび、手塚は跡部の首根っこを咥えてルートに連れ戻した。
 しばらく進んで川沿いに出ると、跡部は「でかい水……」と言ったきり手塚の横にぴったりくっついて離れなくなった。たまに車も通る道だったので、その方が何かと安心だと思い、手塚は何も言わなかった。
 人とすれ違わないまま、どうにか無事に家まで帰れそうだと思ったときだ。突然、前方の路地から小さな人間が現れた。
「ママ! わんちゃんとねこちゃん!」
 手塚と跡部は大慌てで傍にあった植え込みの中に飛び込んだ。息を殺して気配が消えるのを待つ。犬猫だけで家の外にいるのがバレるととてもマズいことになる、というのは手塚たちもよく分かっていた。
「早く帰ろう」
 小さな人間とママが離れていったのを確認して手塚は言った。跡部は長い毛のあちこちに葉っぱが突き刺さった状態でこくこくと頷いた。
 塀を飛び越えて庭の土を踏みしめると、やっと犬心地ついた。
「これで分かったろ、跡部」
「ああ! さんぽって楽しいな、手塚!」
 跡部は尻尾をピンと立てて言った。目がピカピカ光っている。
「また行こうな」
 手塚の胸や顔に額を擦りつけながらゴロゴロ喉を鳴らす。手塚はフーと鼻から息を吐き出すと、いまだに葉っぱだらけの跡部の背中を証拠隠滅を兼ねて舐めてやった。

  

98. ラムネ

「国光、跡部君、ラムネを冷やしておいたから飲んでいきなさい」
 跡部を連れて帰宅するなり、祖父が顔を出して言った。以前、手塚が生徒会の用事で帰りが遅くなった際に将棋の相手をしてからというもの、祖父は跡部のことを甚く気に入っていた。
「ラムネって菓子じゃないのか?」
 礼を言った後、跡部は手塚に小声で尋ねた。
「瓶に入ったサイダーもラムネと言うんだ」
「へえ」
 祖父は「ほれ」と薄いブルーの瓶を差し出した。跡部は飲み口を覆っていたビニールを外すところまでは良かったが、現れたプラスチックの部品を見て困惑している。
「ここを分解してじゃな、瓶の口に乗せて上から押し込むんじゃ」
 跡部は言われた通りにプラスチックのピンを押し込んだ。ビー玉がカランと中に落ちて炭酸の小さな泡が立つ。跡部は目をビー玉みたいに丸くしてガラス瓶を横から眺めた。
「ガラス玉で蓋をしてたんですね」
「気が抜けてしまうぞ。さあさ、お上がりなさい」
 案の定ビー玉が飲み口に挟まって飲めなくなっている跡部に、祖父はどこか楽しげに正しい飲み方を伝授している。
「――綺麗だな」
 飲み終わった後の瓶を揺らしながら跡部が言う。中に入ったビー玉がカラカラ鳴る。
「今度のパーティーで出そうかな」
「気に入ったかね」
「ええ、とても」
 跡部は微笑んで言った。
「このガラス玉の、取れそうで取れないところが良いですよね。手が届かないからこそ綺麗に見えると言うか」
「ほう、詩人じゃのう」
「取れるぞ?」
 唐突に手塚はそう言うと、飲み口のプラスチックを捻って取り外した。中身が零れないようにビー玉を取り出す。
「な?」
 跡部が「情緒がねえな……」と複雑そうな顔をする横で、祖父はうむうむと頷いた。
「そうじゃったそうじゃった。国光はラムネを飲んだ後はいつもビー玉を取ってもらっておったな」
「小さいころの話じゃないですか」
 よく似た顔の二人が昔話をするのを、跡部は苦笑いを浮かべながら聞いていた。

  

99. サインボール

「なあ、サインってもう決めてあんのか?」
 久しぶりに二人でテニスをした後、跡部はふと思いついたように尋ねた。
「サイン?」
「写真とか服とかに書くやつ」
「あるわけないだろう」
 手塚は呆れた顔で答えた。
「そろそろ作っといたほうがいいんじゃねえの、手塚プロ?」
「気の早い奴だな……」
 跡部はコートの端に転がっていたボールを手に取ると、ペンケースの中から油性ペンを取り出して一緒に手渡した。
「練習だと思って試しに書いてみろよ」
 手塚は顰め面のままペンを受け取り、黙ってインクを走らせた。突き返されたボールを見て、跡部はゲラゲラ笑いだした。
「ただの楷書じゃねえか!」
 手塚国光とフルネームの書かれたボールを握ったまま、跡部はしばらく笑っていた。
「じゃ、せっかくだし、この第一号サインボールは俺様が貰うな」
「取っておくつもりか?」
「後々価値が出るかも知れないだろ」
 跡部はそう言って自分のラケットバッグにテニスボールを仕舞いこんだ。手塚は唇をへの字に曲げると、ポケットに入っていたボールを跡部に押し付けた。
「そんなに笑うなら手本を見せてみろ」
 跡部は肩を竦めると、さらさらとボールに文字を書いた。
「ま、俺のも契約書とか小切手に書いてるのと同じだから、そう特別なもんでもねえけど」
 筆記体で書いた名前が見えるよう手塚のほうに向ける。少なくとも、手塚が書いたものよりはかなりそれらしい出来だった。
「なら、そっちは俺が貰うぞ」
 手塚は催促するように手を差し出した。
「あーん? こんなもん何に使うんだよ」
「お前はサインボールを何かに使うのか? こういうのは記念として取っておくものだろう」
 手塚は跡部の手からボールを奪い取って言った。
「まあ、後々価値が出るかも知れないしな」
 跡部は声を上げて笑った。
「そうなるよう努力するぜ」
「お互いにな」

  

100. チェック

 レストランでの食事を終えて、跡部は支払いのためにウェイターを呼ぼうとした。
「跡部、今日は俺が出す」
 手塚は跡部の動きを制するように言った。跡部が笑いながら首を振る。
「良いって。黙って奢られとけよ」
「俺だって稼いでるんだ。いつまでも学生時代と同じ扱いをするな」
 食事代くらい自分が持つと手塚が何度主張しようと、跡部が首を縦に振ることはなかった。スマートな彼氏の定石とでも言うように、手塚が席に立っているうちに会計を済ませてしまうのが基本で、跡部の息がかかった店ともなると、料理の金額を見る機会も与えられないまま高そうなものを食べるはめになる。手塚がトーナメントでいくら賞金を稼ごうと、ニュースになるほど大きなスポンサー契約を結ぼうと、その姿勢は変わらなかった。
「俺は奢るのが好きなんだよ」
「それは重々分かってる。でも、いい加減俺にも払わせろ。嫌なんだ。なんというか、ヒモみたいだろ」
 ちっぽけな見栄を張ったようで悔しかったが、手塚はここ数年思っていたことを正直に口に出した。跡部は器用に片方の眉だけ上げてみせた。
「面白えな。お前がヒモになっても、一生面倒見てやるぜ?」
「面白くない」
「つーか、何度目だよ、この会話」
「お前が折れないからだろ」
「てめえがいつまで経っても聞き分けねえからだろ」
 跡部はそう言って手を上げようとした。手塚は咄嗟にその手を掴んで、テーブルの上に縫い留めた。
「今日という今日は引かないからな」
 手塚は睨むような鋭い目つきで跡部を見つめた。跡部も負けじと睨み返してきたが、やがて舌打ちでもしそうな顔をしながら口を開いた。
「ったく、めんどくせえな。それなら、いっそ籍入れて財布も一つにまとめるか?」
 不意を突かれたような手塚の表情を見て、ニヤリと唇の端を上げる。
「望むところだ」
 手塚は喧嘩腰に答えると、空いていた方の手を上げた。
「最後なんだから奢らせろよ」
 牽制するような口ぶりだったが、目元は微かに緩んでいる。手塚の頑固さに苦笑しつつ、跡部は何度か小さく頷いた。

  

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