See You Again Soon
試合中、あんなにも鮮明に見えていた未来の景色は、気づいたときにはほとんど思い出すことも出来ないほどに記憶から薄れていた。少しも惜しくないと言えば嘘になるが、これで良かったのだと思う。所詮、互いの能力が意図せぬ形で噛み合い生じた、偶然の産物。極限状態の脳が見せた、一瞬のまやかし。たとえ近い将来、現実になるとしても、今の自分には必要のないものだ。
大会最終日の夜、参加国の選手を招いたバンケットが開かれることになった。会場となった選手村最大のレストランには、決勝リーグに残ったチームを中心に十カ国ほどが集まっている。すでに帰国の途に就いたチームも多く、全出場国とはならなかったが、それでも数百人規模のパーティーだ。そんな数の中高生が一堂に会すればどうなるか。思った通り、あちらこちらでどんちゃん騒ぎになっている。アルコールが入ってないだけマシか、と跡部はぶどうジュースの入ったグラスを傾けた。
会場に着いてからというもの、跡部の周りには他国の選手が途切れることなく集まっていた。よもや無名の中学生がジュニアヨーロッパのチャンピオンを下すとは、誰も予想していなかったのだろう。笑顔の奥に見え隠れする、探るような視線が実に心地いい。
元々、こういう場は嫌いじゃない。このまま夜が更けるまで会話に興じていたいところだが、試合で酷使した身体は正直限界に近かった。気を抜くと膝が笑い出しそうだ。
「跡部」
手塚の声は小さくても不思議と良く通る。跡部は声のしたほうへ振り向こうとしてバランスを崩した。手塚が咄嗟に腕を掴んでいなければ、会場のど真ん中で醜態を晒すところだった。
「あーん、どうした?」
内心ヒヤリとしつつも、何事もなかったように問いかける。手塚の眉間に皺が寄るのが見えた。
「……通訳してくれ」
返事を聞く素振りもなく、手塚は周りにいた人間に早々と断りを入れると、跡部の腕をむんずと掴んだまま歩き出した。ほとんど引っ張られるようにして歩きながら、人のあいだを縫って進む手塚の後ろ頭を呆気に取られて眺めていた。
結局、文句の一つも言えないまま、人気のない壁際に辿りついた。周りを見回しても、誰かが合流してくる様子はない。
「さすがの俺様でも、壁とおしゃべりは出来ないぜ?」
「いいから座れ」
手塚は壁に沿って一列に並べられた椅子を顎で指し、その一つに腰掛けた。跡部はため息をつくと、手塚の隣に座った。一度座ってしまうと、どっと疲れを感じた。
「どこか痛めたのか?」
湿布の匂いに気づいたのだろう。相変わらず手塚は険しい顔をしている。この仏頂面から、怒っているわけではなく心配しているのだと読み取るには、ある程度の慣れが必要だ。現にここに来るまでにも、何人もの人間が怯えたように道を譲っていた。
「怪我ってほどのもんじゃねえよ。しばらく休んでれば治まる」
「そうか」
手塚の眉からようやく少し力が抜けた。眉から下もこれくらい分かりやすく動かせたなら、他人とのコミュニケーションも円滑になるだろうに。
「何か話があって呼んだんじゃねえのか?」
「ああ……。優勝おめでとう。いい試合だった」
言われて思い出したかのように手塚は言った。今日だけで幾度も聞いた言葉のはずが、どういうわけか手塚の口から発せられただけで、ずっと意味のあるものに感じる。
「お前一人いなくても強えんだよ、日本は。どうだ、戻りたくなったか?」
「いや、少なくとも数年はドイツで研鑽を積むつもりだ。良い環境でプレーさせてもらっている」
「そうかい。水が合ったようで何よりだ」
「それに、同じチームだと、お前とW杯で戦えないからな」
手塚の強い視線が跡部を射貫く。瞬間、脳裏で煌めくものがあった。試合の最中にも見えた光景。白昼夢では終わらせない。今日からの自分が現実にしていく未来。
「まったく、三年後が楽しみだぜ」
「三年?」
手塚が首を傾げている。
「なんでもねえ。そういや、来年からは俺もイギリスに行くぜ」
口を滑らせたのに気づいて、跡部は話題を変えた。
「お前と違って学業のためだが、テニスでも手を抜くつもりはねえ。そうだ、さっき喋って分かったんだけどよ、――――」
話そうとしていた内容が頭から吹き飛んだ。
「そうか。落ち着いたら、ラケットを持って遊びに来い。近場の観光案内くらいするぞ」
これまでに見たことがないような、柔らかい表情だった。ゆるく弧を描いた手塚の薄い唇を凝視してしまう。動揺を飲み込むように、跡部は手元のグラスを一気に煽った。
「手塚にしては大サービスじゃねえの」
「これくらい普通だと思うが」
空になった跡部のグラスに目をとめて、手塚は立ち上がった。さっきの笑みこそ幻だったのではないかと思うくらい、一瞬でいつもの無表情に戻っている。
「おかわりを貰ってこよう。同じものでいいか?」
「おう。サンキュ」
空のグラスを持って近くのテーブルへ向かう手塚を見送ってから、跡部は天を仰いだ。後頭部が壁にぶつかって鈍い音がした。何がそんなに嬉しかったのか、皆目見当がつかない。さすがの手塚も、海外での一人暮らしは心細かったのだろうか。それはそうと。跡部は手の甲を頬に当てて唸った。
「何を照れてんだ、俺は」