風に乗るとき

  

 U-17日本代表合宿が始まって数日が経った。
 夕食や入浴を済ませ、束の間の自由時間となる就寝までのひととき、談話室には和やかな空気が流れている。
 手塚はズボンのポケットから携帯を取り出すと、いっこうに既読のつかない画面を一瞥した。メッセージを送ってから丸一日になろうとしていた。携帯を握ったまま部屋を出る。
 合宿所ではプライバシーなどあってないようなものだ。どこにでも人の目や耳がある。玄関はすでに施錠されているため、外にも出られない。
 廊下の突き当たりまで来た手塚は、外階段に繋がる非常口を開けた。ところが、誰もいないだろうと踏んだ場所にも先客の姿があった。通話中の跡部と目が合う。扉を閉めてそのまま引き返そうとしたが、そんな手塚の動きを制するように、跡部は携帯を耳元にかざしたまま顎をしゃくった。

  

 後ろ手に扉を閉めた瞬間、屋内のざわついた空気から切り離されたように感じた。薄暗い踊り場で、電灯の小さな明かりが二人の影を淡く浮かび上がらせている。跡部の低く静かな話し声を聞くともなしに聞きながら、しばらくの間、手すりの先に広がる鬱蒼とした森を眺めていた。
 ほどなくして話し声が止んだ。
「邪魔をしたな」
「なに、ただの業務連絡だ」
 聞こえた単語からして部活関連だろうが、それにしては声色が暗い気がした。跡部は視線を落として考え込むような顔をしている。
「何かあったのか?」
「昨日、バスで帰ったはずのメンバーと連絡が取れねえ。戻ったのなら、今後の練習について話しておこうと思ったんだが。今しがた部員に確認してみたが、登校もしてないようだった」
「そっちもか」
 手塚は思わずそう零した。跡部が顔を上げる。
「そっちも?」
「こちらも大石や海堂と連絡が取れず、竜崎先生に相談しようとしていたところだ」
 それを聞いて、跡部は表情を一変させた。愉快そうに唇の端が上がる。
「なるほど、確証が取れたぜ。あいつらの合宿も終わったわけじゃねえってことだな」
「どうやらそのようだな」
 音信不通というのが少々不穏ではあるが、他校の負け組も揃って消えたとなれば、どこか別の場所で合宿を継続していると考えるのが妥当だろう。もし何かアクシデントがあったのなら、さすがに自分たちにも連絡が入るはずだ。
 跡部は小さく息を吐くと、手すりに背中を預けた。
「わざわざ別口でトレーニングとはね。なかなか手厚いおもてなしじゃねーの」
「おかげで気を揉まされたがな」
「あーん? 未読無視されてるのかもって?」
 電話をかける用はなくなったものの、すぐにその場を離れる気にもならなかった。手塚は携帯をしまって腕を組んだ。ひんやりとした夜風が、風呂上りの火照った体を冷ましていく。
「今回の合宿、お前は参加しないものだと思ってたぜ」
 唐突に跡部が言った。手塚は何も言わずに跡部を見つめた。
「大会が終わるまでは部活に専念したいって言って、留学やスポンサー契約の話を断ってただろ?」
 公にしていない話を持ち出されて、手塚は内心驚いた。同時に、跡部なら知っていても不思議はないと思う。学生ながら企業経営に携わる彼の元には、一般人が知りえないような情報も集まってくるだろう。 
「大会が終わっても学校があるだろう。義務教育は終わらせてから行くつもりだ」
「越前は大会後から直近までアメリカへ行ってたそうだが」
「あいつは自由人だからな」
「はっ、違いねえ。それで、不自由人はどこへ行くか決めてんのか?」
「ドイツへ。小学生の時に、ここでテニスがしたいと思ってから、そのための準備もしてきた」 
 聞かれるままに答えてしまったのは、既にいろいろ知られていると分かったからだろうか。同学の生徒やチームメイトではない、他校の選手だから。跡部が人の話を引き出すのが上手いから。
「ドイツか。いいんじゃねえの」
 跡部は笑みを浮かべながら、さらりと言った。
「アマチュアのうちはどことも契約する気がないってんなら、俺様のポケットマネーからカンパしてやってもいいぜ」
「お前がそこまでする義理はない」
「人の厚意は素直に受け取るのが礼儀ってものだぜ」
「遠慮は美徳とも言うだろう。お前はもう少し金の使い方を考えたほうがいいと思うぞ」
「ドブに捨ててるつもりはねえんだが?」
 跡部が不服そうに首を傾げる。
 跡部だからか。すとんと胸に落ちた。きっと跡部なら、大げさに騒ぐでも囃し立てるでもなく、ただ自分の決断を肯定してくれるだろうと無意識に思っていたからだ。
「気持ちはありがたく受け取っておく」
「ああ。気が変わったらいつでも言えよ」

  

 五番コートの仲間たちが待つベンチへ戻ろうとする手塚の進路を、跡部は足を上げて塞いだ。  
「ドイツ、行きたいんだろ?」
 大和との対戦を経て、誤魔化しようもなく強くなっていた思いは、すっかり見透かされているようだった。
「行って、とっととプロになっておけ。すぐに追いかける」
 その言葉は、一陣の風のように手塚の中を駆け抜けた。長い間、飛び立つときを待っていた。それが今なのだと知った。
 跡部が拳を前へ出す。選抜メンバーも後に続いた。
 これからは自分だけの道を進もう。跡部が信じて送り出してくれたように、俺も俺自身の未来を信じよう。手塚は左手を固く握りしめ、前へ突き出した。
  

  

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